たまゆらの情景
これは、魔王の再来が無かったルクレチアの話。アリシアは魔物に拐われず、オルステッドが新たな勇者になる事も無かった。そんなもしもの世界のお話。
「ねえオルステッド。私ね、貴方の故郷に行ってみたいの」
共にテラスで城下町の方を眺めていたアリシアのその突如の発言に、オルステッドは思わず固まった。
「オルステッド?」
「あ……ええと、すまない。いきなりそんな事言われたから驚いて」
「ごめんなさい。でも本当に見てみたいの。貴方がどんな場所で、どんな生活をしていたのか」
「アリシアが思ってるほど大それたところじゃないさ。旅人も滅多に来ないような山奥の寂れた小さな村で、みんな家畜を育てたり畑を耕したり、細々とした物を作っては離れた町に売りに行ったり……こことは大違いな場所だよ」
オルステッドはこれと言って褒めれるような特色が無い自身の故郷を恥ずかしく思ったが、オルステッドの予想に反してアリシアはその語りに目を輝かせる。
「この城の中しか知らない私にとっては充分魅力的な話だわ。ねえお願いオルステッド。私やっぱり行ってみたいの。一緒にお父様を説得して」
「ええと、その……考えさせてくれ」
オルステッドはアリシアのあまりに真剣な眼差しに、そう返す事しか出来なかった。
「……と、言われたんだが。どうすれば良いと思う? ストレイボウ」
どうしたら良いのか散々考え込み、結局何も良い案の浮かばなかったオルステッドは、城の外れにある部屋で執務をしているストレイボウに助けを求める。
武闘大会で優勝したオルステッドが次期国王という立場を与えられたのと時を同じくしてストレイボウもまた準優勝の実力とその頭脳を買われ、次期大臣のポストを与えられ、今は現大臣の補佐官という役職に就いていた。
「良いんじゃないか? 国内情勢を知ってより民の暮らしやすい国にするのも王族の務めだろ」
頭を抱えて唸っているオルステッドの方を見向きもせず、目の前の羊皮紙に羽ペンを滑らせながらストレイボウは答える。
「いや、でもなぁ……」
「と、言うより、だなあ……ッ!」
突如、ぶちりと何かが破ける音がし、オルステッドがぎょっとして音の方を見ればストレイボウの持っていた羽ペンが羊皮紙を貫通していた。
「ス、ストレイボウ……?」
「俺がッ! お前らにッ! 暫く留守にして貰いてえんだよッ!!」
ストレイボウは勢いよく椅子から立ち上がるとずかずかとオルステッドに詰め寄り、怒鳴り散らす。
「は……? え、なん……」
「何でじゃねぇよ!自覚ねぇのかよこの脳内お花畑が!!てめえら結婚してから毎日毎日ひっきりなしにこれ見よがしに人目もはばからず隙あらばイチャつきやがって!おまけに俺の仕事場にまで来ては相談と言う名の惚気話聞かせに来やがって! どんだけ俺の精神削れば気が済むんだよてめえはよぉッ!!」
「お、落ち着けストレイボウ。分かった。分かったから……」
「うるせぇッ! ただでさえあのクソ大臣が本来あいつ自身がやるべき公務を俺に丸投げしてきやがって忙しいってのに……てめえらの惚気まで毎日見せられ聞かされる俺がどんなに苦しんでるか……てめえにッ! てめえなんかにッ!! 分かられてたまるかよッ!!」
ストレイボウにこれまでの不満を有らん限りの大声量でぶちまけられ、オルステッドは暫く固まったかと思うと、その後おずおずと気まずそうに頭を下げた。
「その……すまなかった。まさかそんなに負担になってるとは思わなくて……」
「あーもういい。お前の鈍さが筋金入りなのはガキの頃からよく分かってるしな。まあそんな訳で、ぐちぐち言ってねえでとっとと視察がてら行ってこい。アリシアのためにも国のためにも俺のメンタル回復のためにも」
「分かった。そこまで言うなら行ってくるさ」
それから数日後。オルステッドとアリシアはルクレチア国王にお忍び視察と称した遠出デートの申し出を散々渋られたものの、視察の重要性を説くストレイボウ。更には国家予算に関わる重要な書類を長いこと溜め込んでいた事を王に告げ口しない代わりに従うようストレイボウに脅された大臣が言いくるめに加わった事でようやく王も折れ、晴れてオルステッドの故郷へ行く事を許可された。
「二人共これを使うと良い。馬車じゃ何日もかかるからな」
庶民的な服装に着替え、荷物を抱えたオルステッドとアリシアが中庭を出ようとしたところでストレイボウが小さな皮袋を手渡す。
