冴木の冴キック

「どうかこれで……」
 一人の老人が一縷の望みを乗せて手を放した。
 ひらひら ひらひら
 一枚の紙は、たった一つの願いとともに舞い降りていく。
 どうか、間に合っておくれ。
 どうか、届いておくれ。
 どうかーー

◆◆◆

 午前最後の体育の授業。季節は冬、真冬。毎年持久走がやって来る時期だ。私はこれが嫌いで嫌いで、冬が嫌いだ。……去年までは。
 この一年で、私は好きになった。持久走を、じゃなくて、彼を。走るのが好きな、彼を。
「残り一周ー」
 彼、冴木優哉は二番手につけて最終トラックに突っ込んだ。ラストスパートをかけて、追い上げる。
 陸上部の意地か、とても体育の授業とは思えない真剣さに目が離せない。
 やっぱり格好いいな、と改めて感じながら、彼が一番でゴールテープを切るのを見ていた。
 彼はクラスの男子がふざけて用意していたゴールテープ、もといトイレットペーパーに呆れながらも、楽しそうに笑っている。俺勝ったぜ、とか言ってるのかな。そうなんだろな。
 冴木くんとは、今年入学して同じクラスになった。と言っても、私は引っ越したばっかりだったから、本当に一からのスタートのようなものだった。
 友達を作るのにさえ必死だった私が冴木くんに話しかけられるわけもなく、いつも見てるだけで、彼は私の名前さえわからないんじゃないかと思う。眼中にない、というよりも、きっと視界を掠めてすらいないんだ。
「集合ー」
 ピーッ、という笛の音とともに、授業の終わりが近いことを知る。これから着替えてお弁当食べて、今度は教室で授業。確か、古文か物理だった。
 礼をし、皆が一斉に移動を始めてごった返している中で、私は呼び止められた。
「向井さん、私たち今日当番やんな?」
 そうだ、コーンを片付けなきゃ。
「ゴメンゴメン、行こ」
 冴木くんを追っていた目を戻して軽く謝る。校庭に散らばった赤い角たちが鬱陶しく思える。
 私の嫌そうな態度を感じ取ったのか、クラスメイトが
「体育委員がやればいいのに」
 と言って、寒いもん、と続ける。私は、ね、と相槌を打ってグラウンドに引き返した。

 いつもみたいに友達と喋って勉強して、時々ちらっと冴木くんに目を奪われる私の毎日。
 そんなある日のことだった。
 傾いた太陽が眩しくて、影を辿って歩いていた夕方。
 ふと、白い紙が落ちているのに気付いた。地面に落ちているというのに、紙は白く輝いていた。
 気になって手に取ってみる。全く汚れていない。
 綺麗な白。そこに薄く書かれたマスは縦横5つずつ並んでいて、真ん中が黒く塗られている。
 不思議な紙だった。つかんでみると思ったより厚くて硬く、しっかりしていた。
 私はそれを家に持って帰った。手に取った以上、元の場所に戻すのは気が引けたし、何よりこの一枚の紙が手放すことを許してくれない。
 しかし、この紙の正体がわからない。しばらく考えてはみたが、結局何のためのものかすらわからないまま、紙を机の上に放り出して私は日常に帰った。

 翌朝学校に行くと、教室がいつもより騒がしかった。いや、いつもこんなものかもしれないが、今日はその中に彼の声が聞こえたから。
「俺の生徒手帳……」
 教室に入らなくてもわかる。冴木くんの声だった。
 私はちょっと緊張して、がらっとドアを開けた。
 一瞬こっちに集まった視線は、一秒と留まらずに散っていく。
 教室にはまた話し声があふれ、私は自分の席に向かった。冴木くんの席からは少し遠めの、自分の席。
「なあ、本当に知らんか、俺の生徒手帳」
 冴木くんの声がまた耳に飛び込んでくる。本当に困っているようだが、周りの友達はからかっているようだ。
「知らんで。そんなにムキになって、いったい何挟んでてん」
「ほんまや。何挟んでたん、知りたいなあ。教えろよお」
「余計なこと聞くなよお前ら。もうええわ、自分で探す」
 そのうち冴木くんの方が呆れたようで、捜索の申し出を一方的に斬って捨てていた。それでも友達連中は、探し出してやろうと意気込んでいる。
 冴木くんは生徒手帳を落としたのか。……私には、関係ないと思うけれど。

