『青服の日常』より

 わからない。
 数ヵ月ぶりにそう思ってしまったのは。
 平穏な日常が続いていた。
 続いているだけ。ただ淡々と、行動を起こさぬ俺に行動を起こさぬあいつ。待ってくれてるのかもなんて思ったり、でもずっとこのままでいたいようなそんな気も最近はしてきていて、よくわからない。
 その平穏な日常も正直平穏なのかどうなのかよくわからないところがある。いや、俺も言えることと言えないことがあるから何もかも書くわけにはいかないんだけれども。
 そんなこんなで日常が過ぎ、今日も狭いアパートの一室でPCを叩いている。
 俺は元々デスクワークの多い社員で、最近特にその傾向が増えたものでこうしてテレワークしていても支障がない程度の勤務となっている。
 ちらりと窓の外を見る、人っ子一人いない。まあそうか、そう、それが俺の言えないことだ。
 平穏な日常の中、俺の思考はふわふわしていて、気がつくとあいつのことを考えていたり、通販サイトでそういう色の服を見つけたときに反射的にあ、買おうかな、なんて思ってしまう程度にはふわふわしていて、でも実際そんな服を買っても似合わないことはわかりきってるし、そういう色はあいつのような明るい感じの人間が着てこそ映えるものだ。俺にはとても。そもそも着ていく場所もないし。
 なんて考えている間に書類が一つ仕上がる。印刷かけて、ちょっと休憩してから見直そう。俺は立ち上がる。
 傍らに置いているスマートフォンをジャージのポケットに入れーーそう、俺はテレワークなのをいいことに毎日ジャージで過ごしている。ジャージは良い。楽だし、どんな姿勢をとっても体を締め付けない。その上簡単に脱ぎ着できる。これならいつあいつとどんなことになってもーーそこまで考えて俺は止まった。俺は今何を考えようとしたんだ? 頭がわいてるのか? そもそもこのジャージを着たままそんな状況になるとでも? しかも俺たちまだそこまで行ってないだろ? あとなんで俺今俺が脱がされる側で想像したんだ? 疑問はいくらでも湧く。しかし一旦回転し始めてしまった思考は止まらない。こんなときまで得意のぐるぐるが発動しなくてもいいのに。
 待て。落ち着け。コーヒーでも淹れよう。淹れるといってもインスタントのやつだ。ナイトみたいに手間暇かけて淹れたりはしない。でもこの前ナイトがコーヒー淹れてくれたとき俺が普段インスタント飲んでるって話したらインスタントはインスタントのよさがありますよね、私は好きですよって返されてなんかナイトが人気ある理由わかったような気がしていや俺にはあいつがいるからってまた俺なんでまたバイヤーのこと考えてるんだ、コーヒー淹れるんじゃなかったのか。
 棚からインスタントコーヒーの瓶を出し、カップを出し、粉を入れ、電気ケトルに水を入れ、電源をぱちり。
 便利な時代になった。ケトルの電源を入れて放置するだけでお湯が沸くんだもんな。昔はお湯沸かしてたのを忘れて憂鬱を回してたらやかんが沸騰しすぎて水がほとんどなくなるみたいなのを繰り返してたけどあいつに言われて電気ケトル買ってからすっかり快適生活だしな。まあ今もパスタとか茹でるときたまにやらかすけどそれもあいつに言われてコンロのタイマー使うようにしたらなくなったもんな。あいつなかなかに発想の天才だよな。天才?
 ちり、と胸が痛む。普通であるから。一般人であるから。■■■■ことはーー
 かち。
 ケトルから音がした。お湯が沸いたらしい。
 俺はケトルを持ち上げ、湯を慎重にカップに注いだ。
 スプーンを出すのを忘れていたので棚から取る。カップを混ぜる。冷蔵庫からミルクを取って、注ぐ。また混ぜる。混ぜるのは面倒だが混ぜると混ぜないではかなり味が変わってくる。気力がないときは混ぜずに飲むが、最近はふわふわして調子がいいので混ぜて飲んでいる。
 こうやってキッチンで立ったままコーヒーを飲んでいても何も言われないのは一人暮らしのいいところだ。誰からも干渉されない。寂しいとかいう奴もたまにいるが、俺はこの暮らしが気に入っている。
 気に入っているなんてことを思えるようになったのはいつぶりだろう。自分の生活を気に入っているなんて、最近まで感じる余裕すらなかった。何が原因ってふわふわしていることが原因なのだろうか。生活を自分で組み立てること、とても面倒で嫌だと思っていたが最近はそこそこ楽しくなってきた。ファーストフードでコーヒー飲むんじゃなくて家で飲むことも増えたし。
 まあそれはテレワークしてるからってのもあるのだが。
 カップを置く。こうして休憩しつつゆっくり飲むのが休憩の醍醐味ってやつだ。サボりとも言う。テレワークだとサボっていても何も言われないから楽だ。一応時間カウントはしているが。
 あいつもこうして家で休憩しながらコーヒー飲むことがあるのだろうか。あいつ自分でコーヒーとか淹れるのかな。っていうかあいつ好きな飲み物何なんだ? そういえばも何も以前からずっと俺はあいつのことを何も知らないような気がする。会話で得られる断片的な知識はあれど。
 急に不安になってきた。仮にも付き合っているのにこんな何も知らなくていいのだろうか。
 ……まあ、何でもかんでも知ればいいってもんでもない。俺だって言ってないことや知られたくないことはたくさんある。正直あいつには言わなくてもバレてそうだけど。でも好きな飲み物くらいなら流れで聞いてもいいかもしれない。わざわざ聞くことでもないからメッセージまでは送らないけど。
 テレワーク状態が解消されてもまだタピオカが流行っていたら、誘ってみるか。その流れで聞けるかもしれないし。
 ひょっとしてこれ、デートプラン練り? 俺デートプラン練っちゃってる? しかも自然に? ■■■くんって何でも面倒臭がるよねなどと言われた過去は幻だったのか?



 アンノウンが思考をぐるぐる回している頃。
「あーーー……久々にタピオカ食いたいッスね」
 自室、回る椅子にぐい、ともたれながらバイヤーが呟く。
「残ってた在庫バロンさんに押しつ……あげちゃったし、また今度アンノウンさんでも誘ってみますかね」
 飲んでいた桜フレーバーティーを机に置き、バイヤーはスマホを手に取った。

 今回はそんな話。
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