001.~
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この小説の夢小説設定簡易的な夢主設定
夢主は
・女子高生(深陽学園の女子生徒)
・デザイナーの卵
・特殊能力の持ち主(MPLS)
・蟬ヶ沢(スクイーズ)とは昔からの知り合い
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早朝、蝶は朝日で目が覚める。視界に広がるのは夜明けの空ではなく、蟬ヶ沢の喉。彼だと断定出来るのは見覚えのある服と、能力の感知のお陰である。直接肌に触れていないと感知できないのだ。
不思議な夢を見ているものだ。蝶はぼんやりとしながら、これは夢だと判断した。彼ならばこんなことはしない。
どうせ夢ならばと、顔を埋めて相手の体温を頂こうとする。この中年は見目にしては加齢臭がない。彼は香水の類いも付けない。仕事の都合上、付けられないが正しい。良いか悪いかは解らないが、この臭いは蝶にとってはとても落ち着かせて、嫌いではない臭いだ。
埋めた動きに反応してか、蟬ヶ沢は「……ん」と声を漏らして蝶の頭に沿えて胸に埋めさせる。 息苦しさに蝶は離れようと蟬ヶ沢を押すが、圧倒的な筋力差に負ける。
つねるなり蹴るなり無理やり起こしてしまようと蟬ヶ沢の頬に手を伸ばすと、彼が眉間に皺を寄せていることに気がついた。微かに呻いているようにも聞こえる。
「ちょっと、セミさん大丈夫?」
頬に触れて彼の様子を見る。ただ悪夢を見ているらしいが、何か様子がおかしい。
能力で少し詳しく様子を見る。仮にここが夢の中であろうとそうでなかろうと、苦しむ彼を見るのは嫌なのだ。
脳波には異常はない。今見ているのはただの悪夢だろうか。
悪夢を見るのはストレスがあることが要因の一つだが、夢の中でまで彼がストレスに苦しむ夢を見るなんてと自分の脳内処理の酷さに頭が痛くなる。
効果があるとはあまり思えないが、しないよりはマシかとなるべく悪夢が見えないようにと願いながら、彼の頭を撫でてみる。
しばらく撫でてみると、眉間の皺はなくなった。
蟬ヶ沢が悪夢から脱出出来たと判断し、蝶はほっとする。
「セミさん、感謝にしてよー?」
くすくす笑いながら蟬ヶ沢の頬を軽くつねる。
蟬ヶ沢は困ったように眉を下げて、蝶はさらに笑う。
相手の吐息がはっきりと分かるくらい顔が近い。
このまま重ねてみたくなるが、理性は伸びた首を引っ込ませた。
恋愛だの恋人だの、周りのクラスメイトの何人かは彼女だったり彼氏がいたりしている。
蝶とて全く恋愛に興味がない訳ではない。
もし、誰かとキスをしろと言われたのなら、誰かを指定出来るなら、彼しかいない。彼ならしても構わないと思っている。
蝶にとっては蟬ヶ沢は親よりも信用している。特別な思いがある。その思いは“そういう相手”として見ているかと聞かれると違う気もしてくるが、とにかく特別なのだ。
どんな仲であれ、この状態でいる男女の仲と言えば大抵の人間ならば恋仲だと答える。
蝶と蟬ヶ沢は恋仲ではない。仮に蝶が蟬ヶ沢のことが好きであっても、彼はそこまでは決して見ていないだろう。
朝日の上昇と共に気温が下がり、蝶は身震いをして決して可愛いとは言えないくしゃみをしてしまう。とっさに口を塞いだが、既に放たれたくしゃみを止めることは出来ず、
「ええと、おはよう……寒いわね」
蟬ヶ沢を起こすことになる。何で起きたのかわかっていないようだが、口を押さえた蝶を見て理解したらしく、くすりと笑い、さがった布団を蝶に掛ける。
「……おはよう……ございます……」
蝶はようやく今が夢でないことに気付いて、蟬ヶ沢を突き飛ばしベッドから落とした。
*****
豪雨の中、蟬ヶ沢卓こと、スクイーズは蝶と共に待機していた。
今回の任務は指定されたポイントに来る人物の処理である。それを聞いたスクイーズはすぐさま蝶に任務から外すように指示したが、任務を通達した者は今回は彼女が必須だと言い、強制的に同行することになった。
撮影地としてよく使われる河川の公園の東屋にスクイーズと蝶は待機している。公園の東屋なのだが、川の上に乗り上げる形で立てられている。この東屋には屋根もついているが、ところどころ穴が空いて雨風は全く防げていない。たんなる日陰用の屋根なのだろう。
