ノモトさんは森の中
「そろそろでしょうかね」
舞台の片付けをしていた手を少し止め、N本さんはぽつりと呟いた。
「N本さん?」
天幕を畳んでいたノモトさんが不安そうに呼ぶ。
「いえ。もう時期かなあと思っただけですよ」
「へえ……」
ノモトさんは納得したようなしていないような声を出したきり、何がとか何をとか訊こうとはしなかった。
空には鉛色の雲が広がり、今にも降り出しそうだ。
急いだ方がいいですね、とN本さんは言った。
雨はなかなか降り出さず、どんよりした天気が続いた。
そうして一週間経ったのちに、ノモトさんはいなくなった。
「やはり、こうなりましたか」
N本さんはえんじムカデを荷物から取り出し、地面に広げた。
「わかってはったんですか?」
起動するなり、えんじムカデは問いかける。
「何がだね、ムカデくん」
「ノモトさんがいなくなることをですよ」
「そうだねえ」
間延びした声で答えるN本さん。
「あの子は自信のない子だから」
「だから?」
「すぐ不安になっちゃうんでしょうねえ」
N本さんはシルクハットの角度を直す。
「でも、それも終わりに近付いている」
「そうですね。これ以上逃げ出すとかほんまありえませんよ。今回見つかったとしても、もしまた逃げ出したりしたら今度こそクビですよクビ」
えんじムカデの言葉にははは、とN本さんが笑う。
「厳しいですねえ、ムカデくんは」
「あんな軟弱者には厳しくしすぎるくらいがちょうどいいんですよ」
厳しいねえ、ともう一度言い、N本さんはえんじムカデに乗った。
「行こうか。えんじムカデ、浮上」
フィィン、という音を立てて浮かび上がるムカデ。
地面がみるみる遠ざかった。
「やっぱり、森ですねえ」
「そうですね」
空を移動するN本さんとえんじムカデの眼下には、深い森が広がっている。
一度入るとなかなか出られない暗い森は、最近のN本さんの巡業先々のすぐ側に位置し続けていた。
暗い森は広大で、この地方の北部を覆い尽くしている。
入った者のエネルギーを吸い取る危険な森に覆われた村々に近付く者は命知らずの商人か、N本さんのような好き者の巡業者くらいである。
「ムカデくん、ノモトさん見えない?」
「無茶言いはりますね。この距離から見えると思ってるんですか」
「そういう機能はあるでしょう」
「確かにありますけど。あんまり使うとエネルギー消費激しいんですよ」
「じゃ、感知機能使ってくださいよ」
「使ってますけど、全然引っかかりません」
「おかしいねえ。ノモトさんがいなくなってからそう時間は経ってないはずだけど」
「逃げ足だけは速いですからね、あの人」
「んー」
N本さんは目を閉じる。ふわり、とマントが風をはらむ。
ムカデはその間も飛び続けている。
ややあって、
「わかんないですね」
N本さんが目を開けた。
「わからないですか」
「そう」
「N本さんでもわからないんですか」
「そう。この森はねえ。我々にとっては天敵みたいなものですから」
「天敵?」
「我々はこの森にはどうやっても勝てないんですよ。この森を相手にするときだけは、力が弱まってしまう。ノモトさんに充電されたキミもそうですよ。感知機能が働いてないのはそのせいかもね。阻害されている。そういう仕組みなんです」
「それはまた、なんでですか?」
「さあねえ。わからない。ただ、そうなっているということだけはわかる」
「はあ……そんな危険な森の中の村に、どうして巡業に行こうなんて思わはったんですか」
「巡業ルートも決められてるからねえ。南から始めて徐々に北上していく……世界をくまなく周り尽くすルートになってるわけですよ。そうして最後にこの森に辿り着く」
ううん、とえんじムカデが呻く。
「どういうわけやら」
「まあ、おもしろーい決まりがたくさんあるんですよ」
間延びした声で、N本さん。えんじムカデはわかったようなわからないような様子でへえ、と言った。
「とりあえず自我オフにしときますわ。飛行機能と感知機能は働いてますんで、何かあったら起きます」
「了解」
す、とえんじムカデの瞳の光が消える。
一人になったN本さんは、どこに向けるでもなく、どうしようもないことか、と呟いた。
夕暮れが森を紅く染める。
N本さんとえんじムカデは森の側の道を歩いていた。
「見つからないねえ」
「そうですね」
「困ったものだねえ」
「本当に。充電もできませんし」
「まあ、そういうものだから仕方ないんですかねえ。これから数日間……おや?」
N本さんは立ち止まった。
「どうしはったんですか?」
「人がいる」
「ええっ」
ムカデは驚く。
それもそのはず、今は商人が来る時期ではない。森周辺には村の住民しかいないはずで、その村の住民も外縁部のこの道なんかにはよっぽどのことがない限り出てこないはずだからだ。
「同業者、ですか?」
「どうも違うようですねえ」
「じゃあ」
「冒険者らしい」
「らしい、と言うと?」
「ほら」
N本さんが指し示す。だんだん近付いてくる二つの影は、省エネモードのえんじムカデの目でも視認できる距離まで来ていた。
剣を腰に下げて鎧を着た人影と、剣を背負い質素な服を着ている人影。
「……剣士?」
「いや、鎧の方は『勇者』でしょうねえ。横の人は知りませんが」
『勇者』の方が片手を上げておじぎする。
N本さんもそれに応じておじぎした。
どうもこんにちは、と『勇者』。
どうもどうも、とN本さん。
「この世界にも『勇者』がいたとはまさかの驚き。しかし、何の用です? 世界は閉じ、何の問題もなく回っておりますが」
そう言うN本さんの顔は笑顔だが、目が笑っていない。
「せっかく認識してもらってなんですが、俺は勇者じゃありません」
『勇者』は申し訳なさそうに頭をかいた。
「はい? しかし」
