001.~
Please tell me your name
この小説の夢小説設定簡易的な夢主設定
夢主は
・女子高生(深陽学園の女子生徒)
・デザイナーの卵
・特殊能力の持ち主(MPLS)
・蟬ヶ沢(スクイーズ)とは昔からの知り合い
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1.盲目な
蟬ヶ沢の事務所で呻き声が聞こえる部屋がある。
呻き後の主、蝶は今更ながら気付いてしまった。いつも親しく交友している蟬ヶ沢とは、彼からの誘いばかりで、自ら誘うことはなかったのだ。蟬ヶ沢からの誘いが多いというのもあるが、それでも自分から誘ったことがない事実に我ながら驚いてしまった。
今の今まで何故気付かなかったのか。連絡をしようと思う前に向こうから連絡が来ていたと言うには、狡い言い訳だ。
誘われてばかりだから今度は自分から誘ってみるかと携帯端末を見て、固まる。誘うにしても何をすればいいのか。これまではドライブだの公園だの、ツインシティだの、ぶらぶらと散策してばかりで、明確な目的を持った行動はしていない。
いざ目的を持って誘うにしても、その目的がない。正直な所、場所よりも彼に会うのが目的なのだから、場所はどこだっていいのだ。
携帯端末を見つけて何分過ぎだだろう。打ち込んだメッセージを入れては消してを繰り返している。
あまりにもメッセージの文章を考えるのに気を取られていたせいか、後ろに人がいたことに気付けなかった。
「何してんの」
「お、おうわあああ!」
蟬ヶ沢以外に人間の気配に気付けなかったのは久しぶりだったので、驚きもいつもより大きかった。
****
声を掛けた朱巳はまさか驚くとは思わず一歩下がるが、蝶の携帯端末を見るとすぐに察した。
蝶は心臓をなだめつつも、朱巳にメッセージ内容を見せつつ事情を話す。これから蟬ヶ沢と出掛けに誘おうとしていたのだ。
朱巳は蟬ヶ沢と蝶の上司のようなもので、蝶とは年も近いのでお互い敬語は使わずに話す仲だ。蝶と蟬ヶ沢も関係も知っている。蝶が蟬ヶ沢に対してかなり好意的なことも既に分かっている。蝶としてはその好意がどの分類なのか気付いていないが、朱巳からすればこれほどわかりやすいものはないと思っている。自分のことに関して鈍感なのは蟬ヶ沢の方が上回っているが。
蝶からの説明を聞いて、朱巳はにやにやが止まらなくなりそうで口元を手で隠す。
「何よ。つまりデートに誘いたいってことでしょ?」
デートの単語を聞いて瞳孔が広がるのが見える。彼女が何を想像したのかは想像に難くない。「デートじゃないって。これはつまり、あれよ、外出よ。デートとか、する前にそういうのじゃないし」
「へへえ、そうじゃないんだ」
「ただの……友だち、だし」
「友達なら気軽に直接会って誘えばいいじゃない?下の階にいるんでしょ?」
「他の職員に見られたら」
朱巳は口を尖らせた蝶を見て、溜め息をつく。蝶の手から携帯端末を奪い、素早く入力する。
出かける場所は小ビルが連なった建物の最上階にある水族館だ。
携帯を返してもらった蝶は画面を見て、朱巳と画面を交互に見る。
「これでいいんじゃない?どこだってあいつは来るでしょ」
「そうかなあ。おじさんの世代も見て楽しめる?」
「あのくらいっていっても、実はおっさんじゃないって可能性もあんのよ。私は知らないけど 」
「まさか年下」
「さあね、でもあいつは自分のことおっさんだって言ってんだし、おっさんなんでしょ」
「そう……かあ」
蝶は画面を凝視して、固まる。彼女はまだ迷っているらしい。
「セミさんは来ると思う?」
「ええ、来るでしょう、ね?」
「あー、早く返信してほしい」
「まあ、待っておきなさいよ。あいつも忙しいんだしさ。ところで、なんでまた遊びに誘おうとしたのよ」
「セミさんと出かける時さ、いっつもセミさんから誘われてばかりだから、たまには誘おうかなって思っただけ」
「はー!いいわね!今度私も誘いなさいよ!今回のデートのこときっちり話してもらうからね」
朱巳は蝶にじゃれつく。くぐすって、送信ボタンを押させようとするが、蝶も必死に抵抗する。じゃれつきも長丁場になると抵抗の無駄と分かり、ギブアップを宣言した。
「デートじゃないって!ああもう、送ります!セミさん来てください!」
目を瞑って、祈るように送った姿が可愛くて、この姿を蟬ヶ沢は見ているだろうかと朱巳は心の中で呟いた。
****
蝶が去った後、朱巳は隣の部屋の扉を開ける。この部屋は隣の部屋とも扉一枚隔てて繋がっている。そして、朱巳は知っていた。
「どう?彼女からの誘い。断る?」
