夏だ! Wkumoみんみん祭・会場
「わからないのかい?」
振り返った君の姿に見惚れてしまったのはどうしてだろう。
◆
父親の友人の社長さんが別荘に招待してくれると言うので、夏休み、僕は泊まりの準備をして家族でワゴン車に乗り込んで、がたごと揺られて海の見える別荘まで。
「わあ……」
「気に入ったか」
自分の別荘ではないのに自慢気に、父親。
「すごいね、海が……青い」
「そうだな、父さんもそう思う」
「こんなの見たことないや」
中に入って、個室に案内される。旅行に行くときとかはいつも家族と一緒の部屋だから、個室というのはとても贅沢で、一人前の人間として扱われているようで、嬉しい。
「ベッドがある!」
旅行の定番、ベッドダイブ。
ばふ、と跳び乗るとふわんふわんと跳ねる。
「さすが別荘……すごいや」
そのままごろごろと転がると、得も言われぬ感覚。
このまま夜まで寝ててもいいくらいだ。
「ねえ」
「!?」
跳び起きる。
自分以外誰もいないと思っていた部屋で声がしたものだから僕は慌てに慌てて、
「見た?」
と言ってしまった。
「何が?」
そこに立っていたのは華美な服を着た僕と同じくらいの年頃の少年。
「僕がベッドでごろごろしてたの見た?」
「見たよ」
「……黙っててね」
「別にいいけれど」
「君は誰?」
「初めて会った人にそうやすやすと名前を教えると思うかい?」
「あ、ごめん……僕の名前は、」
「待って」
「えっ」
「名乗らなくていい」
「なんで?」
「なんでだと思う?」
「え……」
何だろう、この人は……
「よくわからないよ……」
「わからない方がいいこともあるのさ」
「ますますよくわからない……」
「僕のことはケイトとでも呼んでくれたまえ。君のことはウィリアムと呼ぶから」
「なんで洋風?」
「記号のようだろう」
「記号だと何がいいの?」
「記号の方が都合がいいのさ、僕たちのような関係性は」
「まだ出会ったばかりだけど」
「ふふ」
「誤魔化さないで」
「誤魔化してなんかいないよ。名前を教え合ったのだから、僕たちはこれから友達だ」
教え合ってないんだけど……そもそも、友達って一方的じゃないか?
「僕は君と友達になったつもりはないんだけど」
「へえ。それじゃ、ばらされてもいいの?」
「何を」
「君がベッドでぴょんぴょん跳ねて遊んでいたことをさ」
「やめてよぉ」
「じゃあ」
「わかったよ、友達でいいけど……何して遊ぶの?」
「何して、とは」
ケイトは首を傾げる。
「友達って一緒に遊ぶものでしょ?」
「そうとは限らないんじゃないかい」
「一緒に遊ばない友達?」
「好きに解釈したまえよ」
「解釈って?」
「いちいち説明しないと君はわからないのかい?」
「あ、ごめん……」
このケイトって人、よくわからないけどあんまり性格のいい人ではなさそうだ。
「君は性格が悪いんだね」
「む」
ケイトがむっとした顔をする。
「そんなこと言う君だって友達いないんじゃないのかい」
「え、いるよ!」
「君がそう思っているだけで、向こうは……いや、やめよう。大人げないね」
「君は子供じゃないか」
「子供だけれど?」
「子供が大人げないとか、そういうのは……」
「やれやれ、君も子供っぽいね。そういうのは流しておけば良いのにいちいち言及するから嫌われるんだ」
「嫌われてないよ!」
「じゃあ僕が君のことをどう思ってるかわかるかい?」
「……そんなの」
僕はケイトを睨む。
「わかるわけないじゃん」
「そう、わかるわけがない。正解だよ。君は見込みのある子供だ」
「……君も子供だろー」
「懲りない奴だな、君も」
「―—、ご飯の時間だよ」
母さんの声。
「あ、行かな、きゃ……」
振り返ると、ケイトはいなくなっていた。
「……?」
いつの間に出て行ったんだろう。
「まあ、いいか」
別荘の夕食、どんな豪華なんだろう。楽しみだな。
僕はわくわくして部屋を出た。
◆
長かった晩餐会が終わり、部屋に帰ってくる。
後半は大人たちがよくわからない株や何やの話をしていて、つまらなかった。抜けたいって目で訴えても母さんは睨んでくるし。
「はー、つかれた」
ベッドにダイブする。
「お疲れ様」
「わあ!?」
僕は跳び起きる。
「ケイトか……びっくりさせないでよ」
「びっくりさせたつもりはないよ」
「そっちはそのつもりでも僕はびっくりしたのー」
「ああ、それはすまない」
全くすまないと思っていなさそうな顔で、ケイト。
「晩餐会はどうだったかな?」
「どうだったって……つまんないに決まってるじゃんあんなの」
「ほう、それはどうして?」
「みんな僕のわかんない話ばっかりする……」
「わからない話とは?」
「やれ誰々が結婚したとか、やれどこどこの会社は狙い目だとか、つまんないし意味わかんない」
