冴木宇田シリーズ
異星人。
僕はそう呼ばれる存在だ。
地球からは何億光年も離れた別の星から調査員としてやってきた僕は、地球のこの国の人間の認識セットを頭に設定して任務に就いた。
僕の仕事は地球社会で暮らしてその日常を詳細に報告することだ。上層部はこの国の各地方の認識セットを完璧に仕上げたいらしく、たくさんのデータを欲していた。したがって僕以外にも、複数の調査員が別々の地方で調査をしている。
僕の方はといえば、高校1年から地球生活を始めて今は大学1年。地球から見た異星人というものに興味があって、部活はSF研究会に入った。
認識セットのおかげで、異星人と言えども思考パターンや情緒などは地球人の同年代とほとんど変わりないと思う。一日一回上司に報告をする以外は、他の地球人となんら遜色ない生活を送っていた。
そんな僕だったが、この前の秋に一度失敗をした。
上司への報告通信をしているところを地球人に見られてしまったのだ。
僕はマニュアル通りに対象の記憶処理をしたが、どうもその対象は一度他の星の者にも記憶処理を施されているようだった。
他星との記憶処理が重なった場合に対象の地球人の精神状態がどうなるか、ということはまだ長く観察されていない。上はそれを知りたがった。そういうわけで、僕の任務には対象の地球人の観察というものが新たに加わった。
「宇田」
つかず離れずほどよい距離を保って、観察結果を報告する。今日も僕は対象の隣の席を陣取って「友人活動」などをしていた。
「宇田!」
「何ですか」
「何ですかじゃないよ。サービスエリア着いてるやん」
「それが何か」
「サービスエリアではおいしいものを探しに行く。常識やで」
「そうなんですか?」
「せや。行こう」
「わかりました」
僕と観察対象……「冴木優哉」は連れだってバスの外に出た。
サービスエリアには露天が立ち並んでいた。
魚介類の焼ける香りがする。
「サザエや」
冴木は目を輝かせて僕を見た。そわそわして、今にも駆け出しそうだ。
「食べたいんですか?」
「うん」
「じゃあ、食べましょう」
「やった! はよ行こうぜ」
そう言って冴木は僕の腕をぐいと引っ張り歩き出した。
僕と冴木はサザエのつぼ焼きを一つずつ購入し、露天の横の喫食スペースで食べた。
「めっちゃおいしいな」
「そうですね」
「やっぱ旅の醍醐味は食事やんな。この地方の魚介はうまいって聞いてたけどこうして食べるとほんまにうまいわ」
言いながら冴木はあっという間にサザエを平らげ、テーブルに肘をついてこちらを眺めだした。
「宇田、お前めっちゃ丁寧に食べるんやな」
「そうですか?」
サザエを食べるのに丁寧も何もないと思うのだが。
「僕、サザエ食べるの初めてなんですよ」
「マジか」
「ええ」
嘘ではない。認識セットに味がインプットされており知識としてはあったものの、実際食べるのは初めてだった。
「サザエ食べたことないとか人生の半分は損してるけどこれで食べたから大もうけやな」
「はあ」
「突っ込もうぜそこは」
「はあ……生憎僕は大阪人じゃないもので」
「この地方の奴ってみんなそうだよなあ。ノリ悪いっての。せめてお前は突っ込みできるようになってくれよ、宇田」
「はあ」
「俺が鍛えてやるからな」
「いえ、結構です」
「ノリ悪!」
「なんとでも」
僕はサザエの殻を紙皿の上に置いた。
「そんなことより、そろそろ出発時間じゃないですか?」
「おわっ食べ終わってたんか。ほな行こか」
冴木の分の皿もまとめてゴミ箱に捨て、僕たちはバスに戻った。
◆
僕たちがバスに乗ってどこに向かったか。
SF研究会・冬合宿。