朱巳はにやにやと蟬ヶ沢を見る。
蟬ヶ沢は理解した。レインが隣の部屋に入る前に、今いる場所から音を立てず待機しろと言われたいが、一連のことを聞かせるつもりだったのだ。尤も、蝶が部屋に入る前からこの隣の部屋に居たので、最初から聞こえていたのだが。
彼女は蟬ヶ沢の気配だけは気付くことが出来ない。しかし、朱巳の存在にも気付けていなかったが、彼女は時折感知を完全に忘却してしまうほど周りに気付けない時がある。あることに関して考えすぎてしまうと感知精度がかなり劣るのだ。
「…………」
劇作家の格言が脳裏をちらつく。
「断る訳ないでしょう。もちろん、行きますよ。せっかくのデートなんですから」
わざとらしく咳払いをして返信ボタンを押した。
2.接触禁止令
蟬ヶ沢は今日のことは確実に忘れることが出来ないと確信している。
鼻歌を歌いながら蟬ヶ沢と蝶は水族館に向かっている。仕事が同じくらいに終われる貴重な時間。これを逃すはずはない。
鼻歌をしたくなるのにも理由がある。いつも誘われる側の蝶が誘ってきたのだ。顛末を話すと蝶だけの意図が絡むが、蝶から誘おうとしたのは紛れもない真実。場所なぞどこだっていい、彼女から誘ってくれたのが何よりも嬉しいのだ。
傍から見ても上機嫌なのが分かるのか、退勤の際も同僚に「蝶から何かプレゼントでも貰ったのですか」とからかわれた。いつもならからかうなと冗談まじりに怒るのだが、思わず「そう見える?」と返してしまい、次の出勤で死ぬほど後悔するのだが、今の蟬ヶ沢には一篇たりとも予想もしていない。
蟬ヶ沢から蝶を誘うのが多いのには理由がある。
一つは彼女の身辺の確認だ。何か危険な目に遭っていないか、奇妙な人に会ってはいないか。近況を聞くにしても蟬ヶ沢と彼女の繋がりはほとんどなく、この年の離れた身では蝶から接触をするのは控えさせていた。本当に最初の頃だけで、すぐに蝶からも取るようになった。
単純に蟬ヶ沢が会いたいだけというのが一番の本音である。彼女が危険な目に遭っていないか、その確認もだが、一緒にいたいという思いがある。具体的に何かしたい欲求ではない、なんでもいいのだ。だから会う時は毎回違うことをしている。
今回の件で蟬ヶ沢も驚いている。蟬ヶ沢から誘うのは本当に多い。気にしたことがなかったが、思い返せば蝶から誘われることなんてなかったのだ。
(誘われるよりも、私から誘うのが多くて誘う気も出てこなかっただけじゃないかしら)
誘われたいがために、今後誘うのは自重しようか迷うが、この考えも直ぐに失せてしまうだろう。特に誘って迷惑は掛けていない。
運転しながら助手席に座る蝶を見る。水族館に誘ってきたのは彼女なのだが、メールの内容を作ったのは別の人物なのだ。どうやらこれから向かう水族館について調べているらしい。
「熱心に調べなくても水族館の場所は分かるからナビゲートはしなくてもいいのよ?」
突然話しかけられて、蝶は跳ねて携帯端末を落した。携帯は蟬ヶ沢の足元に落ちる。丁度赤信号になった頃を見計らって拾い、彼女に渡す。携帯にストラップが付いている。そのストラップにはかなり見覚えがあった。
「これって……この間商品化したアクリルキーホルダーじゃない。限定もの。マニアックなものを付けているわね」
このアクリルキーホルダーは今人気のデザイナーの商品をグッズ化し、各店舗で販売していたものだ。蟬ヶ沢も参加しており、このアクリルキーホルダーはやや遠いところで販売されていたものだ。
自分が作成したものを持っているが、人がつけたものは見たことが無く、まじまじと見てしまう。
蟬ヶ沢が端末画面ではなく、キーホルダーを見ていることに気付いた蝶は真っ赤になり、身をよじって取り返そうとする。
「か、返してよ!セミさん!返して!」
「もうちょっと。へえ、これ買うの大変だったでしょ。私に言ってくれれば、もう一つ貰ってくるのに」
「それじゃあ意味がないの!早く、返して!」
蟬ヶ沢が一向に返してくれないことに蝶が痺れを切らし、手を伸ばして取り返そうとする。彼女の反応が少しだけ可愛く思え、蟬ヶ沢は取られないように手を伸ばしてしまう。
大人げない蟬ヶ沢に怒った蝶は遠慮なく蟬ヶ沢に乗る。これは誤算だったのだろう、服に滑らせて、目の前がお互いの顔で視界が占める。蟬ヶ沢は思わず、呼吸まで止めてしまう。
青信号になり、後ろの車からクラクションを押される。蟬ヶ沢は咳払いをし、蝶に携帯を返し、席に戻し、車を動かす。
「…………水族館に着くまで接触禁止」
街路樹の木に止まった蝉が警報のように鳴き出した。
3.透明な視線、赤い言い訳