「晩餐会とは得てしてそういうものだよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「知らなかった……」
「一般人なら、勉強になった、とか言うんじゃないかい」
「言わないよそんなこと」
「どうして?」
「つまんないんだもん。つまんないことを勉強したってつまんないじゃん」
「なるほど、君は快楽主義者なんだな」
「快楽主義者?」
よくわからないけど、あまりいい意味ではなさそうだ。
「わからないならそれでいい」
「えー、うん……」
ケイトならあの大人たちの言っていることもわかったのだろうか。
「ケイトなら……みんなの話わかったのかな」
「僕に大人の考えていることなんてわかるわけないだろう」
「なんで? ケイトって難しい言葉いっぱい知ってるじゃん」
「知っているだけさ。背伸びして、大人ぶっているだけ。僕だって子供だからね」
「子供……」
さっきは流しておけば良いとか言ったのに、自分からその話題を持ってくるなんてやっぱり変わった奴だなあ。
「でも僕ももうすぐ―—なんだよ、子供じゃないよ」
「―—は子供じゃないか」
「大人が思ってるよりも僕は子供じゃないってことだよ」
「はは」
ケイトは笑った。それがものすごく馬鹿にしたような笑い方だったので、
「何笑ってるんだよ」
「笑うさ、そりゃあ」
「なんで!」
「君が子供だからだよ」
「君だって」
「ははは」
また馬鹿にする。
でもうまく言い返すやり方なんかはわからないし、僕は膨れるしかなかった。
そういうところが子供なんだって思われるのかな……
知らないや。
「僕、お風呂入ってくるから」
「へえ。溺れないようにね」
「お風呂で溺れたりしないよ」
「わからないだろう」
「わからなくないよー僕は大丈夫」
「ふ」
「何で笑うの」
「笑ってなんかないさ」
「笑ったじゃん」
「まあまあ、早く入ってきたまえよ」
「はーい」
お風呂セットを持って、バスルームに向かう。
湯は既にはってあった。
◆
「お待たせケイト、上がったよ……って」
いない。
気まぐれっぽい気はしていたけど、本当に気まぐれだな。
それじゃあ今晩は一人なのか。
なんとなく、つまらないな、と思ってしまった自分がいて、いや、ケイトがいないととかそういうことは思ってないよ。あんな意地悪な子供、いた方が困るじゃないか。
僕はトランクから持ってきたゲームを取り出し遊んでいたけど早々に眠くなって寝てしまった。
◆
「おはよう」
「ふぇ……ってケイトか……早いね」
「年寄りと子供は早起き、わかってることじゃないか」
「わからないよー」
「はは」
「またばかにする……ねむいよー」
「眠いなら紅茶を淹れてあげよう」
「紅茶なんてのめないよー」
「おや、そうなのかい」
「僕まだ子供だし」
「それは困ったね」
「何が困るのさ」
「何だと思う?」
また誤魔化す。
と、ケイトがちらりと視線をわきにやった。
眉を上げるケイト。
何を見たんだろう。確認するのがめんどくさいからいいか。
「じゃあ、冷蔵庫にあるジュースでいいかな」
「冷蔵庫にジュースなんてあるんだ」
「別荘だからね、来た客をもてなす物品は揃えられているのさ」
「へえ……」
言う間にもケイトは冷蔵庫を開け、入っていたジュースをグラスに注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
一口飲む。冷たいジュース。りんご味かな。
「おいしいね」
「まあ、そうだろうね」
僕はサイドテーブルに目をやる。
ゲーム機が出しっぱなしだ。
「あ、いけない」
「何がいけないんだい」
「ゲーム機出しっぱなし」
「それが何か」
「よくないよ、だって……」
そのゲーム機には僕の名前がでかでかと書かれているんだもんね……なくしたりとられたりしないようにって母さんが書いてくれたんだけど、さすがに恥ずかしい。
「しまうね……」
僕はグラスをサイドテーブルに置き、なるべくゲーム機を見られないように服で隠してトランクにしまった。
「君は恥ずかしがりやさんだなあ」
呆れたように、ケイト。
「だって恥ずかしいだろそんな……子供っぽすぎるよ」
「子供で何がいけないんだい、君は子供なのに」
「同年代に馬鹿にされるだろ……ただでさえ母さん過保護で恥ずかしいのにこんな、マジックででかでかと名前書いてあったらさ……」
「僕は馬鹿にしないけどね」
「え、しないの?」
意外。てっきりケイトこそ真っ先に馬鹿にしてくるかと思った。
「いい名前じゃないか」
「そっち? っていうかそっちだけ僕の名前知ってるのずるくない?」
「人間関係というものは不均衡なものだよ」
「フキンコーって何」
「ふふ」
また誤魔化す!
