ノモトさんは森の中

 朝日の差し込むマンションの一室で、ノモトさんは泣きながら目を覚ました。
「どうして私を置いて去ってしまったのでしょうか、N本さん。」
 静かにそう言って、ベッドから身を起こす。
「毎日毎日同じ夢ばかり。」
 ノモトさんは手の甲でぐいと涙をぬぐうと、ベッドの横に置いてある青色のリュックに目を落とした。
「このリュックがないとN本さんは困るはずなんですけれど。」
 ノモトさんはよいしょ、と言ってベッドからとびおりた。リュックを開けて、中から折りたたみテーブルを引っ張り出す。その拍子にリュックから銀色の缶がこぼれおちた。
「あ」
 急いでテーブルを広げ、円筒形のその缶をテーブルの上に置く。ふう、とノモトさんは息をはいた。
「朝ごはんをつくらなければ」
 ノモトさんは、部屋の隅にある段ボール箱の側まで行って、中をのぞいた。
「うわあ、じゃがいも一個きりしか食べ物がない」
 そこで、ノモトさんはテーブルの上の銀色の缶にそうっと目をやった。
 しばらく考え込んだあと、ノモトさんは、まあいいか、と言った。
「N本さんの置いていったクッキー、食べてしまいましょう」
 缶をあけて、中のクッキーをばきばきと食べ始める。「N本より」と書かれた銀色の缶の中のクッキーは、みるみる減っていった。
 ノモトさんは一心不乱にクッキーを食べていたが、ふと何かに気づいたような顔をして手を止めた。
「おや、なにやら声が聞こえたような」
「おい、気づけよ。おうい、聞こえてんのか。」
 間違いない、それは自分の声ではなかった。ノモトさんはそっと耳をすました。
「無視かよお前。なんで一人で一心不乱にクッキー食ってんだよ」
 謎の声に耳を澄ましながら、ノモトさんはクッキーまみれの自分の指をなめる。
「N本さん、じゃあないですよね」
 怪訝そうな声で尋ねるノモトさん。
「誰だよN本ってよ」
 対して、謎の声はぶっきらぼうに答える。ノモトさんはちらりとリュックに目をやった。
「そこじゃねえよ、段ボールの中だ」
 ノモトさんはクッキーの缶を手に持って、ゆっくりと部屋の片隅の段ボール箱のところに向かった。側まで行って覗き込む。段ボール箱の中には、じゃがいも一個きりしかない。
「となると、私に声をかけたのは、じゃがいもさんですかね」
「俺以外に誰かいるってんだよ」
 ノモトさんはゆっくりと周囲を見回した。そして、じゃがいもに目を戻して答える。
「誰もいません、あなたしかいません」
「そうだろ、そうだろ。で、そこの一人しかいないところのお前。俺を埋めろ」
「ええ、どうして私が埋めなきゃいけないのですか」
「つべこべ言ってんじゃねえよ、俺がこんな風になったのも、お前のせいだぜ? お前が俺を放りっぱなしにしたおかげで、芽が出て葉っぱまで出てきちまったんだ」
「む、それは申し訳ない」
「だから責任とって埋めろっつってんだよ」
「ふむう」
 ノモトさんは困ったようにあごに手を当てた。ちらり、とリュックを一瞥する。空色のリュック。ノモトさんは一瞬、遠い目をした。
「おいおいお前、聞いてんのか。埋めるのか埋めないのか、どっちかにしてくれ」
「はいはい」
 ノモトさんはじゃがいもを箱から取り出して、それをテーブルの上に置いた。
「でも少し待ってくださいよ。クッキーを食べてしまいますから。」
 ノモトさんはクッキーをまとめて口に押し込んだ。口をもぐもぐしながら、空になったクッキー缶をテーブルから床に移す。
「まだかよ」
「せかさないでくださいよ」
 ノモトさんはじゃがいもを空になった缶の中に入れた。折りたたみテーブルの上にはなにもない。そんなテーブルをノモトさんはていねいにたたんだ。
「出したら片づける。これ、助手の基本です」
「なんの助手だよ」
「巡業奇術師の助手ですよ。」
「お前、旅芸人なのか。部屋に住んでるように見えるけどな」
 ああ、と言ってノモトさんはベッドの横のリュックをとった。たたんだテーブルをリュックの中にしまう。
「置いてきぼりにされたんですよ、私」
「なんだ、クビになったのか。」
「クビに。まあ、そうですね」
 ノモトさんは部屋の電気を消してリュックを背負い、じゃがいもの入った缶を手に持った。
「さあ、出かけましょうか」
 部屋のドアに手をかけて、ノモトさんは言った。
「埋めに行ってくれるのか」
「あなたを埋めちゃだめなんて理由もありませんから」
 殺風景な部屋をちらりと振り返ってから、ノモトさんはドアを後ろ手に閉めた。