「『魔王』なんですよ」
「なんですって」
N本さんが固まる。
それを見て、今までずっと黙っていたもう一人が慌てて間に入った。
「あっでも全然怖い人じゃないんですよ、この人。むしろ優しいくらいで……魔王と言ってもこの世界を壊しに来たわけじゃなくて」
「ノーマン」
魔王が苦笑いしながら制止する。
「あ、ごめんなさい。つい」
ノーマンと呼ばれた人物は頬を紅くして俯いた。
「大丈夫、俺が自分で言うよ」
魔王はノーマンの肩をぽんと叩くと、一歩前に出た。
「俺たちはこの世界を壊しに来たわけじゃない。それは先ほどこのノーマンも言った通りです」
「それじゃあ、何を」
剣呑な目でN本さんは問い返す。
「世界の理を壊しにね」
N本さんは黙り込んだ。その口は一文字に引き結ばれている。
ややあって、そんなことは、と蚊の鳴くような声。
「……できるはずがない。この世界はずっとこうやって続いてきたんですよ。前のN本さんたちがどうだったかは存じ上げませんがねえ、彼らもきっと理から抜け出そうと努力はしたはず。そういう風に、どうやっても変えられなかったものを、今更変えられるわけがない」
「ご心配は当然です。可能性は五分五分。でも、できないということはありません」
「ほう」
N本さんは片眉を上げる。
「俺たちは各世界の理を書き換えながら旅をしてきました。実績はあります。この世界の理を壊すのも、再度言いますが、できないことはない」
「どうやって?」
「森の性質を書き換えます。この世界の本質はこの森ですよね。つまり、森を変えてしまえば理は崩れます」
「ええ、おっしゃるとおりですが、簡単に言ってくれますね」
「難しいのはわかってます。でも、可能性がある以上は挑戦するのが魔王というものです」
「勇者ではなく?」
「魔王です」
本当のところは勇者でも魔王でも構わないんですけどね、と魔王。
「形に拘るのも時には大切なので」
「ああ、それはありますねえ。奇術の場合も形は大事です」
N本さんが頷いた。魔王も頷き返す。そしてさて、と言った。
「俺たちに協力してくれますか? ええと」
「N本です。こちらはえんじムカデ」
「魔王です。こっちはノーマン」
ノーマンが頭を下げる。
魔王はN本さんをじっと見て、口を開いた。
「いくら魔王といえど、俺たちだけでは世界の理を壊すことはできない。理の中核を成す『登場人物』の同意と協力が必要なんです。N本さん、あなたともう一人」
「ワタクシは……ええ、まあ、いいですよ。協力してもね。何もせずに消えちゃうよりかは賭けてみるのもいいでしょう」
「ありがとうございます」
にこ、と笑う魔王。ノーマンもほっとしたように息を吐く。
ただし、とN本さん。
「ワタシはこの森には弱いので、戦力としてはあまり期待しないでくれますね?」
「ええ、わかってます」
「で、もう一人の方……ノモトと言うのですが、現在迷子中なんですよねえ」
「そこは大丈夫です。場所の見当なら俺がつけられるし、一緒に探します」
「でもN本さん。あいつを見つけたってうんと言うかわかりませんよ」
えんじムカデが口を挟む。
「このままでいいって言うかもしれないし」
「仮にそうであっても、訊いてみるということは大事ですよムカデくん」
そうですかねえ、とムカデ。そうですよ、とN本さん。
「結果が同じであっても、やってみるのとみないのでは大きな違いがありますからねえ」
そうですかねえ、とムカデ。そうですよ。とN本さん。
「例えばムカデくん、キミは充電してもしなくてもいずれ充電が切れるけど、それはそれとして充電はするでしょ。それと一緒です」
「なるほど?」
「それで、ワタシの方はキミが納得しようがしまいが彼らに協力はしますがね?」
「あああ……わかりました、わかりました。僕も協力します」
ムカデが尻尾を左右に振った。
「話はつきましたか」
じっと見ていた魔王が確認するように訊く。
N本さんも魔王を見詰め返し、ええ、と肯定した。
「では」
「出発いたしましょう」
◆
森に入ると、魔王は地面に手を当てた。
「『登場人物』探索……感知。北北東に600m」
近いですね、とノーマン。そうだね、と魔王。
「しかし、反応が全く動いてない。大丈夫かな」
魔王は地に手を当てたまま眉を寄せた。
「大丈夫ですよ。ワタシが見つけるまで眠っているだけだと思いますので」
なるほど、と魔王。
一行がしばらく進むと、地面に何かが転がったような後が現れ始めた。
転がり後は左右にふらふらと揺れながら草を分け、木をなぎ倒して先に続いている。
「これは?」
魔王がN本さんの方を見る。
「安心してください、これは我らがノモトさんの転がり後です」
「すごいですね……」
感心したように、ノーマン。
「彼、ポテンシャルはあるんですよねえ。自分でコントロールできないだけで」
「コントロールできへん能力なんて、ないのと一緒ですよ」
ムカデがぴしゃりと言う。
厳しいねえ、とN本さん。
「でも、あるというのはいいことですよ。ないものは鍛えようがないですからねえ」
「鍛えてなかったら同じじゃないですか」
「鍛えるためにワタシがいるんですけどねえ」
「ああ、それは」
「ま、できてませんが」
「いやその……」
「いいですよ、できてないものはできてないんですから。ワタシの師匠もワタシを鍛えられないままいなくなりましたからねえ。そういうのは繰り返すんですよ」
ムカデは黙り込んだ。
木々をかき分けるがさがさという音だけが響いている。
「しかしそれを繰り返さないために今こうしているわけで、その辺りは多少前向きに考えてみてもいいのかもしれませんねえ」
N本さんが強引に話をまとめたところに、
「見えた」
魔王が立ち止まり、木々を除けて見せる。
