001.~
Please tell me your name
この小説の夢小説設定簡易的な夢主設定
夢主は
・女子高生(深陽学園の女子生徒)
・デザイナーの卵
・特殊能力の持ち主(MPLS)
・蟬ヶ沢(スクイーズ)とは昔からの知り合い
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0.5 頭一つ先
頭一つ分の空間の先にある手を見て、私は手を伸ばしてはひっこめている。
*****
貴方に触れる時、一瞬緊張してしまう。
<フェイク・シーズン>、私のこの力は私にしか視えないものを視せるらしい。
動いているものが視える。人はこの言葉を見て何を浮かべるだろうか。
恐らく他の人は物体が移動している状態を思い浮かべるだろうが、私は風や川の流れを思い浮かべる。質量を持った流れとして思い浮かべる。
私はこの力を特殊な能力だとは思っていなかった。目に見えて聞こえて、触れて、他の感覚の一つだと思っていた。それが私にしか感じ取れないものだと知ったのはとても幼い頃、何気なく言った事だ。一瞬だけのことだが、自分が他の人とは違うことに酷く寂しさを覚えた。人の心の向きが視えてしまう。見えない状態は一体どんな感覚なのだろうと、その日から考えていた。
貴方に会ったのはこの孤独感を感じてからしばらくしてのことだ。
酷く驚いた。これは幻覚なのだろうか。
直接触れないと貴方の心の向きも温かみも動かすことも出来ない。
違う。動かせても私は動かしたくはない。自分の思い通りに操り、動かして何になるというのだろうか。身勝手に変えられた心は貴方の選択した向きではなくなる。
触れても動かさずにいられるだろうか。
私が欲しいのは動かしたものではない。
*****
頭一つ分の空間の先にある手を見て、私は手を伸ばしてはひっこめている。
私の昔からの知り合いはとにかく心配性だ。私が特殊なの力を持つことから、ある組織――巨大すぎてシステムと言った方がいい――統和機構から匿っていたことから私に降りかかる不審な出来事には常に目を光らせている。
蝶と蟬ヶ沢卓はある山に来ている。今回は任務としてではなく、純粋に紅葉を楽しむ為に来たのだ。
01.いつものお誘い
いつも誘うのは蟬ヶ沢なのだが、今回はいつもの誘いとは違った。
蟬ヶ沢は指を鋏の形に変えて、近づいてきた蝶に話しかける。
「蝶、連休の間予定がないならちょっと遠くに行かない?」
蝶はアルバイトとして蟬ヶ沢の事務所で働いている。受け持つ仕事は同じものではなく、仕事場も同じとは限らない。いつもなら蝶は一番下の階の雑貨店の店番をしている。
二人がこうして話す時は蝶がお店を閉める時の店の鍵を渡すときか、同じ仕事をする時だけである。
どちらかが近づいたときにこっそり話すことがある。この蟬ヶ沢が見せた手を鋏の形にするのはこれから話すことは誰にも聞かれてはいけないことを話す合図だ。蝶はこの合図を見ると同じように手を鋏に変える。能力で周囲に音が聞こえないようにしたのだ。
「暇っていえば暇だけど、何?アルバイト?」
「違うわよ。それなら、普通に言うわよ。そうじゃなくって、ちょっと紅葉を観に山岳に泊まりに行かない?」
「うわ、不倫旅行の誘いなんてセミさん悪いおじさんだ」
「私はまだ独身よ」
「それじゃあ、婚期がまた伸びるね」
けらけらと笑う蝶に、蟬ヶ沢はファイルで頭をべこりと叩いた。
02.今日の関係は?
季節は木々が朱色、黄金色に染まる紅葉の秋。蝶と蟬ヶ沢は新幹線とバスを四時間程乗り継いで今が紅葉の見頃の温泉施設に来た。そこは夏の頃に地震が起きたが観光客は例年通りの多さで、連休の今では観光客に悩む様子はない。
蝶と蟬ヶ沢が来た温泉施設は二つの山の麓に位置する場所で、蝶たちが普段住んでいる土地より各段に冷えていてた。
二人はバスに下りると息を吐く。この寒さなら息も白くなるだろうと期待したが、ここは思ったほど寒くないものらしい。残念そうに口を尖らせる蝶に蟬ヶ沢はくすくす笑いながら蝶の両頬を包む。寒さで赤くなっていた頬がまた深みを増すが、蟬ヶ沢は気付いていない。
周辺を散策するのもいいが、まず荷物を旅館に預けることにした。
予約した部屋は高くも安くもない一般的な値段の部屋にした。蟬ヶ沢は防犯を考えるならば、上階の部屋がいいのではないか言ってきたが、その部屋では蝶は支払うのが厳しいのだ。蟬ヶ沢は一緒に払うと言ったが、蝶は断固拒否した。
内装は最低限のオプションのみであったが、ここが温泉施設として栄えているからか机には温泉饅頭が置かれていた。
「おかみさんとか思ったより気にしていなかったね」
「視たの?」
「視えるの」
蝶の能力は人の意識の向きが見える。蟬ヶ沢からすれば見られることに気疲れしてしまうのではと心配し、人気のある場所や目立つところは避ける。しかし、よほどのことがない限り、蝶は人の意識がこちらに向いても気にしない。誰だって視界に入れば一瞬くらいは視線を向けるものであり、人というのは人に反応するものなのだ。
「まあ、親子だと思うよね。こんななりじゃ」
「あら、じゃあ今日はそれで通す?」
蝶と蟬ヶ沢は二人で行動する時周囲に説明する時、便宜的に親子だったり親戚の伯父姪だったりと、関係を偽っている。正直に話したところで誰も信じはしないのだ。
「私のパパにしては洒落込みすぎていやだわ、“親戚のおじさん”」
「娘にしてはほーんと口が悪くていやだわ、“姪っ子ちゃん”」
*****
03.隠したい傷