水族館には入ったことはある。任務の待ち合わせ場所として、それと仕事として。
私用で来たことは一度もなかったのだ。ここに来るときはいつも仕事として。利用者としてまともに来るのは今回が初めてだ。
蟬ヶ沢は朱巳に心の中で感謝した。普段、蝶と出かける時はこのような場所には来ることが無いのだ。
(デートとは冗談で言ったけど、別にデートとしてじゃなくてもここに来てもいいわよね)
やや熱中すると周が見えなくなるせいか、蟬ヶ沢が気がつくと別の魚を見ている。
やれやれと小さく溜め息を付いて、魚を見ている蝶の元に向かう。蝶に合わせる必要はないのだが、目を離した瞬間に何か起きては遅いのだ。
近づいた蟬ヶ沢に気付いた蝶が、彼をひっぱりこの魚の生体についてあれこれ楽しそうに解説してくれる。
水槽に入った無色透明な魚。
こんなに透明な魚であっても彼女には視えているのだろう。この身体には何が流れているのか。何を見ているのか。
彼女には誰も意識の、感情の矛先を隠せない。ただし、蟬ヶ沢を除いて。
蝶は楽しそうにガラスに手を当てて魚を眺めている。楽しそうな様子に蟬ヶ沢も気分が上がるが、彼女の手の方を少し気にしてしまう。
二つの意味として、この手に触れたい。一つはお守みたいになってしまうが、目を離したくない為。もう一つは、どうせなら、一緒に魚を見たいという欲。
自分からどんな感情が向けられているのか知られない体質に感謝しかない。
水族館は予想よりも暗い。水槽が大きい所はそれなりに明るいが、深海の生物や海月の水槽があるところは目が慣れるまで時間がかかった。
暗い所でもすぐに目が慣れた蟬ヶ沢とは違い、蝶は目が慣れていないようで、段差があるところでは躓きづつ歩いている。
暗がりが多い通りを過ぎると、海月が大量に入った大きな水槽が見えた。
蟬ヶ沢は水槽よりも足元に目線が向いた。下は階段状に下りていた。
「危ないわ」
蝶の肩に触れ、手を握り、制止させる。直接彼女の手に触れた時には既に遅い。とっさのことで彼女に触れると見えてしまうことを忘れていた。悪いことは考えていないが、どこに注目して意識しているのか知られてしまうことに少しだけ怯えてしまう。
もう離れてもどんな感じに今感じているのは分かっているだろう。
蝶が不思議そうに蟬ヶ沢を見たが、その手前、一瞬だけ視線を相手の手を向けたのを蟬ヶ沢は捉えた。
「どうせここに来るならお友達の方がよかったかしら」
「なんで?セミさんと来れるからいいんじゃない」
あっけらかんと。それが当たり前だと言うように。蝶は肩に置かれた手を取り、掌を合わせて指を絡める。
「朱巳さんにデートのこと教えなさいって言われたからね。話題作りにちょっと付き合って」
蝶はウィンクをして重ねた手を見せた。
「また朱巳にアブナイ仲って言われるわね」
「なあに、セミさんアブナイことでもしてくんの?」
「危ない目に遭わせない為にしてんのよ」
ふんとそっぽを向いた。
赤いライトアップで自分の顔がどんな色になっているのか分からなくなっていればいいと思いつつ。
4.羨望を代えて
お節介。自分のしたことが正にそれだろう。
何年も何年も彼女をシステムから匿いたくなるほどに大事にしている。
微笑ましくて、ついつい彼らをからかってしまう。
「好きな人か……」
そんな人はいたようないないような。
確かに好きだったのだ。どこに惹かれたのかはもう思い出せない。
ただ自分はもう誰かを好きになることはない気がしてならない。恋に溺れるほどロマンは、あのときの涙と共に流しきってしまったのか。
あのまま関係が続いていたらどうなっていただろう。
私も彼のようにシステムから遠ざけるようにするだろうか。それとも彼が望めば繋がりでも持たせていたのか。
命をかけるほど思ってはいなかった、と思う。あのまま一緒に逃亡できていればさぞロマンチックな逃避行になっただろう。
王道なロマンスが好きそうなあいつならば、逃避行も望んだろう。システムに引き渡されるくらいならと彼女と共に逃げようとしたはずだ。それをさせなかったのは蝶だ。
彼女にシステムのことについて話した時、ある提案をした。
今なら見逃すことも可能だと。全てを捨てて逃げてしまえばあるいはその能力なら逃げ切れることも可能かもしれないと。
苦手な教科のテストを見たような嫌そうな顔で、「それをしたらスクイーズの処遇はどうなるの?」と聞いてきた。いや、これはたはだの確認だ。
勿論、処分される答えたのを聞くと、「じゃあ、入るわ。よろしく」と
「あいつならあんたと一緒に逃げるのも構わないと思うわよ」
「それじゃあ意味がないよ。“セミさん”が可哀想」