その先は少し開けており、落ち葉の積もる広場になっていた。
広場の中央に、何かを抱えるかのように丸まる人影。
「あれはノモトさんですね。間違いありません」
覗き込みながらN本さんが断定する。
どうぞ、と魔王が道を譲る。
行くよムカデくん、と言ってN本さんは広場に降りた。
「ノモトさん」
呼びかける。返事はない。
ゆっくりと歩いて側まで行く。
「ノモトさん、ノモトさん」
肩をゆさゆさと揺さぶる。
ノモトさんはううん、と言って薄目を開いた。
「起きる時間ですよ、ノモトさん」
「もうほっといてくださいよお、私はここで眠り続けたいんです」
そう言って目を閉じるノモトさん。
「ほらやっぱりどうしようもあらへんままですよ。N本さん、こいつをなんとかするとかやっぱり無理ですよ」
ムカデが毒針の準備を始めようとする。
N本さんはそれを手で制した。
「ノモトさん、起きてください」
「嫌です」
「もう時間があまりないのです」
「え……?」
ノモトさんは目を開けた。その視界に、魔王とノーマンが映り込む。
「その人たちは?」
「あの二人は魔王さんとノーマンさんで、世界の理を壊しにやって来られました。ワタシとムカデくんはそれに協力しているのです」
「あ、仕事、ですか? それなら」
手伝わなきゃ、とノモトさん。両手で抱えていた立方体を片手に持ち替え、ふらりと立ち上がった。
「私はノモトです。よろしくです」
ノモトさんが二人に向かって頭を下げる。
「魔王です、よろしく」
「ノーマンです、よろしくお願いします」
二人もお辞儀を返した。
挨拶を終え、魔王がN本さんに向き直った。
「N本さん、始めても?」
「結構ですよ」
「ええと、真ん中はと」
魔王が広場の角の方に歩いて行く。
「この辺だね。ノーマン、何かあったら頼むよ」
片膝をつき、地面に手を当てる。
「改変開始」
その言葉と共に水色の光がほとばしり、魔王を中心に周囲に広がり始めた。それは網の目のように地面を覆い尽くし、木々に這い上がる。
青い燐光が水しぶきのように散った。
「これが魔王の力ですか。初めて見ますが、なかなかいいものですねえ」
「えへへ。僕もいつ見ても綺麗だなと思います」
自分が褒められたかのように喜ぶノーマン。
ムカデはノモトさんの方を、ノモトさんはぼんやりと光の方を見ていた。
「改変……?」
ぽつりと呟くノモトさん。
そのとき、地面が低い音をたてて振動し始めた。
「やっぱりそう簡単にはいきませんよね……」
ノーマンが剣を抜いた。
「ノーマン、バックアップ頼むね」
「承知です」
ずずず、と地面から緑色の蔓が這い出し、灰色マンションがその巨体を現した。
「鏡面模倣、番人」
ノーマンの手にあった剣が溶けるように消え、身体から緑色の蔓が生え出した。
ぴしりと蔓を構えるノーマン。
「僕一人で相手にするのは厳しいかもしれません。N本さん、すみませんがお手伝いをお願いできると嬉しいです」
N本さんはため息を吐いた。
「戦力としては期待しないでと言ったんですがねえ。でも、仕方ないですね」
どこからともなくステッキを取り出し、構えた。
「援護はして差し上げますよ」
「僕もやりますわ」
えんじムカデも上体を持ち上げ、浮遊した。そして突っ立っているノモトさんの方を見る。
「お前はどないすんねん」
「私は……調子が悪い……いやいつも調子が悪いですけど、今日は特に調子が悪い」
ムカデは舌打ちする。まあまあ、とN本さん。
「ここはワタシたちに任せて、ノモトさんは後ろに」
「そうします」
虹色の立方体を持ったまま、のろのろと後方に下がるノモトさん。
「行きます」
ノーマンが地を蹴り、戦闘が始まった。
戦況は拮抗していた。
灰色マンションの繰り出す蔓をかいくぐって本体に迫り、自らの蔓を突き刺そうと狙うノーマンであったが、マンション側の蔓も本数が多い。ある程度はN本さんが光球で打ち落としていたが、次から次へと生えてくる蔓に一行は防戦を強いられていた。
えんじムカデは世界改変を続ける魔王側に陣取り、迫り来る蔓を切って捨てている。
ノモトさんは魔王の後方で虹色の立方体を抱えたままじっとしていた。
しばらく防戦が続いていたが、
「く……」
光球を放とうとしたN本さんが、光を霧散させてしまう。
灰色マンションの蔓がノーマンの頬を掠め、ノーマンは後方に退いた。
N本さんが頭に手をやり、しゃがみこむ。その顔は蒼白だった。
「まずいですブレイブさん、N本さんはもう限界です」
N本さんに襲いかかる蔓を自らの蔓で止めながら、ノーマンが叫ぶ。
ノモトさんはじっとそれを見ている。
N本さん、と呟くノモトさん。
理想だった。完璧だと思っていた。いつも、どんなときでもN本さんは余裕だった。
ノモトさんは小さく震える。
じりじりと押され後退するノーマン。
N本さんはうずくまったままぴくりとも動かない。
N本さんには頼れる人が誰もいない。N本さんは一人だった。ずっと。私はN本さんに甘えてばかりだった。
立方体を握る手に、力がこもる。
「N本さん……」
返事はない。
このままだとN本さんは消えてしまうかもしれない。迷子じゃなくて、見つかる可能性もなくて、今度こそ、私の目の前から、
「N本さん」
立方体に光が灯る。
そうだ、彼は強い人ではない。絶対的な存在でもない。今は、ただの、
「N本さん!」
立方体が一際強い輝きを放つ。それは広がり展開し、ノモトさんを覆い尽くした。
ノーマンが防ぎ切れなかった蔓がN本さんに迫り、もう駄目かと思われたとき、
「えいっ」
虹色の光線によって蔓は切り裂かれ、塵になった。
すた、と着地するノモトさん。その背中から、虹色の幾何学的な羽根のようなものが生えている。