そういう名がついていたし、特集セミナーなども行われる予定ではあったが、要はスキー合宿兼飲み会だ。
一日目は移動日、二日目は午前中にセミナーをやって午後はスキー、夜は飲み会。三日目に帰る。二泊三日の日程だ。
「ふわあ着いた。ご飯だご飯だ。こちとらそれが楽しみで」
「また食べるんですか?」
「いや、こっちが本番やろ。さっきのはおやつみたいなもん」
「おやつがサザエ……」
「贅沢でええやん」
「まあ、そうですね」
バスガイドに手を振る冴木。雪道を少し歩いて、宿舎に着く。そのまま夕食だった。
夕食はしゃぶしゃぶだった。冴木はうまいうまいと連呼しながらものすごい量を平らげた。
初日だというのに研究会の面々はしこたま酒を飲んでいたが、僕も冴木も酒はそう強くないので飲まなかった。
途中、少し抜けて上司に報告をした。冴木が先輩に捕まってウーロン茶を酒のように流し込まれているところを確認してから抜けたので、追われる心配はなかったし、実際誰にも見られることはなかった。
◆
次の日のセミナーは開始が1時間ほど遅れた。メンバーが二日酔いで寝坊したのだ。
こういうことが起こるから、僕はお酒を飲まないのだ。会場準備を冴木と一緒に手伝いながら、そう思った。
セミナーはアブダクション特集。
地球でのアブダクションの認識のおさらいになって良い。
講義を聞きながら、観察対象を盗み見る。
対象はセミナーに興味がなさそうなふりをしながら、目を輝かせてスクリーンに見入っている。
やはり隠し切れていないか。
冴木は普段はあまり異星人に興味がないという顔をしているが、記憶処理のときに見たとおり、「やけに異星人に拘る」という特質が付与されている。本当のところは、異常な興味があるはずだ。それを隠してさも常人ですという風に振る舞っている冴木には少々怖いものを感じなくもないが、こんな時には出てしまうものなのだな。
そう思いながら、僕は冴木から視線を外した。
◆
「スキー! 久々だけど楽しみやな!」
冴木が伸びをする。
「いっぱい滑ろうぜ!」
言いながら、資料をまとめて立ち上がる冴木。
僕はスキーをやったことがないが、認識セットの中の知識としてはある。きっとすぐに滑れるようになるだろう。
そう思っていた。
「信じられへん……」
冴木がゴーグルの下で目を瞬かせる。
「こんなにスキー滑れん人っておったんや……」
「すみません」
「いや、謝ることないけど。びっくりしてるだけやから。大丈夫、突っ込みと同じく俺が教えたるからな」
「いえ、突っ込みの方はいりません」
「突っ込みできてるやん。その調子でスキーも頑張ろ」
「はあ、頑張ります」
夕方までかかってやっとボーゲンはできるようになった。リフトの上から下まで一緒に滑り終えたとき、冴木は我が事のように喜んで僕をぎゅうと抱き締めた。
それほど喜んでいたのに、夕食兼飲み会のときの冴木は元気がなかった。
いつも変な関西弁でこれがおいしいとかあれがおいしいとか話しかけてきたり勧めてきたりするのに、今日は無言で食べている。しかも、手酌で日本酒を飲んでいる。
「冴木くん」
返事がない。
「冴木くん」
「なんや」
「飲み過ぎは駄目ですよ」
「……」
「飲み過ぎたら食事の味もわからなくなるじゃないですか。カニとか好きでしょう。そっちを食べたらどうですか」
「ええんや」
「何がですか」
「ええんや……今日は飲むんや」
「どうしたんですか。何かあったんですか?」
冴木は答えない。
もしや、多重記憶処理の影響だろうか。
今日も途中で抜けて上司に報告をする予定だったのだが、冴木の様子を見ていて少し遅らせることにした。
結局、冴木は酔いつぶれてしまい、飲み会を抜けて相部屋の僕が部屋まで運んだ。
