短編小説

 憎しみという感情がわからない。
 昔は感じていたような気もするのだが、いつの間にか施錠され、わからなくなってしまった。
 凍結されたそれは、頑丈に固められた黒い箱の中に入っている。
 それについて考えるとき、心に広がるのは平坦な空虚。空っぽで何もない。何もないから理解もできない。だけど深度を上げていくと小さな黒い箱を認識することはできる。
 憎しみ。感じはしないが、俺の中に箱があること、そして、「憎しみ」が俺と違って他人の中にならばきちんと存在している、ということなら知っている。憎しみを感じて憤っている人を見て、ああそうなんだな、と思うことはできる。
 けれどそれがどんな心地なのかはわからない。
 憎しみに出会ったとき、俺は心の蓋を閉め、暴風をやり過ごすかのように黙って終わる。
 昔、憎しみを抱いて生きる友人がいた。
 俺はといえば、友人の語る激しい憎しみをどうしてやることもできず、ただ、そうなんだな、とか、ひどいな、とか適当なことを言って流すだけ。
 そんな対応が祟ったのか、彼とはいつの間にか疎遠になってしまった。
 何がいけなかったのかわからない。憎しみを理解せず、避けたことがいけなかったのか。
 けれど他人のためだけに己の箱の蓋を開けようとは思えない。閉ざされた箱を開けたが最後、出てきた中身に支配され、何もかもが崩れ去ってカタストロフとなるからだ。
 できるだけ無縁でいたい。わからないでいたい。真っ黒な色に支配されるよりは空洞を抱えて生きた方が何倍もましだからだ。
 だから俺に彼の気持ちはわからないし、ゆえに二度と会うこともないのだろうと思う。
 遠く離れた地であの友人は今も黒を持てあまして生きているのだろうか。
 ああ、それも、わからないけれど。
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