「灰色マンションは私がやります。いややれるかどうかはわからないんですけど、たぶんやれると思います。ノーマンさんはN本さんを」
「わかりました。頑張ってください」
「頑張ります」
羽根を羽ばたかせ、ノモトさんが舞い上がる。
充分上に上がり、羽根を広げて静止した。
「照射」
何十もの虹色の光線が羽根から放たれ、灰色マンションの本体を貫いた。
マンションの全体に細かなひびが入ってゆく。
光線の照射は止まない。
崩れ始めるマンション。
N本さんに伸ばされた蔓を、ノーマンの蔓がたたき落とす。
たたき落とされた蔓は力を失い、塵になった。
どどう、とマンションが地に崩れる。
静寂。
周囲が水色に光り、改変完了、と魔王が言った。
崩れたマンションが端から光の粒になってゆく。
うずくまったままだったN本さんが、顔を上げた。
「ああ」
そして、地に降りたノモトさんを見る。
「終わった、のか」
ノモトさんはぱし、と瞬きをした。
ふらつきながらも立ち上がるN本さん。
背中の幾何学的な翼を見て、何か言いかけたN本さんに背後から声がかかった。
『ノモトさん』
「ワタシ、私、いや、その、声は」
N本さんがゆっくりと振り返る。そして、
「N本さん」
と言った。
◆
シルクハットに黒いマント、N本さんに生き写しの姿がそこにはあった。
「どうしたんですか、今までどこに」
ふらり、とN本さん、いや、「ノモトさん」は「N本さん」に歩み寄る。
『まあまあ落ち着きたまえ。キミはわかっているでしょう?』
こくりと頷く「ノモトさん」。
『いい子だ』
「ノモトさん」の肩に手を置く「N本さん」。
『結果的に、置いていく結果となってしまいましたねえ。ワタシは悪い雇い主でした』
「そんなことは」
『いいんですよ。ワタシはあなたを裏切った』
「……」
『本当はね、置いていきたくなんてなかったのですよ。一緒に連れて行きたかったくらい。ただそうすると次のN本さんがいなくなってしまうでしょう。できなかったんですねえ、これが』
でも、と「N本さん」は言葉を切る。
『世界の理は崩れました。どこかの親切な魔王様のおかげでね』
ちらりと魔王を見る「N本さん」。
『さて……キミはワタシと一緒に行くこともできるし、残ることもできる。ワタシとしてはせめてもの罪滅ぼしとして連れて行きたい気持ちがあるのですがねえ、キミの方はどうかしら?』
「ノモトさん」は一瞬口を引き結び、
「いえ」
と言った。
「ワタクシは行きません」
言われた「N本さん」はすっと目を細める。「ノモトさん」だった人物は言葉を続けた。
「ワタシはもう「ノモトさん」ではない。アナタ同様、ワタシにはワタシのノモトさんがいる。二度とない機会ですが、またの機会にしていただけたらと思いますよ」
『ふふ、そうですか』
「N本さん」は笑って、N本さんの肩から手をどけた。
『じゃあ、ワタシは行きますねえ。……キミにもう一度だけ会えて嬉しかった。キミのノモトさんをよろしく頼みますよ』
そしてステッキを構える。
『アディオスアミーゴ』
ぱちん、という音がして、「N本さん」は消えた。
さようなら、とN本さんが呟く。そして、ずっと黙って見ていたノモトさんの方を向いた。
「巡業の旅は終わりです。鞄の中には稼いだマネー」
両手を大きく広げるN本さん。
「バカンスしましょうノモトさん。南がいいですね。ムカデくんにちゃんと充電してあげてください、レッツゴー南」
そう言うと、ノモトさんの腕を掴んでずるずる引っ張ってゆく。
ノモトさんは機能停止していたえんじムカデを回収し、引っ張られている腕の方に抱えた。
「あの……ありがとうございました、魔王さん、ノーマンさん」
ぺこりと頭を下げてから、立って見送る二人に手を振るノモトさん。
二人は手を振り返し、ノーマンの方がさよなら、と叫んだ。
手を振り続けるノモトさん。やがて魔王とノーマンの姿は薄れていき、見えなくなった。
「よいしょ」
ノモトさんは体勢を立て直す。
「N本さん、ちゃんと歩けますから離してください」
そうかい、と言ってN本さんはぱっと手を放す。
「おっと」
少しふらついたが、ノモトさんは自分の足で地面を踏みしめた。
そしてN本さんの後をついて歩き出す。
「道に出たらキャンプですか?」
「ご明察。優秀ですねえ」
「いえ」
ノモトさんは頬を赤らめる。
手元の立方体を握り締めようとして、ないことに気付き、背中の羽根をぱたりと一回羽ばたかせた。
「あれ、もう終わったんですか」
目を覚ましたえんじムカデが声を上げる。
「終わったよ」
とN本さん。
「ノモトさんが活躍してくれた」
「えっこいつが?」
「危ないところを救ってくれたのですよ」
「それは……それは」
ムカデがきろりとノモトさんの背中の羽根を見る。
「そう、なんか。お前もやればできる奴やったんやなあ」
そう言って、沈黙した。電源が落ちたのだ。
「充電してあげてくださいね」
「もうやってます」
「それは結構」
N本さんが歩きながら空を見上げる。
そして、あ、と言った。
「見てください」
「え?」
ノモトさんも空を見上げる。
「明けの明星ですよ」
「どこです……あ、本当ですね」
しばらく二人は空を見上げたまま歩いていた。
木々が切れる。
N本さんは立ち止まった。
「ほら」
「出られましたね」
「出られたでしょう」
「ええ」
二人は黙り込む。
「N本さん」
「何ですか」
「もしまたN本さんが迷子になったら……私が探して見つけますね。翼があるし、もう森に妨げられることもない。いくら迷子になってもいいですよ」
ふむ、とN本さん。
「それは頼もしい。そのときは、よろしく頼みますよ」
そう言ってシルクハットを持ち上げ、N本さんは笑った。
朝の月が見えていた。
(おわり)