オルステッドが袋を開いて中身を取り出して見れば、中に雲のようなものが渦巻く小さなガラス玉のようなものがいくつか入っていた。
「これは何だ?」
「俺の作った、風の魔法が込めてある道具だ。これを持って行きたいところを思い浮かべれば即座にその場所に飛んで行ける代物でな。使えるのは一個につき一度限りだが、使用者に触れてさえいれば他の人間も共にその地に飛ぶ事が出来る」
「まあ! そんな便利な代物を作って下さるなんて……」
「とはいえ、飛べる場所は使用者が一度でも行った事のある場所だけですがね……いいかオルステッド。そういう訳だからくれぐれも興味本位で行ったこともないような場所に飛ぼうとするんじゃないぞ?」
「分かっているさ。それじゃ行ってくるよ」
「ああ。父さんと母さんに出くわしたらよろしく伝えといてくれ」
「心配しなくても立派に働いてると伝えるつもりさ。さ、行こうアリシア」
「ええ。オルステッド」
二人は手を取り合うと、突風と共に中庭から姿を消し、次の瞬間にはオルステッドの故郷の村近くの道に立っていた。
「……ここが、 貴方の故郷?」
「ああ。村はあっちだ」
きょろきょろと物珍しそうに辺りを見回すアリシアの手を引いてやりながら、オルステッドは慣れ親しんだ故郷の風景に胸がいっぱいになる。
「懐かしいな。夏になるとよくあそこに生えてる桑の実を食べたりしてたんだ。うっかり潰して青い果汁が服に付くと落ちなくてさ、しょっちゅう母さんに叱られてたっけ」
「ふふっ……それでも食べるのをやめられないくらい、とても美味しかったのね」
「ああ。ここら辺では木の実や、吸うと蜜の出る草花なんかがおやつだったから」
他愛ない会話をしているうちに村の入口に辿り着き、オルステッドは馴染みのある顔ぶれに手を振った。
「おーい! みんなー!」
「あれまっ!? オルステッドじゃないかい。久しぶりだね~」
「王都の武闘大会で優勝してお姫様と結婚したなんて噂があったが本当か?」
「その隣のお嬢ちゃんは誰だい?」
「ああ、紹介するよ。こちらが私の妻のアリシアだ」
「皆様初めまして。アリシアと申します」
アリシアが着ているワンピースをちょこんとつまみ上げ、うやうやしく挨拶すると、それまでのほほんとしていた村人達の表情がさあっと消える。
「あ……あの、皆様どうかされましたか?」
「アリシアって……まさかあのアリシア姫様ですか?」
「え? ええ、そうですわ」
「こっ……ここここれはとんだ失礼を!!」
「お姫様とは全く気づかなくて!」
「オルステッドが王家に婿入りしたなんてただの噂だと思ってたんです!」
村人達は一斉に地面に足をつき、深々と頭を下げ始めた。
「あ、あのっ!? 皆様そんな怯えなくとも大丈夫です! 私はルクレチアの王女ではなく、あくまでオルステッドの妻という立場で夫の故郷を見に来ただけなのです!」
「そ、そうなんですか……?」
「はい。だからお願いです。こうして滞在する間だけでも構いませんので、皆様も私を王女扱いせず、ただの一介の小娘として扱って下さりませんか?」
「ほ、本当にそれで良いんですかね?」
「それなら……まあ良いか」
「とりあえず、その、歓迎します。アリシアひ……いいえ、アリシアさん。この村へようこそ」
「ええ、数日の間だけですが、どうかよろしくお願いいたします」
アリシアが微笑むと、村人達はようやく安堵したのかほっと気が抜けた表情を浮かべた。
その後、二人は村の家々をめぐって挨拶を済ませ、最後にオルステッドの生家に向かう。
「きっと母さん驚くだろうな」
「私、貴方のお義母様に失礼な事言ってしまったりしないか少し不安になってきたわ」
「大丈夫。うちの母さんはそう簡単には初対面の人を嫌ったりなんかしないさ。おーい、母さーん!」
オルステッドが扉を叩くと、どたばたと騒がしい足音の後に年を食った女性が家の中から姿を現す。
「おかえりオルステッド! そして初めまして。アリシア王女様」
「あ、あれ? 何でアリシアが来る事知ってるんだい?」
「お隣のワータナベさんがわざわざ走ってあたしに伝えに来たんだよ」
「あっ、そういえばさっき村に入ってきたばかりの時ワータナベさんも近くに居たっけ……」
「お義母様を驚かせるにはちょっと時間が経ちすぎていたみたいね」
気まずそうなオルステッドの表情にアリシアも苦笑いを浮かべる。
「あたしも最初聞いた時はうっかり腰抜かしそうになったよ。まさかうちの子がアリシア王女様を奥さんとして連れて帰ってくるなんて思ってもみなかったからねぇ」