「春歌ー、はよおいでー」
 遠くで友達が呼んでいる。友達は早々に靴を履き替えてしまっていて、校門の近くから私を急かす。一緒に帰る約束をしてたから。
 そのとき、私は見つけてしまった。靴箱と簀の子の間にちょうど落ちていた、それを。捜し物を。
 屈んで拾う。きっと、あの人の。そう思って一枚目だけ開くと、少しガンをつけたような冴木くんの証明写真が貼ってあった。かっこいい。……じゃなくて、私は彼の靴箱を見つけてその手帳をそっと中に置いた。
 冴木くんにちゃんと見つけてもらえますように。
 さんざん待たせて一緒に帰った友達と別れて、家に向かって一人歩いていた。
 冴木くんのことを思い出して、生徒手帳はどうなったのか、と考える。うまく届いたかな。……そういえば、あれには何か挟んであった。落ちてなければいいけれど。急いで入れたから、ちょっと心配だ。
 家に帰って自分の部屋に行くと、昨日拾ったあの白い厚紙が私を待ち受けていた。
 白いマスのうちの一つが、開いている。
 それを見て私は、ビンゴを連想した。
 マスはまるで数字が当たったときに開けるそれのように、後ろに倒されていた。
 見つめていると、電話が鳴った。ビンゴらしき台紙を片手に持ったまま急いで取ると、思いもしない人からだった。
 クラスメイトの松島くん。よく冴木くんとつるんでいる人だったから私は知っていたけど、直接話した事なんて皆無に等しい。そんな人が、なんで。
「えっとお、向井……さん? 今みんなに訊いて回ってんねんけど、冴木の生徒手帳の中に何挟まってんのか知らん?」
「……どうして?」
「ほら、弱みでも握ってやろうかなーと」
 冴木くんが執拗にそれに拘る理由を暴こうと、そういうこと?
 確かに冴木くんの生徒手帳には何か挟まっていたけど、見ようなんて思わなかったし、詮索するのがいいこととも思わない。
「やめたほうがいいよ」
 言ってしまってから後悔したが、後には引けない。
「もし何かが挟まってたとして、それは松島くんには関係ないことでしょ。弱みを握ったとして、それが何の役に立つの」
 松島くんは予想だにしなかった私の反撃に驚いているようだった。
 でも、向井がそこまで言うなら、って言って電話が切れたから、やめてくれたと思う。たぶん。
 既に会話が終了している受話器を置くと、パチン、と手に持った台紙が鳴った。
 さっき開いていた穴の横に、新たにもう一つ、穴が加わっている。
 なんで?
 ビンゴだということは、おそらく間違ってはいない。でも、数字を当てるんじゃない、何かの条件で穴が開く。
 今、私は……冴木くんのために、松島くんを止めた。今日、私は、冴木くんの落とし物を拾った。冴木くんのために?
 きっとビンゴになったら何かあるに違いない。何かいいことが、起こってくれたら。

 それから私は、冴木くんのために何かしてみようと決めた。
 どうせこのままじゃ彼は離れていくばかり。あと二ヶ月もしたらクラス替えで、次も同じクラスになれるとは限らない。……今のうち。今のうちに、彼のために何かできたら。そのきっかけを、一枚の紙が与えてくれるというのなら。
 冴木くんに気付かれないよう、ちょっとだけ頑張ろう。
 そう、決めた。