舞台の片付けをしていた手を少し止め、N本さんはぽつりと呟いた。
「N本さん?」
天幕を畳んでいたノモトさんが不安そうに呼ぶ。
「いえ。もう時期かなあと思っただけですよ」
「へえ……」
ノモトさんは納得したようなしていないような声を出したきり、何がとか何をとか訊こうとはしなかった。
空には鉛色の雲が広がり、今にも降り出しそうだ。
急いだ方がいいですね、とN本さんは言った。
雨はなかなか降り出さず、どんよりした天気が続いた。
そうして一週間経ったのちに、ノモトさんはいなくなった。
「やはり、こうなりましたか」
N本さんはえんじムカデを荷物から取り出し、地面に広げた。
「わかってはったんですか?」
起動するなり、えんじムカデは問いかける。
「何がだね、ムカデくん」
「ノモトさんがいなくなることをですよ」
「そうだねえ」
間延びした声で答えるN本さん。
「あの子は自信のない子だから」
「だから?」
「すぐ不安になっちゃうんでしょうねえ」
N本さんはシルクハットの角度を直す。
「でも、それも終わりに近付いている」
「そうですね。これ以上逃げ出すとかほんまありえませんよ。今回見つかったとしても、もしまた逃げ出したりしたら今度こそクビですよクビ」
えんじムカデの言葉にははは、とN本さんが笑う。
「厳しいですねえ、ムカデくんは」
「あんな軟弱者には厳しくしすぎるくらいがちょうどいいんですよ」
厳しいねえ、ともう一度言い、N本さんはえんじムカデに乗った。
「行こうか。えんじムカデ、浮上」
フィィン、という音を立てて浮かび上がるムカデ。
地面がみるみる遠ざかった。
「やっぱり、森ですねえ」
「そうですね」
空を移動するN本さんとえんじムカデの眼下には、深い森が広がっている。
一度入るとなかなか出られない暗い森は、最近のN本さんの巡業先々のすぐ側に位置し続けていた。
暗い森は広大で、この地方の北部を覆い尽くしている。
入った者のエネルギーを吸い取る危険な森に覆われた村々に近付く者は命知らずの商人か、N本さんのような好き者の巡業者くらいである。
「ムカデくん、ノモトさん見えない?」
「無茶言いはりますね。この距離から見えると思ってるんですか」
「そういう機能はあるでしょう」
「確かにありますけど。あんまり使うとエネルギー消費激しいんですよ」
「じゃ、感知機能使ってくださいよ」
「使ってますけど、全然引っかかりません」
「おかしいねえ。ノモトさんがいなくなってからそう時間は経ってないはずだけど」
「逃げ足だけは速いですからね、あの人」
「んー」
N本さんは目を閉じる。ふわり、とマントが風をはらむ。
ムカデはその間も飛び続けている。
ややあって、
「わかんないですね」
N本さんが目を開けた。
「わからないですか」
「そう」
「N本さんでもわからないんですか」
「そう。この森はねえ。我々にとっては天敵みたいなものですから」
「天敵?」
「我々はこの森にはどうやっても勝てないんですよ。この森を相手にするときだけは、力が弱まってしまう。ノモトさんに充電されたキミもそうですよ。感知機能が働いてないのはそのせいかもね。阻害されている。そういう仕組みなんです」
「それはまた、なんでですか?」
「さあねえ。わからない。ただ、そうなっているということだけはわかる」
「はあ……そんな危険な森の中の村に、どうして巡業に行こうなんて思わはったんですか」
「巡業ルートも決められてるからねえ。南から始めて徐々に北上していく……世界をくまなく周り尽くすルートになってるわけですよ。そうして最後にこの森に辿り着く」
ううん、とえんじムカデが呻く。
「どういうわけやら」
「まあ、おもしろーい決まりがたくさんあるんですよ」
間延びした声で、N本さん。えんじムカデはわかったようなわからないような様子でへえ、と言った。
「とりあえず自我オフにしときますわ。飛行機能と感知機能は働いてますんで、何かあったら起きます」
「了解」
す、とえんじムカデの瞳の光が消える。
一人になったN本さんは、どこに向けるでもなく、どうしようもないことか、と呟いた。
夕暮れが森を紅く染める。
N本さんとえんじムカデは森の側の道を歩いていた。
「見つからないねえ」
「そうですね」
「困ったものだねえ」
「本当に。充電もできませんし」
「まあ、そういうものだから仕方ないんですかねえ。これから数日間……おや?」
N本さんは立ち止まった。
「どうしはったんですか?」
「人がいる」
「ええっ」
ムカデは驚く。
それもそのはず、今は商人が来る時期ではない。森周辺には村の住民しかいないはずで、その村の住民も外縁部のこの道なんかにはよっぽどのことがない限り出てこないはずだからだ。
「同業者、ですか?」
「どうも違うようですねえ」
「じゃあ」
「冒険者らしい」
「らしい、と言うと?」
「ほら」
N本さんが指し示す。だんだん近付いてくる二つの影は、省エネモードのえんじムカデの目でも視認できる距離まで来ていた。
剣を腰に下げて鎧を着た人影と、剣を背負い質素な服を着ている人影。
「……剣士?」
「いや、鎧の方は『勇者』でしょうねえ。横の人は知りませんが」
『勇者』の方が片手を上げておじぎする。
N本さんもそれに応じておじぎした。
どうもこんにちは、と『勇者』。
どうもどうも、とN本さん。
「この世界にも『勇者』がいたとはまさかの驚き。しかし、何の用です? 世界は閉じ、何の問題もなく回っておりますが」
そう言うN本さんの顔は笑顔だが、目が笑っていない。
「せっかく認識してもらってなんですが、俺は勇者じゃありません」
『勇者』は申し訳なさそうに頭をかいた。
「はい? しかし」
「『魔王』なんですよ」
「なんですって」
N本さんが固まる。