ポケットから塗装が剥げた何かヒーローもののキーホルダーを取り出す。
「統和機構が地獄よりヤバいって感じに言っていたけどさ」
「なによ」
「その地獄に彼がいるのなら悪くないかも、ね」
逃避行よりも地獄に落ちるのを選んだ彼女は後悔が一切ない、さわやかな笑みを浮かべていた。
その後、彼女の監視として彼を、スクイーズをさせるように手配した。彼からの強い希望だった。
蝶がシステムに入った時の顔はこれまで任務の中でも見せたことがないほどに苦悩していた。
書類を見た時は静かに感情を殺しながら、分かりましたと言った姿は心底辛かったのだろう。
レインとスクイーズの付き合いはレインが中学二年の頃からだ。
蝶のことは蟬ヶ沢の関係者として知っていた。彼女のことに関して聞いても、詳しいことは言わないが、話す様子は嬉しそうな顔をしていた。
蝶がシステムに入ってからは前よりは彼女のことが聞けるようになったが、相変わらず嬉そうに彼女のことを語る。のろけと言うよりも世話が焼けるだの、あのセンスは素敵というよりも怖いだの、親みたいな心配と同じく創作をする者としての共感がほとんどだ。
彼女個人について聞くと、困った顔をする。あまり詳しいことを聞くと次の任務ですと無理やり話題を変えてしまう。そういうときに蝶に何があったのか聞くと二人で出掛けていたと話す。
なるほど、二人の仲は進んでいるのだろうなと理解した。お互い解ってはいないだろうが。
この両片思いはどこまで行ってくれるだろうか。
数時間前に二人を水族館に腰掛けた。
きっとスクイーズは話してはくれない。もしかしたら、いつもは教えてくれる蝶も話してくれなくなることが起きたりして……。
「あーあ、羨ましいな……」
朱巳は友人に電話を掛けた。
5.気付かないで
蟬ヶ沢は水族館の売店の売り場に出ても蝶と手を繋ぎっぱなしにしていた。先に繋いできたのは蝶なのだが、観賞が追えた後蝶が手を放そうとしたが、蟬ヶ沢は放してくれなかったのだ。がっちりと固定しているが、繋いでいても痛くはない。
蝶は気まずい気持ちでいっぱいだった。
「ねえ、もう手を放してもいいんじゃない?」
手に少し力を入れて、手のことを示す。
「なんで?いいじゃない」
彼は手を繋いでいるのが当たり前のように平然としている。
周りの視線が気になってきた。
何故、見られているのは分かる。このくらいなら好奇心で一瞬視線が向いて見てしまう程度のものだ。それは分かっている。中年と十代と思しき子供が手を繋いでいるのは傍から見れば、どんな関係なのだろうと思われるだろう。朱巳が場所を提案したのもうなずける。ここなら警察官などから職務質問はされない。ここにいるのは一般人だけなのだ。
見られているのは一瞬とはいえ、一回一回が突き刺さる。操作してここにいるものの視線を全て別の方向に向けてしまいたい。
心拍数が上がっていく。この人といてからずっと上がったり鎮まったり、心臓が毎日忙しい。
繋いでいる手から見える彼の思考の先は私と、もちろんお土産に向けられている。
干された布団のようなふわふわとした感触と温かさから、相当嬉しいと分かる。こんなの能力で視なくても、彼の顔はかなり楽しそうだと分かる。手を繋いでいるのがそれほど嬉しいのか。
恥ずかしさもかなりあるが、彼が向けているのは受けている身としても気分が悪くはないので、放して欲しいようなまだ繋いでいてもいいような。
あまり強く放してと言えば蟬ヶ沢を傷つけてしまうかもしれないし。
突如、彼の向けている思考が冷えた。これはただの疑似的な感覚なのは分かるが、それでも驚いてしまった。
彼が向けている方向を見ようとすると、握った手で見るなと制止される。
「セミさん……?敵でもいるの?」
蟬ヶ沢意外には聞こえないように小声で、話しかけるが、彼は声に反応出来ても何を言ったのかは認識できていないようだった。
蝶も当たりの視線の向きを視るが、不審な視線はない。精々珍しげに見ていく人がいるだけだ。この中では蟬ヶ沢の反応が一番何かおかしい。気にせずにはいられないような。
( 統和機構の人でも見つけたのかな)
「大丈夫……、大丈夫よ。お土産でも買いましょう」
この手を放せば問題ないと思うのだが、蟬ヶ沢は決して手を放そうとはしてくれなかった。
****
蝶を促してお土産を一緒に選ぶ。蟬ヶ沢は必死に彼女を彼らから視えない位置に移動させる。蝶からは見えないが、蟬ヶ沢からは棚の上から見えていたのだ。
(ユージン……なんでこんなところにいるんだ)
観賞から出てからは、手を繋ぎっぱなしにしていたのは、そう、もう少しだけこのままでいたいと思ったからだ。
