冴木の冴キック
前の人の背中を見つめながら走っていた。
北風の吹くこの埃っぽいグラウンドを、俺は既に17周していた。いつもの「異星人の背中の触手の数は何本か」という計算をしながら。
駅伝シーズンだからか、クラブ全体がまとまっていて、皆の熱気が伝わってくる。しかし、俺は眠かった。息も上がっていた。少しぐらい遅れてもいいか、と思い始めたところで、目標の20周に達して基礎練習が終わった。
「次、15分後に1800mタイムとるから」
部長の長谷がそう言って、ひとまず休憩時間になった。
ウォータークーラーに行って、水を飲んだ。飲み過ぎて腹が痛くなった。
半分寝ながら走った1800mは、驚くほど遅いタイムが出た。
夕日が照らす帰り道。長谷が授業で計った1500mのタイムを訊いてきた。5分くらいだったと答えると、長谷はむっとした顔でこちらを見て行った。
「冴木、お前さぼってるやろ。気持ちの持ち方で練習の質は変わるねんで」
「ああ……そんなもんなんやな」
「全国行くぞって思って練習したら、低くても地方レベルにまでは行ける」
「そうなんやな……」
その後は二人とも無言で歩き続けた。
いつも長谷と別れる曲がり角に差し掛かったとき、陽は既に沈んでしまっていた。
街灯の光が冷たく滲んで見える。
「なあ冴木、もう少し頑張ってみいや」
そう言って、長谷は去って行った。
じいちゃんが生きていたら、俺になんて言ったろう。そう思うと、今別れたばかりの長谷の背中が妙に遠く見えた。
次の日、俺は朝練に行かなかった。なんとなく、行く気になれなかったのだ。朝から気も足も重くて、鉛のようだった。なんとなく、は説明できるようなものではないのだが、納得するために強引に理由を作る。行きたくないものは行きたくないという、理由になってすらいない理由。
俺はずるずると一日を過ごし、午後の練習も休んで家に帰った。
うまく帰れたな、と思って安心した。
ところが、制服を脱ぐ時に、生徒手帳がないことに気が付いた。
俺は焦った。異星人が拾ったらきっと中を見るに違いない。生徒手帳は中を見ないと持ち主がわからない物品だからだ。でも、誰かが拾ってくれないと見つからない。拾って欲しいが、拾って欲しくない。ジレンマだ。いや、でも、考えるより先に探しに行かなければ。
俺は着替えもそこそこにつっかけを履いて外へ飛び出した。
親が呼びに来るまでずっと外を探したが、手帳は見つからなかった。
憂鬱な気分で朝を迎えた。憂鬱な気分のまま、朝練をまたサボってしまった。
拾った人がいないかどうか、教室で訊いて回った。
「なあ、本当に知らんか、俺の生徒手帳」
「知らんで。そんなにムキになって、いったい何挟んでてん」
「ほんまや。何挟んでたん、知りたいなあ。教えろよお」
有象無象が口々に訊いてくる。
「余計なこと聞くなよお前ら。もうええわ、自分で探す」
手帳の中身は何かという質問に答えるわけにはいかない。あの中にはじいちゃんのくれた縁結びのお守りが、いや、それよりも、俺が書いた、異星人所属の宇宙船と基地の見取り図があるということは絶対に言えないことなので、俺は教室での捜索を打ち切った。
教室で見つからない場合、他に訊くところはクラブしかないのだ。
そこで俺は行きたくもない練習に行くことにした。
今回の練習も眠たくなるだろうと予想しながら嫌々準備体操をし、俺は走り出した。
ところが、驚いたことに、今まで重かった心がふわっと軽くなった。
