長編『亀のゾンビサバイバルログ』(全26話番外編3話、完結済)
夜のラーメン屋から出ると、キンモクセイの香りがした。
近くに木があるのだろう、見回して、見つからずに、僕はなんとなく空を見上げる。
「わあ」
思わず声が出る。
秋の澄んだ夜空にいっぱい、散りばめられたかのように星が瞬いていた。
「どうしたのだ、亀よ」
遅れてラーメン屋の引き戸から出てきたキャソック姿の男性が僕に声をかける。
「あ、神父」
ゾンビ災害のあった地域で出会って一緒に旅をして、一緒に脱出した、カンフーが得意な神父。それが彼だ。色々あって、脱出後も僕と一緒に暮らしている。こちらでも教会に勤めるのかと思いきやそれはせず、地元のカンフー教室の先生をしている。
「空を見上げているようだが……、」
神父が空を見上げて、これは、と言った。
「星、か」
「ええ」
僕は神父を見る。神父は空を見上げた姿勢のまま固まっている。
「星か……」
「珍しいですか?」
僕が問うと、いや、と否定が返る。
「あちらにいた時にも星はあった。たくさんな。だが、それを見て、今の……このような気持ちになることはなかった」
「このような?」
「吸い込まれるような、強く引きつけられるような、星空に心が拡散していくような。何と言えばよいのだろうな」
ううん、と僕。
「美しい、とかですかね?」
「美しい、なるほど。そういった感情なのだろうな」
うつくしい、と神父が呟く。その息は白く、空中に留まった後にすうっと消える。
「もうすぐ、冬が来ますね」
「ああ」
「冬にはオリオン座がよく見えますよ。僕、オリオン座好きなんです」
「オリオンか。月の女神に射られ、召されたという」
「ええ」
ずっとラーメン屋の前にいてもなんですから、場所を変えましょうか、と僕。そうだな、と神父は同意した。
「君はオリオンが好きなのかね?」
「いえ。オリオン座が好きなんです」
「ほう」
「星が三つ並んでいて、見つけやすいですからね。僕は星座はよくわかりませんが、オリオン座を見つけてあ、オリオン座だ、と思うときだけはなんだかわかってるような気になって楽しいんです」
「なるほどな」
神父は空を見上げながら歩いている。
「神父は星座がわかるんですか?」
「最低限、だが」
「おお、すごいですね」
「方角を知るのに必要な知識ゆえ。君のように特別な思い入れがあるわけではない」
淡々と答える神父。
「でも、今は美しいと思ってるんでしょう?」
「そうだな」
「思い入れなんていつでも生まれるものですよ。でも僕は……」
そこで言葉を切る。
「続けたまえ」
「えーと」
「構わんぞ」
僕は観念した。
「僕は……思い入れなんて、ない方がいいと思っていました」
「ほう」
「思い入れがあったら、余計な情が入ってしまうから。余計な情は、動きを鈍らせます。動きが鈍ったら、みんなについていけない。僕は今まで生きてきてみんなについていけないことばかりだったから」
「……」
「でも、別に無理してついていく必要はないんだなって今は思ってます。ついていけてないと思ってつらくなる時はありますが、できないことを無理にやろうとしても仕方がないですからね」
そうか、と神父。
「生きるのだな」
「ええ」
僕は頷いた。
双方の足が止まる。
街灯がぽつんと立つ、河川敷。僕と神父がよく散歩をする道だった。
僕たちは斜面に腰を下ろした。
神父が星を見上げる。僕もつられて見上げる。
冷たい大気に瞬く星々。
僕も、あちらにいたときは星を美しいと思える余裕がなかった。星は冷たく、無慈悲に僕を見下ろしていて、それを見上げていても、空の暗さと散らばる光点の群れになんだか怖くなるだけで。
それを、今は美しいと思えている。星の冷たさは美しさに変わり、僕の心をもう責めないし、無慈悲であっても常にそこにあってくれるし、空の暗さを怖いとは思わないし、散らばる姿は感情の扉を叩いてくれて、むしろ好きだ。
僕にどういう変化があったのか。たぶん、心に余裕ができたんだろう。心に余裕ができたのは——
僕は隣を見た。空を見上げる同行者の漆黒の瞳は、瞬く星々が映り込んできらめいている。
「————」
それを言葉にしたのか、しなかったのかはわからない。次に目を開けたとき、僕は自室にいたからだ。
カーテンの隙間から朝の光が射し込んでいる。
僕は伸びをした。身体から毛布が滑り落ちる。
トーストが焼ける香り。
昨晩のことは夢だったのだろうか、とぼんやり思う。
眠い目をこすりながら食卓に向かうと、神父がパンを皿に並べていた。
「すみません、僕のぶんまで」
「よい。それより、目をこすってはいけないぞ、亀よ」
「ああ……すみません」
僕は目をこすっていた手を脇に下ろした。神父はこちらを見て頷くと、食卓に座った。
「君も座りたまえ」
「はい」
いただきます、と言いながら手を合わせる。神父はいつものように無言で祈っている。僕は神父の祈りが終わるのを待ってから食べ始めた。
食事の後、洗い物をしている僕に神父が声をかける。
「美しい、と」
「あれ?」
「そう言うのだったな」
「覚えてるんですね」
「当然だ」
「よかった」
昨日のことは夢ではなかったのだ。
「星々の美しさを、私は知った。これからもまた、様々な美しさを知っていくのだろう」
「ええ」
「私はそれを……好ましく思うよ」
ええ。と、僕は答えた。
晴天の予報。今晩もきっと、星がよく見えるだろう。
