短編小説

 俺は信仰ができない。
 人も物も宗教も、綻びばかり見えてうんざりしてしまう。
 別に信仰なんかしなくたって生きていけはすると思う。世の中そういう意見の方が多いとも。
 だけど俺は一人で生きるのに疲れてしまった。何かを強く信じてさえいれば、判断をそれに委ねさえすれば、何も決めなくていい。感じなくていい。迷わなくていい。悩まなくていい。永遠にそれに従っていればいい。
 そんな対象を探している。
 信じている者は信じていない者からすると愚かに見える。それが怖くて信じることができないのかもしれない。または、運命の相手に巡り会えていない可能性もある。
 いくら信仰しても揺るがぬ対象がいつかきっと見つかると信じて探しているわけではない。信仰の対象などどうせ見つかるわけがないし、怪しいものは信じたくないし、信仰によって相手に迷惑をかけたくないし、個人的な範囲で完結していたい。
 そう思うようになるまでは紆余曲折あった。信仰で人間関係を壊す人生を送ってきた結果だ。
 信じては苦言を呈され、信じては避けられ、信じては嫌われ縁を切られ。
 そういった経験の数々から俺は、身近な人間を信仰してはいけないと学んだ。
 何が理由かわからないが、俺の信仰はおそらく相手に迷惑をかけるのだろう。
 確かに俺だって、俺がするような信仰を他者から向けられたら居心地が悪い。自分の嫌なことを他人にしないようにしましょう。世間の常識だ。
 そんなことを考えながら生きていると対象が限られてくる。怪しい人間か怪しい団体か詐欺か何か、そんなものしか残らなくなってくる。結果、対象がなくなる。
 自分で判断したくないから対象を求めているのに、その対象を探すことも選ぶことも自分でしなければならないなんて本末転倒だ。入り口からして躓いている。
 昔SNSで見たジョークのネタ、宗教マッチングアプリなんかが本当にあったら俺は使っていただろう。
 いや、使っていなかったかもしれない。
 結局は根深い不信が邪魔をするのだ。信仰がしたいのにその対象を常に疑い続けてしまうこの不信が。
 全ての不信を打ち破ってくれる対象が現れたら俺はそのときこそ安心して、真の信仰に安住できることだろう。
 弁論のうまいプロの宣教師が現れたときが俺の理性の終わるときなのかもしれない。
 そんなことを考えながら今日もコンビニでカップ麺を買って帰って食べている。
 くだらないテレビを脳に焼き付けるようにして見て、合わない価値観を無理矢理刷り込み本当の心を見ないふりして「普通に」過ごす。
 その中に信仰の二文字はない。努力もない。
 惰性があるだけ。停滞があるだけ。
 今この瞬間、神はそこで死んでいる。

 俺は信仰ができない。


(おわり)
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