今はそんなことを考える余裕はない。二人でこんなところに出かけている姿をどうやって気づかれずに車に戻れるか考えている。
蝶に頼んで彼の意識と関心を向けさせないように頼みたいが、なんだか今の彼女はねつっぽい顔で目もうるんでいる。辛そうに蟬ヶ沢を見上げている。水族館に入る前は平気な顔をしていたが、中の空調で体調でも崩してしまったのだろうか。
(今の状態で負担を掛けちゃだめね……)
「大丈夫……、大丈夫よ。お土産でも買いましょう」
気付かれないようにと思いながら言ったせいか、つい小声で言ってしまう。
この後、ユージンがつるんでいる子供たちとも鉢合わせになりそうなり、蟬ヶ沢は今年一番肝が冷えた。
6.線香花火
どうやら私たちは雨に好かれているらしい。
****
蟬ヶ沢の車の中で、タオルで頭を拭きながら蝶は愚痴る。
「ほんと私達って雨女と雨男だよね」
「そんなジンクス、私は信じないわ。ほら風邪引いちゃうから、車に戻るわよ」
突然の雨に襲われた数は百は越えたであろう。蝶と蟬ヶ沢はお互い濡れた姿を見てため息を着く。
水族館の帰り、公園でスケッチをしようと来てみたものの、出て直ぐに雨が降ってきた。 幸い通り雨だったが、降った瞬間の降雨量は凄まじく、蟬ヶ沢に傘を広げる隙を与えはしなかった。
雨に濡れないように準備をいくらしてもタイミングが悪く、全身ずぶ濡れになる。
今回は二人ともジャケットやシャツがひどく濡れたが、ズボンはまだ軽く湿った程度なのでまだ良い方かもしれない。
しかし、濡れた状態ではデートもへったくれもない。これ以上出歩くのは諦め、デートは中止することにした。渋々だが、蝶も同意した。
(こんなの前にもあったわね)
あの時もずぶ濡れになり、セーフティハウスに連れていったのだ。
酷いずぶ濡れとして非難したのはいいが、他に着せる物がないとはいえ、あの恰好にさせてしまったのは申し訳なく思う。
本音を言ってしまうと、シャツ一枚の彼女の姿を見ていて正直なところを言えば何かぐっとくるものがあった。言ったら怒られるだろうから言うことはまずないのだが。
(またセーフティハウスに連れて行ってもいいけど、前回の反省もあって物は揃えていても、今度は心が持たない気がするわ)
理性がなかったら抱擁は確実にしていただろう。もしかするとそれ以上すら……。
なおさら家に連れてこれないと、蟬ヶ沢は首を振って妄想を止める。
蟬ヶ沢の心情を察しているのかいないのか、蝶は私の家が近いから行こうと、蟬ヶ沢に提案してきた。
確かにこの公園からは蟬ヶ沢の家(本来住んでいる所もセーフティハウスも)より、彼女の家の方が遥かに近い。
「ここにいたって座席を濡らすだけでしょ。それに、早い所衣類を乾かしておきたいじゃない」
「それはそうだけど」
行くのには賛成だが蟬ヶ沢には気がかりなことがある。
(二人ともずぶ濡れなんて見たらなんて思うかしら……)
蝶が蟬ヶ沢の元に遊びに行くのは常習とはいえ、預かっている娘を風邪を引きかねない目に遭わせたのは気まずい。任務でも危険な目に遭わせているのにも関わらず、不甲斐ない。
彼女のご両親は私の事を知っているが、私たちがどのような仲なのかは知らない。
(やむを得ないとはいえ、この間なんて一緒に……)
蟬ヶ沢は自分が言った言葉で顔と背中、そして手が熱くなった。あの背中と手の感触はまだ残っている。
同じく人肌にしてはやけに心地よく、あのときは手を繋ぐくらいしかしなかったが、本音を申せば振り替えって抱き締めてしまいたかった。
車を走らせていた間に雨がおさまった。家の入り口付近まで停車し、蝶がすぐに出られるようにした。
ドアを開けて、出るように促す。エスコートとして差し出した手に蝶が一瞬止まるが、すぐに重ねて車から出る。
触れた瞬間、引き寄せたくなったが堪える。
「じゃあ、風邪をひかないでね」
蟬ヶ沢は車に戻ろうと踵を返すが、蝶が腕にしがみついて止める。
「待ってよ。誰がずぶ濡れのまま帰すって?」
蝶の家に向かうことは蟬ヶ沢も同意した。しかし、家に入るとは言っていない。
「お互い濡れちゃったし、風邪を引く前に帰るのが一番じゃない」
「それはそうだけど」
蝶は申し訳なさそうにしているが、腕にしがみついた力は全く弱めていない。
「濡れたまま来たらご両親もびっくりしちゃうんじゃない?」
「別にいいんじゃない?雨に濡れただけだしさ」
「そう?誤解されない?」
心配そうな蟬ヶ沢が面白いと思ったのか、背中をばしばし叩いて笑う。
「されないされない!いつも娘がお世話になってますーって言う位だって」
「まあ、お世話以上のことはしているとは思っているわ」
