短編小説(3庫目)

 俺は繊細な人間だった。
 誰かが怒れば身を竦ませて謝り、誰かが不機嫌になれば様子を窺い、笑っていれば、その裏に暗い意志がないか邪推する。
 そういう人間だった。
 仔細は省くが、ある日突然その俺の繊細さは消え失せ、全てがなくなった。
 誰かが怒っていてもわからない。不機嫌も読み取れないし、読み取っても勘違いではないかともみ消してしまう。笑いの裏も読まなくなった。
 極端に鈍くなったのだ。

 生活で困ることはなくなった。福祉の網にかかったからだ。
 戦えなくなった勇者の行く場所に行き、戦えなくなった勇者のもらうゴールドを貰った、というだけのこと。
 戦えなくなった勇者の行く場所には、戦えなくなった勇者と、そもそも戦えないのに勇者に選ばれてしまった奴が一緒にいた。
 それで軋轢が起こるわけでもない。平和な場所で、そもそも戦えない奴らは単純な理屈で動いていたから。
 だから?
 さあ。
 俺が繊細さを失ったのは、祝福だったのかもしれないし、呪いなのかもしれない。どっちでもいいことだ、そもそも俺だって戦えないのに戦っていた奴なのだし。
 何もかも、言えばおかしくなってしまう。そういった点においては俺の繊細さもまだ残っているのではないかと思ったが、まあ、これは保身なのだろう。

 ネットワークの上では全てが平等で、責任ある冒険者として扱われる。
 いくら俺に欠陥があって戦えない勇者だとしても、ネットワークの上ではまるでそれがないかのように扱われるのだ。

 毎日毎日冒険者ネットワークに接続するのは心の健康によくない。
 僧侶にそう言われた。
 それはそう。
 完全にネット依存だ。普段の生活に刺激がないせいか。それとも逃避か。
 わからない。

 それでも勇者として毎日修練はするものの、自分の苦手なジャンルの修練をしているのではないかと思いながら長く続けてしまったものだから、もう引き返せない。賭け事士の心理だ。
 この世界で生きていくのは難しい。
 あなた最近人の心が読めなくなったわね、なんてことは言われない。僧侶も仕事で来ているからだ。
 仕事上の付き合いの相手に対してその心理にまで踏み込むことは、普通は、しない。
 育成するときでもなければ。

 そんな俺の常識も古い常識となった。現役だった時代は遠のき、冒険者ネットワークのほかにネットワーク内部でアバターを使って冒険する奴なんかも増えたりして、俺にはそんなこと想像もつかない。このまま古い元勇者として死んでゆくのだろう、と思う。
 それでも俺は生きているから、食べて寝て、生きて、をしなければならない。
 億劫だな、と思う。
 生きるにはゴールドが必要、勇者といってもただの人間だ。お腹は空くし、眠くもなる。
 この場所がある限り俺は生きることができるが、場所がなくなったらどうする?
 冒険者ネットワークにも接続できなくなるほどの貧困に落ちてしまうかもしれないし、毎日満足に食べられず、筋肉量が減ってしまうかもしれないし。
 
 世界に終わってほしくはない。だからこそ、王は大量の勇者を必要としていて。昔、海の向こうから「基本的人権」が渡ってきたからこそ、俺たちのような戦えない勇者も生きてて良い、とされている。
 「平等」は無いからこそ謳われる。人類は平等じゃない。だからこそ。
 きれいごとだと思うか。俺は思わない。いくら叩かれても俺はそういう思想だし、繊細さも失ってご機嫌伺いもしないから、それで終わりだ。

 このまま俺は沈んでいくのかもしれない。ゴールドが尽きたときが俺の終わりだ。
 どんどんだめになってゆく。それに比して、心は元気になってゆく。地に残っていた俺の駄目さが浮き彫りになって、これは病気じゃない。俺の純粋な駄目さなんだ。と思うとまた、心が駄目になってゆく。皆と同じようにできない。皆のやっているやり方でできない。いつもの悩みが舞い降りて、そうだ。それが俺の心を破壊して、社会の底まで落としたのだった。

 もはやどれが病でどれが駄目さなのかわからない。剣士や学者も同じことを言っていた。病気なのかサボっているのかはっきりしろと。
 俺は。
 俺にだってわからないんだ。だからここにいるのに。
 いつまで経っても終わらない。終わってくれない。

 ぬるい地獄のような現実から、俺はまた、目を逸らす。
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