もしかして、全国行けるかもだ。ここまで来たら優勝だぜ。俺、世界一。素晴らしいわ。ほんまに素晴らしい。
そんなことを思う。
何せ、地面を蹴る度に心が軽くなるのだ。これまで思いもしなかった言葉が次々に浮かんできて、止まらなかった。俺の気持ちの昂ぶりようは尋常ではなかった。久々に、走ることは楽しいと思った。
クラブに出ず一人で帰るつもりだった道を、長谷と一緒に帰る。
「なんや冴木。やればできるやん。来なかったからどうしようかと思ったわ、まったく。世話焼かすなや」
長谷は笑って俺にそう言う。
「いや、なんか、走るの楽しかったわ」
「せやろ。楽しいやろ。ほら。全国目指そうぜ」
家に帰るまで、俺は手帳のことをすっかり忘れてしまっていた。
翌日、朝練を終えて、浮かれた気分で靴箱を開けると、生徒手帳が入っていた。
「おや」
あったよ。びっくりだ。見つけてくれたのは、親切な誰かだろうか。いや、違う。見つけてくれたのは、きっと異星人だ。俺が探さなければいけない異星人。近頃増えているという異星人だ。背中に触手のある。
もし異星人に中を見られていたらと思うと、気が気でなかった。しかし、夢にまで見た異星人が見つかるかもしれないという期待もあった。
俺は急いで着替えをすませて教室へ走り、席について、クラス全員の様子を観察し始めた。するとすぐに、隣の席の松島がにやにや笑いながら話しかけてきた。
「やーちゃん(注・俺のあだ名だ)、何みんなにガン飛ばしてんの。嫌なことでもあったん」
なんだ、からかいたいのか? 俺が松島をじろりと見ると、松島は続けた。
「俺さあ、やーちゃんの秘密見つけたぜ」
拾ったのはこいつか? 残念ながら、松島が異星人でないことは既にわかっている。手帳を拾ったのは異星人、という夢が早くも打ち砕かれそうな気がした。俺は動揺を顔に出さぬように、慎重に口を開いた。
「ほんまに見つけたんか? 嘘ちゃうんか」
すると、松島はぺろりと舌を出した。
「いやいやかなわんなあ、やーちゃんには」
「何がやねん」
「秘密を見つけた、ってのは実は嘘や。やーちゃんの弱み握ったろ思てみんなに聞き回っとったら、心優しい向井春歌ちゃんに止められてしもたわ」
向井春歌、というのは、クラスメイトの女子である。意外な人物の登場を受けて、俺は向井の名前を『疑いあり』に分類した。
放課後の練習で、向井のことを考えながら走った。
コードネームをつけなければ。「異星人」と「春歌」を合わせた名前……い、とはる、でイーハリュがいいな。イーハリュ、いい響きだ。
これから向井のことを心の中でイーハリュと呼称することとする。要注意なので、しっかり観察しなければ。俺は心の中でガッツポーズをした。
イーハリュの観察を始めてしばらくたった頃のことだ。
授業中どこかに落としたらしき消しゴムが、席を立っている間に戻っていたのだ。
誰が? しかしこれは、もしかするともしかするやもしれん。
念のために松島に訊いてみると、思った通り、拾ったのはイーハリュだった。
わくわくが止まらない。触手の数はいったい何本なのだろう。面白くなってきた。
俺は触手の影を探してイーハリュの背中を凝視した。
ふいに、イーハリュがこちらを見た。目が合う。まずい。
すぐ逸らす。
「……」
ばれてはいないようだ。どうして気付かれたのか、きっと触手だ。触手で俺の視線を察知したに違いない。イーハリュはなかなか手強い奴のようだ。
また、こんなこともあった。
その日、全ての授業が終わり、俺はうきうきしながら体操服に着替えた。