二人は雨合羽を着ていて、蝶は傘を差している。雨の対策をしてもこの豪雨では濡れてもおかしくないのだが、不思議なことに二人は一切濡れてない。ちょうど二人の体を一センチの隙間を開けて雨が流れている。傘を差している一人は傘から下は全く雨が入っていないらしく。乾いた場所の形が傘の形をしていた。
蝶は持っている傘の持ち手を変えて、スクイーズの上に直接雨が当たらないように傘で雨を遮る。言葉だけ聞けば馬鹿げたことだが、これが今回の蝶の任務の一つだのだ。主にスクイーズの任務の補助が蝶の主な仕事だ。
しゃがみこんでいるスクイーズは遠くを見ながら、蝶に向けて手を差し伸べる。蝶は素直に手を握り、彼を能力の有効対象に入れる。彼だけは直接触れていないと蝶の能力が効かない。
触れた瞬間に蝶は自身の能力でより詳しく周囲を視る。これまで雨粒の落下と、風の向き、川の向こう側にいる人間達の意識の流れに加わり、スクイーズの意識の向きも視える。視線からは甘く加工されていないカカオのような苦さ、掌からはホットミルクのような安心を感じる。
蝶は傘を肩と首の間に挟め、スクイーズの頭をがしがし乱暴に撫でるが、あまりにも乱暴なのでこすり付けると言った方が正しいかも知れない。
スクイーズは無表情だが、だいぶ機嫌が悪い。蝶に乱暴に撫でられているせいではない。この仕事そのものを嫌っているのだ。
今回の様に人を殺すような仕事をしているが、スクイーズは望んで行っているわけではない。彼が所属する組織の目的として世界を守るといのがある。その為に、様々な人達を殺している。中には世界を征服しようとたくらむものもいると聞くが、大半は能力もなにもないただの人間を殺している。
これから殺す対象も恐らくただの人間だろう。指定場所付近にいる人間の意識も目を凝らすと合成人間とは違う感覚を周囲に向けている。
スクイーズが合図として手を少しだけ強く握る。蝶たちがいる場所から凡そ三百メートル先に対象がいるのだが、彼にはそれが見えているのだ。蝶も対象をすぐにその対象の意識の向きを視る。視認するよりも、能力で視た方が早いのだ。
蝶は処理の対象者が恐らく人間だろうと思った。雨に対して冷たいいらだちと、何故か周囲へ異様な警戒がある、圧搾された呼吸を細切れに出している。これほどわかりやすく緊張していると、何故蝶も付けて狙撃の任務に付かせたのか不思議に思ってしまう。
対象の行動を制止させ、スクイーズに砲撃の用意を伝える為に、スクイーズの耳元で大きな声で話しかける。視界が明らかに悪い上、豪雨により隣にいてもまともに聞こえないのだ。
「撃てる?」
スクイーズの意識で不機嫌さは薄れたのが視えたが、何故か少し顔を離す。
「いつでも。方角は?」
「そのままで固定して撃って。そのくらいならこっちで調整する」
スクイーズが身構える。スクイーズの砲撃には三秒程かかる。蝶も心の中でカウントする。放つ瞬間、視るレベルを少しだけ落す。撃たれて細切れになる瞬間をまともに視ない為に。
それが仇になった。
蝶が先に感じたのは違和感だった。それが何かと分かる前に、腕に衝撃が伝わり、蝶は冷たい川に落ちた。
****
蝶が川に落ちる瞬間、スクイーズは本能的に狙撃の方向へ衝撃波を放った。数秒前に再チャージをしていたのが功を奏していたのかすぐに次の発射が可能だったのだ。
ただ、相手はどの位置にいたのかは分かるがこの距離では蝶の補佐なしは正確に当てるは難しい。相手がいるビル階層ごと攻撃した。ビルそのものは壊れないが、そこの階層の部屋にいた者は衝撃波をまともにくらわずとも割れたガラスなどで傷は負っているはずだ。
いざ蝶を助けるべく川に飛び込もうとするが、スクイーズは止まる。
なにかがフラッシュバックする。落ちているのは確かに蝶の筈なのにまるで自分も落ちているような感覚が甦る。
冷たい水が体温を下げて、皮膚は濁流が削り取った木々の破片で裂け、痛みを感じるよりも肺が水で満たされ苦しくなる。
覚えのない記憶に困惑し、スクイーズは記憶に飲まれていた。
このままでは自分は死んでしまう。自分はもがいてももがいても、掴めるものはただの小枝ばかり。