よく寝ているようだったので、この間に上司への報告をしてしまおうと思い、窓辺まで行って端末を出そうとしたときだった。
「宇田」
僕は固まった。
「今日はごめんな」
「……いえ」
ゆっくりと冴木に向きなおる。
「何かあったか、って訊いたやんな」
「はい」
「あのな……」
横向きのまま冴木が目を伏せる。
「彼女に、振られてん」
「……へえ」
彼女、いたんですか。と言おうとしたが、なぜか気の抜けた返事しか出なかった。
「遠距離恋愛は難しいよなあ。気持ちなくなったって言われてしまってな。そんなことが起こりそうな気はしてたけど、いざそう言われるとやっぱショックやわ」
「……」
「宇宙への扉、開けたと思っててんけどなあ……俺の一方的な勘違いやったんかもしれん」
「宇宙への、扉?」
「ああ。イーハリュは異星人かもしれんかってん」
「異星人」
「状況的にそう考えるのが自然やった。でも最近違うって言われてな……疑ってるってバレてないと思っててん。まさかバレてたとは。俺も迂闊やったな。でも、ほんまは異星人でそれを誤魔化そうとしてるんかもしれんと思うと未練があってな……何も明らかになってないのに別れたくないと俺は思っててんけど、本人から拒絶されたらあかんわな。宇宙への扉は閉ざされた……絶望や」
何だこれは。
こんな冴木は見たことがない。冴木は悩んだり悲しんだりということとは基本無縁で、そういうことがあっても酔いつぶれるほど飲んだりしないのに。やはり、他の星の特殊な記憶処理のせいだろうか。
「冴木くん」
寝息が返事を返す。
寝たのか。
上司に報告しなければ。
視覚・聴覚の認識阻害を行うために冴木の頭に手を置く。反応はない。
僕は端末を宙に浮かせた。
冴木の呼吸が深くなる。
ぱ、と宙に映像が浮かんだ。
「宇田です。遅くなりましたが、本日の報告を行います」
セミナーの開始が遅れたこと、観察対象のセミナーへの興味、セミナーの簡単な内容、スキーの話。
上司はそれらを軽く相槌を打ちながら聞いていたが、多重記憶処理の影響で対象が特殊反応を見せたことに話が移ると反応が変わった。
『特殊反応が周囲に影響を及ぼすレベルまで達する場合は、「アブダクション」が必要かもしれん。本星には報告しておく。引き続き観察報告を続けるように』
「は……了解です」
『ではな。本日もご苦労だった』
映像が消える。通話は切れた。
アブダクション。異星人による地球人の「誘拐」だ。
冴木にそれをするかもしれないのは、本星に輸送して記憶処理の専門家の手を借りるためだろう。他星人からの特殊な記憶処理を解除し、通常状態に戻せるならば戻す。駄目なら……「収容」になるか。
「収容」に伴う処理は大変だから、滅多なことがない限りないとは思うのだが。
冴木の頭に置いていた手をどけようとして、
「ん」
僕は固まった。
冴木が僕の手を掴んで、猫のように頬を寄せたからだ。
「……、……」
冴木は聞き取れない言葉でむにゃむにゃ言っている。
こいつ、僕を誰かと間違えてないか。
よくわからない怒りが湧いてくる。
「離せよ、冴木」
返事はなく、対象はまだもにゃもにゃ言っている。
「……キー、うまい……、……田」
何の話だ。また何か食べる夢でも見ているのか。夕食のときあまり食べていなかったから、腹でも減っているのだろうか。
強引に手を離させようとしたら、冴木がぱち、と目を開けた。
「宇田」
「な……はい?」
「早く寝ろよ」
そう言うと、冴木は僕の手を解放してまた寝息を立て始めた。
生ぬるい体温に侵された手を洗面所で洗ってから、僕は寝た。
次の朝起きた冴木は当然、昨晩のことを覚えていなかった。