「さ、ジュースを飲み切ってしまいたまえ。そろそろ母上が呼びに来る頃だろう」
「うん……」
僕はりんごジュースを飲み切り、グラスをサイドテーブルに置く。
「―—、朝食よ」
「あ、母さんが来たか……ら……?」
またケイトがいなくなっている。なんでそんなに行動が速いんだ。
「今行くー」
慌てて着替えて部屋の外に出た。
◆
朝食の席でも大人たちはつまらない話ばかりして、いったい別荘を何だと思ってるんだろう。もっと有意義に時間を使えばいいのに。
「はあ……」
一気に疲れたような気になって部屋に戻ると、
「やあ」
ケイトがいた。
「ケイトか……」
「どうしたんだい、疲れた顔して」
「朝ごはんの時くらい面白い話をすればいいのにって……」
「ああ、大人たちのこと?」
「そうだよー、土地がどうの住民がどうのって……つまんない話ばっかり。やめちゃえばいいのに」
「でも、そういう話をしないと、ウィリアム。君のことが養えないからお父上たちはそういう話をしているんだろう」
「別にしなくてもいいじゃん、別荘でぐらい仕事を忘れたっていいじゃんーずるいずるい大人ばっかり」
「ウィリアム」
「何さ」
「海に行こう」
「へ?」
◆
いきなり海に行こうと言い出したケイトには驚いたけど、旅行の準備をするときにもしかしたら海で遊べるかもと用意したのが役に立った。
出掛けるとき、広間を覗いたけど大人たちはまだ難しい話をしていて、早く行こうと急かすケイトの背を追ってこうして海に来ている。
「やっぱり綺麗だねぇ」
「そうだね」
「こんな綺麗な海、僕初めて見たよ。都会じゃこんなの絶対見られないし……」
「都会の海は汚いのかい?」
「汚いよぉ。綺麗にする計画とか、やってるらしいけど……色がでろんとしてて……」
「へえ」
僕に背を向け海に目をやるケイト。
上げたその指先に、蝶がとまった。
「あ……蝶」
よく見ると、ケイトの周囲にはひらひらと何匹か蝶が集まってきている。
「海に蝶っているんだ……」
「いるさ、蝶くらい」
「どうして?」
「海にも花はあるさ」
「僕にも蝶、とまってくれないかな」
「蝶は人に慣れないからね」
「君には慣れてるじゃないか!」
「慣れてるのかな。どう思う?」
「どうって……でもずるいよケイトだけ。なんでだよぉ」
「……わからないのかい?」
振り返るケイト。きらきらした衣装の裾が風でひらりとはためく。
その姿を。
少しだけ、綺麗だと、思ってしまったのが。
よくわからなかった。
同い年の男の子に綺麗だなんて。
「ふふ」
「なんだよぉ」
「海で遊ばないのかい?」
「遊ぶよ、でもケイトは何なのそんな格好で。遊べるわけないじゃん」
「僕は海では遊ばないよ」
「どうして」
「水が苦手なんだ」
「えっ……じゃあ、僕も遊ばない」
「いいよ、遊んできなよ」
「ちょっと浜を歩くだけにする」
「……」
「浜を歩くだけでも楽しいし、それに……ケイト、僕は君と一緒のところにいたいんだ」
「ウィリアム……」
そのときのケイトの表情は、よくわからなかった。悲しい、のとは少し違う。寂しい、とも少し違う。どこか大人びた、そんな表情を見るのは初めてだったから僕は、
「……」
「それじゃあウィリアム、今日は浜を歩いて遊ぼうじゃないか」
ぱ、と笑顔になって、ケイト。
「うん!」
僕もさっきまでのことは綺麗に忘れてしまって、頷いた。
それからは日が高くなるまで貝を拾ったり、砂浜に絵を描いたり。
お昼ご飯を食べに少し戻って、また、日が傾くまで僕たちは海で遊んだ。
「……楽しかったね!」
「……そうだね」
「僕、友達と海で遊んだことないから、すごく楽しかった!」
「そうなのかい」
「都会の海、汚いし、友達と行くことなんてないんだ。僕、ずっと海に憧れてた」
「そうかい。それは今日遊べてよかったじゃないか。いい経験になったね」
「うん!」
◆
その次の日は森に行った。
「海の近くに森なんて、変だね」
「変じゃないさ。海の近くには森があるものだよ。人工的なものも含めてね」
「そういうものなの?」
「そういうものだよ」
「僕、虫取りの道具は持って来てないけど」
「虫取り……」
ケイトが嫌そうな顔をする。
「どうして虫取りなの?」
「海に蝶がいたし、森と言えば虫取りかなーと思って」
「虫取りなんかしなくていいよ」
「どうして?」
「虫がかわいそうじゃないか」
「虫が……かわいそう」
「虫だって生きてるんだよ」
「そう、……そう、だよね……」
ケイトがこんなことを言うのは珍しい。こういうのは、「いい子」が言う言葉だと思っていたから、大人ぶってばかりいる、どちらかというと「悪い子」のようなケイトがそんなことを言うのにびっくりした。
「まあ、カブトムシとかカマキリとかは取ってもいいと思うけどね」
「えっ、言ってることが違うじゃないか!」
「蝶は羽根に鱗粉がついてるだろう? 子供が無理な捕まえ方をすると、鱗粉がはげて弱ってしまうんだよ」