部活に出てグラウンドを20周した後、タオルを忘れたことに気付いた。
休憩の間に取りに行かねばならない。
ここ最近、浮かれすぎていたせいか。しゃんとしていないのではないか。じいちゃんが見たら何て思うか。こんなことでは、イーハリュの尻尾など掴めない。
そんなことを考えながら教室のドアを開けると、イーハリュがいた。
しめたぞ、イーハリュ登場。
なぜ一人だけ教室にいるんだ。もしや俺が戻るのを待ち構えて……そんなはずはないか。いや、そんなはずもあるかもしれない。とにかく、イーハリュだ。イーハリュ。非日常の切れ端に、今ここで会えるとは。
嬉しくて、少しだけ涙がにじんだ。イーハリュ、と声をかけたくなるのをこらえて、俺は
「向井」
と言った。
「今、帰り?」
イーハリュは焦った様子で、現代国語の係で残っていたという趣旨の発言をした。
なぜ焦っているのか。もしかすると、地球人には言えない異星人なりの理由があるのかもしれない。
そう思ってにやりと笑った俺は、秘密工作員風に別れを告げた。
「じゃあな……」
久々に『わたしはロボット』という本を読み返した次の日、席替えがあった。
密かにイーハリュの隣を願っていた俺だったが、待っているだけで人生うまくはいかないものだ。しかし、運のいいことに、イーハリュの隣の席になった米谷が「ここでは見えない」と言い出した。前の席に当たっていた俺は喜々として米谷と交代してやった。米谷はしきりに礼を言った。
すまんな米谷。礼を言うのは俺の方だ。が、ここでそれを言うわけにはいかんのだ。イーハリュに気付かれてしまうからな。
心の中で米谷に感謝と謝罪の言葉をかけた後、よろしくな、とイーハリュに言った。
最近、いいことが多い。
その晩はラジオを聴きながら宇宙船の絵を4枚書いて、異星人の触手(想像図)を7枚書いた。
我ながらうまくできている。将来は画家か。あ、吸盤付きの触手も書いておこうか、2本ほど。2本と言えば、イーハリュがシャーペンの芯を2本もくれたのだ。異星人なのに、イーハリュは数字が苦手だと言っていた。まあ、そんなものか。人間の中にも色々いるように、異星人にも色々いるのだろう。しかし、数字が苦手だと宇宙船の操作をするときに大変なのではないか?
俺は近頃、危険を冒してでも宇宙船の話や基地の話をイーハリュから聴きたくなっていた。いや、宇宙船や基地の話でなくてもいい。イーハリュと色々な話をしてみたかった。
今度、機会があったらイーハリュと一緒に帰ろう。
考えている間に、最高傑作ができあがった。
そして。
「一緒に帰ろうぜ」
イーハリュは目を丸くした。俺とイーハリュ以外、誰もいない教室を見回して、俺は笑った。
日が暮れかけている道の上を、俺とイーハリュは歩く。
そうだ、生徒手帳の件をまだ確認していない。
「あのさ、生徒手帳……拾ってくれたん、向井?」
そう尋ねると、イーハリュはしばらくの沈黙の後、頷いた。
「そうなんや、助かった。向井でよかった」
イーハリュでよかった。そうでなければ、異星人に近づくきっかけすらなかったからだ。もちろん、こうして隣を歩くこともなかっただろう。
俺はイーハリュに生徒手帳の中に入っているおじいちゃんの縁結びのお守りのことを話した。イーハリュがもし生徒手帳の中を見て俺の図面を発見していたら。お守りの話をすれば、何か言ってくるかもしれないと思ったからだ。
だが、イーハリュは安心したようなため息をついたきり、何も言わなかった。
かまをかけてみるか?