(おわり)
僕はそう呼ばれる存在だ。
地球からは何億光年も離れた別の星から調査員としてやってきた僕は、地球のこの国の人間の認識セットを頭に設定して任務に就いた。
僕の仕事は地球社会で暮らしてその日常を詳細に報告することだ。上層部はこの国の各地方の認識セットを完璧に仕上げたいらしく、たくさんのデータを欲していた。したがって僕以外にも、複数の調査員が別々の地方で調査をしている。
僕の方はといえば、高校1年から地球生活を始めて今は大学1年。地球から見た異星人というものに興味があって、部活はSF研究会に入った。
認識セットのおかげで、異星人と言えども思考パターンや情緒などは地球人の同年代とほとんど変わりないと思う。一日一回上司に報告をする以外は、他の地球人となんら遜色ない生活を送っていた。
そんな僕だったが、この前の秋に一度失敗をした。
上司への報告通信をしているところを地球人に見られてしまったのだ。
僕はマニュアル通りに対象の記憶処理をしたが、どうもその対象は一度他の星の者にも記憶処理を施されているようだった。
他星との記憶処理が重なった場合に対象の地球人の精神状態がどうなるか、ということはまだ長く観察されていない。上はそれを知りたがった。そういうわけで、僕の任務には対象の地球人の観察というものが新たに加わった。
「宇田」
つかず離れずほどよい距離を保って、観察結果を報告する。今日も僕は対象の隣の席を陣取って「友人活動」などをしていた。
「宇田!」
「何ですか」
「何ですかじゃないよ。サービスエリア着いてるやん」
「それが何か」
「サービスエリアではおいしいものを探しに行く。常識やで」
「そうなんですか?」
「せや。行こう」
「わかりました」
僕と観察対象……「冴木優哉」は連れだってバスの外に出た。
サービスエリアには露天が立ち並んでいた。
魚介類の焼ける香りがする。
「サザエや」
冴木は目を輝かせて僕を見た。そわそわして、今にも駆け出しそうだ。
「食べたいんですか?」
「うん」
「じゃあ、食べましょう」
「やった! はよ行こうぜ」
そう言って冴木は僕の腕をぐいと引っ張り歩き出した。
僕と冴木はサザエのつぼ焼きを一つずつ購入し、露天の横の喫食スペースで食べた。
「めっちゃおいしいな」
「そうですね」
「やっぱ旅の醍醐味は食事やんな。この地方の魚介はうまいって聞いてたけどこうして食べるとほんまにうまいわ」
言いながら冴木はあっという間にサザエを平らげ、テーブルに肘をついてこちらを眺めだした。
「宇田、お前めっちゃ丁寧に食べるんやな」
「そうですか?」
サザエを食べるのに丁寧も何もないと思うのだが。
「僕、サザエ食べるの初めてなんですよ」
「マジか」
「ええ」
嘘ではない。認識セットに味がインプットされており知識としてはあったものの、実際食べるのは初めてだった。
「サザエ食べたことないとか人生の半分は損してるけどこれで食べたから大もうけやな」
「はあ」
「突っ込もうぜそこは」
「はあ……生憎僕は大阪人じゃないもので」
「この地方の奴ってみんなそうだよなあ。ノリ悪いっての。せめてお前は突っ込みできるようになってくれよ、宇田」
「はあ」
「俺が鍛えてやるからな」
「いえ、結構です」
「ノリ悪!」
「なんとでも」
僕はサザエの殻を紙皿の上に置いた。
「そんなことより、そろそろ出発時間じゃないですか?」
「おわっ食べ終わってたんか。ほな行こか」
冴木の分の皿もまとめてゴミ箱に捨て、僕たちはバスに戻った。
◆
僕たちがバスに乗ってどこに向かったか。
SF研究会・冬合宿。
そういう名がついていたし、特集セミナーなども行われる予定ではあったが、要はスキー合宿兼飲み会だ。
