長編『亀のゾンビサバイバルログ』(全26話番外編3話、完結済)
色々あったせいか、目が冴えている。今いる教会の隅から隅、ステンドグラスに写る暗闇や、静まり返った空気までが気になるような気分だ。
眠ろうとしているところを邪魔するのは悪いとは思いつつ、神父に声をかけてみる。
「あの、神父」
演壇に座って目を瞑っていた神父が目を開けた。
「眠れないのかね」
「ええ……」
「話くらいなら付き合うが」
「ありがとうございます」
「何でも言いたまえ」
何でも、と言われると逆に何も思い付かなくなる。しかし、そういえば夕方に、神父と僕はお互いの過去を知らない、なんてことを考えていたなと思い付く。
「では……神父はこの地域がゾンビだらけになる前はどこに住んでたんですか?」
「……中心街だ」
「へえ……僕も中心街にはたまに行ってたので、どこかですれ違ってたかもしれません」
「ああ」
信徒席は木製で少し狭く、甲羅を背負ったまま横たわるにはきつかった。僕は記者さんに教わった方法で甲羅を外し、足元に置いて片手を触れさせた状態で寝ていた。
「僕は駅前の本屋によく行ってましたよ。と言っても片手で数えられる程度の回数ですが」
「本が好きなのかね?」
神父が訊ねる。
「好き……なのかもしれません。昔はよく読んでいたんですが、大学に入ってからめっきりですね」
「理由はあるのかね?」
理由。理由か。昔と今で何か変わったのだろうか、本を読むと疲れることが多くなったのは確かだが、手が伸びなくなった理由か。僕は少し考えてから答えた。
「読もうと思っても、読んで考えるためのエネルギーが足りてないような気がして、手をつけにくくなりました。疲れちゃうんです」
「ふむ」
「歳ですかね……」
「そうとも言える。が、疲れるほど考えられるようになったとも言える」
「ううん。色々考えられるようになってもあまりいいことはない気がするんですけどね」
いいことはない。まず、考えたことを共有する相手がいない。考えてもただ澱のように溜まっていくだけで、何の役にも立っていないのだ。
「本当にそう思っているのか?」
「解決できないことについて考えても、仕方ないじゃないですか」
「それを考えることが求道においては大切なのだよ」
「あ、聖職者らしい発言。レアですね。でも僕、求道するつもりはないですよ。平穏に生きたいだけで」
こんなゾンビだらけの地域の外に出て、何に悩まされることもなく平穏に生きていく未来のことを、僕は夢想した。
甲羅を得る前は悩んでばかりだったけれど、甲羅を得てから悩むことが少し減った気もする。これで外に出られれば、念願の平穏な暮らしが手に入るのではないか。
壁にかかったろうそくの光がちらちら揺れている。
「平穏に暮らしたいなら神を信じたまえ。全てを神の思し召しだと考えられるようになれば、幾分か楽になれるだろう」
座ったまま、体勢を全く変えずに神父は言った。
「信じるにもある種努力が必要じゃないですか。それが嫌なんですよ」
ろうそくがじじ、と音を立てる。
「努力は嫌いか?」
「好きじゃないですね。楽しい努力ならいいんですけど、つらい努力とか、やってて疑問が湧いてくる努力とかはしたくないです」
「潔癖だな。この国では生き辛かろう」
「そうで……いやまあ、亀ですからね。人間とは違います。生き辛いのは当たり前ですよ」
「……そうか」
そう言うと、神父は無言で僕を見た。漆黒の瞳には何の感情も浮かんでいない。
神父はたまにこういう目をする。視線の先に注意を向けているのはわかるが、内心を窺い知れないような目だ。
初めのうちは機嫌でも悪いのかとはらはらしていたが、特にそういうわけではなさそうだとわかってからは心配するのをやめた。
迷いがないように見える神父にも、考えることはあるのだろう。神父も一人の人間なのだ。
僕は亀だが、亀であっても色々考えているのだから、人間だってそうだと思う。考える葦である、なんて言うくらいだし。
「気分はどうかね? 一旦試しに目を閉じてみるというのもいいかもしれんぞ」