 あれから数日、私は小さいことをちまちまやり続けた。ビンゴの穴はランダムに開いていって、ついにリーチ。どうやら本当に、冴木くんに何かいいことをしてあげると開くらしい。
 ほら、今も。授業中に消しゴムを落としてたけど、冴木くんは気付いてない。
 彼が席を離れたのを見計らい、ゴミを捨てに行くふりをしてさりげなく拾って通り過ぎる。自分の席に戻ってこっそりビンゴの紙を見ると、ちょうどビンゴになっていた。
 それが何になるかよくわからないけど、なんだか嬉しい。やり遂げた、って感じ。
 チャイムが鳴って、先生が授業を始めた。周りがばったばったと眠っていく。
 授業を半分くらい消化した頃、クラスの半数は寝ていた。
 そんな中、ふと、冴木くんの方を向いたら、
 嘘。目が合ってしまった。
 慌ててノートに向き直るが、心臓が揺れてる。
 冴木くんが、私を見てた。
 偶然かな? 偶然、だよね。みんな寝てたから周囲の様子をうかがった、とかだよね。
 でも、私を見てた。一瞬でも、彼の瞳に映ったんだ。
 いいことが、あった。とてもいいことが。

 私は夢中になって穴を開けた。暇さえあれば冴木くんを見つめて、何かないかと考える。そんなにあからさまなことはしないけど、ちょっとくらいは近づいてみたり。毎日がなんだか楽しかった。
 今日はたまたま教科の係でノートを提出しに行ったけど、なかなか先生が捕まらなくて、随分遅くなってしまった。
 教室には、部活に行った人の荷物だけが静かに置かれていた。
 もちろん、冴木くんのも。
 少し近づいて覗いてみたら、学ランがぐちゃぐちゃ。
 畳んであげようとも思ったが、直接触るのはやめとこう。嫌がられるかもしれないし。
 と、
「向井」
 その声は突然飛んできた。
 本当にびっくりした。「彼」の声だったからだ。顔をあげたらきっと、教室の入り口に「彼」がいる。
 がたっと机が動く音がして、私は思わず顔を上げてしまった。
 やっぱり、そこに冴木くんがいた。ただ、予想よりも近くにいて、跳び上がりそうなくらい驚いた。
「今、帰り?」
「……うん」
 意外な問いに、たどたどしく答える。
「へえ。部活?」
 てっきりすぐ終わるものかと思っていた会話は意外にも続いた。
「や、現国の係で。先生がいなかったから」
 今にも爆発しそうな心臓を、必死に抑えてそう答える。
「放って帰ればよかったのに」
 真面目だな、と少し微笑んだ冴木くんがかっこよくて、私の顔は真っ赤になった。
 ありがたいことに、西日が私の顔を赤く照らしていたから、きっとバレてはいないだろう。
「そ、かな」
 自分でも思ってもいなかったくらい、小さな声で答える。
 きっと冴木くんには聞こえてない。
 もう少し、大きな声で言えればよかったのに。
 それきり、会話は途絶えた。
 冴木くんは自分の荷物からタオルを引っ張りだして、教室から出て行った。
 じゃあな、と小さな声で言ったのが、聞こえた。
 後悔はあるけど、冴木くんと話せたのが私はすごく嬉しかった。
 これが終わりじゃない。まだまだ、残りのビンゴの分だけ何かが起こるんだ。
 夢のようで、夢じゃないかと時々疑う。それでも私はちょっとしたことをちょっとずつ、やり続けた。

 暦は二月。クラスは席替えの話題で持ちきりだ。
 私ももし冴木くんの近くになれたらと願ってはみたものの、見事に玉砕。
 ちょうど三つ目のビンゴができた直後だっただけに、ショックは大きい。
 冴木くんは前から二列目、私は一番後ろの列。
 まあ仕方ない、と諦めたときだった。
「せんせー、ここ見えへん」
 横になった男子、米谷くんが立ち上がって教壇に訴えた。
「ああ。前の方の誰かと代わってもらえ」
 先生が言うと、米谷くんはうぃーっすと軽い返事。
「米谷、俺と代わるか?」
 冴木くんが前の席から米谷くんを振り返って言った。
「おっ、マジ? 助かるわ」
 とんとんと話は進み、いったん静かになった教室に、机を移動する音だけが響く。
 信じられない。冴木くんが隣の席に。
 このビンゴの効力は、絶大なようだった。
「よろしくな」
 冴木くんは私にそう言ってくれた。