「あっ、そうか……」
確かにそうだ。手に粉がついて嫌だって友達が文句を言ってるのを聞いたことがある。
「これから蝶を捕まえるのはやめようかなぁ」
「それがいい。そうしたまえ」
ケイトは嬉しそうに笑った。
「ケイト、もしかして蝶が好きなの?」
「……好き?」
「好きじゃないの?」
「好き、というのとは少し違うね。何と言えばいいのか……」
らしくなく考え込む様子のケイトに僕は首を傾げる。
「好きじゃないなら嫌いなの?」
「嫌いではないよ」
「好きでも嫌いでもないなんて、変なの」
「好きか嫌いかなんて子供だよ。君が成長するにつれ、好きでも嫌いでもない何かってのは増えていくものさ。僕のこれはたまたま今、そうだっただけで」
「へえ……やっぱりケイトは大人みたいだ」
「子供だよ」
「また、そう言う」
「もっと長く生きてる人たちもたくさんいるじゃないか。それと比べれば僕なんか赤ちゃんのようなものだよ」
「そりゃあ、他人と比べたらそうなるけどさ」
「君と同じなんだよ、僕は。大人には勝てない」
「そうかな……そうは見えないけど」
「見掛け倒しさ」
「そりゃあ見かけは子供だよ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味なの」
「大人びて見えるだけってことだよ」
「あー、そういうことかぁ」
そういえば、ケイトのお父さんお母さんってどこにいるんだろう。
「ケイト」
「何だい?」
「ケイトのお父さんとお母さんはどこにいるの?」
「この近くに住んでいるよ」
「へえ、そうなんだ」
きっと社長さんの友達なんだろうな。
「さ、行こうじゃないか。森はよく知ってるから、ガイドしてあげよう」
「ほんと? やったー!」
「ふふふ」
そして僕は昼までケイトの案内で森を巡り、昼食を取りに帰った後も森の植物や鳥なんかの説明をしてもらったり川で遊んだりして楽しんだ。
「こんな日がずっと続くといいのになぁ」
「ずっとは続かないさ」
「どうして」
「どんなものも、ずっとは続かない」
「えー、そんなのつまんない。ずっと続くものがあってもいいじゃんかー」
「いつかは終わりが来るんだよ、君だって僕だって」
「むう……」
「ふふ……」
「でも僕、そんな中でもケイトと会えてよかったよ」
僕は伸びをする。
ケイトはまた、ふふっと笑った。
◆
翌日。
「ケイト……」
「なんだい、そんな落ち込んだ声をして」
「僕、今日で帰らなきゃいけないんだって……」
「へえ」
「嫌だよ、帰りたくないよ……」
「どうして?」
「まだケイトと遊びたいよ……やりたいこと、まだいっぱいあったのに」
「でも、ご両親がそう言うなら仕方ないだろう」
「でも……」
「でも?」
「ケイトは寂しくないの!?」
「……僕は、」
ケイトは目を伏せる。
「……」
「……」
「僕だって、寂しいさ……」
小さな声で呟くケイト。
「でも、子供にはどうにもならない。大人たちが決めることは子供にどうにかできるようなことじゃないんだ、ウィリアム」
「そんな……」
「君は帰った方がいい」
「なんでそんなこと言うの」
「帰った方が、いいんだ……そうじゃないと」
「?」
「なんでもない、でも僕だって寂しいんだ、それは覚えておいてくれ」
そのとき、部屋がノックされた。
「―—、帰る準備はできた?」
「母さん! ケイト……、」
ケイトはもういなかった。
◆
来た時と同じワゴン車に重い足取りで乗り込む。
タラップに足をかけたとき、
『ウィリアム、君に会えて本当によかった。……元気で』
「ケイト!?」
振り返っても誰もいない。
「―—、早くしなさい」
「……うん」
遠ざかる別荘の姿を僕はずっと見ていた。
◆
次の朝。
「―—、大変だ」
朝食の席で、新聞を読んでいた父さんが震える声で僕を呼ぶ。
「別荘が……別荘が」
「どうしたの、父さん」
「土砂崩れで……」
「えっ」
◆
あれから子供の体感としては長い長い時が過ぎ、なんだかんだで僕も大学生になった。
選択課題の社会学概論で市民活動のことを習い、そのまとめレポートでふと別荘のことを思い出した。
当時、あの別荘が建っている地域全体をリゾートホテルにしようという計画があったらしい。
そこは珍しい蝶の群生地で、住民からの反対運動も激しかったそうだ。
僕たちをホテルに呼んだ社長さんがホテル建設計画の先頭に立っていたそうなのだが、土砂崩れで別荘が潰れたことにより、災害の危険がある都市だという認識が運営サイドにでき、中止になった。
父さんに話を聞いたり、当時の新聞を調べたりしてあの時僕が置かれていた状況を遅ればせながら把握したけれど、僕の名前にも「蝶」が入っているから、蝶の話というのにはなんだか親近感が湧いてしまった。
小さい頃は特に意識していなかった「蝶」だが、大きくなってみると己の名前にもこだわりや何やを感じるようになってきて、道端なんかで蝶を見る度観察してしまう。