それを見て、今までずっと黙っていたもう一人が慌てて間に入った。
「あっでも全然怖い人じゃないんですよ、この人。むしろ優しいくらいで……魔王と言ってもこの世界を壊しに来たわけじゃなくて」
「ノーマン」
魔王が苦笑いしながら制止する。
「あ、ごめんなさい。つい」
ノーマンと呼ばれた人物は頬を紅くして俯いた。
「大丈夫、俺が自分で言うよ」
魔王はノーマンの肩をぽんと叩くと、一歩前に出た。
「俺たちはこの世界を壊しに来たわけじゃない。それは先ほどこのノーマンも言った通りです」
「それじゃあ、何を」
剣呑な目でN本さんは問い返す。
「世界の理を壊しにね」
N本さんは黙り込んだ。その口は一文字に引き結ばれている。
ややあって、そんなことは、と蚊の鳴くような声。
「……できるはずがない。この世界はずっとこうやって続いてきたんですよ。前のN本さんたちがどうだったかは存じ上げませんがねえ、彼らもきっと理から抜け出そうと努力はしたはず。そういう風に、どうやっても変えられなかったものを、今更変えられるわけがない」
「ご心配は当然です。可能性は五分五分。でも、できないということはありません」
「ほう」
N本さんは片眉を上げる。
「俺たちは各世界の理を書き換えながら旅をしてきました。実績はあります。この世界の理を壊すのも、再度言いますが、できないことはない」
「どうやって?」
「森の性質を書き換えます。この世界の本質はこの森ですよね。つまり、森を変えてしまえば理は崩れます」
「ええ、おっしゃるとおりですが、簡単に言ってくれますね」
「難しいのはわかってます。でも、可能性がある以上は挑戦するのが魔王というものです」
「勇者ではなく?」
「魔王です」
本当のところは勇者でも魔王でも構わないんですけどね、と魔王。
「形に拘るのも時には大切なので」
「ああ、それはありますねえ。奇術の場合も形は大事です」
N本さんが頷いた。魔王も頷き返す。そしてさて、と言った。
「俺たちに協力してくれますか? ええと」
「N本です。こちらはえんじムカデ」
「魔王です。こっちはノーマン」
ノーマンが頭を下げる。
魔王はN本さんをじっと見て、口を開いた。
「いくら魔王といえど、俺たちだけでは世界の理を壊すことはできない。理の中核を成す『登場人物』の同意と協力が必要なんです。N本さん、あなたともう一人」
「ワタクシは……ええ、まあ、いいですよ。協力してもね。何もせずに消えちゃうよりかは賭けてみるのもいいでしょう」
「ありがとうございます」
にこ、と笑う魔王。ノーマンもほっとしたように息を吐く。
ただし、とN本さん。
「ワタシはこの森には弱いので、戦力としてはあまり期待しないでくれますね?」
「ええ、わかってます」
「で、もう一人の方……ノモトと言うのですが、現在迷子中なんですよねえ」
「そこは大丈夫です。場所の見当なら俺がつけられるし、一緒に探します」
「でもN本さん。あいつを見つけたってうんと言うかわかりませんよ」
えんじムカデが口を挟む。
「このままでいいって言うかもしれないし」
「仮にそうであっても、訊いてみるということは大事ですよムカデくん」
そうですかねえ、とムカデ。そうですよ、とN本さん。
「結果が同じであっても、やってみるのとみないのでは大きな違いがありますからねえ」
そうですかねえ、とムカデ。そうですよ。とN本さん。
「例えばムカデくん、キミは充電してもしなくてもいずれ充電が切れるけど、それはそれとして充電はするでしょ。それと一緒です」
「なるほど?」
「それで、ワタシの方はキミが納得しようがしまいが彼らに協力はしますがね?」
「あああ……わかりました、わかりました。僕も協力します」
ムカデが尻尾を左右に振った。
「話はつきましたか」
じっと見ていた魔王が確認するように訊く。
N本さんも魔王を見詰め返し、ええ、と肯定した。
「では」
「出発いたしましょう」
◆
森に入ると、魔王は地面に手を当てた。
「『登場人物』探索……感知。北北東に600m」
近いですね、とノーマン。そうだね、と魔王。
「しかし、反応が全く動いてない。大丈夫かな」
魔王は地に手を当てたまま眉を寄せた。
「大丈夫ですよ。ワタシが見つけるまで眠っているだけだと思いますので」
なるほど、と魔王。
一行がしばらく進むと、地面に何かが転がったような後が現れ始めた。
転がり後は左右にふらふらと揺れながら草を分け、木をなぎ倒して先に続いている。
「これは?」
魔王がN本さんの方を見る。
「安心してください、これは我らがノモトさんの転がり後です」
「すごいですね……」
感心したように、ノーマン。
「彼、ポテンシャルはあるんですよねえ。自分でコントロールできないだけで」
「コントロールできへん能力なんて、ないのと一緒ですよ」
ムカデがぴしゃりと言う。
厳しいねえ、とN本さん。
「でも、あるというのはいいことですよ。ないものは鍛えようがないですからねえ」
「鍛えてなかったら同じじゃないですか」
「鍛えるためにワタシがいるんですけどねえ」
「ああ、それは」
「ま、できてませんが」
「いやその……」
「いいですよ、できてないものはできてないんですから。ワタシの師匠もワタシを鍛えられないままいなくなりましたからねえ。そういうのは繰り返すんですよ」
ムカデは黙り込んだ。
木々をかき分けるがさがさという音だけが響いている。
「しかしそれを繰り返さないために今こうしているわけで、その辺りは多少前向きに考えてみてもいいのかもしれませんねえ」
N本さんが強引に話をまとめたところに、
「見えた」
魔王が立ち止まり、木々を除けて見せる。
その先は少し開けており、落ち葉の積もる広場になっていた。