 それから、冴木くんの手助けをする機会は格段に増えた。
 それこそ倒された鞄を起こしてあげる程度でも、ビンゴは「1つ」として数えるらしい。おかげで、席替えの次の日にはビンゴが再びリーチになった。
「向井。シャー芯持ってる?」
 突然のチャンス。一瞬、戸惑ってしまったが、すぐに筆箱に手をかける。
「あ……、あるよ」
 冴木くんに直接何かを渡すのは初めて。
 差し出した手が、微妙に震える。私、すごく緊張してる。
「ごめんな、ありがとう」
 嘘じゃない。夢でもない。冴木くんが、私のシャー芯を手に取った。そして、お礼を言ってくれた。
 でも、それだけじゃなかった。
 授業が始まったが、それは私が一番苦手とする数学。運の悪いことに、私は当たってしまった。
 わけがわからない問題。
 立ち尽くしている私に、冴木くんは小さな声で答えを教えてくれた。
 さっきのシャー芯でビンゴになった分の、いいこと。
 その答えを先生に復唱してみせてから、私は席に着いた。

 その日の夕方。
 ……なんで、こんなことになってるんだろう。
 少し薄暗くなってきた道の上で、私は冴木くんの横を歩いている。
 やばい。
 全身がばくばく脈打ってはち切れそう。
 どうしよう。いや、嬉しいんだけれど。だけど、今すぐ逃げ出したい。すごくどきどきして、なんかもう駄目だ。
「あのさ、生徒手帳……拾ってくれたん、向井?」
 冴木くんが唐突に切り出した話題は、思ってもみなかったことだった。
 バレてるなんて予想だにしていなくて、慌てふためいた私はしばらくの沈黙の後に頷いた。
 自分をよく見せようとか、気を引こうとかそういう思いからではない。ただ、冴木くんに嘘はつけないから。
 真っ赤になった顔を、夕闇が隠してくれてればいい。
「そうなんや、助かった。向井でよかった」
 そう言った冴木くんを、恥ずかしくて顔を俯かせたまま私は視界の端に捉えていた。
 こうなったのもやっぱり、あのビンゴのおかげなのだろう。
 放課後、新しくできたビンゴで何が起こるのかと思いながら教室で待っていた。
 今日は運良くダブルビンゴで、きっといつもよりいいことが起こると予想して。帰るに帰れなかったのだ。
 そこへ、部活を早く切り上げた冴木くんが帰ってきた。
 早く、と言っても、他の人たちはもうほとんどいないくらいの時間。
 一緒に帰ろうぜ、と言われて、何が何だかわからないうちに一緒に帰ることになっていた。
「あの生徒手帳な、じいちゃんのくれたお守りが入ってるんだ」
「おじいさんの……?」
「うん。ちょっと前に死んじゃってんけどな」
「あ……ごめん」
 しまった、と思って、さっき一瞬上げかけた視線を元に戻す。
 冴木くんはそんな私を見て、ちょっと笑ったようだった。
「気にせんといて。だから向井には感謝してんねん」
 そうか、ちゃんと冴木くんの役に立てたんだ。あの生徒手帳も、冴木くんのおじいちゃんの形見も、ちゃんと彼の手に戻ってたんだ。
 そう確認することができて、私は安堵のため息を吐いた。心音も呼吸も少し落ち着いてきている。
「あー、ほんでな……」
 冴木くんは言いにくそうに口ごもった。
「なに?」
 平静を装って、訊く。
「向井ってさ、い……」
「い?」
 冴木くんの方を向き直って、聞き返す。
 帰路についていたはずの足取りは、いつの間にか止まっていた。
「いや、何でも……ない」
 彼はぱっと顔を逸らして、再び歩き始めた。
 私も一歩遅れてそれに続く。
「……そか」
 何か答えなければ。前みたいに終わってしまわないように。それで絞り出した一言は、彼の耳には届いていないみたいに空中に消えた。
 それきり静かに足音だけがリズムよく音を立てる。
 最後の夕闇が遙か彼方の地平線に沈んだ頃、真っ暗な夜の闇が辺りを包んだ。