 ノモトさんはエレベーターに乗り、正面玄関を抜けて、マンションの正面にある広場に出た。青空に雲がぽつり、ぽつりと浮かんでいた。赤レンガでできた広場の向こうには、果てのない森が広がっている。
「森の方がいいですか」
 じゃがいもに問いかけるノモトさん。じゃがいもは葉っぱを少し揺らして答える。
「ぜいたく言うわけじゃねえけどな、ここはちょっとあれだぜ俺は。」
「ここ以外をご希望でしたら、森を抜ける気で行かないと無理ですね。下手に進むだけでは森に呑まれてしまいます。それなりの装備がなければ。N本さんじゃないんですから」
 ノモトさんは広場の隅に歩いていき、影にぽつんとある石のベンチに座った。背中を曲げ、膝の上にじゃがいも入り銀色缶を置く。

「なあ、N本さんって誰だ。お前、なんで置いてけぼりにされたんだ」
「先ほど話題に出ました、私が助手をしていた巡業奇術師。それが、N本さんです。巡業といっても、一座のメンバーは私とN本さんの二人だけだったのですが。なんで置いて行かれたか、ですって。さあ。私は巡業の役に立っていませんでしたからね。たぶんそれじゃないですか」
 こうして置いてきぼりにされてもまだ私はN本さんを信じているんですけどね。ノモトさんは石のベンチをがりがりと引っかきながら、そうつぶやいた。
 目の前に五階建ての灰色のマンションを望む、赤レンガ広場の石のベンチで、しばらく、じゃがいももノモトさんも黙っていた。
 強い風が吹いて、森の木々をざわめかす。ノモトさんは顔を上げた。そして、ぴたりと止まった。どうした、とじゃがいもが言った。
「屋上に人がいるんです」
 ノモトさんはふらりと立ち上がり、歩き出した。おいおいお前、とじゃがいもが声をかけたが、ノモトさんには聞こえていない。
 ノモトさんは階段を上り、上り、屋上を目指した。ノモトさんは屋上へ続くドアを勢いよく開けたいところをゆっくりと開けた。ドアがさびて開きにくくなっていたのだ。きいい、という音がした。
 屋上には確かに人がいた。シルクハットをかぶり、マントをつけた背の低いその人物に、ノモトさんは声をかけた。
「N本さん」
 黒ずくめシルクハットマントの人物は振り向いた。
「N本さん、こんなところで何を」
「何をしにきたと思う?」
N本さんはにやりと笑った。
「クビ切り宣告ですか」
「キミがそうしてほしいなら、そうしてもいいんですけどね、キミはなにぶん、優秀な助手だったから。手放すのは惜しいですね」
「ちょい待ち」
 とじゃがいもが言った。
「こら、N本さんよ」
「なんでしょうか、じゃがいもくん」
「勝手においていって、いまさら何しにきたんだお前」
「おや、いけませんか。いけませんか、ねえ。ノモトさん。」
 ノモトさんはいいえ、と小さくつぶやいた。
「N本さんは、自己中心すぎます」
 ほう、とN本さんは言った。
「私に仕事を任せておいて、いざ本番となるとなんでも自分でやってしまう。正直、お一人でも旅はできるでしょう? 任せる仕事もないのにどうして助手なんか雇ったんです。」
「ああ、つまり孤独か。孤独はつらいでしょうねえ、そりゃ確かにねえ、孤独は死に至る病、とはよく言ったものだよ」
 じゃがいもが、それをいうなら空腹だろ、とつぶやいた。N本さんは、気にしないの気にしないのと言った。
「いやあ、助手が死に至る病なんかにかかっちゃあ大変だ」
 大変ですよ、と缶を見つめながらノモトさん。N本さんはシルクハットの角度を直して、それなら、と言った。
「早く治さないとねえ。と、いうわけで、ワタクシ、今急いでいるのです、ノモトさん。そのリュックを持って、さっさとここを出ますよ」
「ええ?何いってんだお前」
 じゃがいもが口を挟む。
「次の目的地はおいしいきのこが特産品として有名な、森の東にある村ですよ。まあそこで当然見せ物をして、食事にありつこうというわけです。助手がいないといろいろ不都合なのですよ」
 ノモトさんは銀色の缶を持ち直した。N本さんはその缶をノモトさんからひょいと取って、歩き出す。
「ワタクシ、おなかがすいてます。空腹は死に至る病。森に入らないことには、食べ物も手に入らないでしょ。じゃがいもくんが埋めてほしいなら、途中で埋めてあげますよ。さ、行くよ」
「こら、N本。勝手にきめてんじゃねえよ」
「なんですか、不満ですか、じゃがいもくん。なんならここで食べてあげてもいいんだよ」
 じゃがいもをぴしりと指さすN本さん。
 ノモトさんはリュックを背負い直した。そして、N本さんの後ろから歩き出す。開きにくいドアを開けて、階段をおりる。正面玄関を抜け、赤レンガ広場を渡り、言い争うじゃがいもとN本さんを横目に、ちらりとマンションを振り返った。