外に出る前に浴衣に着替えようと蟬ヶ沢が提案した。蟬ヶ沢は別所で着替えると言ったが蝶はそれを断る。話し合いの末、片方がベランダで待ち、その間にもう片方が着替えることになった。
先に蝶が着替え、続いて蟬ヶ沢が着替えようと脱ぐと、後ろから声が聞こえた。
「ねえ、セミさ…………」
振り向いたのは蝶も無意識の動作だったからだろう。
蝶の目は見開いて、蟬ヶ沢の半裸を見た。
鍛えられた体はとてもではないが中年と呼ぶには不相応なほど逞しい。蝶が見ているのは彼の半裸の姿ではない。
蟬ヶ沢も年若い乙女でもない。見られることに特段抵抗はないので、悲鳴はあげなかったが酷く焦った。
蟬ヶ沢は裏の仕事ではスクイーズと呼ばれるコードネームを持ち、暗躍している。それは蝶も同じだが、彼は蝶に自分の任務のことはあまり話さない。
蟬ヶ沢の、スクイーズの体には無数の傷が刻まれている。裂傷もあれば火傷の痕、銃創まである。
内心、蟬ヶ沢は自分を責める。この身体は見せたくないものだからだ。傷まみれの姿を見れば蟬ヶ沢がこれまでどんな任務を、人生を歩んできたのかは想像に難くない。合成人間として生きてきたのなら戦いに身を置くのは珍しくない。今のような平穏な時間を過ごせている方がむしろ貴重なのだ。
蟬ヶ沢をスクイーズだと知られることに安堵もあるが恐怖もある。此方側に来て欲しくないという思いはまだどこかにある。
貴女のような力があればこれを見せずにいられたのかもしれない。
少し、MPLSという特殊能力に羨望を抱いてしまった。
「す、すけべ」
シャツを着直し苦し紛れに冗談を言うが、蝶はぽかんとしながらも蟬ヶ沢の元に歩み寄る。
「その傷」
その、と指し示すが、蝶の視線は見える傷全般を指している。彼女の指は触れることなく、寸前で留まっている。
半分伏せられた瞼はまつ毛で更に瞳を隠すが、彼女の憂いた表情までは隠せていない。
「……無理は……してないよね?」
「平気よ。これらは全部古傷。最近は怪我とかしていないもの」
無理に明るく振る舞ったのは気付かれてしまっただろうか。触れてこないことに感謝したいが、彼女は今の自分の心境を視てしまうことを恐れ、遠慮しているのだろう。
貴女の悪い癖だ。
「無理はしないでよ」
凭れて呟く声は少し弱い。
「うん」
凭れる蝶を撫でる。ふと下を見る。……下を見てしまって、上を向く。
「……………ねえ、悪いんだけど、浴衣着てもいいかしら。あと流石に寒いわ」
「あ、ごめん」
先程の儚げな雰囲気はどこにいったのか、あっけらかんと浴衣を直してさっさとベランダに戻って行ってしまった。
「……………」
蟬ヶ沢は聞かれないよう小さくため息をついて着替えを続けた。
*****
04.お手を拝借
お互いに着替えを終え、外に出ようと玄関を出る。蟬ヶ沢と話しながらだったせいか、足元に段差にあることに気付かず、躓いてしまう。
ぐらりとふらつく体の傾きに蝶は焦るが、能力で逆に重力を傾けさせる思考する間もなく落下は止まる。疑問は腕の感触で既に答えは分かっていたが、同時に理解するのに時間がかかった。
「大丈夫?」
蟬ヶ沢が蝶の腕を掴み、落下を防いだのだ。
「ありがとう」
蝶は蟬ヶ沢に引っ張られながらも体勢を持ち直す。
自身の足元を見る。浴衣姿に合わせて、下駄を履いたが、やや歩くには厳しい道に見えた。この町は舗装された道路もあるが川沿いの歩道は道路の色が異なり、さらに石が埋め込まれている。
ちらっと蝶の腕を掴んでいた蟬ヶ沢の手を見る。そろりそろりと手を握ろうとして、一瞬止まり、袖を掴む。
ん?と蟬ヶ沢は首を傾げる。
「どうしたの?」
「紅葉ってこの川の先でいいんだよね」
「そうよ。…………」
蟬ヶ沢がくいくいっと、掴まれた袖から覗かせる指を動かす。
見上げて蟬ヶ沢を見るとにっこりと笑っている。
握った裾を放すと跡がついて皺になっている。引き伸ばそうとすると、その手は捕まえられ、行動を妨げられた。
恋人繋ぎではないのは見られる中での細やかな配慮だろうが、がっしりと握る強さは放す気は全くないと言っている。
顔が熱く、とてもじゃないが他の人の視線なんて気にしていられる余裕はなかった。
*****
05.褐葉色のスーツ
紅葉を観に行く為に北へ向かう。川沿いに歩いていくと銀杏の木が黄色い葉を落していた。
銀杏の木はまだ数メートル先だったが、好奇心に負けて、蝶は蟬ヶ沢の手を放して先に駆ける。
やれやれとため息をつきながら蟬ヶ沢も蝶の後を追いかける。
銀杏の下は葉と実で黄色一面に染まっていた。踏みつけると葉が石で磨り潰される感触がした。
蝶は落ちている実に触れようとすると、蟬ヶ沢が止める。
「それ、匂い結構きついんだから直接触ろうとするのはやめなさいよ。中身の銀杏は美味しいから、欲しくなる気持ちは分かるケド」
「なにそれ」
「この果肉は食べられないけども、この種の中身は食べられるのよ」
「なんだかセミさんがおじいちゃんみたい」
「失礼ね……」
「そんな知識どこで知ったの?」
「どこって昔……」
言葉が詰まる。何かを探すようにしばらく無言になり、足元に落ちている黄色く染まった葉を拾う。
「昔ね……、きっと昔どこかで聞いたのよ」
蟬ヶ沢は目を細めて、懐かしそうに銀杏の葉をくるくると回す。
蝶はきょとんと蟬ヶ沢を見つめる。はっと、自分の手元の動きに気づく。無意識に蟬ヶ沢の手を触れそうになったことに気づいて、そっと気付かれないように離す。