 あれ以来、冴木くんとはまともに話をしていない。
 夢だった、と。
 この一ヶ月間は全部夢だったと、そう思えばいい。これまでのことも、夕暮れの中で起こったことも、全部。
 避けられてる。そんな気がした。隣の席なのになかなか話せないし、話しててもなんだかそっけない。
 一緒に帰ったとき、変なことしちゃったかな。嫌われたのかな。もしかしたら、あの言いよどんでたことが何かあったのかも。
 せっかく仲良くなれたのに……ううん、もともと私の力じゃないんだ。私が努力して得た結果じゃない。
 手に入るはずのない幸せ。手に入ってしまった不幸せ。きっと、今までのことは全て、あのビンゴが見るに見かねて私にくれた奇跡だったんだ。
 私はそれに感謝するべきなんだろうな。でも、どうせなら、こんなに自分が馬鹿なことを知らないまま、遠くから彼を眺めていたかった。
 とんでもないわがままだ。もう、魔法は解けてしまったというのに。

 冴木くんを、見つける。
 校門を出ようとしているところだった。
 朝から降っている雨は、相変わらずしとしとと降り続けている、
 冴木くんの周りには、3、4人の男子と数人の女子。誰かを待っているのか、動く気配はない。
 私は冴木くんと顔を合わせるのが気まずくて、しばらく物陰に隠れていようと決めた。
 決めたんだけど、冴木くんはなかなか帰らない。
 差した傘が、だんだん重くなってくる。
 私は否応なしに、背けた現実を見続けるはめになった。
 友達と笑って話す彼。いや、傘を差してるから見えないんだけど、たぶん、そう。彼は笑ってる。眩しくて、なんで私があそこにいないんだろう、とか、なんでわたしは彼の目にさえ映れないのか、とか。わかりきってる疑問が喉の奥から飛び出してきそうで。
 それを言ったらただの隣人としても付き合えなくなるから、絶対に口を開くわけにはいかないけれど。
 私は性懲りもなく鞄に突っ込んでいたビンゴの紙を取り出した。
 傘の端から落ちた水滴を、紙が弾いた。
 真ん中の黒い部分以外、穴は全部開いたその紙。真ん中だけが切っても叩いても開かない、私に奇跡をくれた紙。もう何の意味も成さない、ただの紙切れ。
 ふと気がつくと、冴木くんは門の前から姿を消していた。
 やっと帰ってくれたみたいだ。
 私はビンゴを再び鞄に突っ込み、雨の中を家に向かって歩き出した。
 しばらく早足で進んでいると、前方に冴木くんが見えた。
 そうだった、彼の家は私と同じ方向にあったんだ。
 やだなあ、忘れるなよ。冴木くんのことでしょ。自分に呆れながらも、追いつかない程度に進み続けた。
 心なしか、さっきよりも冴木くんとの距離が短くなっている。冴木くんは体操服を着た男子、たぶん部活の人、と話しながら歩いてるからすごくゆっくりで、今にも追いついてしまいそう。
 雨が地面に叩き付けられる音だけがうるさく響いていた。
 いっそ、別の道で思いっきり遠回りして帰ろうかな。
 そう思ったときだった。
 大通りに出た冴木くんと部活の人が別れる。
 私が知っているのは、冴木くんがいつも真っ直ぐ大通りを突っ切って帰るということだけ。
 冴木くんは一人で信号待ちをしている。
 ますます会いたくない。目が合ったりしたら、なんて言い訳しよう。無視されたりしたら? 冴木くんはそんな人じゃないってわかってるけど、怖い。
 色々と考えているうちに、信号が青に変わった。
 冴木くんが歩き出す。
 私も思わず走り出してしまった。
 傘を握りしめたまま、ばしゃばしゃと水たまりを走った。彼との距離を縮めたくて。
 横断歩道の目の前まで来て、足が止まる。
 何やってんの、私。冴木くんになんて言う気?
 思いとどまってふと前を見ると、冴木くんは横断歩道を半分渡り終えていた。
 いや。
 私の視線の先は、その横。
 彼の向かう先、信号を無視して、トラックが突っ込んでこようとしている。
 冴木くん、気付いていない? そのまま進んだら、危ない……!
「冴木くん!」
 走り出していた。
 一度止まった足は再び地面を蹴って、走り出した。
 さっきまで力任せに握っていた傘は、どこかへ飛んだ。
 私の足では到底間に合わないけど、私の声で彼が立ち止まってくれさえすれば。振り返ってくれたら。そうなれば。私なんかでも、自分の力であなたを助けられるなら。きっとそれ以上の幸せはないだろう。
「向井……?」
 果たして冴木くんは立ち止まる。そして、ゆっくりと振り返った。

