短編小説

 この地方の秋から冬にはとても激しい雨が降る。時雨などという生易しい言葉で表現できるレベルじゃない。叩きつけるような雨音、傘を折る暴風はさながら台風、外に出ないことが一番の対策だ。
「寒い!」
 寒いと叫べば寒いねと答える人は、いない。あまりにも寒すぎるせいで一人でだって寒いとでも叫ばねばやっていられない。びしょぬれになった服の重さ、身体の中まで浸透してきて芯からガチガチと震える冷気、そういうものが俺に寒さを叫ばせる。
 いくら叫んだってどうせ雨風でかき消されてしまうので誰に聞かれることもない。そんなことを心配するまでもなく通りには人っ子一人いない。
 図書館にはぽつりぽつりとでも人がいたのにどういうことだよ。
 21時という中途半端な時間も効いているのかもしれない。飯を食うには遅すぎ、かといって図書館が閉まるまでには1時間あるこの時刻。
 嵐の中、テスト前の湿った図書館の重い空気に耐えきれなかった。暖房代をケチっているのかウォームビズなどというふざけた運動で足元が氷の冷たさを呈するそこにこれ以上一分一秒でも長く留まりたくなかったというのもある。
 かといって家が暖かいかというとそれも微妙に違う。一人暮らしの俺の部屋はアパートの1階なので冷え冷えに冷える。お洒落だか何だか知らないが無駄についている天窓に雨が当たってすさまじい音を立てるし環境としてはあまりよくない。
 まあ数多の学生アパートの中では良い方なのだとは思う。広いし、インターホンは電子だし、キッチン付きだし、風呂トイレ別だし。
 でも寒いんだよ! 寒いのはもう冬だしどこでも一緒かもしれないけどとにかく寒いんだよ!
「勘弁してくれッ!」
 叫んでも誰にも聞こえない!
 嵐の灯台みたいに輝くコンビニエンスストアを過ぎ―—入って一休みしていこうかと思ったが、一度落ち着くと二度と外に出たくなくなるので我慢した――狭い小道を通り、頼りない街灯をいくつか過ぎると俺のアパートが見えてくる。廊下に瞬く切れかけの蛍光灯の明かり。誰か管理人に連絡しろよ。俺はしないけど。よく知らない人に電話するのとか無理。
「ハア……ハア……」
 雨にかき消されて息が白いかどうかすらわからない。びしょびしょの手でドアを掴む。一応北国、寒さを防ぐためか何だか知らないが部屋のドアとは別に廊下の手前にもドアがあるのだ。全然防げてないし夏は湿気が鬼こもって最悪だけど。
 まあそんなことはいい。俺は傘を閉じ、冷え冷えの身体で自室の鍵を開け、ドアを開き、
「寒い!」
 室内はまあキンキンに冷えていた。
「冷凍庫かよ! チョコ凍るわ!」
 俺は凍ったチョコが好きだ。大学生協で板チョコを買いこんで冷凍庫に詰めてちまちま食べるのが大好きだ。でも最近は虫歯のせいか甘いものがひどく歯にしみるので控えている。歯医者行け? 遠いのだ。田舎は何でもかんでも遠い。車がないと生きていけない感満載だが俺は免許を持ってない。
 震えながら部屋の電気をつけると今度こそ息が白かった。
 冬の必需品、石油ストーブを点ける。石油ストーブ暖かいけど点くまで時間がかかるんだよな。
 荷物をベッドサイドに放り投げ、コートを脱ぎ、ハンガーにかけた。そして除湿器オン。
 夏でも冬でも湿気フルバーストなこの地方で除湿器は欠かせない。あるとないとじゃ大違い。ないと部屋がカビだらけになる。あると洗濯物を部屋干しできるから便利だ。
 そういや夕飯食べたっけ? なんかおにぎり買って食べたような気がする。でもお腹空いたな。
「そうだ、うどん、作ろう」
 俺は鍋に水を入れ、火にかけた。うどんを一玉冷凍庫から取り出す。お湯が沸くのを待つ。
 暇だから今日の復習でもするかと思ったけどプリントがべしょべしょで気持ち悪くて手で持てない。でもちゃんと干さないとカビが生えて大変なことになるので嫌々つまみ上げ、机の上に広げて干した。こういうのマジでやめてほしい。早く乾いてくれ。
 そうこうしている間にストーブが点いたので前に座る。体育座り。
「はーやっぱ冬はストーブに限るわ」
 ごうごうと燃える灯油が頼もしい。こいつが俺の部屋に快適さと暖かさを届けてくれるんだ。冬の南国配達人。それが石油ストーブ。
 とまではいかない。石油ストーブを点けようが何しようが寒いものは寒い。少しでも前から離れると寒い。だから動きたくなくなるんだよな。それで空気が悪くなって頭がぼうっとしてきて寝て、ストーブ消えて、寒くて目が覚めたら夜中になってるの。読めてるぜ。俺のことなんか。なんせもう20年の付き合いだからな。
 そう、20ジャスト。成人である。なんとお酒が飲める。でも俺お酒そんな好きじゃないし、最近コンパ行って初めてお酒飲んだけどありえないくらい頭痛くなったし、二度と飲まねえ。毒だろあんなの。あんなの誰が飲むの? 好きな人? 好きな人は好きだよな。でも俺は嫌い。
 この地方はみんなお酒好きなのかどうか知らないが毎月のように飲み会がある。1年生の頃、誘われる度に断っていたらいつの間にか誘われなくなった。
 別に泣いてないし。っていうか20だよ。成人式どうするんだ俺、行くのか? 住民票移してないから行くなら地元に帰らなきゃいけないのが面倒だ。どうせ行ってもよくわからん演説とか決意表明とか聞いてぼっちで帰るだけだろ。同窓会とかあるんだか知らないけど俺卒業してからそういうの一回も呼ばれたことないし。今さらだっての。
 何か妙に湿っぽいな。俺がじゃなくて部屋の空気。除湿器つけてるのにどういうことだ?