恐らく触れれば懐かしいと思っているのが視えるだろう。しかし、一瞬だけだが細めた目はやや悲しそうにも見えて、視てはならない気がした。
「どうしかした?」
「ううん、なんでもない」
とっさに視線を逸らして、一枚の褐葉を見付けて、拾う。
銀杏並木の中に一本存在するトチノキから落ちてくる葉は、色が変わりかけの黄色みがかった褐色だ。一番色の濃い部分を指して、にっと笑う。
「セミさんのスーツの色」
楽しそうに葉っぱをくるくるさせている蝶に、蟬ヶ沢は手を伸ばしトチノキの葉ごと手を握ってきた。
「ほんとね。見事なものね」
「ねえ、こういった秋のイメージポスターにトチノキの葉っぱを使うのはどう?紅葉ばっかよりも、たまには他のも使ってみたら面白いと思うのだけど」
「はいストップ。ここでは仕事禁止」
いやいやと首を振る蟬ヶ沢は言葉では否定したが、一瞬だけいいわねと浮かべた顔を蝶は見逃さなかった。
06.遠望深慮
紅葉の木は進みながらも見えていたが、近くで見るのは違うと確信した。
山肌は紅葉の定番となるカエデ科のいろは紅葉や羽団扇楓、他には灯台躑躅も朱色に染めていた。一部、葉が落ちて、下も赤く染まってる。上を見ても下を見ても朱色の世界。自分の顔さえ染まってしまいそうなほどの赤だ。
あるカエデ科の気を見つける。
「そうそう、紅葉の中に“目薬の木”なんてのあるんだって」
その名前を聞くとこの朱色に染める世界を鮮明に見せてくれそうだが、水に関連したものとして考えると逆の色を思い浮かべてしまう。
「なんだか目が良くなりそうね」
「洗眼薬として使われるから、それはないんじゃない?」
「案外あるかもしれないじゃない。まあ、私はこれ以上目が良くならなくていいケド」
「セミさんだとどの辺りまで見える?」
そうねと蟬ヶ沢は呟き、蝶の手を握る。蟬ヶ沢の視線は木々を越えて、旅館、駅を越えて、海岸、その先にある船に視線が向いている。蝶は能力でなんとか判別は出来たが、視力では全く見ることが出来ない。およそ数キロ先が蟬ヶ沢が見ることが出来る世界だ。
蝶は感嘆のため息をつく。蟬ヶ沢からは人ではないと散々言われてはいたが、本当に合成人間というものは身体的な力も優れていると痛感した。
これほどに頼もしい合成人間が必要とされるほどに脅威と判断される対象がMPLSであり蝶なのだが、彼女はとてもじゃないが彼には敵わないと思っている。
MPLSという存在が脅威と判断されることは想像に難くない。他の人には無い力は他者から見れば恐ろしく思うこともある。能力の使う方法によっては世界をも制することが出来るかもしれない。
蝶はとてもじゃないが世界征服なんて考えたことは無い。むしろ、世界どころか人ひとりの心にだって変えるのが億劫なくらいだ。
どうせこれからも過ごすのなら自分が心を捻じ曲げる行動はとらずにいたい。
「改めて思うけど、凄いよね。ちょっと羨ましいくらい。任務じゃない時に使うのもいいもんだね」
素直に褒めると、彼はもじもじと視線を逸らす。
「……なんか今になってそれを言われるのも何か。でも、蝶も色々視えるじゃない」
「その言い方だと何か変態って言われている気がするんですけど」
「大丈夫、変態でも何しないから」
「その目茶苦茶視力がいい目で誰かのラッキースケベとか見てしまえ」
「やーよ、蝶の着替えでも絶対見ませんからね!」
蟬ヶ沢をひっぱたこうとするとくしゃみで自分の動きが止まってしまった。
蝶の動きに彼はくすくす笑うものだから、やや遠慮なくひっぱたいた。
*****
07.加糖とミルクと珈琲
散策して、お土産も購入し、夕食の時間となった。
出された料亭は季節のものとして、山菜や茸が主役として出された。アケビの新芽のおひたし、蟒蛇草のたたき、茶碗蒸しに入った銀杏は癖のある味をしているが、出汁の利いた具の味を引き立てる。
海岸にも面している土地なのもあって、海産物もある。時期としては鮭が北上しているので、いくらの醤油漬けがあり、はたはたの田楽焼きもある。
はたはたは白身魚で鱗がない魚だ。身が柔らかく非常に美味しい、雄ならば白子、雌ならば卵が食べられている。特に、このハタハタの卵は通称ぶり、ぶりぶりといい、弾力が非常にある。
提供された料理はどちらも同じ献立だったが、お互い気に入った物を分けたり、あげたりした。
食後は緑茶ではなく、珈琲にした。珈琲は土産を見繕う中で自分用として買ったものだ。マグカップを模したパッケージに珈琲が入った猫型のパックが入っている。これを実際に使用すると、お湯に浸かっているように見える上、温泉地としてのお土産らしく頭にはタオルを置いている。
「今日は珈琲は甘い方がいい?ミルクだけ?」
「それじゃあマスター、いつものをお願いするわ」
「了解致しました」
ウィンクをして、蝶は鼻歌を歌いながら珈琲を淹れる。
鼻歌で古めかしいクラシックを歌っている。テレビのCMでも流れていたのだろう。確か、ワーグナーだっただろうか。
お待たせと蝶は珈琲を持ってきた。蟬ヶ沢は甘い飲み物を好むのに反して、蝶は無糖の珈琲を好む。ただ、この時ばかりは同じ甘味料が入った珈琲である。
蝶の淹れる珈琲はやや他の人は大変不人気である。馬鹿みたいに甘い。ミルクと砂糖の配分が多く、カフェオレと呼ぶよりも、ミルクにかすかに珈琲の味がついたようなものとさえ言われる。他の男性従業員も一度飲んだきりで二度はないほど人気がない。蟬ヶ沢にとっては美味しいと思あうのだが、賛同してくれるのは蝶と年の近い同僚くらいしかいない。
