賢者と猫弟子と若者達

「あれ、ソロン様。ここにいらっしゃったのですか」


調べものをしに聖堂内の図書室へと足を踏み入れたクリフは――すぐ傍らの机に腰掛ける事もせず、分厚い書物を片手に抱え立ち尽くしたまま、記された文字を興味深そうに目で追い続ける先客――賢者ソロンの姿を見つけ、思わず声をかけた。



「……ん?ああ、クリフか。どうした」
「少し調べ物をしに。ソロン様は?」
「東の風の大陸に関する歴史書がいくつか手に入ったと聞いたのでね。あちらの国の独特の文化は非常に興味を惹かれるものがある。他の誰かが借りに来る前にさっさと読んでしまおうかと思ったのだよ」

そう答えるソロンが持っている書物の表紙には、確かにこの西の大陸では見慣れぬ文字が描かれていた。

「へぇ…僕もいつか読んでみたいな…ソロン様。今度あちらの国の文字や言葉を教えて頂けませんか?」
「構わんよ。後で聞きに来ると良い」
「はい!ありがとうございます!!」
「ふふ…さて、私は少し外を散歩をして来るよ。長いこと読みふけっていたものだから、少しは目を休ませなければな」
「あ、はい。お気をつけて」

本を棚に戻し、図書室を後にしようとするソロンに、クリフは朗らかな笑顔を浮かべて言った。


「……ああ、そうそう。クリフ」


こつりこつりと、廊下を二三歩歩いたところでソロンは振り返る。


「はい?何でしょう」
「私が今読んでいた書物の棚に、赤い表紙の本があるだろう」
「え?あ、はい」

見れば確かにそこには、まだ真新しい真紅の表紙の本が、年月を経て煤けた他の本の中で異彩を放っていた。

「あれは禁書と呼ばれるものだ」
「禁書?」
「そうだ。あれは決して読んではならない…他の誰かが読まないよう、後で私自ら保管する事にする。だが、あれを置いておく場所が今のところ無いのでね、悪いが、後で皆にも伝えておいてくれないか」
「はい、分かりました」
「いいかね?あれは絶対に見てはならないものだ。君もくれぐれも触れてはならないよ」
「は、はい……」

どうしてそんなに念入りに言うのだろうとクリフは首を傾げながら、ソロンの注意に素直に答える。

「分かればそれでいい。では、また後で」

少し含みのある微笑みを浮かべながら、ソロンは踵を返し、そのまま歩いて行った。



「うーん…一体どうしたのかなあ。ソロン様……まあいいか、僕も早く自分の用事を終わらせなくっちゃ」


先程のソロンの態度に疑問を感じつつも、クリフは目的の本を本棚から見つけ出し。それを羊皮紙に丹念に書き写しにかかった。




こち、こち

かりかり

こち、こち、こち

かりかりかり

こち、こち、こち、こち

かりかりかりかり




他に誰一人として訪れる事無く、時計の音とクリフの動かす羽ペンの音以外は何も聞こえぬもの静かな空間で、ゆっくりと時は過ぎて行く。





こち、こち、こち、こち

かりかりかりかり


こち、こち、こち、こち


かりかりかりかり、がり。




(そういえば、禁書って一体何が書かれてる本なんだろう?)

そんな考えがふと脳裏をよぎり、ふいに羽ペンを持つ手が止まる。

(悪魔やアンデットについての事?でもここにあるそれらに関しての本を読んでも怒られた事は無いし…やっちゃいけない事?でも、それならむしろ駄目な事としてしっかり知っておいた方が良いはずだろうし……)



振り返れば、まるで早く読んでくれとでも囁いているかのように、本棚の中の禁書が自らの存在を主張していた。


(そもそも、ソロン様ほどの方が自ら保管しなければならないような本が、どうしてこんな誰でも読めるようなところにあるんだろう)

どんな本であれ、ここに持ち入れられた以上は既に誰かに内容を確認されている筈である。
それだというのに、そんな代物が混じっていたなどとは、先程ソロンに言われるまで、この聖堂に居る誰一人として言い出した覚えは無かった。

(もしかしたら、読んでいないのは僕一人だけで、皆はもう読んでいるのかもしれないんじゃないのかな?)



こち、こち、こち、こち



絶対に読んではいけない。というソロンの言葉を無視するかのように、読みたい、どんな事が書かれているのか知りたい、という気持ちが、まるで時計の振り子の音に合わせるかのように、クリフの心の中でどんどんと膨らんでゆく。


(ソロン様があの本を持ち運んでしまったら、きっともう二度と読む機会は無いだろう…)



こち、こち、こち、こち


ぼーん、ぼーん、ぼーん


時計の分針が真上を指し、間延びしたような鐘の音が鳴る。




「………」


ごくり、と、唾を飲み込む。


(少し、だけなら……)


自分にそう言い聞かせ、クリフは真紅の本を手に取る。


(そう、ほんの少し…ちょっと眺めるだけ……)