◆
そして初めての夏休み。僕は宿を取ってあの街を目指すことにした。
電車の中で考える。あの日出会った少年、ケイトは何者だったのだろうか。
けれど、
『やあウィリアム、また来たのかい』
あの日の君に、なんだかまた会えるような気がして。
何を話そうかなんて考えて、また海や森に行けたらいいななんて、
そんなことを考えながら、近付く広い海を見ていた。
(おわり)
振り返った君の姿に見惚れてしまったのはどうしてだろう。
◆
父親の友人の社長さんが別荘に招待してくれると言うので、夏休み、僕は泊まりの準備をして家族でワゴン車に乗り込んで、がたごと揺られて海の見える別荘まで。
「わあ……」
「気に入ったか」
自分の別荘ではないのに自慢気に、父親。
「すごいね、海が……青い」
「そうだな、父さんもそう思う」
「こんなの見たことないや」
中に入って、個室に案内される。旅行に行くときとかはいつも家族と一緒の部屋だから、個室というのはとても贅沢で、一人前の人間として扱われているようで、嬉しい。
「ベッドがある!」
旅行の定番、ベッドダイブ。
ばふ、と跳び乗るとふわんふわんと跳ねる。
「さすが別荘……すごいや」
そのままごろごろと転がると、得も言われぬ感覚。
このまま夜まで寝ててもいいくらいだ。
「ねえ」
「!?」
跳び起きる。
自分以外誰もいないと思っていた部屋で声がしたものだから僕は慌てに慌てて、
「見た?」
と言ってしまった。
「何が?」
そこに立っていたのは華美な服を着た僕と同じくらいの年頃の少年。
「僕がベッドでごろごろしてたの見た?」
「見たよ」
「……黙っててね」
「別にいいけれど」
「君は誰?」
「初めて会った人にそうやすやすと名前を教えると思うかい?」
「あ、ごめん……僕の名前は、」
「待って」
「えっ」
「名乗らなくていい」
「なんで?」
「なんでだと思う?」
「え……」
何だろう、この人は……
「よくわからないよ……」
「わからない方がいいこともあるのさ」
「ますますよくわからない……」
「僕のことはケイトとでも呼んでくれたまえ。君のことはウィリアムと呼ぶから」
「なんで洋風?」
「記号のようだろう」
「記号だと何がいいの?」
「記号の方が都合がいいのさ、僕たちのような関係性は」
「まだ出会ったばかりだけど」
「ふふ」
「誤魔化さないで」
「誤魔化してなんかいないよ。名前を教え合ったのだから、僕たちはこれから友達だ」
教え合ってないんだけど……そもそも、友達って一方的じゃないか?
「僕は君と友達になったつもりはないんだけど」
「へえ。それじゃ、ばらされてもいいの?」
「何を」
「君がベッドでぴょんぴょん跳ねて遊んでいたことをさ」
「やめてよぉ」
「じゃあ」
「わかったよ、友達でいいけど……何して遊ぶの?」
「何して、とは」
ケイトは首を傾げる。
「友達って一緒に遊ぶものでしょ?」
「そうとは限らないんじゃないかい」
「一緒に遊ばない友達?」
「好きに解釈したまえよ」
「解釈って?」
「いちいち説明しないと君はわからないのかい?」
「あ、ごめん……」
このケイトって人、よくわからないけどあんまり性格のいい人ではなさそうだ。
「君は性格が悪いんだね」
「む」
ケイトがむっとした顔をする。
「そんなこと言う君だって友達いないんじゃないのかい」
「え、いるよ!」
「君がそう思っているだけで、向こうは……いや、やめよう。大人げないね」
「君は子供じゃないか」
「子供だけれど?」
「子供が大人げないとか、そういうのは……」
「やれやれ、君も子供っぽいね。そういうのは流しておけば良いのにいちいち言及するから嫌われるんだ」
「嫌われてないよ!」
「じゃあ僕が君のことをどう思ってるかわかるかい?」
「……そんなの」
僕はケイトを睨む。
「わかるわけないじゃん」
「そう、わかるわけがない。正解だよ。君は見込みのある子供だ」
「……君も子供だろー」
「懲りない奴だな、君も」
「―—、ご飯の時間だよ」
母さんの声。
「あ、行かな、きゃ……」
振り返ると、ケイトはいなくなっていた。
「……?」
いつの間に出て行ったんだろう。
「まあ、いいか」
別荘の夕食、どんな豪華なんだろう。楽しみだな。
僕はわくわくして部屋を出た。
◆
長かった晩餐会が終わり、部屋に帰ってくる。
後半は大人たちがよくわからない株や何やの話をしていて、つまらなかった。抜けたいって目で訴えても母さんは睨んでくるし。
「はー、つかれた」
ベッドにダイブする。
「お疲れ様」
「わあ!?」
僕は跳び起きる。
「ケイトか……びっくりさせないでよ」
「びっくりさせたつもりはないよ」
「そっちはそのつもりでも僕はびっくりしたのー」
「ああ、それはすまない」
全くすまないと思っていなさそうな顔で、ケイト。
「晩餐会はどうだったかな?」
「どうだったって……つまんないに決まってるじゃんあんなの」
「ほう、それはどうして?」