広場の中央に、何かを抱えるかのように丸まる人影。
「あれはノモトさんですね。間違いありません」
覗き込みながらN本さんが断定する。
どうぞ、と魔王が道を譲る。
行くよムカデくん、と言ってN本さんは広場に降りた。
「ノモトさん」
呼びかける。返事はない。
ゆっくりと歩いて側まで行く。
「ノモトさん、ノモトさん」
肩をゆさゆさと揺さぶる。
ノモトさんはううん、と言って薄目を開いた。
「起きる時間ですよ、ノモトさん」
「もうほっといてくださいよお、私はここで眠り続けたいんです」
そう言って目を閉じるノモトさん。
「ほらやっぱりどうしようもあらへんままですよ。N本さん、こいつをなんとかするとかやっぱり無理ですよ」
ムカデが毒針の準備を始めようとする。
N本さんはそれを手で制した。
「ノモトさん、起きてください」
「嫌です」
「もう時間があまりないのです」
「え……?」
ノモトさんは目を開けた。その視界に、魔王とノーマンが映り込む。
「その人たちは?」
「あの二人は魔王さんとノーマンさんで、世界の理を壊しにやって来られました。ワタシとムカデくんはそれに協力しているのです」
「あ、仕事、ですか? それなら」
手伝わなきゃ、とノモトさん。両手で抱えていた立方体を片手に持ち替え、ふらりと立ち上がった。
「私はノモトです。よろしくです」
ノモトさんが二人に向かって頭を下げる。
「魔王です、よろしく」
「ノーマンです、よろしくお願いします」
二人もお辞儀を返した。
挨拶を終え、魔王がN本さんに向き直った。
「N本さん、始めても?」
「結構ですよ」
「ええと、真ん中はと」
魔王が広場の角の方に歩いて行く。
「この辺だね。ノーマン、何かあったら頼むよ」
片膝をつき、地面に手を当てる。
「改変開始」
その言葉と共に水色の光がほとばしり、魔王を中心に周囲に広がり始めた。それは網の目のように地面を覆い尽くし、木々に這い上がる。
青い燐光が水しぶきのように散った。
「これが魔王の力ですか。初めて見ますが、なかなかいいものですねえ」
「えへへ。僕もいつ見ても綺麗だなと思います」
自分が褒められたかのように喜ぶノーマン。
ムカデはノモトさんの方を、ノモトさんはぼんやりと光の方を見ていた。
「改変……?」
ぽつりと呟くノモトさん。
そのとき、地面が低い音をたてて振動し始めた。
「やっぱりそう簡単にはいきませんよね……」
ノーマンが剣を抜いた。
「ノーマン、バックアップ頼むね」
「承知です」
ずずず、と地面から緑色の蔓が這い出し、灰色マンションがその巨体を現した。
「鏡面模倣、番人」
ノーマンの手にあった剣が溶けるように消え、身体から緑色の蔓が生え出した。
ぴしりと蔓を構えるノーマン。
「僕一人で相手にするのは厳しいかもしれません。N本さん、すみませんがお手伝いをお願いできると嬉しいです」
N本さんはため息を吐いた。
「戦力としては期待しないでと言ったんですがねえ。でも、仕方ないですね」
どこからともなくステッキを取り出し、構えた。
「援護はして差し上げますよ」
「僕もやりますわ」
えんじムカデも上体を持ち上げ、浮遊した。そして突っ立っているノモトさんの方を見る。
「お前はどないすんねん」
「私は……調子が悪い……いやいつも調子が悪いですけど、今日は特に調子が悪い」
ムカデは舌打ちする。まあまあ、とN本さん。
「ここはワタシたちに任せて、ノモトさんは後ろに」
「そうします」
虹色の立方体を持ったまま、のろのろと後方に下がるノモトさん。
「行きます」
ノーマンが地を蹴り、戦闘が始まった。
戦況は拮抗していた。
灰色マンションの繰り出す蔓をかいくぐって本体に迫り、自らの蔓を突き刺そうと狙うノーマンであったが、マンション側の蔓も本数が多い。ある程度はN本さんが光球で打ち落としていたが、次から次へと生えてくる蔓に一行は防戦を強いられていた。
えんじムカデは世界改変を続ける魔王側に陣取り、迫り来る蔓を切って捨てている。
ノモトさんは魔王の後方で虹色の立方体を抱えたままじっとしていた。
しばらく防戦が続いていたが、
「く……」
光球を放とうとしたN本さんが、光を霧散させてしまう。
灰色マンションの蔓がノーマンの頬を掠め、ノーマンは後方に退いた。
N本さんが頭に手をやり、しゃがみこむ。その顔は蒼白だった。
「まずいですブレイブさん、N本さんはもう限界です」
N本さんに襲いかかる蔓を自らの蔓で止めながら、ノーマンが叫ぶ。
ノモトさんはじっとそれを見ている。
N本さん、と呟くノモトさん。
理想だった。完璧だと思っていた。いつも、どんなときでもN本さんは余裕だった。
ノモトさんは小さく震える。
じりじりと押され後退するノーマン。
N本さんはうずくまったままぴくりとも動かない。
N本さんには頼れる人が誰もいない。N本さんは一人だった。ずっと。私はN本さんに甘えてばかりだった。
立方体を握る手に、力がこもる。
「N本さん……」
返事はない。
このままだとN本さんは消えてしまうかもしれない。迷子じゃなくて、見つかる可能性もなくて、今度こそ、私の目の前から、
「N本さん」
立方体に光が灯る。
そうだ、彼は強い人ではない。絶対的な存在でもない。今は、ただの、
「N本さん!」
立方体が一際強い輝きを放つ。それは広がり展開し、ノモトさんを覆い尽くした。
ノーマンが防ぎ切れなかった蔓がN本さんに迫り、もう駄目かと思われたとき、
「えいっ」
虹色の光線によって蔓は切り裂かれ、塵になった。
すた、と着地するノモトさん。その背中から、虹色の幾何学的な羽根のようなものが生えている。
「灰色マンションは私がやります。いややれるかどうかはわからないんですけど、たぶんやれると思います。ノーマンさんはN本さんを」