お待たせと蝶が珈琲持って来てくれた。蟬ヶ沢も、温泉まんじゅうを出して更に載せる。
テレビでローカル地方のバラエティを見ながら、一息つく。一時間ほど見て、番組が終ると蟬ヶ沢は背伸びをする。
「さて、お風呂に行きましょうか」
「温泉施設って言っても部屋ごとにお風呂があるんじゃないんだね」
「高いところはあるわね。そっちの方がよかった?」
「社会人になったらそこに行きたい」
「いいわねえ」
「なんなら、一緒に入る?」
にやりと首を傾げる。さらりと髪の毛で隠された首が見えた。
一秒くらい固まる。
蟬ヶ沢は巨大な鞄からボトルを数本取り出し、その一本を蝶に投げる。すこーんと小気味のいい音を出した。
「痛っ」
蝶の睨みを完全に無視して、何本か小ぶりのボトルが入ったバックを渡す。振り向かずに、バックだけ受け取れと差し出す。
「肌のケアはちゃんとしなさいよ。若い内にしないで後悔しても遅いんだから。使い方解らなかったら教えてちょうだい。塗ってあげるから」
自分の着替えを探す中で、後ろにいる蝶がぼそりと言った発言は聞き逃さなかった。
「お母さん……」
ふわふわのタオルを後ろに向けて、やや乱暴に投げつけた。
*****
08.互いに盲目
風呂は各部屋についておらず、大浴場になっていた。時間も時間なので他にも利用者がいた。
蝶は温泉に浸かりながら、先刻見た蟬ヶ沢の体を思い出す。
今は傷を負うようなことはないとは言っていたが、それはつまり昔と変わらないほどに危険な任務をことなっていることには変わらない。傷を負うようなヘマをしなくなったに過ぎない。彼一人ならば傷を負うようなことはないだろう。
自分の体を見る。任務についてから、大怪我は負わないまでも怪我とは無縁になってしまった。それも、大抵の怪我は蟬ヶ沢――スクイーズあっての軽症だ。
あの体をまじまじと見るのはあまりない。以前、蟬ヶ沢の前に住んでいた家に泊まる羽目になった時にインナーとしてかなり鍛えられた体は見たが、その下にあれほど傷が隠されていたのは衝撃的だった。
彼の裸を見て、興奮はしなかった。ただ、これまで蟬ヶ沢が肌を見せるようなことを避けていた理由は分かってしまった。
気遣われている。見せたくなかったのだろう。それを見てしまったことに罪悪感が湧いてくる。
痛そう、辛くないだろうか。その傷は痛くないのか。
分かっている。こんな思いにさせたくなかったから、見せまいとしたのだ。
頭を振って思考を切り替えようとする。
見た瞬間はこればかりだったが、振り替える今は少し不純なことに考えが寄ってしまった。
「筋肉………凄かったな……」
鍛えられた体は厚みがあり、普段の服装では着痩せしてたのであろう。これまで服の上からではあったが、体は凄いだろうとなとぼんやりと思っていたが、想像を越えていた。
「……………」
半分顔を温泉に浸からせ、唯一視えない意識の方向へ思考を飛ばしていた。
くしゃみで湯が跳ねた。
*****
蟬ヶ沢は深く、深くため息をついた。
着替えの時といい、気を許しすぎている。
我ながら彼女を何故この旅行に誘ってしまったのか不思議でならない。
任務らしい任務もなく、デザイナーとしての仕事もそこそこ落ち着いた中で、行くしかないと思ったが今になって罪悪感が湧いてきた。
わかっている。ユージンにも、レインにも言われている。自分は彼女に気を許しすぎている。
元々はこちら側に来てほしくない為にしていたはずなのに、統和機構に入ってからはこのスクイーズという人格も蟬ヶ沢という人格も浮かれている。
心に余裕が出来たと考えれば良いのだろうが、余裕どころか空いた隙間を他の何かが急速に埋めていく気がしてならない。
俗に言う彼シャツをさせてしまった時といい、浴衣の隙間から覗かせた肌といい、彼女のふとした油断に対して、つい目が向いてしまう。
これまで任務の中で裸なんぞ見なかった訳ではない。珍しいとも思わない。
何故か触りたくなる。柔な部位に触れるような欲求ではなく、人として触れたいと言うべきか。安易に触れるのは立場として考えないといけないのは分かっているが、堪えきれない。
気を許しすぎだろうなと、心のどこかでスクイーズが苦笑いした。
それもそうねと蟬ヶ沢は賛同し、意識しても相手は視ることが出来ない向こう側に意識を向ける。今こうして考えていることも伝わらないのは有難いとも思うが、危機意識がない気もして心臓に悪い。
「………でももうちょっと意識してくれてもいいじゃない」
ブクブクと泡をたてて、顔を半分沈めた。
*****
09.影に潜み
外は川沿いの並木からライトアップされていた。夜の空に下から当てられた光で、非現実的な光景にも見える。性能のいいカメラで撮ればさぞかしいい写真が撮れるだろう。
昼間に行った方向とは違う道を歩いていると、突然、蟬ヶ沢が蝶を物陰に引っ張り込んだ。
体としては抱き締められているので、羞恥心で離れたいがそうはいかないらしい。
状況が飲み込めないが、蟬ヶ沢を見る限りでは誰かから隠れたようだが、蝶には特に不審な意識を向けている人間は視えない。
見上げて蟬ヶ沢にどうしたのかと聞くが、彼は指を口に当てて静かにしてくれと言う。
静かにしているのは構わないが、彼はこの状況についてなんとも思わないのか。
浴衣から覗く肌が見えるせいか、密着しているせいか、部屋で見た蟬ヶ沢の、スクイーズの身体中についた傷が脳裏をちらつく。
「…………」
こっそりと頭を預ける。聞こえる心音は早く、心拍数はやや高い。
頭の上で彼は唸る。よほど見られたくない人がいるらしい。
