短編小説(3庫目)
「お加減、いかがですか? 僕は小笠原。新任の研修医です」
「……先生。俺、自分に幅が無いと思うんです」
「それはまた、どういうこと」
「生まれてこの方、何も経験してない、みたいな、何も記憶が無い、みたいな気持ちで生きてきて」
「何も経験してない、ですか。生きている以上何事かは経験しているはずですが……」
「それがまるで無いみたいに思えるんです。すっぱりと、何もないように思える……雪の下に俺の記憶はあって、踏み固められた雪がそれを分厚く覆い隠して、その上で俺は立ったり歩いたり滑って転んだりして生きてる」
北国だというのに窓の外はぎらぎら輝く太陽が照っている。
海の見える病院は夏でも患者が過ごしやすいように作られた。しかし温暖化が加速し気候が極端化し、夏はじりじりと暑く、冬は凍える、そんな病院に。建物の中には精神を病んだ患者たちが苦しそうに暮らしている。
荒んだ環境に『先生』であるところの僕は心の中でため息を吐く。
いけないな。目の前の患者に集中しなければ。
「日中、ぼんやりすることはありますか」
「そりゃあもう。ぼーっとしちゃって何もできないことがたくさん、それに眠いんです。作業療法のときも眠くて、ピアノを弾きながら寝ちゃうことだってあるんです」
「それは困りましたね」
「どうにかなりませんかねえ。つっても俺は入院してるのだし、なんとかなっても隔離中ですけどね、ハハハハハ」
「そんなこと言わないでくださいよ」
「言いますよ。結局ね、精神病院つったって急性期の患者は少なくて、その実体は社会の邪魔物・精神病患者の隔離、認知症になった老人たちの隔離なんですよ。みんなそんなことわかってるんだ。なーんで改善しないんですかね? 出たいです、と言い出さないと退院できない病院なんてどうかしてますよ」
「病床が足りないとこもありますからねえ。比べて、じっくり腰を据えた治療ができるうちは良い方ですよ」
「そんなこと言います? 出たがってる患者に対して」
「僕はよかれと思って……」
「よかれで病状良くなるなら俺はとっくに退院してますし、こんなとこにはいませんよ」
ああ。またやってしまった、と僕は思う。
僕はコミュニケーションが上手くない。外科医を志して入った医学部で落ちこぼれ、この分野に進んだ。
「ねえ先生、まだ話さなきゃだめですか?」
「往診ですからね。最低限時間は決まっています」
「冷たいですねえ、先生は。小笠原って名字と真逆みたいだ」
「……医療従事者には冷たさが必要なときもあるんです」
僕は何を言っているのだろう。
一人の患者にペースを乱されて、僕は。
「ねえ先生。お医者さんごっこは楽しいですか ?」
「は……」
「あなたも俺と同じ、患者だ。外科医志望で途中で精神を壊して入院したのは気の毒だと思うよ、でもそんな風にしていたら本当のお医者さんの邪魔になってしまう」
『往診です』
「ああほら、往診みたいだ。俺は自分のベッドに戻るから。遊んでくれてありがとう」
「……」
『お加減いかがですか? 小笠原さん』
「……まあ、それなりに」
北国の、海が見えるのに牢獄みたいな病院。
温暖な気候なのに冷たい心の僕、小笠原。
対比もいい加減にしないと、病状が悪化する。
ああ――こんなはずじゃなかったのにな。
病が分かった途端、蜘蛛の子を散らすかのように離れていった友人たち。もうついていけないわ、と去った彼女。堅牢な要塞のような態度になった指導教官。ブロックされたPIMEの数々。耐えられなくてアカウントを消して、
残っていた友人たちまで切り捨てて、僕は一人になった。
見方によれば平凡な出来事。悲劇にすらならない、ただの挫折だったはずのものは、病んだ脳には重すぎた。
だから僕は。
何もなかったかのようにして。
「お加減、いかがですか? 僕は小笠原。新任の研修医です」