普段は絶対に思わないような危険なことを思いついたのは、走ってハイになっていたからかもしれない。
俺は、口を滑らせた。
「向井ってさ、い……」
異星人だろ、と。訊こうとした。
「い?」
まずい。
「いや、何でも……ない」
好意的に見えるイーハリュでも、正体が俺に知られたと気付いたらどうなるかわからない。最悪消されるか、逆にイーハリュが姿を消してしまうかもしれない。
イーハリュが何か言ったような気がしたが、気のせいかもしれない。陽が沈む。夜がやってくる。
幸い、すぐに何か起こるようなことはなかったが、しばらく俺はイーハリュを避けた。
イーハリュは最近こちらをよく見る。俺は焦って懸命に目を逸らし、話を振られても適当に打ち切るようにした。
失言にもほどがある。イーハリュが勘のいい異星人であれば、もう気付かれているだろう。こちらをよく見るのは、俺を消すかイーハリュが消える前に一言言おうと思っているからか。もしそうなら、律儀な異星人だ。対象になんの説明もなく任務を遂行する異星人は本でよく見かける。ひょっとして、イーハリュの属する異星人は友好的な部類なのだろうか。
いや、イーハリュが友好的であることは、消しゴムを拾ってくれたり、シャープペンシルの芯をくれたり、一緒に帰ってくれたことからわかっている。それら全てが工作だったとしても、俺に何か思うところがあるのはまあそうだろう。
思うところの種類が何にしても、気付かれているとしたら、遂行されるのは時間の問題だ。
それまでに、俺は何がしたい? むざむざ遂行されてしまって、後悔はないのか?
今にも泣き出しそうな曇り空のある日、一日中イーハリュの触手のことを考えていた。
「また明日な」
長谷がそう言って俺と別れるまで、ずっと頭の中の触手の数を数えていた。
12本。13本機械式の方が興味深いが、特殊素材かもしれない。どちらかの存在が消えてしまったら、俺の思考はどこに行ってしまうのだろう。
「冴木くん!」
突然、後ろから声がした。反射的に、俺は立ち止まる。
忘れるはずもないその声は、イーハリュのもの。
ゆっくりと後ろを向く。雨が降っていて、よく見えない。俺はそいつを捕まえて、歩き出した。
しばらく歩くと、状況が見えてきた。横断歩道を渡りきったところで、イーハリュはへなへなと座り込んだ。
「何やってんの」
俺はなぜだかおかしくなって、笑ってしまった。
「えと、その……」
イーハリュが口ごもる。
「あのさ、ずっと言おうと思ってたんやけど」
遂行を避ける方法。俺とイーハリュが友好を深める方法を、本当はずっと考えていた。
「俺さ、向井のこと、ずっと気になってんねん。だから、これからときどき一緒に帰ったり一緒に遊んだりしてくれへんかな」
イーハリュは固まった。
ここで止まっていては始まらない。俺は言葉を紡ぎ続ける。
「いきなりこんなこと言い出してごめん。やっぱり……だめかな?」
「……めじゃない」
「え?」
「だめじゃない」
イーハリュは、大きく首を横に振った。
「やった……!」
俺は思わずイーハリュの手を握ってぶんぶんと振った。うん、とイーハリュは言った。
「向井、びしゃびしゃやん」
嬉しさのあまりこんなことにも気付かないとは、俺もどうかしている。俺は傘をイーハリュと二人でさして、相合い傘で帰った。
「あのさ、向井のことさ……イーハリュって呼んでいいかな」
「なんで?」
「いやまあ……異……いせ、いや、その。いつも心の中ではそう呼んでたから」
「……は?」
「かわいいあだ名やろ? イーハリュって。つい口に出したくなる」
「ふふ」
「……」
誤魔化せて……ないか?