「セミさん、誰か教えてくれれば、こっちに意識が向かないように出来るよ?」
と、肩を包む右手に触れようとする。触れさえすれば、蟬ヶ沢が見ている対象が視えて、相手が向けている意識をこちらに向かないようにすることが出来る。
蟬ヶ沢は更に強く抱きめる。蝶が伸ばしかけた手はお互いの体に挟まれる。
「ううん、たぶん平気よ。何より、こんなことに蝶に負担を負わせるわけにはいかないわ。とはいえ、ごめんなさいね。ちょっと息苦しいでしょう?」
「平気。システム関係の人?」
「いいえ、仕事の仲間。蝶のお父様も知っている人じゃないかしら」
「ああ、そりゃあ見られたら気まずいね」
「でしょ」
蝶と蟬ヶ沢の関係は酷く複雑で、蝶にとっては一番当て嵌まるのは友人なのだが、世間一般の説明としてはアルバイトと雇い主で、たまにかなり遠い親戚ということにしている。
二人の状況、知り合いに見らえたら確実に妙な誤解を与えらえる。さきほどの世間一般の説明では到底補えない。一番二人の関係に理解があるのは奇妙なことに蝶の両親である。
流石に両親でさえ、二人がこうして密着しているのはざらではないことは知らないし、教えられない。
蝶はこっそりと蟬ヶ沢の胸に埋もれる。
あと五分ほどでいいので知り合いの何某さんはもう暫くうろついて欲しいと願ってしまう。ここで留まっている意識はもう見えているので、そうさせることは可能だ。それこそ蟬ヶ沢に提案したようにこちらに意識が向かないようにさせることも、別の方向へ意識を向けさせて別の場所へ消し掛けることも可能だ。
蝶はその動かない意識には触れない。触れたくないというのもあるが、触れて操作してしまっては今が楽しくないのだ。
自分は楽しんでしまっているが、彼はどうだろうと、見上げる。
おろおろと困った顔をしている蟬ヶ沢が親指の爪を歯でがりっと噛む。
蝶は苦笑いをしてしまう。この表情に可愛さを見出してしまうことに申し訳なさもあるが、もう少し見ていたいと思う意地悪な考えもあるのだ。
(あんまりこの状態が続けばセミさんの胃に穴が空きそうだし)
仕事と私生活の事情をそれなりに知っているので、日々ストレスに追われているのは知っている。特に、裏の仕事のストレスに関しては。
蟬ヶ沢に気付かれないようにこの場に長く留まっている人物の意識を探る。人数は五人、接待として来たのだろうか、一人は上機嫌な湯気を上げた意識を周囲に振り撒き、一人はぴりぴりと静電気のような意識でやや緊張しながらも上機嫌な湯気の人物に全神経を注いでいる。残りは逆に前者に対する緊張はあれども、後者に対しての緊張が高い。
蝶は心の中で溜め息を付く。この手の気持ちの人間を操作するのは気が重いのだ。それこそまともに彼が感じている意識を細かく視てしまえば蝶の胃に穴が空きかねない。
彼らの意識を操作するのは止め、別の人間の意識を変えることにした。
案の定、蟬ヶ沢が動いた。
「しめたわ!蝶、行くわよ」
蟬ヶ沢は蝶を抱き上げ、この場を去った。
後ろには修学旅行と思しき学生の集団がたむろっていた。
10.貴方から
蟬ヶ沢達は紅葉のライトアップがされた場所まで来た。足湯もあるので、湯につかりながら観賞出来る。ただ、観るには時間としては遅い方なので人はいない。
来たついでで足湯に浸かる。温泉は流石に混浴出来ないが、足湯ならばいっしょに入ることが出来る。
「流石にここには来ないわよね」
「来ないでしょ」
「良かったわあ。もう少しで蝶を圧縮してしまうとこだったもの」
「別に、あの状況悪くなかったよ」
水鉄砲で温泉を掛けられた。掛けた張本人は悪びれもせずにタオルで雑に拭いてくる。彼らしくアフターもするのだが、そもそも濡らすようなことをしなければいいというのに。
「私は気が気でなかったわよ。まあ、ありがと」
「……なにが?」
にっこりと笑みを浮かべながら蟬ヶ沢は距離を詰める。蝶が後ろに下がろうとするが、彼はがっしりと蝶の両腕を掴み、それ以上の移動を許さない。
「セ、セミガサワサ……ン?」
「私が気付かないとでも思った?」
何度見たであろう、静かな怒り。能力で視なくても分かる。無断で能力で操作したことを怒っている。
蝶は彼が怒っていることよりも、毎度のごとく詰め寄る距離の近さに考えが持って行かれる。
頭一つ分の近さで睨む。
「本当にもう少し待ってくれるだけであの人達は宿に戻るのに。あのお店は閉店時間で、そろそろ閉まるところだったのよ」
「でも、それならこっちに来るかもしれないでしょ」
「それはないわよ」
「なんで?」
「………………」
「なんでよ」
「あのお店が閉店後に開くお店があるのよ」
「……あー……。世の中娯楽施設ってくくりが広くて困るわ」
「……そうよ」
「だからか、あの辺歩いていたとき周囲の視線が痛くなってきたの」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。それ早く教えなさいよ」
「うん、だから、引き込まれた間は見えないようにしてた」
蟬ヶ沢は項垂れて、蝶の肩にもたれる。
「とっとと逃げてしまえば良かったわね。気分とかは悪くなってない?操作したのは意識と物理の両方じゃない」
蝶の能力は視る分には問題はないが、操作する時は注意する必要がある。場合によって気分や体調が悪くなる。
「平気。操作したのは修学旅行の人たちだし、あのセミさんが見ていた人たちだと嫌だったけど」
「あの人たちについてはもう忘れなさい。というか忘れて頂戴。気まずいわ」