誰か、誰かと叫んでも誰も来てくれない、いないのはわかっていても叫ばずにはいられない。まだ死にたくない。誰か。
「セミさん!」
一瞬顔を浮かばせた蝶がスクイーズを呼び、彼ははっと現実に帰る。
すぐさまジャケットを脱ぎ、川に飛び込み、蝶を追いかける。
蝶は浮かんでは沈み、手を伸ばして必死にスクイーズに自分がいることを知らせる。
流されながらも幾ばくかは流されないように抵抗しているのか、蝶は時折不自然に止まっては流されていく。蝶が沈む度にちらちらと先程の記憶が出てくるが、スクイーズは振りほどいて、蝶を追いかける。
まだ意識がある内に早く掴まえないと。
蝶のすぐ先に大きな岩があることに気付く。
避けろと叫ぶが、その声は水の侵入で伝えさせない。スクイーズが何か伝えようとしていることに気付いて蝶は振り向くが、同時に岩にぶつかりスクイーズの視界から消えた。
蝶がぶつかった岩まで来て潜る。岩は大きな固まりがいくつか集まっているらしく、ちょっとした防波堤のような形になっている。眼球に痛みを感じつつ、川の底に沈んだ蝶の腕を見つける。彼女の周囲の水の流れだけやけに穏やかなのは本能的に能力で避けているのか、すぐに捕まえることが出来た。
浮上し、岸まで泳ぎつつ蝶の様子を見るが、追い付いたのは彼女が沈んでから何秒なのか、ようやく掴んだ蝶は意識がなく、なんの反応もない。
(……蝶、悪い冗談はやめてよ……)
急いで打ち上げ、蝶の容態を診る。声をかけて頬を叩くが返事がない。
後頭部を押さえつつ、顎を少し上げて空気を送り込む。
返事も無ければ、呼吸もしていない。
人工呼吸は続けつつ、スクイーズは声を掛ける。
「だめよ、起きて!……起きてよ!……起きて……、起きて!」
雨にしてはやけに温かい水も流れていたが、スクイーズにとってはどうでもいいことだった。
統和機構からの通信が入ったがスクイーズにはまったく聞こえておらず、人工呼吸を続けた。
「がはっ……!」
蝶は水を吐き出した。彼女は苦しそうに喉を押さえつつ、片手でスクイーズの裾を掴む。喋れないようすだか、大丈夫だと言いたいらしい。
「よかった……」
スクイーズは安堵で項垂れる。
蝶はスクイーズの手を握る。すると周囲の雨風が数センチの感覚を開けて流れ落ちる。
「大丈夫だって」
震えるスクイーズに苦笑いしながら、彼のベルトのポケットにしまってある通信端末を取り、ボタンを押す。彼の背中を擦りながら蝶は報告を入れる。勿論、彼の声が入らないように遮音処理を施す。
「こちらウェザークロック、スクイーズに代わって任務完了したことを報告します。対象は……」
****
「帰りがこんなに遅くなってごめんなさいね」
「別にこんな傷病院で診てもらう必要なんてなかったのに」
蝶はやや大袈裟に巻かれた頭と腕の包帯を差す。
「それは駄目よ」
蟬ヶ沢はきっぱりと断言する。
任務の中で蝶が負傷したので、帰りに統和機構が関わる研究機関に寄ってきた。そこは研究施設なのだが、その中には医者もいるのだ。診察が終わったころには時刻は遅い時間になっていた。
病院に行く途中、蟬ヶ沢は蝶の家に彼女は仕事の手伝いで怪我をしたと電話で伝えた。電話に出てきたのは母親だったが、いつものようにのんびりとした口調で「まったくあの子はおてんばですからね」と言ったのは蟬ヶ沢を説明を聞いてしばらく無言になった後だった。
やはり自身の娘が怪我をしたことを聞いて心乱さない親はいない。車が家のそばでとまると、どたばたと蝶の母親が出てきた。送り届ける途中聞いたが、彼女の父親は今日は出張だという。
蟬ヶ沢は緊張により身を震わせる。何を言われるのかを想定して耐えられるのか、不安で仕方ない。責め立てられるのを覚悟して、車のドアに強く手を掛けてしまう。
「セミさん」
蝶が蟬ヶ沢の手を安心させるようにきつく握り、微笑む。
「大丈夫だって。ね?」
そういうと蝶は手を放し、母親のもとに駈け寄った。蟬ヶ沢も蝶の後に続いて、彼女の母親のもとへ向かう。
蟬ヶ沢の心配とは裏腹に、蝶の母は責めるどころか深々とお辞儀をし、感謝してきた。
細やかなお礼としてご馳走すると言われたが、それは断って彼女をすぐに休ませるように頼んだ。