イーハリュが、口を開く。
「冴木くんって、かっこいいだけじゃないんだね」
「そうか!? ありがとう!」
咄嗟に礼を言う。誤魔化せたのかどうかはわからないが、首の皮一枚繋がったという感じだろうか。
ひとまず、一件落着である。
◆
陽が落ちるのが遅くなった帰り道、長谷が言った。
「冴木お前、最近やけに嬉しそうやな」
俺はにやりと笑う。
「やっと異星人の影を踏んだのさ」
「なんやねんそれ!」
遂行の日はまだ来ていない。
向こうの空に、虹が出ていた。
(了)
北風の吹くこの埃っぽいグラウンドを、俺は既に17周していた。いつもの「異星人の背中の触手の数は何本か」という計算をしながら。
駅伝シーズンだからか、クラブ全体がまとまっていて、皆の熱気が伝わってくる。しかし、俺は眠かった。息も上がっていた。少しぐらい遅れてもいいか、と思い始めたところで、目標の20周に達して基礎練習が終わった。
「次、15分後に1800mタイムとるから」
部長の長谷がそう言って、ひとまず休憩時間になった。
ウォータークーラーに行って、水を飲んだ。飲み過ぎて腹が痛くなった。
半分寝ながら走った1800mは、驚くほど遅いタイムが出た。
夕日が照らす帰り道。長谷が授業で計った1500mのタイムを訊いてきた。5分くらいだったと答えると、長谷はむっとした顔でこちらを見て行った。
「冴木、お前さぼってるやろ。気持ちの持ち方で練習の質は変わるねんで」
「ああ……そんなもんなんやな」
「全国行くぞって思って練習したら、低くても地方レベルにまでは行ける」
「そうなんやな……」
その後は二人とも無言で歩き続けた。
いつも長谷と別れる曲がり角に差し掛かったとき、陽は既に沈んでしまっていた。
街灯の光が冷たく滲んで見える。
「なあ冴木、もう少し頑張ってみいや」
そう言って、長谷は去って行った。
じいちゃんが生きていたら、俺になんて言ったろう。そう思うと、今別れたばかりの長谷の背中が妙に遠く見えた。
次の日、俺は朝練に行かなかった。なんとなく、行く気になれなかったのだ。朝から気も足も重くて、鉛のようだった。なんとなく、は説明できるようなものではないのだが、納得するために強引に理由を作る。行きたくないものは行きたくないという、理由になってすらいない理由。
俺はずるずると一日を過ごし、午後の練習も休んで家に帰った。
うまく帰れたな、と思って安心した。
ところが、制服を脱ぐ時に、生徒手帳がないことに気が付いた。
俺は焦った。異星人が拾ったらきっと中を見るに違いない。生徒手帳は中を見ないと持ち主がわからない物品だからだ。でも、誰かが拾ってくれないと見つからない。拾って欲しいが、拾って欲しくない。ジレンマだ。いや、でも、考えるより先に探しに行かなければ。
俺は着替えもそこそこにつっかけを履いて外へ飛び出した。
親が呼びに来るまでずっと外を探したが、手帳は見つからなかった。
憂鬱な気分で朝を迎えた。憂鬱な気分のまま、朝練をまたサボってしまった。
拾った人がいないかどうか、教室で訊いて回った。
「なあ、本当に知らんか、俺の生徒手帳」
「知らんで。そんなにムキになって、いったい何挟んでてん」
「ほんまや。何挟んでたん、知りたいなあ。教えろよお」
有象無象が口々に訊いてくる。
「余計なこと聞くなよお前ら。もうええわ、自分で探す」
手帳の中身は何かという質問に答えるわけにはいかない。あの中にはじいちゃんのくれた縁結びのお守りが、いや、それよりも、俺が書いた、異星人所属の宇宙船と基地の見取り図があるということは絶対に言えないことなので、俺は教室での捜索を打ち切った。