「でも、けしかけた修学旅行の学生には悪いことしたね」
「まあ、まだ開いてなかったし、あの子達も気づいてないでしょ」
冷えてきたからか、蝶はくしゃみをしてしまう。
「あら、もう帰りましょうか」
二人は足湯のある場所から離れる。
帰りは急がず、ゆっくりと旅館へ戻る。
何度この手を伸ばすことを迷った事だろう。
伸ばし掛けた手を蟬ヶ沢が握る。握るというよりは掴んでいるといった方が正しいだろう。
「やっぱ若い方が体温が高いのかしらね」
掴んだ手を持ち上げて、にっと笑う。
「中年だから新陳代謝が落ちてんでしょ」
蟬ヶ沢はこんと握った手で頭を叩く。
「同じ秋でも私達がいるところとは全く違うわね。寒いわ」
任務の時もだが、躊躇なく握る。
握ってくるのは常に貴方からだ。
貴方から握って欲しい。
私が望むのではなく、貴方から望んでと思うのはわがままだろうか。
*****
帰り道、蝶はくしゃみが止まらず困っていた。道すがら蟬ヶ沢も気にかけてくれてはいるが、止まる気配はない。鼻炎だろうかと考えるが、朝から幾度から起きていたことから違うと頭の中で考え、否定する。熱いと思っていたのも、違う熱さのせいも入っていたらしい。
「風邪、か」
ぼうっと思考が定まらないまま呟き、ふらりと蟬ヶ沢にもたれ掛かった。
11.痛み
気がつくと旅館の天井だった。辺りを見回すと蟬ヶ沢が隣で読書をしている。彼は蝶が起きたことに気づくと彼女の額に手を当てた。
「……まだ熱いわね。それにしても、貴女でも風邪って引くのね」
「そりゃだって人だし……。合成人間も、風邪とか、体調不良起こさない?」
「これまで病院にお世話になった時って大概怪我をした時ね。身体強化で風邪とか引きづらいのかしら」
「うらやましい」
「移しても困らないわよ」
布団に入りこうとしてきたので容赦なくひっぱたく。
蝶の力で引っ叩いても痛くはないはずだが、涼しい顔で布団を直してくる所が腹が立つ。
「セクハラオヤジなんかには絶対移さないわ」
「残念だけど、明日は帰らないと行けないわね。元より帰るつもりだったけど、少し早めに帰りましょう」
「まだ行ってない所あるのに」
「それはまた今度」
口を尖らせる蝶に蟬ヶ沢はくしゃりと頭を撫でた。
*****
12.痛み、匂い
隣で寝る蝶はずっと咳き込んでいる。
ここ最近の疲れから引き起こしてしまったのだろうか。
私の管理不足か。自分を責めそうになり首を振る。
ともあれ旅行は中止だ。一刻も早く家に帰して休ませなければならない。
蝶はまたひとつ咳をする。呼吸もいつもよりしづらそうに聞こえる。
苦しむ姿を見るたびに今の体調を調べたくなる。調べて少しでも楽にさせたい。しかし調べたいが、合成人間特有の体調等の調べ方は少々困る方法だ。
合成人間の物質の調査方法は様々だがスタンダードな方法は舐めて、その成分を調べる。
合成人間だけでなら、お互い特に躊躇なく受け入れ調べる。以前、蝶のことも同じ方法で調べようとしたとき、酷く嫌がられた。形としてはキス、それも舌を入れて相手の唾液を採取する方法で、蝶は調査方法を知ったときこれだけは止めてくれと頼むほどだった。
遥か昔、その調べ方を施したことがあるのだが、彼女には教えないほうがいいだろう。
蝶の背中を擦りながら、比較的起こさずに済みそうな方法を考え、思い付く。
「……怒る、かしら」
ほとんど口の動きだけで、ごめんなさいねと謝り、首に軽く舌を這わせる。首に流れ落ちる汗を舐める。
罪悪感と羞恥心で心拍数が上がるのが分かる。
合成人間の調べ方としては舐めることは一般的な身体の調べ方だが、行動そのものはとてもじゃないが事情を知らない人間には出来ない行動である。腕などなら良かったが、衣類で汗が吸い込まれてしまって、採取には向かない。脱がせてまで汗を採取するなんて方法では確実に彼女を起こし、引かれるだろう。それだけは避けねばならない。
妥協案としての首だが、これもこれで酷い。
舐めて、成分を調べた結果としては、彼女の風邪はウイルス性は多少あれども安静にしておけば治る一般的な風邪だった。
帰る前に医者に見てもらい、それから帰るのがよいだろう。
「………………」
もう一度首に口を推し当てる。今度は舐めるようはことはせず、軽く押し当てる。熱い。普段よりも高い体温のせいか、貴女だからなのか。
こんなことをしても風邪は自分には移らない。彼女を苦しめる風邪を吸い込めたらどんなにいいことか。
やや深い呼吸が喉からの振動で伝わる。呼吸が苦しいのかもしれない。
この程度では死ぬことはないだろうが、辛い状態には違いない。
漫画では風邪を感染させて治るものだが、現実はそうもいかない。
感染されても蟬ヶ沢ならばすぐに治してしまうだろう。
「せみさん?」
蟬ヶ沢の名を呼ばれて、はっと離れる。
蝶はぼんやりと蟬ヶ沢を見つめながら、首の、丁度蟬ヶ沢が降れていた箇所を擦る。
蟬ヶ沢は視線を逸らして情けなく思いながら弁明する。
「これはその、変なことがしたくてこんな、こんなことしているんじゃないのよ。風邪は風邪でもウイルス性とかあるかもしれないから……」
「しらべた?」
蝶は蟬ヶ沢に触らずに尋ねる。
「汗で、少しだけ。でも、普通の風邪だから安心しなさい。このまま安静にすれば治るだろうから」
どこにも行くなというように蟬ヶ沢の首に手を回し、引き寄せる。
「あ、あああ、あの、蝶?」
ぴったりと付いた頬は当然ながら熱い。