「みんな僕のわかんない話ばっかりする……」
「わからない話とは?」
「やれ誰々が結婚したとか、やれどこどこの会社は狙い目だとか、つまんないし意味わかんない」
「晩餐会とは得てしてそういうものだよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「知らなかった……」
「一般人なら、勉強になった、とか言うんじゃないかい」
「言わないよそんなこと」
「どうして?」
「つまんないんだもん。つまんないことを勉強したってつまんないじゃん」
「なるほど、君は快楽主義者なんだな」
「快楽主義者?」
よくわからないけど、あまりいい意味ではなさそうだ。
「わからないならそれでいい」
「えー、うん……」
ケイトならあの大人たちの言っていることもわかったのだろうか。
「ケイトなら……みんなの話わかったのかな」
「僕に大人の考えていることなんてわかるわけないだろう」
「なんで? ケイトって難しい言葉いっぱい知ってるじゃん」
「知っているだけさ。背伸びして、大人ぶっているだけ。僕だって子供だからね」
「子供……」
さっきは流しておけば良いとか言ったのに、自分からその話題を持ってくるなんてやっぱり変わった奴だなあ。
「でも僕ももうすぐ―—なんだよ、子供じゃないよ」
「―—は子供じゃないか」
「大人が思ってるよりも僕は子供じゃないってことだよ」
「はは」
ケイトは笑った。それがものすごく馬鹿にしたような笑い方だったので、
「何笑ってるんだよ」
「笑うさ、そりゃあ」
「なんで!」
「君が子供だからだよ」
「君だって」
「ははは」
また馬鹿にする。
でもうまく言い返すやり方なんかはわからないし、僕は膨れるしかなかった。
そういうところが子供なんだって思われるのかな……
知らないや。
「僕、お風呂入ってくるから」
「へえ。溺れないようにね」
「お風呂で溺れたりしないよ」
「わからないだろう」
「わからなくないよー僕は大丈夫」
「ふ」
「何で笑うの」
「笑ってなんかないさ」
「笑ったじゃん」
「まあまあ、早く入ってきたまえよ」
「はーい」
お風呂セットを持って、バスルームに向かう。
湯は既にはってあった。
◆
「お待たせケイト、上がったよ……って」
いない。
気まぐれっぽい気はしていたけど、本当に気まぐれだな。
それじゃあ今晩は一人なのか。
なんとなく、つまらないな、と思ってしまった自分がいて、いや、ケイトがいないととかそういうことは思ってないよ。あんな意地悪な子供、いた方が困るじゃないか。
僕はトランクから持ってきたゲームを取り出し遊んでいたけど早々に眠くなって寝てしまった。
◆
「おはよう」
「ふぇ……ってケイトか……早いね」
「年寄りと子供は早起き、わかってることじゃないか」
「わからないよー」
「はは」
「またばかにする……ねむいよー」
「眠いなら紅茶を淹れてあげよう」
「紅茶なんてのめないよー」
「おや、そうなのかい」
「僕まだ子供だし」
「それは困ったね」
「何が困るのさ」
「何だと思う?」
また誤魔化す。
と、ケイトがちらりと視線をわきにやった。
眉を上げるケイト。
何を見たんだろう。確認するのがめんどくさいからいいか。
「じゃあ、冷蔵庫にあるジュースでいいかな」
「冷蔵庫にジュースなんてあるんだ」
「別荘だからね、来た客をもてなす物品は揃えられているのさ」
「へえ……」
言う間にもケイトは冷蔵庫を開け、入っていたジュースをグラスに注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
一口飲む。冷たいジュース。りんご味かな。
「おいしいね」
「まあ、そうだろうね」
僕はサイドテーブルに目をやる。
ゲーム機が出しっぱなしだ。
「あ、いけない」
「何がいけないんだい」
「ゲーム機出しっぱなし」
「それが何か」
「よくないよ、だって……」
そのゲーム機には僕の名前がでかでかと書かれているんだもんね……なくしたりとられたりしないようにって母さんが書いてくれたんだけど、さすがに恥ずかしい。
「しまうね……」
僕はグラスをサイドテーブルに置き、なるべくゲーム機を見られないように服で隠してトランクにしまった。
「君は恥ずかしがりやさんだなあ」
呆れたように、ケイト。
「だって恥ずかしいだろそんな……子供っぽすぎるよ」
「子供で何がいけないんだい、君は子供なのに」
「同年代に馬鹿にされるだろ……ただでさえ母さん過保護で恥ずかしいのにこんな、マジックででかでかと名前書いてあったらさ……」
「僕は馬鹿にしないけどね」
「え、しないの?」
意外。てっきりケイトこそ真っ先に馬鹿にしてくるかと思った。
「いい名前じゃないか」
「そっち? っていうかそっちだけ僕の名前知ってるのずるくない?」
「人間関係というものは不均衡なものだよ」
「フキンコーって何」
「ふふ」
また誤魔化す!