教室で見つからない場合、他に訊くところはクラブしかないのだ。
そこで俺は行きたくもない練習に行くことにした。
今回の練習も眠たくなるだろうと予想しながら嫌々準備体操をし、俺は走り出した。
ところが、驚いたことに、今まで重かった心がふわっと軽くなった。
もしかして、全国行けるかもだ。ここまで来たら優勝だぜ。俺、世界一。素晴らしいわ。ほんまに素晴らしい。
そんなことを思う。
何せ、地面を蹴る度に心が軽くなるのだ。これまで思いもしなかった言葉が次々に浮かんできて、止まらなかった。俺の気持ちの昂ぶりようは尋常ではなかった。久々に、走ることは楽しいと思った。
クラブに出ず一人で帰るつもりだった道を、長谷と一緒に帰る。
「なんや冴木。やればできるやん。来なかったからどうしようかと思ったわ、まったく。世話焼かすなや」
長谷は笑って俺にそう言う。
「いや、なんか、走るの楽しかったわ」
「せやろ。楽しいやろ。ほら。全国目指そうぜ」
家に帰るまで、俺は手帳のことをすっかり忘れてしまっていた。
翌日、朝練を終えて、浮かれた気分で靴箱を開けると、生徒手帳が入っていた。
「おや」
あったよ。びっくりだ。見つけてくれたのは、親切な誰かだろうか。いや、違う。見つけてくれたのは、きっと異星人だ。俺が探さなければいけない異星人。近頃増えているという異星人だ。背中に触手のある。
もし異星人に中を見られていたらと思うと、気が気でなかった。しかし、夢にまで見た異星人が見つかるかもしれないという期待もあった。
俺は急いで着替えをすませて教室へ走り、席について、クラス全員の様子を観察し始めた。するとすぐに、隣の席の松島がにやにや笑いながら話しかけてきた。
「やーちゃん(注・俺のあだ名だ)、何みんなにガン飛ばしてんの。嫌なことでもあったん」
なんだ、からかいたいのか? 俺が松島をじろりと見ると、松島は続けた。
「俺さあ、やーちゃんの秘密見つけたぜ」
拾ったのはこいつか? 残念ながら、松島が異星人でないことは既にわかっている。手帳を拾ったのは異星人、という夢が早くも打ち砕かれそうな気がした。俺は動揺を顔に出さぬように、慎重に口を開いた。
「ほんまに見つけたんか? 嘘ちゃうんか」
すると、松島はぺろりと舌を出した。
「いやいやかなわんなあ、やーちゃんには」
「何がやねん」
「秘密を見つけた、ってのは実は嘘や。やーちゃんの弱み握ったろ思てみんなに聞き回っとったら、心優しい向井春歌ちゃんに止められてしもたわ」
向井春歌、というのは、クラスメイトの女子である。意外な人物の登場を受けて、俺は向井の名前を『疑いあり』に分類した。
放課後の練習で、向井のことを考えながら走った。
コードネームをつけなければ。「異星人」と「春歌」を合わせた名前……い、とはる、でイーハリュがいいな。イーハリュ、いい響きだ。
これから向井のことを心の中でイーハリュと呼称することとする。要注意なので、しっかり観察しなければ。俺は心の中でガッツポーズをした。
イーハリュの観察を始めてしばらくたった頃のことだ。
授業中どこかに落としたらしき消しゴムが、席を立っている間に戻っていたのだ。
誰が? しかしこれは、もしかするともしかするやもしれん。
念のために松島に訊いてみると、思った通り、拾ったのはイーハリュだった。
わくわくが止まらない。触手の数はいったい何本なのだろう。面白くなってきた。
俺は触手の影を探してイーハリュの背中を凝視した。
ふいに、イーハリュがこちらを見た。目が合う。まずい。
すぐ逸らす。
「……」
ばれてはいないようだ。どうして気付かれたのか、きっと触手だ。触手で俺の視線を察知したに違いない。イーハリュはなかなか手強い奴のようだ。
