短編小説(2庫目)

 電話。
 いつからか、電話との距離が遠くなった。
 心理的な話じゃない。実際に遠くなっていってる。
 今時固定電話を使ってる人間も珍しい、かもしれないが、まあ使ってるんだ。そこにかけてくる人もいるし、切ったら何かと不自由するし。で、ずるずる契約続けてる。
 そんなものだ。電話に限らず、人生も。
 そんなこんなで毎日固定電話には電話がかかってくる。と言っても、内容のある電話なんてほぼない。ほとんどが宣伝。ブロードバンドが、とか、墓が、とか、証券が、とか、そういう電話ばかりだ。
 内容のある電話、は、まあ、親族だったり、身内が入っている施設だったり。
 携帯電話にかけてくれって言ってるのにどうして家にかけてくるんだ。理解できない。いや理解しなくてもいいし、固定電話が嫌いなのは俺個人の勝手であって、親族や施設の人々には全く何の関係もないのだが。
 ……前置きが長くなった。そう、電話との距離が遠くなっていっているって話だった。
 最初は気のせいかと思っていたんだが、電話が鳴る、俺が電話のところに走る、なかなか辿り着けない、で、おや? と思ったんだ。
 家が大きくなったわけじゃない。単純に、電話と俺との距離が伸びてるんだ。しかも、電話がかかってきたときだけ。
 謎の現象だろ? 俺がオカルト信者だったら霊の仕業だーとかなんとか言ってたかもしれないが、残念ながら俺は霊とか信じてないから何もない。
 たぶんこれは俺の精神が何らかの何かになって起きている不調か何かだろう。きっとそう。霊とかいないし。神もいないし。サンタもいないし妖精もいないし魔法使いもいない。
 桜の蝶は?
 ……?
 何だろう。
 桜の蝶とは。
 ……俺の家の裏手には山がある。
 俺が持ってる山じゃない。隣の大きな家の敷地。
 そこに、大きな山桜がある。
 春になると花びらをひらひらと散らしてきて、掃除が大変で……って、もう何年も掃除なんかしてないけどな。面倒だし。花びらが敷地内に落ちてたってそこまで困らない。そもそも家の裏なんて使わない。洗濯物は乾燥機にかければ乾くし。
 で、その山桜。が、何か関係しているんじゃないかって……そんなはずがあるかよ。
 桜の蝶なんているわけない。山桜の桜が蝶みたいに見える? そんなこと考えたことないし。そんな発想どこから来た。
 あ。
 でも。
 蝶は見えている、ような気がする。
 と言っても、本物の蝶じゃない。
 たぶん、幻覚。
 夜、寝る前、目を閉じると、瞼の裏をひらひらと飛ぶ。群青色をした蝶の大群が。
 もちろんそんなもの本当にいるわけがない。家の中だぞ。ありえない。
 だから幻覚なんだ。蝶なんて。
 幻の存在はいないのと一緒、だが残念ながら俺は幻と縁が深い……深いのか?
 よくわからないが。
 とにかく蝶は群青だから、桜の蝶なんかとは違うんだ。当然。そんなものが見えたら大変。
 群青色の桜があるというなら別だけど。



 今日も電話が鳴る。
 電話との距離がどんどん遠くなって、電話のところに行くまでものすごく時間がかかるようになって、取るのが面倒になってくる、のだが、電話の音は耳をつんざくので止めなければいけない。止めるためには取らねばならない。そんなわけで電話を取りに行く、
『ブロードバンドが』
「あ、結構です」
『墓が』
「間に合ってます」
『証券が』
「興味ないです」
 何もない。何も。
 昼間、蝶は飛ばない。何もない。ひたすらうるさい感覚があるだけ。
 電話を切って、椅子に座って、仕事の続きをやる。やっているとまた電話が鳴って、長い距離を歩いて取って、
『――です』
「間に合ってます」
『■■です』
「結構です」
『本当に?』
「……え」
 ぶつり。
 電話が切れる。
 おかしいな。
 いや、おかしくはない。
 宣伝ってだけ。何もおかしくは。
 窓の外、桜が舞っている。
 仕事に戻らなきゃ。
 椅子に座って仕事をする、なかなか進まず天井を見上げて席を立って、紅茶を淹れて、
 電話が鳴る。
 歩く。距離が遠い。
 遠い、遠い。
『私は■だ』
 おかしい、俺は電話を取っていない。その証拠にベル音は鳴り続けている。
 鳴っている。鳴っている。鳴っている。
『お前は■■を■■た、今ならまだ取り返せる』
「何の、話ですか……」
『引き返せる、私の話を聞け。■■ろ、されば■■■ん』
「いりません、興味ありません」
 走る。走る。電話を取る。
 つー、と音。
 繋がっていないのだ。
『■■よ』
「やめろ、やめてくれ……」
 呼びかける声が遠くなって、薄れて、消えてゆく。
 けれど呼んでいる。
 誰を? 俺のことを。
 桜が舞っている。
 掃除しないと。
 いや、しない。しなくても困らないから、
 本当に?
 蝶が、
 ぐるぐると回っている。視界が回っている。これは、ああ、いつもの発作。
 糖分が足りないんだ、けれども砂糖を取ろうとするその手すらおぼつかなくて、
 暗転する。



 飛んでいる。
 飛んでいる。
 桜色の蝶。
 群青色じゃない。それは夢の中だから。
 幻覚じゃない。夢だ。
 ひらひらと飛んでいる。
 電話はない。まあ夢の中にまで電話がかかってきたら困るからな。うるさいし。
 夢の中でくらい感覚から解放されてもいいだろ? ■は駄目だと言うかもしれないが。
 ■?
 誰だろう、それは。
 そんな知り合いはいなかったはずだが。
 本当に?
 飛んでいる。
 蝶が飛んでいる。
 俺はそれをぼんやりと見ていた、蝶が飛んでいる、視界を覆い尽くして、――
 ―――――。



 目が覚める。
 俺は床で丸まっていた。
 ゆっくりと身体を起こして、立ち上がる。
 くらりと目が回るが、持ち直す。
 紅茶はとうに冷めていた。
 窓の外、桜が舞っている。
 ひらり、ひらり、と落ちるそれが一瞬、
 群青色に見えた気がして。
 俺は目を擦る、しかし次の瞬間それは元の桜色に変わって。
 そうだ。サンタはいないし妖精はいないし魔法使いはいないし、桜の木の下に■■だって埋まっていない。
 全部嘘なんだ。空想なんだ。俺のこれは精神の不調で。
 ひらひら。
 そうに決まってる。何もかも俺の幻覚で、うるさすぎる日常に疲れた俺が見ている、
 ひらひら。
 蝶が。
 横切ったような気がした。


(おわり)
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