*****
蝶が自宅に入った後、 蟬ヶ沢は少し車を動かし、彼女の家から見えない場所に停める。
通常の人間なら見えない距離でも見えるのは合成人間の利点である。
蝶の部屋がある二階を見る。明かりは付いていたが、しばらくするとその明かりは消えた。
暗い部屋を見て、今日見た見覚えのない記憶を振り返る。
これまで蟬ヶ沢は川で溺れたことがない。海ならば、そう、合成人間の任務の中で溺れるというよりも沈むが正しいだろう。海で溺れたことはかなり昔のことだが、川で溺れたと誤認するには状況が違う。何よりも、海で溺れていたときは怖くはなかったのだ。
一人蟬ヶ沢は自己嫌悪に陥る。川で溺れたのが本当に自分の身に起きたことなのかはどうでもいい、溺れた頃の記憶に押されて蝶を助け出すのが遅かったのが酷く悔しい。
結果として助け出せたのはいいが、少しでも遅れていたらと思うとぞっとする。死んでしまうなんて考えたくもない。
悪い考えにきをとられ過ぎていたせいか、携帯電話に着信に気づいたのはコールが三回目に入ってからだった。
画面を見ると、相手は蝶だ。
すぐに出ると、何も聞こえない。しばらく聞いてみると、呼吸する音が聞こえることに気づいた。
「…………」
通話を切り、車から出る。
車はそのまま停めて、蝶の家に向かう。近くまで来ると、一度周囲を見渡し、二階まで飛び、蝶の部屋を覗く。
閉められた窓から覗くと、蝶は携帯電話を持ったまま寝ているのが見えた。
蟬ヶ沢は窓に手を掛けて――鍵をどうやって外そうか考える前に――からからと窓がスライドした。
「…………不用心すぎないかしら……」
飽きてながらも蟬ヶ沢が部屋に入ると、蝶はほとんど寝ているといってもいいくらい焦点が合っていない目で蟬ヶ沢を見ながら「ん」と、自身が寝ているベッドを叩く。隣に座れということらしい。
蟬ヶ沢はため息を付いて、ベッドに腰掛ける。彼女から携帯電話を取り上げ、充電器に差し込んで机に置く。
「もう寝なさいよ。怪我もしているんだから」
「……」
「なによ」
ぐいぐいと袖を引っ張る。
「なあに」
何か口は動いているのだが、聞き取れない。
聞き取ろうとして口元まで耳を寄せると、
「すぐるさん……」
突然呼ばれたことがない下の名前で呼ばれ蟬ヶ沢の思考が真っ白になり、思わず顔を蝶に向けた。
「……な、何言って!」
「……せみさん」
眠そうな声が甘えているようにも聞こえて、心拍数が更に上がる。
「そうじゃなくて、……あのね……」
顔を逸らしてしまえばどぎまぎせずに済むのだが、目を瞑って固まってしまう。
「…………」
何も聞こえず、感触も動きが一切なく、十秒程経過し、蟬ヶ沢は恐る恐る目を開ける。
「…………」
都合がいいのか、蝶は寝たらしくもう動かない。
蟬ヶ沢は残念そうに溜め息を付く。
心のどこかで何かを期待していた。もう一度起きないかと頬をつねるが彼女は一切起きる気配がない。
蟬ヶ沢はまた小さくため息をつく。
物足りない気がするが、本来の目的は寝てもらうことなので、このまま寝かせようと静かに立ち去ろうと起き上がる。くっと左腕が引っ掛かった。
「……。…………」
視線を落とす。
引っ張っているというよりもたまたま引っ掛かっている程度にだが、裾を掴んでいる。
「……だめ…」
「なあに……、寝れない?」
「……セミさん」
「うん」
「だめ……」
裾のみ引っ張っているのは無意識なのか、意識的に直接触れないように避けているのか。
「…………仕方ないわね」
靴を脱いで、部屋の入り口からは見えないに窓とベッドの間に置く。
蟬ヶ沢が横になると、蝶は額を蟬ヶ沢の胸に当てる。
「いかない?」
「大丈夫よ、どこにも行かない」
不安そうに尋ねる彼女にクスクス笑う。
安心させようと頭を撫でていると、蝶は本当に寝てくれたらしい。
撫でていた手を頭から撃たれた腕の傷口がある位置に触れる。
きっと彼女は貴女のせいではないと言うのだろうが、それでも傷を負わせてしまったのが辛くてたまらない。
「ごめんね」
****
見たことがない場所だった。痛さを感じるほどの豪雨の中、蟬ヶ沢は川の真ん中で溺れていた。体は目覚めたてのころぐらいの幼さになっていて、もがいてももがいても、両岸が酷く遠く、届く気配がない。