「アリシアと気軽にお呼び下さい。お義母様」
「あら、すまないねぇ。それじゃあアリシアちゃん。狭い家だけど入って入って」
「ええ、お邪魔いたします」
アリシアはオルステッドの母に手招きされるがまま家に入り、オルステッドもそれに続いた。
「さ、座って座って。パンとスープを持ってくるから、早めの昼食でも取りながらお城での話でも聞かせておくれ」
そう言ってオルステッドの母は台所に行き、二人が訪れるまでの間に作って置いたのであろうスープをよそうとテーブルにそれを置く。
神への感謝のお祈りを済ませ、出されたスープを口に含むと、アリシアは驚いたような表情で口を押さえた。
「王宮の料理で育った人には味が薄すぎてやっぱり口に合わなかったかねぇ?」
「いいえ。確かに塩気は控えめですが、ハーブが効いていてとても美味しいです! それに野菜がみずみずしくて……こんなの初めてで……」
「あはは! そりゃ良かった。採れたての野菜を使ったかいがあったよ。それで、うちの息子はそっちでちゃんとやれているのかい?」
「ええ、早く王家の暮らしに慣れようと日々頑張ってくれています」
「そうかい……この子は人に頼み事されるとすーぐほいほい言うこと聞いちゃうからね。そんなのが王様だなんて頼りないんじゃないかって心配してたんだけど」
「か、母さん!? アリシアの前でそんな事言わなくても良いだろ!」
「本当の事じゃないかい。よく人に無理難題を言われては断りきれずに承諾して、一人で抱え込んで、結局最後にはどうにもならなくなったり、時にはストレイボウにまで迷惑かける羽目になったりしてたのは一体どこの子だろうねぇ?」
「うぐ……そ、それは……」
「あのっ! 大丈夫ですお義母様!!」
母からの容赦無い小言にオルステッドが言い返せないでいると、アリシアが突如叫ぶ。
「私も頑張って王妃としてオルステッドを支えます! 今はお互いまだ未熟ですけれど……でも、生まれも育ちも全く違う私達だからこそ、二人で足りないものを補いあって歩んでいけば、いつかきっと民達をもっと幸福に出来る良い国作りが出来ると……私はそう信じています……」
「アリシア……ありがとう。君のその思いのおかげで私も頑張れるんだ」
「オルステッド……」
「そうだね。あんた達がそう言ってくれるとあたしらも安心出来るよ。ところで、ここには何日居られるんだい?」
「本当は馬車で往き来するつもりで三日程の予定だったんだが、ストレイボウが目的地まで一瞬で移動出来る魔法の道具を作ってくれたから、母さんさえ大丈夫なら一週間くらいは居れるんだけど……」
「ああ、勿論良いとも。二人共ゆっくりしておいき」
「ありがとう。母さん」
「ありがとうございますお義母様。それで、さらに不躾なお願いだとは思いますが……私にお義母様や村の人達のお仕事のお手伝いをさせて貰えないでしょうか?」
「えっ? アリシア何言って……」
「言ったでしょうオルステッド。私は知りたいの。ここの人達がどんな暮らしをしているのか」
「分かったよ。あたしがみんなに掛け合ってみよう」
「本当ですか!? ありがとうございます、お義母様!」
アリシアはぱあっと目を輝かせ、オルステッドの母の手を握った。
そうして、オルステッドとアリシアは一週間ほど村へと滞在する事となった。
アリシアは家事や農業、子供達の遊びなど様々な事に関心を持ち、オルステッドの母に料理や洗濯の仕方を習ったり、村の人達に頼みこんで作物の収穫やヤギの乳搾りを手伝わせて貰ったり、村の子供達に混ざって童歌を教えて貰ったりと始終充実した日々を過ごし、最初はアリシアのそんな行動に困惑気味だったオルステッドや村の人達もいつの間にかそれを温かく見守るようになっていた。
「ついに明日には戻らないといけないのね……楽しい時間が経つのはあっという間ね」
最終日の前日、アリシアはオルステッドと同じベッドの中で──元々一人用の狭さのサイズであるがゆえに、オルステッドに抱き寄せられる体勢で──ぽつりと呟く。
「戻ったらまずは君を薬湯に入れて貰わないとな。折角綺麗だった手がこんなに荒れてしまって……」
「ふふ……でも私、手荒れなんてちっとも気にならないくらい、この数日間が本当に楽しかったのよ? 城に居たらこんな事絶対許されなかった事だもの」
くすくすと、アリシアはいたずらっぽく笑う。
「私ね、もし普通の平民の女性に生まれてたら一体どんな暮らしをしてたんだろうって、小さい頃からずっと思ってたの。まさかこんな形で叶うだなんて思ってもみなかったわ」
