ノモトさんは森の中

 青い空、白い雲、輝く太陽、木陰に座ったノモトさん。カラフルな立方体を片手でなでながら、ぼうっと宙を見ている。
『ねえ、ノモトさん、きみはなんで、いつも自信がなさそうなの?』
「放っておいてくださいよ。自信がない方が、うまくいったとき嬉しいじゃないですか。と、過去のN本さんの質問に今答える私はどうなんでしょうねえ」
 ノモトさんは目を伏せた。
「そもそもN本さんの生活の中において、私は必要のない存在であってね」
 そう言って、立方体を片手で握りしめる。力を入れて指が白くなっても、立方体は歪まない。風がふわりと吹いて、ノモトさんの上の木の葉の影を動かした。ノモトさんはそのゆるやかな風に対抗しようとするかのように、歯ぎしりをした。
「N本さんは、私にとっての理想や夢、だったらいいなと思う人でしたよ。けれども、私はいつかN本さんに抱いていた希望を忘れてしまうでしょうね」
 ノモトさんは、立ち上がりよろめいた。
「あああ、また歩きださなきゃいけないんだ」
 めんどくさい、とつぶやく。森の落ち葉にダイブする。
「眠たいよう、寝たいよう」
 落ち葉の上をごろごろと転がり、髪も服も手も葉っぱだらけである。ノモトさんは目を閉じた。
「おやすみなさい」
 ノモトさんは寝転がった状態のまま、立方体をつかんだ両手をのばして地面を転がりはじめた。
「ごろごろごろごろ、森は布団じゃありません」


 四十六分間転がり続けて、突然ノモトさんは止まった。
「いたっ。なにこれ、めちゃ痛い」
 がばっと起き上がり、周りの地面を見る。あちらこちらに丸い石が落ちている。
「自然の森じゃなくて、緑地公園の森だからか、そうなのか」
 立方体を胸に抱いて、ノモトさんはううむとうなった。緑地公園はどこまでも広がっている。
「水のそばではないのに、真ん丸な石があちこちに落ちている。これいかに」
 ノモトさんはてくてくと歩き出した。ときどき石につまづきながら、歩いている。
「とりあえず、日が沈むまでにこの森を抜けてしまわないと、何が出るかわかったもんじゃないものね」
 ほんと怖いからなあ、とノモトさんは大きなため息をついた。
「無事ぬけられるかなあ?」
 せわしなく辺りを見回しはじめるノモトさん。カラフル立方体を両手でぎゅうと握りしめる。足を踏み出すたびに、落ち葉の間の空気がつぶされる。ノモトさんはいったん立ち止まってから、ゆっくり片足を上げ、前に下ろした。それでも、葉っぱを踏む音は消えなかった。しばらくじっとしていたノモトさんであったが、やがて大きく息を吸うと走り出した。決して前向きな走り方ではなく、逃げるように走る。
「怖くない、怖くないぞ。夕焼けが森を照らしてるけど、怖くなんかないぞ」
 いまや全力疾走になったノモトさんは、大胆に葉っぱを踏みつけながら進んだ。
「この箱すごくじゃま」
 ぶつくさいいながらも、ノモトさんは立方体を捨てない。
「森にごみを捨ててはいけません。基本事項だね、あはは」
 涙のにじんだ眼をこすりながら、ノモトさんは進んだ。
「前が見えないよう、涙で」
『甘すぎですよ、ノモトさん』
「ああごめんなさいい」
『自分が悪いんだ、自分に謝るといいよ』
「こんなことN本さんは言いませんよ、いったいどこまで私は忘れてしまったんだろうか、内面対話」
 ノモトさんは靴を脱ぎ捨てた。こけそうになっても、手を使って前に進む。
「ここをぬけさえすれば、ぬけさえすれば、なんとかなるんだ」
『思い込みじゃないのかいノモトさん』
「N本さんは黙っててくださいよ」


 自分が走るのではなく、周りの景色が流れてくれたらいいなとノモトさんが思いはじめそうになったころ、森が終わった。
「ぎりぎり、だ。もう日が暮れる」
 ノモトさんは荒い息をはきながら、森をぬけたところにあった広場で夕焼け空を見た。赤い光がノモトさんを照らす。
「これで私がまだ森をぬけていなくって、森の中で夢を見ているだけとかだったらすごくいやだなあ。N本さんなら、絶対こう言うよ。あなたはまだ脱出できてないことに気付いていないんだ、って」


  (おわり)
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