 その後ろを、ごうっとトラックが通り過ぎる。跳ねた水が冴木くんの制服に少しかかった。
 たった数メートル走っただけの私の呼吸はなかなか整わない。
 冴木くんも、私を見たまま動かない。
 少し経って、冴木くんは私の手を引き横断歩道を渡りきった。
「何やってんの」
「えと、その」
 座り込んだ私を見て、冴木くんから笑みがこぼれた。
 冴木くんが前みたいに話してくれないなんて、なんで思ったの。彼は私にだって、こうして微笑んでくれる。
 無事で、よかった。
「あのさ、ずっと言おうと思ってたんやけど」
 かしこまったように、冴木くんが言った。
 私に付きまとわれてると思ってたりして? あながち間違いでもないから、真っ向から否定できないのが情けない。
 付きまとうのをやめてくれ、なんて、はっきり言われるの? 言われちゃうのかな。うわ。やだな。
 まあでも、いいか。最後にいいことができたから、もう心残りはないよ。
「俺さ、向井のこと、ずっと気になってんねん。だから、これからときどき一緒に帰ったり一緒に遊んだりしてくれへんかな」
 え? 今、なんて?
「いきなりこんなこと言い出してごめん。やっぱり……だめかな?」
「……めじゃない」
「え?」
「だめじゃない」
 私は首を大きく横に振った。
「やった……!」
 冴木くんはそう叫んで、私の手を取った。そして上下にぶんぶんと振る。
 落ちてくる雨は弾けて跳んで、宙に消える。
 あまりのことに信じられなくて、ただ、
「……うん……」
 と返した。
 その一言は今度こそ彼の耳まで消えずに届いたらしく、冴木くんはもっとにっこり笑ってくれた。
「向井、びしゃびしゃやん」
 放り出してしまった私の傘は、いつの間にかなくなっていた。そのことに、私も冴木くんもしばらく気付いていなかったのだ。
 なんだかおかしくてちょっと笑うと、冴木くんが自分の傘を差し出してくれた。
「ありが、とう」
 一歩進んで、遠慮がちにその傘に入る。
 冴木くんは一歩退いて私を中に入れてくれた。
 ぎこちなく歩き出した一歩がなかなか揃わなくて、やっぱりおかしかった。

「あのさ、向井のことさ……イーハリュって呼んでいいかな」

「なんで?」


◆◆◆

「ぎりぎり間に合うたみたいやな」
 一人の老人はにっこり微笑んだ。
「優哉、お前はまだこっちに来んでええ。わしの縁結びを馬鹿にせんかった褒美や。異星人さん、とやらと仲良くな」
 ほんまに、本気にしたのは優哉だけやった。嬉しいもんや。
 老人が嬉しそうにそう呟くと、後ろから、もう一回りは年を取っていそうな好々爺が現れた。
「どうせ、助けるつもりだったじゃろう?」
 長い髭を梳かしながら、呆れ顔で近付いてくる。
「そうかもしれませんなあ、神様」
 老人は振り返って、もう一度、にっこりと微笑んだ。


(了)
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