「とどまりたいのかい、ノモトさん」
 真剣な声でN本さんがきいた。ノモトさんは答えない。
「逆に、なんでここをでていかなあかんねん、だよ」
 じゃがいもが怒ったような声で言う。
「じゃがいもくん、わからないかい。ノモトさん、もう一度訊くよ。このマンションにとどまりたいのかい」
 ノモトさんはちらりとN本さんを見た。
「あのとき、N本さんは私を見捨てたのですか」
「違うよ」
 N本さんは銀色の鏡面のようになっている缶をじっと見た。
「しかし、N本さんは、クッキー缶一つ置いていなくなったではないですか、置きみやげのように」
「クッキー缶は、直接渡そうと思ったのだよ、ノモトさん。ワタクシが贈呈品にはリボンを絶対にかけるってことは、キミも知ってるでしょ」
「ええ」
「ワタクシはリボンを取りに行ったのです。そこで迷子になった。戻って来てみると、助手がいなくなってるじゃあないですか、それも荷物ごと。そのときの驚きたるや、ああ、一言では言い表せないほどでした」
 N本さんは、クッキー缶が親のかたきでもあるかのように、にらみつけた。
「さてノモトさん」
「わかっています、しかし」
「わかりました。では隠すのはもうやめましょうか。つまるところクッキー缶は、優秀な助手への誕生日贈呈品であったわけですよ。こういうのって、普通隠すものだというじゃあないですか。それにならって、ワタクシも隠してみたのですが、ううむ、なんだかうまくいかなかったようですねえ」
 ということで、と言ってN本さんはノモトさんの胸ぐらをつかみ、勢いよく引っ張った。ノモトさんの立っていた所を緑色のなにかがかすめる。
 的を外した緑色のなにか、植物の蔦のようななにかは、いらいらととぐろを巻きながら照準を二人に合わせる。
「潮時です。ずらかりますよ、ノモトさん」
 N本さんはノモトさんを赤レンガの外に押し出すと、リュックからくるくる巻いたえんじ色の物体を取り出してのばした。
「えんじムカデ、起動」
 N本さんはえんじムカデにノモトさんをひっぱり上げた。
「なるべく急いでマンションから遠ざかってくださいねえ」
 じぐじぐじぐ、という音とともに、えんじムカデは森の中に分け入った。一行の背後から緑色の細長い蔦のようなものが追いかけるようにのびてきた。
「あのマンションの触手はどこまでのびるかわかるかな、ノモトさん」
「はい、赤レンガ広場の四倍が目安、だったと記憶しています」
「正解です。あと七〇メートルぐらいで射程範囲を抜けるね」
「え、あのマンションって、生きてんのか」
 N本さんは缶の中のじゃがいもを見下ろして、人差し指を振って見せた。
「じゃがいもくん、あれはね、灰色マンションという、れっきとした植物だよ。マンションに擬態して、住み着いた生物を三日後に食べてしまうんだ、いや怖いねえ」
 N本さんは怖い怖い、と繰り返した。そのまま六分間の間、誰も口をきかなかった。沈黙を破ったのは、ノモトさんだった。
「N本さん」
「はあい、なんでしょう」
「迷子になるのはやめてください」
「そんな、無茶な。迷子になるのは仕方がないよ。だからね」
 N本さんは振り返った。ノモトさんはじゃがいもの缶をN本さんから受け取った。
「ノモトさん、ワタクシがあなたをクビにしたいときは、きちんと言ってから去りますから、それ以外の時は探しに来てください。もしあなたがワタクシの前から永遠に去ってしまおうとするなら、事前にその旨をきちんと私に言ってください。それ以外の時は探しに行きますから」
 約束ですよ、とN本さんは付け足した。ノモトさんは五秒間黙って、うなずいた。
「いいでしょう、ノモトさん。約束です」
「俺を埋めるのも、約束だぜ」
「じゃがいもくん、それはずるいなあ」
「いいじゃねえか。かたいこと言うんじゃねえ」
「じゃがいもくんだって、役に立ちましたよ、N本さん」
「何のだい」
「何かの、です」
 まあいいでしょう、とN本さんは言って、えんじムカデの進行方向に体を向けた。そして、シルクハットに人差し指を当てて、発言する。
「灰色マンションに食べられると痛いっていうでしょう。ノモトさんもそう思いますよね。だからもう二度と、食べられようなんて思わないでくださいね」
 ええ、とノモトさんは肯定する。
「もう二度と食べられようなんて思いません……少なくとも今のところは」
 N本さんはその答えを聞くと、うんうんと頷いた。


  (おわり)
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