言っていることは事実なのに蹴られてしまった。しかも、手加減をしてくれなかったようで、地味に痛い。
蟬ヶ沢は抵抗するのは諦めて、蝶と共に家に入ることにした。
*****
蝶はただいまと玄関を開けつつ、家に入る。
蟬ヶ沢も続いて家に入る。人気はなく、家は静まっている。玄関に置かれた靴は蟬ヶ沢が記憶している限りでは数が減っている。照明は廊下の奥まで付いておらず、この家には誰もいないことが明らかに分かった。
蝶の両親は帰っていないらしく、蟬ヶ沢はこっそりほっと息を吐く。
この家には幾度か上がったことはあるが、あくまでも蟬ヶ沢の事務所の人間としてで、個人的な目的で入ったことはあまりない。
蝶の部屋は二階にあり、そこで待つように言われたので、先に部屋に入る。蝶はタオルを取りに行った。
蝶の部屋は汚くはないが、綺麗と言うのも何かが違うような気がする。やたらスペースがあるように見える。もう少し、物があってもおかしいのではないかと。
あたりを見回すと、整頓された本棚にベッドに置かれたぬいぐるみやクッションが二つほど置かれている。この部屋で目立つのはこれと、机に置かれたフィギュアだろうか。
ぬいぐるみとクッション、このフィギュアは見たことがある。何せ、これらを描いた主は蟬ヶ沢なのだ。
初めて会った時から彼女は蟬ヶ沢のファンなのだが、今でもファンでいてくれるのは嬉しい。
クッションは最近出た物だが、ぬいぐるみは中々古い物だ。手触りは確かに年季を感じさせるが、丁寧に手入れがされており、毛玉などは一切ついていない。
ぬいぐるみを撫でていると、物凄い勢いで階段を駆け上がる音が聞こえてきた。蟬ヶ沢が振り返る前に、先に蝶が扉を開けた。
「セミさん!何も見て……あ」
「”あ”?……ああ」
まるで成人向け雑誌を隠し損ねた少年のような反応に蟬ヶ沢は目を丸くするが、蝶の視線で何を気にしているのか分かった。
わざとらしくぬいぐるみを持ちあげ傾げさせる。
「このぬいぐるみ?懐かしいわね。これも持っていたなんて嬉しいわ。そんなにこれが見られるのが恥ずかしいの?」
「……恥ずかしいでしょうが!ほら、ぬいぐるみなんて触ってないで、さっさと頭を拭いて」
蝶は乱暴にタオルを投げつけてきた。むっとなる蟬ヶ沢だが、蝶の行動をそのまま目で追う。机に置かれた物を布で被せ、持ちだそうとした。
蟬ヶ沢はにやけてしまうのを押さえるが、恐らく蝶からは意地悪そうな笑みに見えているだろう。
「今何か隠さなかった?」
「何も?」
即答だが、視線はまったく蟬ヶ沢に向いていない。
「声が上ずっているわよ」
「……いいから!」
困った顔も良いなと内心思いつつ、これ以上は追及しないことにした。
蝶がばたばたと下の階へ行くのを確認すると、蟬ヶ沢はぬいぐるみを抱きしめつつしゃがんだ。
蝶が持って行ったのは、蟬ヶ沢が彼女と初めて会った時に展示していたフィギュアだ。このフィギュアに一目惚れして、自分がいるブースまで来てくれた。あの時より少し後になって販売をしていたので、ずっと後になって彼女はこれを見つけたのだろう。蟬ヶ沢としても思い出深いものだ。
まさか彼女も持っているとは思わず、なんともいえないむず痒さでぬいぐるみを抱き締める。
「あー、もう、なんで持っているのよ……」
思わず抱き締めたぬいぐるみを思いっきり濡らしてしまって、蝶に怒られるのはこれから三分後のことだ。
****
蝶から思いっきりぬいぐるみで殴られた頬がひりひりと痛むのを我慢しつつ、借りたタオルで頭を拭いていた。(大事にしているぬいぐるみのはずなのに、扱いが時折凄まじく荒い)
髪の毛に関しては完全に濡れてしまったので、タオルが借りれるのはありがたい。
手触りから柔軟剤の臭いがするが、手触りの良さから、このタオルは一度洗濯をしただけでまだ誰も使っていないようだ。
(別に糊を落してからのでなくてもいいのに)
頭を拭きつつ、鞄を開ける。中には着替えが入っている。
雨に遭遇した時の為、という訳ではないが車には着替えを常に置いているので、着替えが入った鞄も一緒に持ってきたのだ。
(後で着替えの場所も借りたいわね)
上半身のみとはいえ、着替えを見られるのは少し気になる。着替えを見せてしまうことに抵抗はないが、見せることがセクハラに当たる問題もある。
着替えると言っても、一分もかからないので、今のうちに着替えてしまうのもいいだろう。
蝶がいない間に着替えてしまおうと……
「セミさん、大丈夫?風邪引いた?」
胸のあたりまで上げた服を一気に下げた。
「あ、ごめん」
蝶は一瞬だけ覗かせた顔をすぐに引っ込めた。