「さ、ジュースを飲み切ってしまいたまえ。そろそろ母上が呼びに来る頃だろう」
「うん……」
僕はりんごジュースを飲み切り、グラスをサイドテーブルに置く。
「―—、朝食よ」
「あ、母さんが来たか……ら……?」
またケイトがいなくなっている。なんでそんなに行動が速いんだ。
「今行くー」
慌てて着替えて部屋の外に出た。
◆
朝食の席でも大人たちはつまらない話ばかりして、いったい別荘を何だと思ってるんだろう。もっと有意義に時間を使えばいいのに。
「はあ……」
一気に疲れたような気になって部屋に戻ると、
「やあ」
ケイトがいた。
「ケイトか……」
「どうしたんだい、疲れた顔して」
「朝ごはんの時くらい面白い話をすればいいのにって……」
「ああ、大人たちのこと?」
「そうだよー、土地がどうの住民がどうのって……つまんない話ばっかり。やめちゃえばいいのに」
「でも、そういう話をしないと、ウィリアム。君のことが養えないからお父上たちはそういう話をしているんだろう」
「別にしなくてもいいじゃん、別荘でぐらい仕事を忘れたっていいじゃんーずるいずるい大人ばっかり」
「ウィリアム」
「何さ」
「海に行こう」
「へ?」
◆
いきなり海に行こうと言い出したケイトには驚いたけど、旅行の準備をするときにもしかしたら海で遊べるかもと用意したのが役に立った。
出掛けるとき、広間を覗いたけど大人たちはまだ難しい話をしていて、早く行こうと急かすケイトの背を追ってこうして海に来ている。
「やっぱり綺麗だねぇ」
「そうだね」
「こんな綺麗な海、僕初めて見たよ。都会じゃこんなの絶対見られないし……」
「都会の海は汚いのかい?」
「汚いよぉ。綺麗にする計画とか、やってるらしいけど……色がでろんとしてて……」
「へえ」
僕に背を向け海に目をやるケイト。
上げたその指先に、蝶がとまった。
「あ……蝶」
よく見ると、ケイトの周囲にはひらひらと何匹か蝶が集まってきている。
「海に蝶っているんだ……」
「いるさ、蝶くらい」
「どうして?」
「海にも花はあるさ」
「僕にも蝶、とまってくれないかな」
「蝶は人に慣れないからね」
「君には慣れてるじゃないか!」
「慣れてるのかな。どう思う?」
「どうって……でもずるいよケイトだけ。なんでだよぉ」
「……わからないのかい?」
振り返るケイト。きらきらした衣装の裾が風でひらりとはためく。
その姿を。
少しだけ、綺麗だと、思ってしまったのが。
よくわからなかった。
同い年の男の子に綺麗だなんて。
「ふふ」
「なんだよぉ」
「海で遊ばないのかい?」
「遊ぶよ、でもケイトは何なのそんな格好で。遊べるわけないじゃん」
「僕は海では遊ばないよ」
「どうして」
「水が苦手なんだ」
「えっ……じゃあ、僕も遊ばない」
「いいよ、遊んできなよ」
「ちょっと浜を歩くだけにする」
「……」
「浜を歩くだけでも楽しいし、それに……ケイト、僕は君と一緒のところにいたいんだ」
「ウィリアム……」
そのときのケイトの表情は、よくわからなかった。悲しい、のとは少し違う。寂しい、とも少し違う。どこか大人びた、そんな表情を見るのは初めてだったから僕は、
「……」
「それじゃあウィリアム、今日は浜を歩いて遊ぼうじゃないか」
ぱ、と笑顔になって、ケイト。
「うん!」
僕もさっきまでのことは綺麗に忘れてしまって、頷いた。
それからは日が高くなるまで貝を拾ったり、砂浜に絵を描いたり。
お昼ご飯を食べに少し戻って、また、日が傾くまで僕たちは海で遊んだ。
「……楽しかったね!」
「……そうだね」
「僕、友達と海で遊んだことないから、すごく楽しかった!」
「そうなのかい」
「都会の海、汚いし、友達と行くことなんてないんだ。僕、ずっと海に憧れてた」
「そうかい。それは今日遊べてよかったじゃないか。いい経験になったね」
「うん!」
◆
その次の日は森に行った。
「海の近くに森なんて、変だね」
「変じゃないさ。海の近くには森があるものだよ。人工的なものも含めてね」
「そういうものなの?」
「そういうものだよ」
「僕、虫取りの道具は持って来てないけど」
「虫取り……」
ケイトが嫌そうな顔をする。
「どうして虫取りなの?」
「海に蝶がいたし、森と言えば虫取りかなーと思って」
「虫取りなんかしなくていいよ」
「どうして?」
「虫がかわいそうじゃないか」
「虫が……かわいそう」
「虫だって生きてるんだよ」
「そう、……そう、だよね……」
ケイトがこんなことを言うのは珍しい。こういうのは、「いい子」が言う言葉だと思っていたから、大人ぶってばかりいる、どちらかというと「悪い子」のようなケイトがそんなことを言うのにびっくりした。
「まあ、カブトムシとかカマキリとかは取ってもいいと思うけどね」
「えっ、言ってることが違うじゃないか!」
「蝶は羽根に鱗粉がついてるだろう? 子供が無理な捕まえ方をすると、鱗粉がはげて弱ってしまうんだよ」
「あっ、そうか……」
確かにそうだ。手に粉がついて嫌だって友達が文句を言ってるのを聞いたことがある。
「これから蝶を捕まえるのはやめようかなぁ」
「それがいい。そうしたまえ」
ケイトは嬉しそうに笑った。
「ケイト、もしかして蝶が好きなの?」