「沸いてるじゃん!」
 慌てて立ち上がり、キッチンに走り火を止める。
 鍋のお湯は半分くらいまで減っていた。
「ああ……」
 コップに水を入れて鍋につぎ足す。
 また沸かし直しだ。
 火を点けて、今度はコンロの前で見張っていることにした。同じ轍は踏まない。
 換気扇は意地でも回さない。うるさいもんあれ。除湿器あるしいいでしょ。
 ポケットからスマホを取り出し、つける。
 充電30%。まだいける。ゲームを起動させてログボをもらい、日課をこなそうとして、
「沸いてる!」
 うどんの袋を開け、投入。冷凍庫から切った白菜と油揚げを出し、これも投入。スマホをポケットに入れ、戸棚からうどんだしを取る。火が通ったら入れるのだ。
 俺は鍋の中を見る。沸騰していたお湯は冷凍物を大量に入れたので大人しくなっている。いや速攻で沸けよそういうときは。俺待つの嫌いなんだよね。なんか押したらお湯が速攻で沸くボタンとか誰か発明してくんないかな。いや無理なのは知ってる、俺だって理系の端くれだし。あ、でもこれ理系とかそういう問題じゃなくて一般常識とかそういうレベルのやつ?
 もう寒いからどうでもいいわ。とにかく早く沸いてくれ。俺はお腹が減ってるんだ。
 じりじりと沸くのを待って、沸いて数分。そろそろ火が通ってきたと思う。もういいだろ。
 俺はうどんだしを投入した。ぐつぐつ。
 止める。
「できた!」
 鍋を持ち上げ、テーブルの上に敷きっぱなしになっている鍋敷きの上に置く。
 いそいそとお椀と箸を出して椅子に座った。
 この瞬間が一番幸せかもしれない。
 嘘言った。俺って結構幸せ多いし一番とか決められるわけないし。
「いただきまーす」
 盛って、食う。
 うまい。でも熱い。
「あ、七味」
 棚から七味を取ってかける。うどんには一味派と七味派がいるみたいだが俺は七味派だ。いっぱい入っててお得な感じがするから。
 また食う。うまい。でも熱い。
「……」
 うどんの味で頭がいっぱいになってうどんのことしか考えられない。うどんはうまい。労力をかけて作ってよかった、ってそこまで労力かけてないけど。白菜買ってきてすぐ切って冷凍した俺はえらいし油揚げ買ってきてすぐ切って冷凍した俺もえらい。
 こうやって自分を地味に褒めていくのが日々を楽しく過ごすこつだ。偉い人も言っている。のかどうかは知らない。Twitterのインフルエンサーも言っている。これは確かだ。そういうツイート結構頻繁にバズってるし。最近じゃ何でも褒めてくれるペンギンみたいなのもいるらしい。世の中進歩してるなあ。いやそれって進歩してるって言うのか?
 わからないけど。
 そうこうしてるうちにうどんはなくなった。
 妙な思考を回してる間になくなってしまった。
 いつもこうだ。食べ始めてすぐはその食べ物のことを考えているのにだんだん思考が逸れていって、全く別のことを夢中で考えているうちに食べ終わってしまう。
「はあ。片付けしよ……」
 キッチンは冷えていた。
 蛇口をひねって出てきた冷たい水で指が濡れた瞬間、急に何もかもが面倒くさくなって、俺は鍋やらお椀やら何もかもを流しに放置し、机の上のプリントに手を触れることもなくストーブを放置して寝た。
 明日のことは知らない。たぶんなんとかなる。
 けど雨はたぶん明日も降っている。だっていつもそうだし。毎日。時雨どころじゃない雨が。
 知らんけど。


(おわり)
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