短編小説

 人には言えない秘密がある。
 と言ってもなんということはない。家に蟹がいるってだけだ。
 喋る蟹。カニじゃない蟹。物理法則を超越した、妖怪のようなもの。
 人に言えない、というのも、言えないのではない。蟹と同居するようになって以来、人と会わなくなっただけ。結果的に言わなくなっただけ。
 蟹に選ばれた者は別の世界を生きる。
 そんな都市伝説がある。
 俺はそれを体現してしまった。
 厳密には別の世界を生きるのではなく、一般の人間に会わない世界を生きている。会うのは俺同様、蟹に選ばれ蟹と共に生きている人間だけ。後は他の蟹と、そして俺の蟹だ。
 寂しいなんてことはない。
 いい加減あの世界にはうんざりしていた。
 親しい人間たちのことはそれなりに好きだったし、愛着もあった。選ばれていない頃はその人間たちとの友情を心の支えなんかにもしていた。
 だが離れた。
 友情だけではあの絶望に耐えることができなかった。俺にとっては友情や絆なんかよりも、絶望もつらさも全て捨てて蟹に選ばれることの方がより大きな……根本的な救いだと思えたのだ。
 親しい人間たちのことは懐かしいし、たまに思い出したくもなるのだが、それイコール人間の世界のことを思い出すということなので、最近はあまり思い出さないようにしている。
 いつか俺のあの世界へのトラウマめいた認識が和らいで、親しい人間たちのことを純粋に懐かしく思い出せるようになる日が来ればいいと思っているのだが、今のところそういった予兆も予定もなく、記憶も封じ込めたままだ。
 一般の人間とは関わらないのだから、記憶さえ封じ込めていれば思い出してしまう心配もない。
 蟹に選ばれていない一般の人間は俺から見えず関われず、選ばれた俺は一般の人間から見えず関われない。
 全ては選ばれた者同士でやるか、蟹が代わりにやってくれる。
 一般の人間と関わることのできる選ばれし人間というのもいるらしいのだが、それは絶望の程度が軽いか、精神が回復してきた人間である。
 以前の絶望はなんとやら、俺は安全に隔絶された穏やかな世界で優雅な生活を営んでいる。
 世の中苦しんでいる者もたくさんいるのに俺だけこんな生活をしていていいのかとは思うが、それが蟹に選ばれるということなのだ。くそったれな世界に残された最後の希望であり、救い。
 蟹に選ばれてからというもの、どんな仕組みかはわからないが、SNSのアカウントやメッセンジャーも蟹と蟹に選ばれた人間以外のものは閲覧できないようになっていた。無駄に刺々しかったり無駄に明るすぎたりする投稿を見なくていいのはありがたい。しかしこれもまたどんな仕組みかはわからないが個人ブログやホームページは見ることができる。ゆるいんだかゆるくないんだかわからない。
 蟹検閲さ、と俺の蟹は言うのだが、それで別に支障はないし、ニュースだって蟹のニュースメディアアカウントがあるのでそう困ることもない。書きぶりが若干他人事すぎるのは問題だが、まあ蟹だし。
 色々見ることができた方が困るのだ。外のことはなるべく思い出したくないし、思い出せないし。
 前述のとおり、絶望の程度が軽い者や回復してきた者の中にはそれらを見ることのできる者もいるらしい。全てはパートナーである蟹と、上層蟹が判断することである。俺はまだその状態にないということだろう。

 そんなある晩、蟹スマホを見ながら俺の蟹が呟いた。
「君のこと、好きだった人は確かにいた」
 ふうん、と俺。
「興味ない?」
「別に」
「大勢から好かれてるってわかってたら選ばれなかったのに、とか思ったりしない?」
「いくら好かれていようが、辛いものは辛かった。底なし沼に沈みかけてる身体を糸で吊り上げてるようなもので、危うすぎたんだ」
「うーん。より強い友情があれば沼の外に出られたのに、とか」
「そんなことがあると思うか? どう考えても無理だった。どうにもならなかったからここにいるんだよ」
「……君がそう思ってるんならいいけど」
「意味深だな。俺は選ばれて満足しているよ。選ばれる以外の道はなかった。あの日死のうとしていた俺をお前が選ばなければ、俺は確実にこの世を去っていただろう。生きることが楽しい、なんて思えたのはお前に選ばれたおかげなんだよ。それ以外の道があるかなんて考えられる心の余裕はなかったし、可能性を考えるなんて無駄でしかない」
「……そっか」
 蟹はスマホを机に置く。
「もう遅いし、寝なよ」
「ああ」



 主が寝、部屋が暗闇に閉ざされた後も蟹は画面を見続ける。
『久しぶり、元気? 近々飲みに行かない?』
『返信ないけど大丈夫? 何かあったら相談してね』
『おーい、ほんとに大丈夫? 何でもできることがあれば協力するから遠慮なく言ってね』
「遅すぎたんだろうね。可哀想。君の友達はもういない」
<送信先は蟹に選ばれました>
「もし君も選ばれるようなことがあったら、きっとまた会えるから」
『蟹? ――、まさか』
 さようなら。
 そう呟くと、蟹は画面を消した。

 秋の虫が鳴いていた。


(おわり)
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