「……好き?」
「好きじゃないの?」
「好き、というのとは少し違うね。何と言えばいいのか……」
らしくなく考え込む様子のケイトに僕は首を傾げる。
「好きじゃないなら嫌いなの?」
「嫌いではないよ」
「好きでも嫌いでもないなんて、変なの」
「好きか嫌いかなんて子供だよ。君が成長するにつれ、好きでも嫌いでもない何かってのは増えていくものさ。僕のこれはたまたま今、そうだっただけで」
「へえ……やっぱりケイトは大人みたいだ」
「子供だよ」
「また、そう言う」
「もっと長く生きてる人たちもたくさんいるじゃないか。それと比べれば僕なんか赤ちゃんのようなものだよ」
「そりゃあ、他人と比べたらそうなるけどさ」
「君と同じなんだよ、僕は。大人には勝てない」
「そうかな……そうは見えないけど」
「見掛け倒しさ」
「そりゃあ見かけは子供だよ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味なの」
「大人びて見えるだけってことだよ」
「あー、そういうことかぁ」
そういえば、ケイトのお父さんお母さんってどこにいるんだろう。
「ケイト」
「何だい?」
「ケイトのお父さんとお母さんはどこにいるの?」
「この近くに住んでいるよ」
「へえ、そうなんだ」
きっと社長さんの友達なんだろうな。
「さ、行こうじゃないか。森はよく知ってるから、ガイドしてあげよう」
「ほんと? やったー!」
「ふふふ」
そして僕は昼までケイトの案内で森を巡り、昼食を取りに帰った後も森の植物や鳥なんかの説明をしてもらったり川で遊んだりして楽しんだ。
「こんな日がずっと続くといいのになぁ」
「ずっとは続かないさ」
「どうして」
「どんなものも、ずっとは続かない」
「えー、そんなのつまんない。ずっと続くものがあってもいいじゃんかー」
「いつかは終わりが来るんだよ、君だって僕だって」
「むう……」
「ふふ……」
「でも僕、そんな中でもケイトと会えてよかったよ」
僕は伸びをする。
ケイトはまた、ふふっと笑った。
◆
翌日。
「ケイト……」
「なんだい、そんな落ち込んだ声をして」
「僕、今日で帰らなきゃいけないんだって……」
「へえ」
「嫌だよ、帰りたくないよ……」
「どうして?」
「まだケイトと遊びたいよ……やりたいこと、まだいっぱいあったのに」
「でも、ご両親がそう言うなら仕方ないだろう」
「でも……」
「でも?」
「ケイトは寂しくないの!?」
「……僕は、」
ケイトは目を伏せる。
「……」
「……」
「僕だって、寂しいさ……」
小さな声で呟くケイト。
「でも、子供にはどうにもならない。大人たちが決めることは子供にどうにかできるようなことじゃないんだ、ウィリアム」
「そんな……」
「君は帰った方がいい」
「なんでそんなこと言うの」
「帰った方が、いいんだ……そうじゃないと」
「?」
「なんでもない、でも僕だって寂しいんだ、それは覚えておいてくれ」
そのとき、部屋がノックされた。
「―—、帰る準備はできた?」
「母さん! ケイト……、」
ケイトはもういなかった。
◆
来た時と同じワゴン車に重い足取りで乗り込む。
タラップに足をかけたとき、
『ウィリアム、君に会えて本当によかった。……元気で』
「ケイト!?」
振り返っても誰もいない。
「―—、早くしなさい」
「……うん」
遠ざかる別荘の姿を僕はずっと見ていた。
◆
次の朝。
「―—、大変だ」
朝食の席で、新聞を読んでいた父さんが震える声で僕を呼ぶ。
「別荘が……別荘が」
「どうしたの、父さん」
「土砂崩れで……」
「えっ」
◆
あれから子供の体感としては長い長い時が過ぎ、なんだかんだで僕も大学生になった。
選択課題の社会学概論で市民活動のことを習い、そのまとめレポートでふと別荘のことを思い出した。
当時、あの別荘が建っている地域全体をリゾートホテルにしようという計画があったらしい。
そこは珍しい蝶の群生地で、住民からの反対運動も激しかったそうだ。
僕たちをホテルに呼んだ社長さんがホテル建設計画の先頭に立っていたそうなのだが、土砂崩れで別荘が潰れたことにより、災害の危険がある都市だという認識が運営サイドにでき、中止になった。
父さんに話を聞いたり、当時の新聞を調べたりしてあの時僕が置かれていた状況を遅ればせながら把握したけれど、僕の名前にも「蝶」が入っているから、蝶の話というのにはなんだか親近感が湧いてしまった。
小さい頃は特に意識していなかった「蝶」だが、大きくなってみると己の名前にもこだわりや何やを感じるようになってきて、道端なんかで蝶を見る度観察してしまう。
◆
そして初めての夏休み。僕は宿を取ってあの街を目指すことにした。
電車の中で考える。あの日出会った少年、ケイトは何者だったのだろうか。
けれど、
『やあウィリアム、また来たのかい』
あの日の君に、なんだかまた会えるような気がして。
何を話そうかなんて考えて、また海や森に行けたらいいななんて、
そんなことを考えながら、近付く広い海を見ていた。
(おわり)
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