解らないが何か温かい風が一瞬額に触れた気がした。温かい感触はすぐに川と雨に流され額は冷えたが、温かさを感じた向こう側に行けば生き延びられると確信した。
絡み付いた水草や、ロープ等が不思議と解れていく。
目が覚めると蟬ヶ沢は漂流者か海に浮かぶものを見つけたような必死に蝶にしがみついていた。
体感としては五分もない気がしたが、酷く疲れる夢だった。
呼吸も溺れたように呼吸が浅く不安定だが、蝶を見ると気のせいか治まる気がした。
改めて蝶を見ると、彼女は口を押さえている。我慢をしているような顔ではあるがそれが失敗したような顔をしている。
「ええと、おはよう……寒いわね」
くすくす笑いながら布団をかける。
「……おはよう……ございます……」
珍しく真っ赤になった蝶は容赦なく蟬ヶ沢を突き落とした。
*****
蝶と蟬ヶ沢は起床後、朝食も兼ねてトリスタンに行った。
モーニングセットを頼んで、蝶は朝の出来事について聞いてきた。正直に話したが、蝶は心底信じられないことだったらしく、
「嘘」
とホットサンドをぼとりと落した。
「嘘じゃないわよ。帰ろうかと思ったら思いっきり抱きついて放さなかったのよ」
「……本当に抱き付いただけ……?」
蟬ヶ沢は一瞬顔が赤くなり、視線を逸らした。
「…………」
「絶対言ったって顔している!待ってよ、なに言ったのか気になるって!そんなに変なこと言ったの?」
「安心してよ。変ではないわ」
「じゃあ、教えてよ」
蟬ヶ沢は珈琲を一口飲んで言った。
「……………………“だめ”」
「……“だめ”、だけ?」
「そうよ」
らしくなく蝶は疑い深く聞いてくる。
「卓さん、教えてください?」
蟬ヶ沢は肺の中の空気を全て吐き出したかと思うほど咳き込んだ。
「あ、あ、貴女ね。何いきなり下の名前で!」
「普段呼ばない呼び方だと新鮮でしょ」
「いえ………まあ、そうね……」
昨日呼ばれたことを言いそうになり、言葉を飲み込む。
「ああ、でも貴女は本当に変なことは言ってないけど、逆に私はどうだった?先に起きていたんでしょう?その、寝言とか」
「寝言?寝言は言っていなかったけど、あんまりいい夢は見てなかったぽい。うなされてた」
「その時の私、現実でこう、……なにかしたかしら」
視線を逸らしてしまう。
「文字通り圧搾されかけた」
「ごめん……」
「あはは、添い寝ならまたしても良いけどね」
「絶対しないわ!」
*****
蟬ヶ沢と蝶はトリスタンから出て、車に乗り込む。蟬ヶ沢はシートベルトを締めた時にふと思い出す。
「ねえ、一度も溺れたことがないのに、川に溺れる記憶があるってどう思う?」
蝶は一瞬蟬ヶ沢から視線を外すが、彼はそのことには気づかずに話を続ける。
「蝶が溺れていざ飛び込もうとしたときに一気にその記憶で意識が埋め尽くされたのよ。そしてね、今朝も任務の時と同じ内容の夢を見たの」
「それって、パラダイム・ダストの時にも……」
以前蟬ヶ沢が記憶喪失に陥っていた時があった。その時に聞いたことがある。
溺れた記憶がないのに、何故か記憶があると。
「セミさんのそれって、本当に起きたことなんじゃない」
「そんなまさか、でもあれが自分の記憶だとは思えないわ」
「セミさんが幼かった頃とか」
「あんなに鮮明に記憶として存在しているのに?幼い頃の記憶ってそんなに覚えているものなのかしら」
「…………。セミさんは初めて会ったときのこと覚えている?」
「もちろん、覚えているわよ。あんなに小さい子がまさかこんなお転婆になるなんてね。それはそうとして、どうしたの?」
「あのイベントの時、セミさんは任務で来ていたの?」
「そうよ。……どうして?」
蝶は十数秒ほど時間を置いて、口を開いた。
「セミさんに向けられた流れって私が溺れたときと、似たようなイメージだったから」
蟬ヶ沢の脳裏に覚えのない溺れた感覚が呼び起こされる。皮膚が切れ、体は冷えていき、肺は水で満たされる。
気が付くと蝶を抱き締めていた。
「貴女が溺れたときは私が引き上げるわ。だから、だから大丈夫。大丈夫よ」
暖房が効いた部屋の筈なのに、何故か酷く寒気に襲われ、震えが止まるまで蝶を放せなかった。