また、こんなこともあった。
その日、全ての授業が終わり、俺はうきうきしながら体操服に着替えた。
部活に出てグラウンドを20周した後、タオルを忘れたことに気付いた。
休憩の間に取りに行かねばならない。
ここ最近、浮かれすぎていたせいか。しゃんとしていないのではないか。じいちゃんが見たら何て思うか。こんなことでは、イーハリュの尻尾など掴めない。
そんなことを考えながら教室のドアを開けると、イーハリュがいた。
しめたぞ、イーハリュ登場。
なぜ一人だけ教室にいるんだ。もしや俺が戻るのを待ち構えて……そんなはずはないか。いや、そんなはずもあるかもしれない。とにかく、イーハリュだ。イーハリュ。非日常の切れ端に、今ここで会えるとは。
嬉しくて、少しだけ涙がにじんだ。イーハリュ、と声をかけたくなるのをこらえて、俺は
「向井」
と言った。
「今、帰り?」
イーハリュは焦った様子で、現代国語の係で残っていたという趣旨の発言をした。
なぜ焦っているのか。もしかすると、地球人には言えない異星人なりの理由があるのかもしれない。
そう思ってにやりと笑った俺は、秘密工作員風に別れを告げた。
「じゃあな……」
久々に『わたしはロボット』という本を読み返した次の日、席替えがあった。
密かにイーハリュの隣を願っていた俺だったが、待っているだけで人生うまくはいかないものだ。しかし、運のいいことに、イーハリュの隣の席になった米谷が「ここでは見えない」と言い出した。前の席に当たっていた俺は喜々として米谷と交代してやった。米谷はしきりに礼を言った。
すまんな米谷。礼を言うのは俺の方だ。が、ここでそれを言うわけにはいかんのだ。イーハリュに気付かれてしまうからな。
心の中で米谷に感謝と謝罪の言葉をかけた後、よろしくな、とイーハリュに言った。
最近、いいことが多い。
その晩はラジオを聴きながら宇宙船の絵を4枚書いて、異星人の触手(想像図)を7枚書いた。
我ながらうまくできている。将来は画家か。あ、吸盤付きの触手も書いておこうか、2本ほど。2本と言えば、イーハリュがシャーペンの芯を2本もくれたのだ。異星人なのに、イーハリュは数字が苦手だと言っていた。まあ、そんなものか。人間の中にも色々いるように、異星人にも色々いるのだろう。しかし、数字が苦手だと宇宙船の操作をするときに大変なのではないか?
俺は近頃、危険を冒してでも宇宙船の話や基地の話をイーハリュから聴きたくなっていた。いや、宇宙船や基地の話でなくてもいい。イーハリュと色々な話をしてみたかった。
今度、機会があったらイーハリュと一緒に帰ろう。
考えている間に、最高傑作ができあがった。
そして。
「一緒に帰ろうぜ」
イーハリュは目を丸くした。俺とイーハリュ以外、誰もいない教室を見回して、俺は笑った。
日が暮れかけている道の上を、俺とイーハリュは歩く。
そうだ、生徒手帳の件をまだ確認していない。
「あのさ、生徒手帳……拾ってくれたん、向井?」
そう尋ねると、イーハリュはしばらくの沈黙の後、頷いた。
「そうなんや、助かった。向井でよかった」
イーハリュでよかった。そうでなければ、異星人に近づくきっかけすらなかったからだ。もちろん、こうして隣を歩くこともなかっただろう。
俺はイーハリュに生徒手帳の中に入っているおじいちゃんの縁結びのお守りのことを話した。イーハリュがもし生徒手帳の中を見て俺の図面を発見していたら。お守りの話をすれば、何か言ってくるかもしれないと思ったからだ。
だが、イーハリュは安心したようなため息をついたきり、何も言わなかった。
かまをかけてみるか?
