夏だ! Wkumoみんみん祭・会場

「肇~、連休シー行かねって話してるんだけどどう」
「急だな。俺はいい」
「ノリ悪いね~どしたん?」
「選択で少し多めの課題が出た。落とすと来年が厄介だ」
 これは嘘だ。多めの課題が出ようが何だろうが、基本的にこの大学の課題は簡単なので少し調べさえすればすぐ終わらせることができる。
「というか、なんでシー? できて間もないテーマパークなんて混んでるに決まってるだろう。しかも連休」
「新しいうちに行っときたいじゃん! 帰省したとき行ったって自慢できるべ」
「地元なんだからいつでも行けるだろう」
「そういう考えが地元民をランドから遠ざけるんだよ! 俺らも地元盛り上げねーと」
「なんだ、その地元愛。お前この街出身じゃないだろ」
「ここに来たからにはここを愛する! 俺のモットーね」
「よくわからないが、まあ勝手にしてくれ」
「肇くん冷たーい! いいもん、俺らは勝手に行きますよって」
 友人はふくれっ面をして去って行った。
 俺はため息をついて、帰り支度をする。大学通学に使うにはいささか大きいシステムリュック。
 中学の頃、誕生日に母親が買ってくれたものだ。
 もうそろそろ10年になる。少し古びてきてはいるが、破れたり壊れたりしているわけでもないのでそのまま使っている。
 諸事情あって俺はそこまで裕福ではない。リュックを買い替える金があるのなら、その分を生活費に充てる。
 荷物を詰め終わり、図書館へ向かう。
 課題に使う資料を集めておこうと思ったからだ。
 適当に見繕って貸出手続きをし、帰路につく。
 本格的に取り掛かるのは帰ってからでいい。



 バスを降りて(バス通学なのだ)、アパートに荷物を置いてから買い出しに向かう。
 麦茶パック、乾麺、野菜、必要なものをカゴに入れて、そしてなんとなくスーパー内をうろうろとする。
 ……いない。
 本当は、いつ頃表に出てくるかとか、聞いた方がいいのだとは思う。
 だがそんな直截的なことは聞けない、怪しまれるわけにはいかない。
 それなりに親しいし、向こうの方も何かと面倒を見てくれる、だが、そこまで深入りしたことを聞くのは躊躇われた。
 妙な遠慮なのかもしれない。
 しかしそれよりも、俺は自分の気持ちが明らかになってしまうのが怖かった。
 関係性が変わる。
 それは喜ばしいことではあるのかもしれないがありえないことでもあり、向こうにその気がない以上俺の気持ちはテロまがいにしかならない。それなら隠し通すのが定石というもの。
 そういうわけで、彼のいないスーパーを無駄にうろついた後会計を済ませ、外に出る。
 初夏の日差し。
 5月なのでセミなんかはまだだが、それでも少し暑さの兆しは見える。当然寒い日もあるが。
 アパートまでの道のりを歩く。風が吹いている。潮風というのか。この街は海面埋立事業で発展した街ということからわかるように、海が近い。海の街と言ってもいいが、生活に海はそこまで根ざしてはいない。少なくとも俺の生活には。
 この想いとも長い付き合いだが、一向に冷めることはなく、いっそ冷めてくれれば楽だったのかもしれないが、生憎と俺は手放す気はないどころかできるだけ長く付き合うつもりでいる。そうでなければ浪人してまでこの大学を選ぶこともなかったし。
「肇君!」
「……!」
 振り返る。そこにはさっきまで探していた相手、義兄。
「……和郎さん」
「買い出しの帰りかな?」
「……そうです、和郎さんは」
「僕は肇君の家に行こうと思っていたところだよ」
「えっ」
「今日は休みなんだ。昨日特売品を買ったから、おすそ分けをしようと思ってね」
「おすそ分け」
「そう。鶏肉の煮しめを作ってみたんだよ」
 よく見ると、和郎さんは手に中くらいの鍋を持っていた。
「……ありがとうございます」
「まだあげてないのにお礼を言わなくてもいいんだよ」
「そんな」
 くくくと笑う和郎さん。
「かわいい弟のためだ、これくらいはね」
「……」
 弟。
 そう、彼にとって俺は「かわいい弟」だ。
「ありがとうございます、」
 そう返すしかない。そう返す以外に何がある?
 和郎さんは朗らかに笑っている。