こちらを見たまま、神父が言う。
「はい。そうします」
素直に目を閉じると、眠りは案外すぐにやってきた。
眠ろうとしているところを邪魔するのは悪いとは思いつつ、神父に声をかけてみる。
「あの、神父」
演壇に座って目を瞑っていた神父が目を開けた。
「眠れないのかね」
「ええ……」
「話くらいなら付き合うが」
「ありがとうございます」
「何でも言いたまえ」
何でも、と言われると逆に何も思い付かなくなる。しかし、そういえば夕方に、神父と僕はお互いの過去を知らない、なんてことを考えていたなと思い付く。
「では……神父はこの地域がゾンビだらけになる前はどこに住んでたんですか?」
「……中心街だ」
「へえ……僕も中心街にはたまに行ってたので、どこかですれ違ってたかもしれません」
「ああ」
信徒席は木製で少し狭く、甲羅を背負ったまま横たわるにはきつかった。僕は記者さんに教わった方法で甲羅を外し、足元に置いて片手を触れさせた状態で寝ていた。
「僕は駅前の本屋によく行ってましたよ。と言っても片手で数えられる程度の回数ですが」
「本が好きなのかね?」
神父が訊ねる。
「好き……なのかもしれません。昔はよく読んでいたんですが、大学に入ってからめっきりですね」
「理由はあるのかね?」
理由。理由か。昔と今で何か変わったのだろうか、本を読むと疲れることが多くなったのは確かだが、手が伸びなくなった理由か。僕は少し考えてから答えた。
「読もうと思っても、読んで考えるためのエネルギーが足りてないような気がして、手をつけにくくなりました。疲れちゃうんです」
「ふむ」
「歳ですかね……」
「そうとも言える。が、疲れるほど考えられるようになったとも言える」
「ううん。色々考えられるようになってもあまりいいことはない気がするんですけどね」
いいことはない。まず、考えたことを共有する相手がいない。考えてもただ澱のように溜まっていくだけで、何の役にも立っていないのだ。
「本当にそう思っているのか?」
「解決できないことについて考えても、仕方ないじゃないですか」
「それを考えることが求道においては大切なのだよ」
「あ、聖職者らしい発言。レアですね。でも僕、求道するつもりはないですよ。平穏に生きたいだけで」
こんなゾンビだらけの地域の外に出て、何に悩まされることもなく平穏に生きていく未来のことを、僕は夢想した。
甲羅を得る前は悩んでばかりだったけれど、甲羅を得てから悩むことが少し減った気もする。これで外に出られれば、念願の平穏な暮らしが手に入るのではないか。
壁にかかったろうそくの光がちらちら揺れている。
「平穏に暮らしたいなら神を信じたまえ。全てを神の思し召しだと考えられるようになれば、幾分か楽になれるだろう」
座ったまま、体勢を全く変えずに神父は言った。
「信じるにもある種努力が必要じゃないですか。それが嫌なんですよ」
ろうそくがじじ、と音を立てる。
「努力は嫌いか?」
「好きじゃないですね。楽しい努力ならいいんですけど、つらい努力とか、やってて疑問が湧いてくる努力とかはしたくないです」
「潔癖だな。この国では生き辛かろう」
「そうで……いやまあ、亀ですからね。人間とは違います。生き辛いのは当たり前ですよ」
「……そうか」
そう言うと、神父は無言で僕を見た。漆黒の瞳には何の感情も浮かんでいない。
神父はたまにこういう目をする。視線の先に注意を向けているのはわかるが、内心を窺い知れないような目だ。
初めのうちは機嫌でも悪いのかとはらはらしていたが、特にそういうわけではなさそうだとわかってからは心配するのをやめた。
迷いがないように見える神父にも、考えることはあるのだろう。神父も一人の人間なのだ。
僕は亀だが、亀であっても色々考えているのだから、人間だってそうだと思う。考える葦である、なんて言うくらいだし。
「気分はどうかね? 一旦試しに目を閉じてみるというのもいいかもしれんぞ」
こちらを見たまま、神父が言う。
「はい。そうします」
素直に目を閉じると、眠りは案外すぐにやってきた。