一日目は移動日、二日目は午前中にセミナーをやって午後はスキー、夜は飲み会。三日目に帰る。二泊三日の日程だ。
「ふわあ着いた。ご飯だご飯だ。こちとらそれが楽しみで」
「また食べるんですか?」
「いや、こっちが本番やろ。さっきのはおやつみたいなもん」
「おやつがサザエ……」
「贅沢でええやん」
「まあ、そうですね」
バスガイドに手を振る冴木。雪道を少し歩いて、宿舎に着く。そのまま夕食だった。
夕食はしゃぶしゃぶだった。冴木はうまいうまいと連呼しながらものすごい量を平らげた。
初日だというのに研究会の面々はしこたま酒を飲んでいたが、僕も冴木も酒はそう強くないので飲まなかった。
途中、少し抜けて上司に報告をした。冴木が先輩に捕まってウーロン茶を酒のように流し込まれているところを確認してから抜けたので、追われる心配はなかったし、実際誰にも見られることはなかった。
◆
次の日のセミナーは開始が1時間ほど遅れた。メンバーが二日酔いで寝坊したのだ。
こういうことが起こるから、僕はお酒を飲まないのだ。会場準備を冴木と一緒に手伝いながら、そう思った。
セミナーはアブダクション特集。
地球でのアブダクションの認識のおさらいになって良い。
講義を聞きながら、観察対象を盗み見る。
対象はセミナーに興味がなさそうなふりをしながら、目を輝かせてスクリーンに見入っている。
やはり隠し切れていないか。
冴木は普段はあまり異星人に興味がないという顔をしているが、記憶処理のときに見たとおり、「やけに異星人に拘る」という特質が付与されている。本当のところは、異常な興味があるはずだ。それを隠してさも常人ですという風に振る舞っている冴木には少々怖いものを感じなくもないが、こんな時には出てしまうものなのだな。
そう思いながら、僕は冴木から視線を外した。
◆
「スキー! 久々だけど楽しみやな!」
冴木が伸びをする。
「いっぱい滑ろうぜ!」
言いながら、資料をまとめて立ち上がる冴木。
僕はスキーをやったことがないが、認識セットの中の知識としてはある。きっとすぐに滑れるようになるだろう。
そう思っていた。
「信じられへん……」
冴木がゴーグルの下で目を瞬かせる。
「こんなにスキー滑れん人っておったんや……」
「すみません」
「いや、謝ることないけど。びっくりしてるだけやから。大丈夫、突っ込みと同じく俺が教えたるからな」
「いえ、突っ込みの方はいりません」
「突っ込みできてるやん。その調子でスキーも頑張ろ」
「はあ、頑張ります」
夕方までかかってやっとボーゲンはできるようになった。リフトの上から下まで一緒に滑り終えたとき、冴木は我が事のように喜んで僕をぎゅうと抱き締めた。
それほど喜んでいたのに、夕食兼飲み会のときの冴木は元気がなかった。
いつも変な関西弁でこれがおいしいとかあれがおいしいとか話しかけてきたり勧めてきたりするのに、今日は無言で食べている。しかも、手酌で日本酒を飲んでいる。
「冴木くん」
返事がない。
「冴木くん」
「なんや」
「飲み過ぎは駄目ですよ」
「……」
「飲み過ぎたら食事の味もわからなくなるじゃないですか。カニとか好きでしょう。そっちを食べたらどうですか」
「ええんや」
「何がですか」
「ええんや……今日は飲むんや」
「どうしたんですか。何かあったんですか?」
冴木は答えない。
もしや、多重記憶処理の影響だろうか。
今日も途中で抜けて上司に報告をする予定だったのだが、冴木の様子を見ていて少し遅らせることにした。
結局、冴木は酔いつぶれてしまい、飲み会を抜けて相部屋の僕が部屋まで運んだ。
