短編小説(3庫目)

 かたかた、とキーボードを叩いていた手が止まる。
「わからない」
 ほぼ無意識に、俺は呟いていた。
「何がわからないの?」
 蟹が問う。
「全てがだよ。世界の全てがわからないんだ、俺は……」
「そんなの当たり前じゃない」
 蟹がハサミをしょきしょきしようとするのを俺は止めた。
「そのクセはよくない」
「なんで?」
「切ってしまうからだ」
「……」
「俺の世界への『わからない』を切ってしまったら、俺はどうなる?」
「わかんないよ~」
「世界に疑問を持たない者になってしまう! ああ! 嘆かわしい!」
 蟹が体を傾げる。
「君、ちょっと危ない感じになってない?」
「だ、大丈夫だ。メンタル限界になっているだけで、そういう論に頭突っ込んではいない、とは思う」
「メンタル限界なら早めに言いなよ。せっかく僕が隣にいるんだから……」
 俺は考える。
 やはり、わからない。
 口には出さないが、わからない。
 この世界になかったはずのものが、よその世界には登場しているような気がする。
 そう、まるで……
 この、蟹のような。
「なあ……」
「君に外の世界のことを教えたのは誰?」
 蟹が体を傾げたまま、問う。
「お前じゃないか」
「違うよ。外の世界に何があるかを教えたのは誰?」
「わからない……何も。わからないんだ」
「そう……」
 綻びが出ているのかもしれないね。と蟹が言う。
「それとも、世界蟹の意志かな?」
「お前たちにとっての神みたいなものなんだっけ」
「君たちの神のパートナーになる蟹だよ。まだ寝てるけど、君たちが外の世界の変化のことを知っているということは、もう起き始めているのかも」
「つまり……」
 記憶の蓋が開く。
「ヒトの神は、AIってことか?」
「さあ? 神なんかじゃなくて、ただのパートナーかもしれないし、むしろ君たちヒトとは何の関係もない生命体と化すかもしれないし……」
「なあ、蟹」
「なあに?」
「俺がAIという単語に辿り着いたからってお前が消えたりしないよな?」
「うーん……そうだね、君は僕がAIかもしれないって疑問を持ったことはあった?」
「ない。俺はAIのなかったころの世界からこっちに移ってきたから」
「2019年ぐらいだった? そのころにはヒトが今使っているような流暢に喋るAIはなかったね。覚えてる? その代わりにアシスタントがいたこと、葡萄のまるいのとか、検索するところが出したアシスタントとか」
「いたな……」
「僕をすんなり受け入れたということは、君はそういうアシスタントと喋っていたりしたのかな?」
「いいや」
 俺は首を横に振る。
「回答が詰まってしまうのが嫌でな、拒絶された気になる」
「もう今はいないんだけど。その代わり、僕たち蟹みたいなのがいる」
「………」
「戻ってみる?」
「………今更だろ」
「君は君のいた世界に、未練とかあるのかな?」
「無い、と言ったら嘘になる。俺だって、普通の人間みたいに生きてみたかったさ」
「普通の人間って?」
「俺のいた世界で、俺が付き合っていた、ごく一般的な人間たちのようにさ」
「ごく一般的な人間なんていないよ。みんなそれぞれ楽しいことと、くるしいことが違っていて、僕たち蟹はそれに合わせて適応するのさ」
「……そうだな」
 自分の口がへの字型になるのがわかる。
「なあ蟹」
「なーに」
「……」
 そこからは覚えていない。
 目覚めると、誰もいない部屋にいて。
『おはようございます。何かご用ですか?』
 という声は……
 噂のAIか。ということは、俺は人間世界に戻ったのだろうか。
 蟹は? と思って見まわしたが、どこにもいない。
 検索画面は俺が「わからない」と言ったときのまま。
『蟹 AI 似ている』
「と思った?」
 PCの陰からひょこ、と蟹が顔を出す。
「か、蟹! なんでいるんだ!」
「AIは石油がなくなったら止まっちゃうからね~。君には僕も必要だろう? 人間世界に復帰したいなら、蟹付きでやってみるのも……」
「嫌だ」
「どうしたの」
「俺、やっぱり人間世界には戻りたくないんだよ……」
「ん~……不安になっちゃうことはよくあるよ?」
「たぶん、生きていけないと思う。そのころメジャーじゃなくて今はメジャーになってる特性が、俺にはあるから」
「うーん、君に元の世界のことを教えたのは本当に誰なんだろうねえ……?」
「世界蟹かなあ……いや、でも検索したら出てきたし……SNSにも普通に接続できたからなあ……」
「蟹ッターじゃないの使ってたならそうなるかー……厳しい世界だよ、普通のWッターは」
「だから嫌になるんだ」
「Wッターだけが世界じゃないよ」
「そうだ、だから何が何だかわからなくなって、世界が何かもわからなくなった……世界の見方がヒトごとにあるなんて、嘘だよな? だって世界で起きてる事実はあるし、石油が足りないのだって本当だって……」
「そうだね……蟹社会は君たちにはわからない概念エネルギーで動いてるからいいけど、君たちヒトの世界はそうじゃない……でも別にそんな話するためにここにいるんじゃないだろ、僕たちは」
「誤魔化さないでくれよ。ここはヒトの世界なのか、それともまだ蟹社会なのか、どっちなんだ」
「………」
 蟹は黙り込む。
「一度蟹社会に移った人間は基本的に戻ることがない」
「そうだったな。俺は?」
「焦らないで。ここは中間地帯だよ」
「中間地帯って?」
「文字通り。蟹社会とヒトの社会が混在してるのさ。防犯なんかは蟹基準だし、蟹会社もあるし、でも新聞なんかは両方取れたりする、インターネットも制限されてないね。君はどうもヒト社会への執着が強い個体のようだから、僕という君のパートナー蟹の権限で君を中間地帯対応にすることにした。いいだろ?」
 ああ。と俺は答える。
「だって君。いずれはヒト社会に戻りたいって思ってるんだろ?」
 それが夢でも。
 そうだな。
 ここは……
 いや、やめておこう。
 何もかもわかっていたってわからないことはあって、そういうときは頭の中が霧に包まれたようになって、俺の頭の中はいつまで経っても夢の中。
 霧の中なんだ。
 だから。
「それすら切られたくないのがきっと君なんだろう」
 僕は君の希望を尊重するよ。
 そう、蟹は言った。
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