開いた窓からは、キンモクセイの香りがした。
(おわり)
近くに木があるのだろう、見回して、見つからずに、僕はなんとなく空を見上げる。
「わあ」
思わず声が出る。
秋の澄んだ夜空にいっぱい、散りばめられたかのように星が瞬いていた。
「どうしたのだ、亀よ」
遅れてラーメン屋の引き戸から出てきたキャソック姿の男性が僕に声をかける。
「あ、神父」
ゾンビ災害のあった地域で出会って一緒に旅をして、一緒に脱出した、カンフーが得意な神父。それが彼だ。色々あって、脱出後も僕と一緒に暮らしている。こちらでも教会に勤めるのかと思いきやそれはせず、地元のカンフー教室の先生をしている。
「空を見上げているようだが……、」
神父が空を見上げて、これは、と言った。
「星、か」
「ええ」
僕は神父を見る。神父は空を見上げた姿勢のまま固まっている。
「星か……」
「珍しいですか?」
僕が問うと、いや、と否定が返る。
「あちらにいた時にも星はあった。たくさんな。だが、それを見て、今の……このような気持ちになることはなかった」
「このような?」
「吸い込まれるような、強く引きつけられるような、星空に心が拡散していくような。何と言えばよいのだろうな」
ううん、と僕。
「美しい、とかですかね?」
「美しい、なるほど。そういった感情なのだろうな」
うつくしい、と神父が呟く。その息は白く、空中に留まった後にすうっと消える。
「もうすぐ、冬が来ますね」
「ああ」
「冬にはオリオン座がよく見えますよ。僕、オリオン座好きなんです」
「オリオンか。月の女神に射られ、召されたという」
「ええ」
ずっとラーメン屋の前にいてもなんですから、場所を変えましょうか、と僕。そうだな、と神父は同意した。
「君はオリオンが好きなのかね?」
「いえ。オリオン座が好きなんです」
「ほう」
「星が三つ並んでいて、見つけやすいですからね。僕は星座はよくわかりませんが、オリオン座を見つけてあ、オリオン座だ、と思うときだけはなんだかわかってるような気になって楽しいんです」
「なるほどな」
神父は空を見上げながら歩いている。
「神父は星座がわかるんですか?」
「最低限、だが」
「おお、すごいですね」
「方角を知るのに必要な知識ゆえ。君のように特別な思い入れがあるわけではない」
淡々と答える神父。
「でも、今は美しいと思ってるんでしょう?」
「そうだな」
「思い入れなんていつでも生まれるものですよ。でも僕は……」
そこで言葉を切る。
「続けたまえ」
「えーと」
「構わんぞ」
僕は観念した。
「僕は……思い入れなんて、ない方がいいと思っていました」
「ほう」
「思い入れがあったら、余計な情が入ってしまうから。余計な情は、動きを鈍らせます。動きが鈍ったら、みんなについていけない。僕は今まで生きてきてみんなについていけないことばかりだったから」
「……」
「でも、別に無理してついていく必要はないんだなって今は思ってます。ついていけてないと思ってつらくなる時はありますが、できないことを無理にやろうとしても仕方がないですからね」
そうか、と神父。
「生きるのだな」
「ええ」
僕は頷いた。
双方の足が止まる。
街灯がぽつんと立つ、河川敷。僕と神父がよく散歩をする道だった。
僕たちは斜面に腰を下ろした。
神父が星を見上げる。僕もつられて見上げる。
冷たい大気に瞬く星々。
僕も、あちらにいたときは星を美しいと思える余裕がなかった。星は冷たく、無慈悲に僕を見下ろしていて、それを見上げていても、空の暗さと散らばる光点の群れになんだか怖くなるだけで。
それを、今は美しいと思えている。星の冷たさは美しさに変わり、僕の心をもう責めないし、無慈悲であっても常にそこにあってくれるし、空の暗さを怖いとは思わないし、散らばる姿は感情の扉を叩いてくれて、むしろ好きだ。
僕にどういう変化があったのか。たぶん、心に余裕ができたんだろう。心に余裕ができたのは——
僕は隣を見た。空を見上げる同行者の漆黒の瞳は、瞬く星々が映り込んできらめいている。
「————」
それを言葉にしたのか、しなかったのかはわからない。次に目を開けたとき、僕は自室にいたからだ。
カーテンの隙間から朝の光が射し込んでいる。
僕は伸びをした。身体から毛布が滑り落ちる。
トーストが焼ける香り。
昨晩のことは夢だったのだろうか、とぼんやり思う。
眠い目をこすりながら食卓に向かうと、神父がパンを皿に並べていた。
「すみません、僕のぶんまで」
「よい。それより、目をこすってはいけないぞ、亀よ」
「ああ……すみません」
僕は目をこすっていた手を脇に下ろした。神父はこちらを見て頷くと、食卓に座った。
「君も座りたまえ」
「はい」
いただきます、と言いながら手を合わせる。神父はいつものように無言で祈っている。僕は神父の祈りが終わるのを待ってから食べ始めた。
食事の後、洗い物をしている僕に神父が声をかける。
「美しい、と」
「あれ?」
「そう言うのだったな」
「覚えてるんですね」
「当然だ」
「よかった」
昨日のことは夢ではなかったのだ。
「星々の美しさを、私は知った。これからもまた、様々な美しさを知っていくのだろう」
「ええ」
「私はそれを……好ましく思うよ」
ええ。と、僕は答えた。
晴天の予報。今晩もきっと、星がよく見えるだろう。
開いた窓からは、キンモクセイの香りがした。
(おわり)