顔を逸らすなり抵抗した方がいいのだろうが、この状況に混乱した蟬ヶ沢は抵抗することを完全に忘れた。
ああだの、ううだの、言葉ではない発生ばかりで、ろくに言葉も吐けない。止まって欲しいはずなのだが、どうする気なのかも期待してしまう。
とんとんと肩を叩かれる。蝶は蟬ヶ沢を放すと、寝てくれとのつもりだろう、軽く肩を押してきた。
大人しく寝るが隣が気になって仕方ない。ちらちらと何度も蝶の様子を見てしまう。
蝶はふうと息を吐くと、布団から起き上がる。蟬ヶ沢が止める前に、ぺたりと彼の腹の上に乗っかってきた。
きょとんとする蟬ヶ沢を尻目に片方の手を狐の形に変える。口に当たる部位を広げて、蟬ヶ沢の首を挟む。形としては噛みついたと言うべきだろうか。
そのまま蟬ヶ沢の上でうつ伏せになる。
赤い顔で半分までしか目覚めてない顔は酔ったようにも見える。
ふふんと笑って、顔を伏せた。
「…………」
つんと頭をつつくが反応がない。
蝶はその後電池の切れたおもちゃのように眠っている。
どうして腹の上にうつ伏せで寝てしまったのか。両足も丁度足の間に収まっている。
「……………」
合成人間でよかったと思うべきか。悲しむべきか。
合成人間でよかったと思うことにしよう。この時点でも既にアウトである。この子は気にしない可能性はあるが。
「…………」
そっと蝶を下ろし、首を擦る。焼き印で焼かれたように触れたあとはどこだったのか明確に思い出せる。そこはもう熱くも色も変わらない。
深く、深く溜め息を付いた。
指で良かったと思った。
自分がしたように触れられていたと思うととてもじゃないが心臓がもたない気がする。
「…………」
大きく溜め息をついたのか落胆なのか安堵なのか。
誰も見ていないのは解っているが、腕で顔を隠す。
鼓動が早く、心臓が痛い。
きっとこの顔は紅葉よりも朱色に染まっているだろう。
呼吸がやたら深いのは気のせいと思いたい。
朝になって、蟬ヶ沢は少しだけ熱を出したが、それは風邪ではないのだろう。
13.しかえし返し
帰りの電車は指定席を取り、なるべく人がいないところに座る。蝶は窓辺で、蟬ヶ沢は通路側だ。
蟬ヶ沢は隣に座る蝶の様子をこっそりと見る。朝になると少し落ち着いたようだが、それでも咳は収まっていない。マスクから見える範囲からも彼女の顔はまだ赤いのが分かる。蝶からのお願いで、予防として蟬ヶ沢もマスクを付けている。
蝶と視線が合った。彼女はにやりと目を細め、手を鋏の形に変える。これから蟬ヶ沢以外の人が聞くと不味いことを言うつもりらしい。
不味いことを言うにしては気に病んでいたり、真剣な顔ではない。
何か冗談でもいうつもりだろうか。
「聞いてよ、今朝見た夢、セミさんが凄いことしてた」
「へえ。……どんな?」
「セミさんならしなさそうなことだったから起きた時びっくりしたよ」
「…………」
鞄を落とした。心なしか汗が吹き出した気がする。
蟬ヶ沢の異変を蝶は見逃すはずはない。あはははと笑う蝶の表情が固まる。赤い顔は確かに赤いが違う意味も入っているように見える。
「え、ええと、待って」
「はい」
観念した。
「もしかしてだけどさ、気のせいと思いたいのだけども」
マスクを更に上げて顔を更に隠すが、真直ぐ見つめてくる。
「その、体調を調べたくって……」
「何で首にもっかい、あの、あれ、あれ……あれを?」
マスクの下からでも顔をひきつらせているのが見えて、視線が怖いです。
「風邪移ればいいなって思っただけよ」
「移らないし、移さないし」
蝶の視線が怖いです。
「そうよねぇ」
「首じゃなくても良かった……じゃ、ん?」
どこなら良かったのだろうか。
ふむと頷いて、少し考える。
「切って血を採取するのも手だけども、嫁入りの子を傷つける訳にはいかないもの。それに、……口なんてもっとだめでしょう?」
「あたりまえだよ!」
過去にしたことは永久に明かさないと固く心に誓った。
「あんまりかっかっしていると風邪が悪化するわよ」
「誰のせいで」
蝶は咳き込み噎せる。蟬ヶ沢が背中を摩るが、止まるまでやや時間がかかった。
蝶は大丈夫と手を軽く前に出して伝えてきた。
「思ったより悪そうね。もう一度調べた方が良いかしら」
「平気だって」
「風邪引いといて何が平気よ。ほら、ちょっと首を貸しなさい」
「ま、待ってよ。人はいないけど、行動は考えよ?合成人間の倫理観のやばさはちょっと考えて?」
「……。不可視にして?」
「そんな、語尾にハートつけても絶対しないからね」
首を傾げてみたが駄目だったようだ。
「あら、私たちの仲を見せ付けようなんて、いいアイデアね」
「セクハラ中年蟬、怒るよ」
蟬ヶ沢はため息をつく。
「一応、純粋に心配だから知りたいってだけなのだけど」
手段こそ非難されたが、心配からしたというのは偽りのないことだ。
「……………ちょっと舐めくらいで終わる?」
「すぐに終わるわ」
「…………」
観念して、タートルネックの襟を手で下ろす。
指で首に触れるとぴくりと動いたが、目は固く閉じられている。
マスクを外して、袋に入れる。顔を近づけ、触れる寸前で蟬ヶ沢は止まる。ちらっと蝶の様子を見ると、まるで彫刻の様に固まっている。
「…………」
二秒ほど停止し、呼吸から漏れた程度に息を吐き、笑う。
触れていた手を一度離す。指を狐のように作り、首にかぷりと挟むもとい噛みつく。指についた汗を舐める。
首の感触が無くなったことに気づいた蝶はおそるおそる瞼を開けて、首を擦る。擦りながらぽかんと蟬ヶ沢を見る。彼は蝶のことなんぞお構い無しで、にっこり笑った。