扉が半開きだったのだろう、開いた音には気付けなかった。蟬ヶ沢としては見られても困りはしないが、見る側も見られた側も気まずい。
閉められた扉から、とん、と音が聞こえた。どうやら、着替えが終わるまで待ってくれるらしい。
ちょっと待ってと言いながら蟬ヶ沢は着替えを再開する。脱いだ服もしまうと、改めて蝶を呼ぶ。
「もう入っても良いわよ…。それと、風邪なんてそもそも引かないし……。私よりも蝶が風邪を引きそうじゃない?」
ちゃんと着替えたんだよねと冗談を言いつつ蝶は部屋に入ってきた。思わず蝶の格好をまじまじと見てしまった。年頃の娘はこんな服を着るのが普通なのか、タートルネックのノースリーブにプリーツスカートという、やや露出が多い格好を目の当たりにし、以前の泊まりの服装がフラッシュバックする。
具体的な感想を心の中でさえ明確に言うのは止めた。強いて一つだけ言えば、自分の名前通りの行動がしたい。
あまりにも見すぎていたのか、蝶が持ってきたドライヤーで頭を軽く叩かれてしまった。
「見すぎ」
怒ってはいないが、呆れている。この恰好について小言を言われると予想したのか、顔は言うなと言っている。
「見てないわ」
「この間のシャツの時ぐらいじろじろ見てた」
「そんなに見てないわよ」
いつもりよりは、だが。
「そう?」
「そうよ!」
蝶の額にでこピンをかます。
蝶は額を押さえて不思議そうに蟬ヶ沢を見る。
痛がっているわけではないが、今度は蝶が蟬ヶ沢をじっと見つめる。どういえばいいか分からず、蟬ヶ沢もそのまま見つめ返す。
蝶から先に視線を外し、蟬ヶ沢の手と顔を交互に見る。
どきりと後ずさる。嫌な予感がする。
「セミさん、もしかしてさ何か我慢している?」
「何も我慢なんてしていないわよ」
そう?と蝶は不思議そうに首を傾げ、何かに迷うような顔になる。嫌ではないが、するのは躊躇うなとでも言いたげで、うんうん唸ると、深く息を吐いて何かを決めたような素振りを見せる。両手を広げて、おいでと迎えてきた。
「……」
無意識に右手が伸ばしてしまったが、我に帰り引っ込めた。
蝶の突拍子もない行動に驚きはしたが、一瞬とはいえ直接触れていたからだろう、今のでこピンでどこに意識が向いていたのか知られてしまったのだと分かった。
「いや、その……」
狼狽える蟬ヶ沢に蝶はお惣菜をおすそ分けするような気軽さで迎える。
「抱擁ぐらいなら別にいいよ?」
「いえ、いえね。蝶がよくても、その、だめなのよ」
「ねえ、セミさんはいつもだめだめって言うけどさ、なんでだめなの?」
「蝶はまだ学生じゃない」
「じゃあ、今から学生を止めたら」
「冗談でもやめなさい」
盛大にため息が聞こえたかと思うと、蟬ヶ沢に飛びついてきた。
動揺しながらも片腕を後ろに回し、支える。倒れないようにはしたものの、体重と共に色々押しあたっているので、生きた心地がしない。
飛び付かれたものの、痛くも痒くもない。こそばゆさはあるか。
首に回された腕の細さ、顔に張り付いてくる髪の毛、首元に当たる吐息、女性特有の柔らかさで、蟬ヶ沢は心の中で悲鳴を上げる。
ここが自分の家だったら思いっきり抱き返していた。
「お、お馬鹿!また濡れるでしょうが!髪の毛とか乾ききっていないのよ!」
「濡れたらまた乾かせばいいよ。それより、さっきからずっとなんか気が向けられちゃあ気になるって。で、どうなの?セミさんの不安は解消された?」
後頭部をべしべしと軽く叩いて返事を促してくる。
「どうかしらね」
はぐらかしつつも、少し満足しているのが自覚出来る。恐らく蝶にも伝わっているだろう。
(出来ればもう少し……)
蟬ヶ沢は首を振って思ったことを無理矢理消す。
でこピンの時とは違い、今はずっと触れている状態であることを忘れていた。
先程よりも強く抱き締めてきた。
片腕は支えるために動かせないが、もう片方は自由がきく。蝶の背中に触れるか触れないかの寸前で手は止まる。
自分はこの片手をこのままどうする気なのか。
あと一センチばかり下ろしてしまえば、抱きしめることが出来る。
その一センチが下ろせない。
駄目だ。これ以上は駄目だと自分の中で警告音が鳴る。
これ以上は冗談では済まされなくなる。
放さなければと思えど、どういうわけだか、力付くで放すことも出来るはずなのに力が出ない。
恐らく蝶は何もしていない。彼女の能力の性質上、操作されたことに蟬ヶ沢が自力で気付くことは出来ないが、蟬ヶ沢は何となく確信している。本来抑えが利かない視る以外では何もしていない。
頭がぼうっと逆上せたような感覚に陥る。これは本格的に危険だと判断し、無理を承知で放すように頼む。
「あの、蝶、その、はな、放して」