「君がこんなにもわんぱくな女性だったなんて知らなかったよ」
「そうね。私も知らなかった。きっと城を出る事が無かったら、貴方が私をここに連れて来てくれなかったら、私も私がこんなに笑えるんだって知らなかった」
アリシアは顔を上げ、オルステッドの目を見つめ微笑んだ。
「ありがとう……オルステッド。私をここに連れてきてくれて……貴方が、私の、夫で……本当に、良かった……」
眠気が限界にきたのか、アリシアはそのまますやすやと寝息を立てはじめる。
「おやすみ。アリシア……夢の中でも君が幸せでありますように……」
オルステッドもアリシアの髪を愛おしそうに撫でながら、そのまま眠りへ落ちていった。
そうして迎えた最後の日、外はうっすらと霧雨が降っていた。
「嫌になっちゃうねぇ。昨日までは晴れの日が続いてたってのに、今日に限ってこんな天気だなんて」
「でも、既に南の方には雲の切れ間が見えますし、きっと私達が帰る頃には止みますわ」
「確かにそうかもしれないね。にしても寂しいねぇ。この数日、娘が出来たようで嬉しかったんだけど」
「きっとまた会いに来ますわ。それまでお義母様もどうかお元気で」
「勿論だよ。また来ておくれ。アリシアちゃん」
「ええ!」
「ところで……オルステッド、どうしたんだい? さっきから黙り込んで」
「ああ、いや……ちょっと考え事を。なあアリシア。城に帰る前に少し連れて行きたい場所があるんだが、いいだろうか?」
「え? ええ。勿論」
アリシアはオルステッドの急な提案に首を傾げつつも、彼の申し出を素直に承諾する。
それから荷物をまとめ、皆から盛大に見送られながら二人は手を取り合うと、風の魔法玉の力で村を後にした。
次に二人が立っていたのは、純白の花が一面に咲く花畑であった。
「まあ……!」
アリシアは思わず感嘆を漏らす。
「ここは村の外れにある、私しか知らない秘密の場所なんだ」
「秘密の場所?」
「子供の頃、たまたま小さな洞穴を見つけてさ、興味本位で入ったらここに繋がってたんだ。その後暫くして土砂崩れで入口が塞がれたから、もう二度と来る事は叶わないと思っていたんだが」
「ストレイボウのくれた風の魔法玉のお陰ね。これなら目的地に直接飛べるから」
「ああ。そして私が見せたかったのがあれだ」
オルステッドが呟いた直後、薄くなった雨雲の切れ間から陽の光が降り注ぎ、純白の花畑は七色の美しいグラデーションに変化した。
「……!」
「午前のほんの数時間の間だけだが、雨が降るとここには虹が掛かるんだ。今日の天気ならもしかしたら見れるかもしれないと思って」
「何てこと……私、私……こんな素敵なもの、生まれて初めて見るわ……」
気付けば、アリシアの目からは涙が溢れていた。
「虹の根元には宝物があると聞くけれど……きっと、この花畑がそうなのでしょうね……」
「私も小さい頃、同じ事を思ったよ」
「そう……」
何故だか、アリシアは幼き日に同じくらいの年頃のオルステッドと共にこの花畑を見たことがあるかのような錯覚を覚えた。
勿論、城でずっと暮らしてきたアリシアが少年のオルステッドと出会える筈も無いのだが、同じ景色を見て同じ思いを抱いたというその事実が、まるで同じ思い出を共有しているかのような気持ちにさせたのだ。
それからどのくらい経ったのか、やがて雨雲が完全に消え去り、虹色の花畑は元の白い花畑に戻る。
「ありがとうオルステッド。私に貴方の宝物を見せてくれて」
「君が喜んでくれて私も嬉しいよ。そうだ。記念に一本摘んでいこうか?」
オルステッドは足元の花を摘もうと手を伸ばしたが、アリシアはその手にそっと触れ、制止する。
「いいえ、このままにしておきましょう」
「良いのかい?」
「ええ。この花畑の事は私と貴方しか知らない、二人だけの秘密の場所にしておきたいの」
「分かった。それじゃあこの場所は二人占めにしとこう」
「ふふ……二人占めだなんて、なんだか贅沢な響きね」
「確かに」
くすくすと、二人はさもおかしそうに笑った。
「それじゃあ、帰ろうか。私達の帰るべき場所へ」
「ええ」
そうして手を繋ぎ、二人は再び城へと舞い戻った。
数年後、先王の退位によりオルステッドとアリシアはルクレチアの王と王妃の座に就き、有能な大臣の手助けもあって長く平穏の世を治めたという。
二人が天寿を全うしたそのあと、あの花畑の存在を知る者は、誰一人として現れる事は無かった。
終