「わかりました。頑張ってください」
「頑張ります」
羽根を羽ばたかせ、ノモトさんが舞い上がる。
充分上に上がり、羽根を広げて静止した。
「照射」
何十もの虹色の光線が羽根から放たれ、灰色マンションの本体を貫いた。
マンションの全体に細かなひびが入ってゆく。
光線の照射は止まない。
崩れ始めるマンション。
N本さんに伸ばされた蔓を、ノーマンの蔓がたたき落とす。
たたき落とされた蔓は力を失い、塵になった。
どどう、とマンションが地に崩れる。
静寂。
周囲が水色に光り、改変完了、と魔王が言った。
崩れたマンションが端から光の粒になってゆく。
うずくまったままだったN本さんが、顔を上げた。
「ああ」
そして、地に降りたノモトさんを見る。
「終わった、のか」
ノモトさんはぱし、と瞬きをした。
ふらつきながらも立ち上がるN本さん。
背中の幾何学的な翼を見て、何か言いかけたN本さんに背後から声がかかった。
『ノモトさん』
「ワタシ、私、いや、その、声は」
N本さんがゆっくりと振り返る。そして、
「N本さん」
と言った。
◆
シルクハットに黒いマント、N本さんに生き写しの姿がそこにはあった。
「どうしたんですか、今までどこに」
ふらり、とN本さん、いや、「ノモトさん」は「N本さん」に歩み寄る。
『まあまあ落ち着きたまえ。キミはわかっているでしょう?』
こくりと頷く「ノモトさん」。
『いい子だ』
「ノモトさん」の肩に手を置く「N本さん」。
『結果的に、置いていく結果となってしまいましたねえ。ワタシは悪い雇い主でした』
「そんなことは」
『いいんですよ。ワタシはあなたを裏切った』
「……」
『本当はね、置いていきたくなんてなかったのですよ。一緒に連れて行きたかったくらい。ただそうすると次のN本さんがいなくなってしまうでしょう。できなかったんですねえ、これが』
でも、と「N本さん」は言葉を切る。
『世界の理は崩れました。どこかの親切な魔王様のおかげでね』
ちらりと魔王を見る「N本さん」。
『さて……キミはワタシと一緒に行くこともできるし、残ることもできる。ワタシとしてはせめてもの罪滅ぼしとして連れて行きたい気持ちがあるのですがねえ、キミの方はどうかしら?』
「ノモトさん」は一瞬口を引き結び、
「いえ」
と言った。
「ワタクシは行きません」
言われた「N本さん」はすっと目を細める。「ノモトさん」だった人物は言葉を続けた。
「ワタシはもう「ノモトさん」ではない。アナタ同様、ワタシにはワタシのノモトさんがいる。二度とない機会ですが、またの機会にしていただけたらと思いますよ」
『ふふ、そうですか』
「N本さん」は笑って、N本さんの肩から手をどけた。
『じゃあ、ワタシは行きますねえ。……キミにもう一度だけ会えて嬉しかった。キミのノモトさんをよろしく頼みますよ』
そしてステッキを構える。
『アディオスアミーゴ』
ぱちん、という音がして、「N本さん」は消えた。
さようなら、とN本さんが呟く。そして、ずっと黙って見ていたノモトさんの方を向いた。
「巡業の旅は終わりです。鞄の中には稼いだマネー」
両手を大きく広げるN本さん。
「バカンスしましょうノモトさん。南がいいですね。ムカデくんにちゃんと充電してあげてください、レッツゴー南」
そう言うと、ノモトさんの腕を掴んでずるずる引っ張ってゆく。
ノモトさんは機能停止していたえんじムカデを回収し、引っ張られている腕の方に抱えた。
「あの……ありがとうございました、魔王さん、ノーマンさん」
ぺこりと頭を下げてから、立って見送る二人に手を振るノモトさん。
二人は手を振り返し、ノーマンの方がさよなら、と叫んだ。
手を振り続けるノモトさん。やがて魔王とノーマンの姿は薄れていき、見えなくなった。
「よいしょ」
ノモトさんは体勢を立て直す。
「N本さん、ちゃんと歩けますから離してください」
そうかい、と言ってN本さんはぱっと手を放す。
「おっと」
少しふらついたが、ノモトさんは自分の足で地面を踏みしめた。
そしてN本さんの後をついて歩き出す。
「道に出たらキャンプですか?」
「ご明察。優秀ですねえ」
「いえ」
ノモトさんは頬を赤らめる。
手元の立方体を握り締めようとして、ないことに気付き、背中の羽根をぱたりと一回羽ばたかせた。
「あれ、もう終わったんですか」
目を覚ましたえんじムカデが声を上げる。
「終わったよ」
とN本さん。
「ノモトさんが活躍してくれた」
「えっこいつが?」
「危ないところを救ってくれたのですよ」
「それは……それは」
ムカデがきろりとノモトさんの背中の羽根を見る。
「そう、なんか。お前もやればできる奴やったんやなあ」
そう言って、沈黙した。電源が落ちたのだ。
「充電してあげてくださいね」
「もうやってます」
「それは結構」
N本さんが歩きながら空を見上げる。
そして、あ、と言った。
「見てください」
「え?」
ノモトさんも空を見上げる。
「明けの明星ですよ」
「どこです……あ、本当ですね」
しばらく二人は空を見上げたまま歩いていた。
木々が切れる。
N本さんは立ち止まった。
「ほら」
「出られましたね」
「出られたでしょう」
「ええ」
二人は黙り込む。
「N本さん」
「何ですか」
「もしまたN本さんが迷子になったら……私が探して見つけますね。翼があるし、もう森に妨げられることもない。いくら迷子になってもいいですよ」
ふむ、とN本さん。
「それは頼もしい。そのときは、よろしく頼みますよ」
そう言ってシルクハットを持ち上げ、N本さんは笑った。
朝の月が見えていた。
(おわり)
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