「そう?」
予想に反して素直に放れてくれた。
重いものが取り払われたような息のしやすさに、自分がずっと呼吸を止めていたことに気付いた。
肺にやっと酸素が入ったことで、噎せる。当分この顔は見せられないだろう。
「セミさん、大丈夫?」
蝶は蟬ヶ沢の背中を擦り心配してくれるが、大本は彼女なのででこピンでもしてやろうかと右手を形作るが、また何を見ているのか知られてしまうので止めた。
蝶はまるで先程のことがいつものことだと言うようにけろりとしているのが少しばかり恨めしい。
「安易に人に抱きつくのはよくないわよ」
「あんまりしてほしそうな意識の向け方だったから」
やぶさかでもないと付け足して彼女は言うが、それでも安易に触れすぎでないかと思う。
「それでもだめ。あと、それじゃあ、他の人にもやるってことになるわよ」
「セミさん以外にする訳ないじゃない」
「それはそれで……だめだと思うわ……」
「なんでそこは弱気に言うところじゃないと思うけどなあ」
「言いたくなるわよ……」
気のせいか全く動いていないのにも関わらず、とても疲れた気がする。
「セミさんもしかして、抱き付かれるの初めてなの?」
「そんなことないわよ。違うけど……」
馬鹿みたいだが、彼女から抱きつかれるのも抱きつくのも緊張する。
嫌ではない。むしろ考えすぎているくらいだ。彼女にも読み取られてしまうくらい。
触れていいのか。
監視役である自分と、社会的立場に身を置く自分が冷ややかに見ている。
顔をあげて、蝶の様子を見る。
「別に、変なことは考えていないのよ」
「うん」
「い、嫌だったら言って頂戴」
「はいはい」
恐る恐る手を伸ばし、腕を回す。
「その、ぎゅっとするだけだからね?」
「はいはい」
腕に収まった蝶は先程と同様に抱き返す。
胸の辺りで線香花火のような弱い火花のイメージがちらつく。
同じような熱なのに酷く安心する。
蝶の頭を肩に乗せ、後頭部を撫でる。
「セミさん、ちょっと苦しい」
「うん」
呼吸さえ止めてしまうくらい強く抱きしめたい。
苦しさ故に深く息を吸い込む肺の動きが伝わる。
乾ききっていない蝶の髪から水滴が落ち、蟬ヶ沢のシャツと彼女の衣類を再び湿らせていく。
蝶がくしゃみをする。服の湿りが自分のだけでなく、蟬ヶ沢にも及んでいると気がつくとばっと肩から離す。
「ごめん。ちょっと乾かしてくる」
立とうとした蝶を無理に抑え込んでしまう。
「まって」
「折角着替えたのに、これじゃ意味が無いよ」
「別にいいわよ」
「このままじゃ、風邪引くんじゃない?セミさんは平気でも私は引きかねないよ」
「看病するから」
「わがままゼミ」
蝶は観念して再び蟬ヶ沢の腕に収まるが、手元にあったまだ使っていないタオルで頭を覆う。
「これで風邪引いたら本当にセミさんのせいだからね」
「はいはい、責任は取るわよ」
タオルを被ったせいで顔は一部しか見えなかったが、尖らせた口もとはいつもと違い、何か誘っているような魅力があった。
蝶の髪の毛を拭きながら、ぼんやりとこのままどうしようかと考える。
乾かしている間は蝶は大人しく腕に収まってくれているが、完全に乾いてしまったらいつまでこのままでいてくれるだろう。いや、それよりも彼女の親が来てしまったら、その時点でこの状態は終わる。
「あー……」
自分の言葉で落ち込んでしまう。人から見れば細やかな願いかもしれないが、密かに願っていたことがこんな形で叶っているのだ。
「ところでさ、セミさんこそちゃんと髪の毛乾かしたの?」
蝶が顔を上げて、蟬ヶ沢の頭に手を伸ばしてきた。
この体勢なせいもあり元から顔が近いが、より近くに。
「ま、そこそこね」
耐えきれず顔を逸らしてしまう。蝶は蟬ヶ沢の反応を気にせず、彼の頭をわしわしと触る。
「だいたい乾いているけど、やっぱ湿っているし。ほっといたらはげちゃうんじゃない?」
「合成人間はたぶん禿げないわよ。たぶん」
「ま、セミさんなら本当に禿げても似合いそう。厳つさが増して通報されそうだけど」
「蝶と出かけられる場所がもっと減るわね……」
他愛もない話をして、じゃれついて、制限時間が来ないと考えてしまいたい。
かちゃりと聞こえた気がした。
気のせいだと思いたい。
残念ながら、彼女にはそうだとは思わなかったらしい。
「ごめん。親が来たみたい」
夢から覚めたように、蝶はあっさりと蟬ヶ沢から放れて、玄関にいるであろう両親を迎えに行った。
虚しく中身を失った両手をぶらりと下げ、蟬ヶ沢は項垂れて、深く溜め息を付く。
「…………」
服の皺を伸ばして、何もしていなかったように、さっきまでの熱をひっこめた。