普段は絶対に思わないような危険なことを思いついたのは、走ってハイになっていたからかもしれない。
俺は、口を滑らせた。
「向井ってさ、い……」
異星人だろ、と。訊こうとした。
「い?」
まずい。
「いや、何でも……ない」
好意的に見えるイーハリュでも、正体が俺に知られたと気付いたらどうなるかわからない。最悪消されるか、逆にイーハリュが姿を消してしまうかもしれない。
イーハリュが何か言ったような気がしたが、気のせいかもしれない。陽が沈む。夜がやってくる。
幸い、すぐに何か起こるようなことはなかったが、しばらく俺はイーハリュを避けた。
イーハリュは最近こちらをよく見る。俺は焦って懸命に目を逸らし、話を振られても適当に打ち切るようにした。
失言にもほどがある。イーハリュが勘のいい異星人であれば、もう気付かれているだろう。こちらをよく見るのは、俺を消すかイーハリュが消える前に一言言おうと思っているからか。もしそうなら、律儀な異星人だ。対象になんの説明もなく任務を遂行する異星人は本でよく見かける。ひょっとして、イーハリュの属する異星人は友好的な部類なのだろうか。
いや、イーハリュが友好的であることは、消しゴムを拾ってくれたり、シャープペンシルの芯をくれたり、一緒に帰ってくれたことからわかっている。それら全てが工作だったとしても、俺に何か思うところがあるのはまあそうだろう。
思うところの種類が何にしても、気付かれているとしたら、遂行されるのは時間の問題だ。
それまでに、俺は何がしたい? むざむざ遂行されてしまって、後悔はないのか?
今にも泣き出しそうな曇り空のある日、一日中イーハリュの触手のことを考えていた。
「また明日な」
長谷がそう言って俺と別れるまで、ずっと頭の中の触手の数を数えていた。
12本。13本機械式の方が興味深いが、特殊素材かもしれない。どちらかの存在が消えてしまったら、俺の思考はどこに行ってしまうのだろう。
「冴木くん!」
突然、後ろから声がした。反射的に、俺は立ち止まる。
忘れるはずもないその声は、イーハリュのもの。
ゆっくりと後ろを向く。雨が降っていて、よく見えない。俺はそいつを捕まえて、歩き出した。
しばらく歩くと、状況が見えてきた。横断歩道を渡りきったところで、イーハリュはへなへなと座り込んだ。
「何やってんの」
俺はなぜだかおかしくなって、笑ってしまった。
「えと、その……」
イーハリュが口ごもる。
「あのさ、ずっと言おうと思ってたんやけど」
遂行を避ける方法。俺とイーハリュが友好を深める方法を、本当はずっと考えていた。
「俺さ、向井のこと、ずっと気になってんねん。だから、これからときどき一緒に帰ったり一緒に遊んだりしてくれへんかな」
イーハリュは固まった。
ここで止まっていては始まらない。俺は言葉を紡ぎ続ける。
「いきなりこんなこと言い出してごめん。やっぱり……だめかな?」
「……めじゃない」
「え?」
「だめじゃない」
イーハリュは、大きく首を横に振った。
「やった……!」
俺は思わずイーハリュの手を握ってぶんぶんと振った。うん、とイーハリュは言った。
「向井、びしゃびしゃやん」
嬉しさのあまりこんなことにも気付かないとは、俺もどうかしている。俺は傘をイーハリュと二人でさして、相合い傘で帰った。
「あのさ、向井のことさ……イーハリュって呼んでいいかな」
「なんで?」
「いやまあ……異……いせ、いや、その。いつも心の中ではそう呼んでたから」
「……は?」
「かわいいあだ名やろ? イーハリュって。つい口に出したくなる」
「ふふ」
「……」
誤魔化せて……ないか?
イーハリュが、口を開く。
「冴木くんって、かっこいいだけじゃないんだね」
「そうか!? ありがとう!」
咄嗟に礼を言う。誤魔化せたのかどうかはわからないが、首の皮一枚繋がったという感じだろうか。
ひとまず、一件落着である。
◆
陽が落ちるのが遅くなった帰り道、長谷が言った。
「冴木お前、最近やけに嬉しそうやな」
俺はにやりと笑う。
「やっと異星人の影を踏んだのさ」
「なんやねんそれ!」
遂行の日はまだ来ていない。
向こうの空に、虹が出ていた。
(了)