(完)
「……先生。俺、自分に幅が無いと思うんです」
「それはまた、どういうこと」
「生まれてこの方、何も経験してない、みたいな、何も記憶が無い、みたいな気持ちで生きてきて」
「何も経験してない、ですか。生きている以上何事かは経験しているはずですが……」
「それがまるで無いみたいに思えるんです。すっぱりと、何もないように思える……雪の下に俺の記憶はあって、踏み固められた雪がそれを分厚く覆い隠して、その上で俺は立ったり歩いたり滑って転んだりして生きてる」
北国だというのに窓の外はぎらぎら輝く太陽が照っている。
海の見える病院は夏でも患者が過ごしやすいように作られた。しかし温暖化が加速し気候が極端化し、夏はじりじりと暑く、冬は凍える、そんな病院に。建物の中には精神を病んだ患者たちが苦しそうに暮らしている。
荒んだ環境に『先生』であるところの僕は心の中でため息を吐く。
いけないな。目の前の患者に集中しなければ。
「日中、ぼんやりすることはありますか」
「そりゃあもう。ぼーっとしちゃって何もできないことがたくさん、それに眠いんです。作業療法のときも眠くて、ピアノを弾きながら寝ちゃうことだってあるんです」
「それは困りましたね」
「どうにかなりませんかねえ。つっても俺は入院してるのだし、なんとかなっても隔離中ですけどね、ハハハハハ」
「そんなこと言わないでくださいよ」
「言いますよ。結局ね、精神病院つったって急性期の患者は少なくて、その実体は社会の邪魔物・精神病患者の隔離、認知症になった老人たちの隔離なんですよ。みんなそんなことわかってるんだ。なーんで改善しないんですかね? 出たいです、と言い出さないと退院できない病院なんてどうかしてますよ」
「病床が足りないとこもありますからねえ。比べて、じっくり腰を据えた治療ができるうちは良い方ですよ」
「そんなこと言います? 出たがってる患者に対して」
「僕はよかれと思って……」
「よかれで病状良くなるなら俺はとっくに退院してますし、こんなとこにはいませんよ」
ああ。またやってしまった、と僕は思う。
僕はコミュニケーションが上手くない。外科医を志して入った医学部で落ちこぼれ、この分野に進んだ。
「ねえ先生、まだ話さなきゃだめですか?」
「往診ですからね。最低限時間は決まっています」
「冷たいですねえ、先生は。小笠原って名字と真逆みたいだ」
「……医療従事者には冷たさが必要なときもあるんです」
僕は何を言っているのだろう。
一人の患者にペースを乱されて、僕は。
「ねえ先生。
「は……」
「あなたも俺と同じ、患者だ。外科医志望で途中で精神を壊して入院したのは気の毒だと思うよ、でもそんな風にしていたら本当のお医者さんの邪魔になってしまう」
『往診です』
「ああほら、往診みたいだ。俺は自分のベッドに戻るから。遊んでくれてありがとう」
「……」
『お加減いかがですか? 小笠原さん』
「……まあ、それなりに」
北国の、海が見えるのに牢獄みたいな病院。
温暖な気候なのに冷たい心の僕、小笠原。
対比もいい加減にしないと、病状が悪化する。
ああ――こんなはずじゃなかったのにな。
病が分かった途端、蜘蛛の子を散らすかのように離れていった友人たち。もうついていけないわ、と去った彼女。堅牢な要塞のような態度になった指導教官。ブロックされたPIMEの数々。耐えられなくてアカウントを消して、
残っていた友人たちまで切り捨てて、僕は一人になった。
見方によれば平凡な出来事。悲劇にすらならない、ただの挫折だったはずのものは、病んだ脳には重すぎた。
だから僕は。
何もなかったかのようにして。
「お加減、いかがですか? 僕は小笠原。新任の研修医です」
(完)
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