 たわいない話などしながら、家に着く。
「上がって行ってくださいよ、夜ご飯、作ります」
「そんな、逆にお世話になるわけにはいかないよ」
「大したものは出せませんが、煮しめをおかずにして、お吸い物とお浸しと。作るので、食べて行ってください、お願いします」
「お願いされちゃ断れないな。わかった」
 和郎さんは頷いた。
 靴を脱ぐ和郎さん。靴下はあのスーパーの日用品売り場に売っていた紳士用靴下、たぶんそう。
 靴下というものは普段あまり露わにならないものだから、そういうものを見ると心許されているような気になって、そして、思い出すのは、昨日の夢。
 和郎さん。
 俺は――
「肇君?」
「……なんでもありません、どうぞ」
 俺は和郎さんをちゃぶ台に案内する。
「大丈夫かい? 新生活、まだ慣れていないのかな。五月になると一気に疲れが来ると言うからね……」
「……大丈夫です」
「僕でよければいつでも相談に乗るから、遠慮しないでくれよ」
「ありがとうございます」
 買い物袋を台所に置いて、
「手伝おうか?」
「大丈夫です、お客様に手伝ってもらうわけには」
「野菜の準備くらいはするよ」
「……じゃあ」
 料理のときに和郎さんが隣に立ってくれるという誘惑に勝てずに俺は了承した。
 ちゃぶ台から立ち上がり、和郎さんが俺の隣に並ぶ。
「このほうれん草を洗えばいいかな?」
 買い物袋から取り出し、和郎さん。
「ええ、お願いします」
「了解した」
 和郎さんがほうれん草を洗っている間に俺は買い物袋の中身を手早く片付け、鍋二つに湯を沸かす。
「出汁、取ろうか」
「いいですよ、休んでてください」
「んー、じゃあここで見ているよ」
 和郎さんが再びちゃぶ台に座る。
 俺は沸いた湯にほうれん草を突っ込み、もう片方の鍋に粉末出汁を入れ、干ししいたけを砕いて入れ、しばらく煮る間にほうれん草ができるのでざるにあげて水で冷やす。
「相変わらず、手際がいいね」
「和郎さんが教えてくれたおかげですよ、まだまだ師匠には勝てません」
「そんな。すぐに追い越されてしまうよ」
「いえ。和郎さんの料理には魅力があります。俺なんかがいくら努力したって、勝てませんよ」
「無駄に長く生きてきたからね、そりゃ少しは上手いかもしれないが、料理は経験だよ。僕なんかは……」
「俺は好きですよ」
 主語を省いたのは敢えてのことだ。
「……照れるな。ありがとう」
 表の意味で受け取ってくれる和郎さん。それに少し寂しさと、いや、それはもう、諦めたいのに諦められずにこんなところまで追って来ている自分と。
「……」
 ほうれん草を一口大に切って、醤油と鰹節であえて、器に盛る。切って冷凍していた三つ葉をお吸い物に散らして、一煮立ち。それを椀に注ぐ。
「どうぞ……、よそってくれたんですか、煮しめ」
 ちゃぶ台の上には鍋と、皿によそわれた煮しめ。
「ああ」
 頷く和郎さん。
 ちゃぶ台の上にお浸し、お吸い物、煮しめが並んで、
「あ、ご飯をよそわなきゃな……」
「どうぞ、肇君」
 和郎さんが茶碗を取ってくれる。
「ありがとうございます」
 俺はそれを受け取って、炊飯器のところまで行き、ご飯をよそう。
 炊いてからしっかり保温していたので、まだ温かい。
「小さい頃に新型の保温型炊飯器が出たって喜んでたなあ」
「……お義母さんですか」
「そう。うちでもいち早く取り入れられて、あの頃は炊飯器をよく買い替えてた」
「それだけ新型がよく発表されたってことなんでしょうね」
「たぶん、そうなんだろうね」
「どうぞ」
「ん、ありがとう」
 茶碗を置いて、箸も出して、茶も用意したし、これで全ての料理が揃った。……料理と言えるほど大したものは和郎さんの煮しめくらいしかないが、ひとまずは。
「じゃ、いただこうか。……いただきます」
「いただきます」
 両手を合わせる和郎さんに習って俺も両手を合わせる。
 和郎さんと一緒に食事をするとき、彼は毎回こうして両手を合わせる。
 おそらく、真面目なのだろう。
 俺は一人のときは省略してしまうことも多いが、和郎さんといるときはこうして習慣を守ることにしている。
「おいしいね、お吸い物」
「ありがとうございます……和郎さんの煮しめも、すごくおいしいです」
 他人の作った料理を食べるとき、その他人のことも一緒に食べているかのような気分になるときがある。
 鶏肉が口の中でほろりとほどける。
 これを和郎さんが料理していたのだ。
 そう考えると、義弟という地位は役得だと思う。
 義弟だからこそここまで近づけたのだろうし。
「おいしいです、とても」
 おいしいです。
 ふわふわと脳裏に巡っているのはやはり昨日の夢。
 和郎さん。
 俺は。
 あの夢の中で何を言おうとしたのか、答えなどわかりきっている。一つしかない、現実では言えないこと。
「やっぱり俺、好きです」
「ありがとう。僕の大したことない料理にここまで喜んでくれるなんて、嬉しいなあ」