よく寝ているようだったので、この間に上司への報告をしてしまおうと思い、窓辺まで行って端末を出そうとしたときだった。
「宇田」
僕は固まった。
「今日はごめんな」
「……いえ」
ゆっくりと冴木に向きなおる。
「何かあったか、って訊いたやんな」
「はい」
「あのな……」
横向きのまま冴木が目を伏せる。
「彼女に、振られてん」
「……へえ」
彼女、いたんですか。と言おうとしたが、なぜか気の抜けた返事しか出なかった。
「遠距離恋愛は難しいよなあ。気持ちなくなったって言われてしまってな。そんなことが起こりそうな気はしてたけど、いざそう言われるとやっぱショックやわ」
「……」
「宇宙への扉、開けたと思っててんけどなあ……俺の一方的な勘違いやったんかもしれん」
「宇宙への、扉?」
「ああ。イーハリュは異星人かもしれんかってん」
「異星人」
「状況的にそう考えるのが自然やった。でも最近違うって言われてな……疑ってるってバレてないと思っててん。まさかバレてたとは。俺も迂闊やったな。でも、ほんまは異星人でそれを誤魔化そうとしてるんかもしれんと思うと未練があってな……何も明らかになってないのに別れたくないと俺は思っててんけど、本人から拒絶されたらあかんわな。宇宙への扉は閉ざされた……絶望や」
何だこれは。
こんな冴木は見たことがない。冴木は悩んだり悲しんだりということとは基本無縁で、そういうことがあっても酔いつぶれるほど飲んだりしないのに。やはり、他の星の特殊な記憶処理のせいだろうか。
「冴木くん」
寝息が返事を返す。
寝たのか。
上司に報告しなければ。
視覚・聴覚の認識阻害を行うために冴木の頭に手を置く。反応はない。
僕は端末を宙に浮かせた。
冴木の呼吸が深くなる。
ぱ、と宙に映像が浮かんだ。
「宇田です。遅くなりましたが、本日の報告を行います」
セミナーの開始が遅れたこと、観察対象のセミナーへの興味、セミナーの簡単な内容、スキーの話。
上司はそれらを軽く相槌を打ちながら聞いていたが、多重記憶処理の影響で対象が特殊反応を見せたことに話が移ると反応が変わった。
『特殊反応が周囲に影響を及ぼすレベルまで達する場合は、「アブダクション」が必要かもしれん。本星には報告しておく。引き続き観察報告を続けるように』
「は……了解です」
『ではな。本日もご苦労だった』
映像が消える。通話は切れた。
アブダクション。異星人による地球人の「誘拐」だ。
冴木にそれをするかもしれないのは、本星に輸送して記憶処理の専門家の手を借りるためだろう。他星人からの特殊な記憶処理を解除し、通常状態に戻せるならば戻す。駄目なら……「収容」になるか。
「収容」に伴う処理は大変だから、滅多なことがない限りないとは思うのだが。
冴木の頭に置いていた手をどけようとして、
「ん」
僕は固まった。
冴木が僕の手を掴んで、猫のように頬を寄せたからだ。
「……、……」
冴木は聞き取れない言葉でむにゃむにゃ言っている。
こいつ、僕を誰かと間違えてないか。
よくわからない怒りが湧いてくる。
「離せよ、冴木」
返事はなく、対象はまだもにゃもにゃ言っている。
「……キー、うまい……、……田」
何の話だ。また何か食べる夢でも見ているのか。夕食のときあまり食べていなかったから、腹でも減っているのだろうか。
強引に手を離させようとしたら、冴木がぱち、と目を開けた。
「宇田」
「な……はい?」
「早く寝ろよ」
そう言うと、冴木は僕の手を解放してまた寝息を立て始めた。
生ぬるい体温に侵された手を洗面所で洗ってから、僕は寝た。
次の朝起きた冴木は当然、昨晩のことを覚えていなかった。
(おわり)