「……そうね風邪は悪化してなさそうよ。良かったじゃな」
蟬ヶ沢の顔面は激しい衝突音と共に鞄で見えなくなる。
蝶が鞄を蟬ヶ沢にぶつけたのだ。相手が弾丸を視認出来るほどの動体視力を持っていようが構わないというような手際のいい綺麗なフォームで鞄を蟬ヶ沢の顔面にぶつけた。
蟬ヶ沢とて避けられるはずなのだが、毎回受けている。この程度では全くダメージはない。その証拠に、やれやれと首を擦って何かおかしいことをしただろうかと蝶を見る。
真っ赤になった蝶はこの紅葉一朱色になったのではないかと思うほど赤い。
「…………!……ばか!」
どすどすと席を離れ、何処かに行ってしまった。
しばらくしても彼女は戻らない。
蟬ヶ沢が席を離れて見に行こうするが、すぐに蝶を見つける。数座席先の腕置きにもたれている。
蟬ヶ沢が慌てて駈け寄ると、キッと睨んできた。
「ええと……」
睨む蝶にどうすればいいか。
とりあえず、しゃがみ込んで目線を合わせる。
「呼吸はどう?辛い?」
頷く。
「立てそう?」
首を横に振る。
「席まで運んで行ってもいいかしら?」
動かない。
「あー……、調べる時はもうちょっと、その、ごめんなさい」
すっと両手が蟬ヶ沢の首に伸びる。顔は俯いたままで見えないが、その手は直接蟬ヶ沢に触れることはない。開かれた掌はひらひらと偉そうに蟬ヶ沢に運ぶことを要求する。顔こそ見えないが首まで赤いのが見えた。
「はいはい」
お許しの反応を見たせいか、声音に笑いが入ってしまった。
蝶を抱えて蟬ヶ沢は元の座席に戻った。
12.5
蝶はぼんやりと思考を巡らせていた。
熱い、体中鈍い熱で体中がだるくてしかたない。
起きてはいるが何か考えるほどの余裕はない、ただ体で感知するものを視ていくだけだ。
この熱に浮かれるくらいなら窓を開けてしまいたいが、隣にいる彼は許しはしないだろう。この旅館周辺の人間がここを狙うような思考や、視界として見られることがないのは確認済みなのだ。
熱い、この思考ばかりがぐるぐる廻る。
突如、首にぬるりと奇妙な感覚に襲われた。いつもの<フェイク・シーズン>で視るような感覚ではない、通常の人間でも感じ取れる方の触感の感覚だ。
首が舌で舐められている。何故か蟬ヶ沢が舐めている。直接触れているので、一応どんな感覚で舐めているかも分かる。小ぶりの雨が振っているようなしっとりとした心配と、周囲と蝶への慎重さ、なにより恥ずかしがってもいる。
彼はこんなことをするはずない。蝶は心の中で首を傾げ、思い当たる答えを出す。
合成人間での調べ方で舐めて成分を調べることが出来る。舐める行為の一つとしてキス、厳密には相手の口から唾液を採取することがある。一緒に任務をした頃、一度だけ蟬ヶ沢――スクイーズの方が言い方は適切だろう、スクイーズから腸の身体の様子を調べると聞いて、実際に調べられそうになったことがある。
初めて合成人間の調べ方が舐めると知った時、酷く驚いたがまさか自分もされるとは思わなく、初めてスクイーズのことを拒否した。
あのスクイーズの顔は忘れられない。申し訳ないが、思い出すと笑ってしまう。
この舐めているのも恐らく、蝶が風邪であることを気に病んて、心配した上で調べてしまったのだろう。
赤の他人ならば舐めれるのは気持ち悪いが、蟬ヶ沢相手なら熱い中で熱が飛ぶならばなんでもいい気がしてきた。
一度首から離れて、布団に戻るかと思いきや、一呼吸ほど吸うと、再度首に触れてきた。
「……………?」
いっそのこと今起きてしまおうか。
相変わらず心配していることや緊張している思考は変わってない。でも舐めることはない。調べ終えたのなら風邪が移る前に離れて寝たらいいのだが、離れるどころか、
独占したい我欲のような類は視えない。
離れて欲しい。
余計に熱が上がりそうだ。
熱でぼんやりとした思考をなんとか回転させて考える。
「セミさん?」
悩んだ末、起きてしまったふりをすることを決めた。
目を開けると、案の定、蟬ヶ沢は驚いておろおろしている。
「これはその、変なことがしたくてこんな、こんなことしているんじゃないのよ。風邪は風邪でもウイルス性とかあるかもしれないから……」
「調べた?」
意地悪で聞いてしまう。
「汗で、少しだけ。でも、普通の風邪だから安心しなさい。このまま安静にすれば治るだろうから」
何か仕返しがしたい。
特に思いつかないので、蟬ヶ沢の首に手を回し、頬を付ける。
「あ、あああ、あの、蝶?」
ぴったりとついた頬はひんやりとしていて心地よいが、これで彼に風邪が移ってはいけない。
すぐに手で押して離れ、ぐいぐいと蟬ヶ沢を隣の布団まで押す。彼ももう寝ろというのが伝わったのか大人しく布団に入る。
視線が痛い。能力云々で見えなくても、明らかにちらちら見ている。
「……………」
先程の名残惜しい気持ちが燻る。
ため息をついて、蟬ヶ沢の腹の上に乗る。
腹の上に乗ってみたのはいいが、どうしようか。
先程されたことを思い出し、手を狐の形に変える。その狐を蟬ヶ沢の首に噛みつかせる。
暗い部屋でも月明かりが入り込む部屋のおかげか彼の顔も見える。顔を真っ赤にさせているが、先にしてきたのはそちらである。
熱のせいかもう起き上がるのも辛く、腹に乗ったまま倒れてしまう。
これでお相子だ。
心音がやや早い。
この熱さならいいな。
ここまで悪くないことが起きるとなると、夢の可能性がある。
彼ならば首にキスしでまで調べることはしないだろし。
ぬるい温かみにと一緒に意識も溶けていった。