短編小説

 蟹を見たんだ。
 夏休みを目前にした教室で、君は僕にそう言った。
 君は嘘が吐けない。正直に吐く言葉が必ず空気を壊すから、それとなく避けられるようになった君。そんな君が、街で生きた蟹を見たという。
 俺は蟹についていくべきなのだろうかと相談してくる君に、べきとは思わないけど別についていっても困ることはないんじゃないと適当に返した。
 次の日の教室に君はいなかった。グループのメンバーもクラスメイトも先生も、誰も気にしていなかった。彼は蟹に選ばれたのよと先生が言うと、皆頷いて納得して。
 あいつがいないと楽だな、なんて、案外蟹と暮らしてた方が幸せなんじゃねえの、選ばれてよかったな、なんて。
 僕だってそこまで君のことが好きだったわけじゃない。むしろ苦手な方だった。それだから相談されても適当に流したわけだし。
 でも、こんなことになるとは思っていなかった。僕の軽率な一言で目の前から永遠に消えてしまうなんて。
 責任を感じているのとは少し違う。
 決定的な言葉を放ってしまった、一瞬を担わされてしまった、そのことを重く感じているだけ。
 好きでもない君の人生の分岐点になんてなりたくなかった。勝手に生きて勝手に道が分かれて勝手に幸せになってほしかった。
 関わりたくなかった。でも関わってしまった。最後の分岐点。
 蟹に選ばれた奴は別の世界を生きる。現実になってしまった噂話を恨んだってどうしようもない。
 ただ、望まず分岐点になってしまった僕だけは、蟹に選ばれても応じてなんかやりたくない。そんなことをしたら、君と同じ世界を生きることになってしまうから。
 君とは二度と会いたくない。離れた世界で勝手に幸せになってほしい。望まなくとも会うことはないんだろうけど。
 帰り道、視界を横切ったかもしれない赤いものを、僕は無視して蹴りつけた。


(おわり)
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