「大したことないなんて。和郎さんの料理はとてもいい。俺だけが独占しているのが勿体ないくらいです」
 俺だけが独占しているのが勿体ない。
 本当はそんなことは思っていない。
 俺だけが独占していたい、そして、俺だけが独占できる、そう思っているからこその、余裕。
「肇君は褒めるのが本当にうまいなあ。僕、調子に乗ってしまいそうだよ」
「どんどん調子に乗ってくださいよ。和郎さんは少し調子に乗るくらいが丁度いいんです」
「そんなこと言ったらどんどん調子に乗ってしまうよ、いけないなぁ」
「いけなくなんかありません、和郎さんは素晴らしい人だ」
「ははは、ありがとう肇君」
 愉快そうに笑う和郎さん。
「お浸しおいしいねえ。塩加減がちょうどだ」
「それならよかったです」
 ちょうど、にしたのだ。
 和郎さんに料理を教わる中で、俺は和郎さんの好みの塩加減を覚えた。そして俺は普段食べるものの味加減を全て和郎さんの好みに合わせた。
 そこからはすぐだった。
 和郎さんは毎回俺の料理をおいしいと言ってくれるし、俺も和郎さんの料理が食べられる。
 これを幸せと言わずに何と言うのだろうか。
 だが、そんな幸せの中でも変わらず胸の底に燻り続ける炎。
 生徒手帳に挟んだ写真。
 昨日の夢。
 16の頃、親族顔合わせのあの時から、俺の胸にはずっと、ぶすぶすと燻る炎が燃えている。
 始末に負えない、決して消えない、飼い慣らせない、その炎が。
「和郎さんと一緒においしい料理を食べられるって幸せだと思います」
「僕も肇君と一緒においしい料理を食べられるのは幸せだよ」
 そう、だがあなたの幸せと俺の幸せは違うのだ。
 根本のところで、大きく、決定的に違っている。
 今も油断すると炎に支配されかねなくて、でも和郎さんは綺麗な人で、そんな炎は似合わなくて、俺のことを息子みたいに思っていて、わかっている、わかっているのだ。
 大人になりたい、と強く思う。
 大人になれば、静かに愛することができるから。
 近くで、本当の兄弟のように、穏やかに燃える炎になって、そしてずっとこんな生活を続けて、あんな夢だって見なくても済むようになると。
 夢の続きは劣情だった。
 食べる。食べる。
「それだけ食べられるなら大丈夫だね」
「……?」
「5月になって、疲れてるんじゃないかと心配していたからね。でも、食欲があるなら大丈夫だなあと」
「……ありがとうございます」
「食べることは大事だよ。食は命さ。この仕事をしていてますますそう思う。スーパーにさえ来られない人はいるからね」
 和郎さんは優しいから、俺以外の知らない人間の心配までしてしまう。
「そうですね」
 俺はお浸しを口に入れ、飲み込む。
「食は大事です」
「そうだろう」
「さっきも言いましたけど、そんな食を大切な兄さんと食べられる俺はますます幸せ者で」
「僕もだよ」
 このやり取りだけを聞いていると、――でもおかしくはないのに。
 すれ違っている。
 一方的に。
 兄さん。
 そう。 
 兄なのだ。彼は。どこまで行っても。ないしは、父。
 遠い。遠い。遠い。
「連休はどこか行くのかい」
「いえ」
「おや、そうなのかい」
「課題があるので」
「そうかい、最近の学生は大変だね。僕の頃は適当に課題をやっていても期末のレポートさえ出せば許してもらえたから、真面目にやっている肇君を尊敬するよ」
「尊敬だなんて……」
「すごいと思うよ。浪人中もきっちり勉強して、志望校に受かって、そしてこうやってしっかりと一人暮らしをやっているじゃないか。僕が同じくらいの頃にそれができたかと言われると、とてもできなかっただろうなあ。だから、肇君のことは尊敬しているんだ」
「……」
「君の助けになることなら何でもするから、気軽に言ってくれよ。遠慮はいらない」
「じゃあ」
「じゃあ?」
「……いえ」
「何だい」
「……これからもご飯を一緒に食べてください」
「なんだ、そんなことかい。そんなの、頼まれなくても一緒に食べるよ」
 はははと笑う和郎さん。
 俺は、何を言おうとしたのだろうか。
 炎は飼い慣らせない。
 今この瞬間も笑う和郎さんの喉を見ている、引きつけられるように、腕を見ている、足を見ている、なぞるように、見てしまう。
 逃れられない。そして、逃れるつもりもなく。



 大学の話などして、解散する頃には夜になっていた。
「じゃあ、僕は帰るね」
「ええ。……明日もお仕事頑張ってください」
「肇君も課題、頑張ってね」
「ありがとうございます」
 それじゃ、と行って去って行く和郎さんの背中をずっと、ずっと見ていた。
 明日も、明後日も、連休中はずっと、俺はスーパーに行く。
 そして彼の姿を遠くから見て、見て、見て。
 夢の名残。
 部屋に戻って、和郎さんが洗った食器を見て、
 夢の続きに感情を委ねた。


(おわり)
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