決して開けてはならないという教えを破る事への恐怖心、開けたら何が起きるのかという事への期待感

それらの感情が入り交じり、胸が張り裂けるのではないかというくらい、心臓がばくばくする。




「………えいっ!」




意を決してクリフが本を開くと同時に――



図書室内に、盛大な破裂音が鳴り響いた。





「何だっ!?今の音は!!」




たまたま近くを通り掛かっていたユーグが突然の爆音に驚き、慌てて図書室に入ると、全身紙吹雪と紙テープまみれになり、まるで呆けたように空中を見上げながら、床にぺたんと尻餅をつくクリフの姿があった。


「クリフ!しっかりしろクリフ!一体何があったんだ!!?」
「へ、あ?…ユーグ?えーと、その…」

ユーグに肩を揺すぶられ、ようやく我に返ったクリフは、ついさっき自分の目の前で起きた事を頭の中で必死に整理しようとして、思わずしどろもどろになる



「やはり開けてしまったか。あれだけ言ったというのに…いや、あれだけ言ったからこそか」


「!!?」
「ソロン様!?いつからそこに」


二人が振り返ると、そこには図書室を後にしたはずのソロンが、さも可笑しげにくつくつと声を殺して笑っていた。

「いや何。キャミが魔法の練習がてらびっくり箱ならぬびっくり本などというものを作ったものの、誰も引っ掛かってくれぬと嘆いていたのでね…クリフ。君ならばきっといい反応を示してくれると思って、悪いが実験台になってもらったよ」


そう語るソロンの腕の中には、機嫌良さげにごろごろと喉を鳴らずキャミネコの姿があった。


「ソロン様!いくらなんでも酷いですよ!!」
「おやおや、そんな事を言われるとは心外だ。言っておくがねユーグ。私はクリフにちゃんと言いつけておいたはずだよ。この本は禁書だ。決して見てはならない、と」
「な…!?本当なのかクリフ?」
「………うん…」

ユーグの問い掛けに、クリフはばつの悪そうな表情を浮かべながら頷く。

「何故そんな事をしたんだ!?今回はただの悪戯で済んだが、これが悪魔憑きの書物だったりしてみろ!君はもしかしたら命を落としていたかもしれないんだぞ!!」
「………ごめん…」

ユーグの正論に言い訳すら出来ず、クリフはひたすら頭を垂れた。

「まあ少し落ち着きたまえユーグ。クリフ、パンドラの箱が何故開かれたと言われているか知っているかね?」

ソロンはユーグをたしなめると、クリフにやんわりと問う。

「え、ええと…」
「開けたらどうなるか、何が起こるかという好奇心に負けてしまったからだ」
「…!」
「好奇心とは、この世で最も抗い難い悪魔だ。してはならない、やってはいけないと思えば思うほど、それをしてしまった時一体何が起きるのかという感情に囚われる。今の君がそうであったようにな」
「…はい」
「知りたい、と思う事自体は悪いものではない。人は常に周囲から何かを学び、そこから成長していくものだからな。目の前にいかに危険があろうとも、己自身が身を守る術を知ろうとしなければ、命の危機に晒されても文句は言えん」

腕に抱えたキャミネコを撫でながら、ソロンはなおも続ける。

「だが、過ぎた好奇心は逆に身を滅ぼす事になろう。それは、関わらなければ降りかかる筈の無かった災厄に触れてしまう事に他ならない。あえて知ろうとしない、というのも、身を守る術の一つだ。覚えておくといい」
「…はい。申し訳ありませんでした。ソロン様……」



「まあ最も私ならば、もし誰かにやるなと言われたら、すぐその場で実行してみせるがね」



「え?」

「何でも無い。ただの独り言だよ。さて、私は自室に戻るとしよう…キャミ、私は部屋で少し仕事をせねばならない。暫く一人で遊んでいてくれないか」

「みゃん!」

キャミネコは一鳴きすると、ソロンの腕から飛び降り、一目散に図書室を後にした。

「では、失礼する。ユーグ、悪いが後片付けを手伝ってやってくれ」
「あ、はぁ…」


そうしてソロンは、呆然とする少年達の元から、こつりこつりと立ち去って行った。




こち、こち、こち、こち、と、静まり返った図書室にはまた時計の規則的な音だけが鳴り響く。






「………」


こつり、こつり、こつり


「…………」


こつり、こつり、こつり、こつり



「……………」



こつり、こつり、こつり、こつん。





「……だって、その方が面白いだろう?禁じられた事に手を出した時、一体何が起こるのか、その先に、誰も踏み行った事の無い領域に一体何が待ち受けているのか、想像しただけで胸が高鳴るとは思わないかね?」



図書室から遠く離れた、誰もいない回廊で立ち止まり、賢者はまたも楽しげに笑いながら呟く。

聖堂の清らかな雰囲気にはおよそ似つかわしく無い、どこか妖しさを含んだ笑みで。



「規律を守る事なら誰にも出来る。だが、私はその先が見たいのだよ。理性に好奇心という本能が打ち勝った時、人はどうなるのかという事を、な…」



それはまるで、どこまでも真っ直ぐな少年達を、嘲笑っているかのようにも見えた。
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