グラジオラスの匂い
ノックの音が聞こえた。微かに、ペンでも落したような小さな音だ。
ノックはしなくてもこの部屋には入ってもいいと言ったはずだが、彼はそうとはしない。特に強制することでもないので、もう一度言うつもりもない。
誰が来たのは分かっている。彼独特の気配は確実に分かる。
扉が開くが、そこには誰もいない。一度だけ、わざと音を立てたざりっと草鞋が擦れる音が聞こえ、来訪者を告げる。
扉が閉まると、扉より一歩前の位置に一人の男が立っていた。
柳生但馬守宗矩、特異点が出現した日に菖蒲の手によって召喚されたサーヴァントだ。事故に巻き込まれ意識が途切れる前に召喚し、夢見により意識のみ冬木に行った菖蒲を助けに行った。
冬木から現代に戻る際、マーリンと柳生の助言により柳生の存在と自身がマスターだということはカルデアには隠せと言われ、普段の柳生の姿は霊体となって姿は見えないようになっている。
霊体になっているくらいならばアサシンのサーヴァントに気付かれそうなものだが、マーリンが何かしていたらしく、よほどのことが起きなければ気付かれないとのこと。
薄く令呪が描かれた右の手の甲を見つめる。
「分かってはいたけど、割と不便ですよね」
「それも仕方ないことだ、主殿」
「まあね、私よりも不便を掛けてしまって、ごめんなさい。誰にも認識されないままで歩くなんてつまらないんじゃない?」
「いいや、ここは主が思う以上に面白い。見てるだけでも飽きぬほどだ。それと、土産だ」
柳生の懐から紙袋が出てきた。
「土産って……え」
一瞬まさか盗んだのかと思ったが、彼に限っては緊急の時以外は流石にしないだろうと思って、別の入手方法を考えたがまったく思いつかない。
「なぽれおん殿がれいしふとから戻ってきたが、その土産を少し分けてもらった」
言葉は耳に入っているのだが、理解するのに少し時間がかかる。おかしい。約束と今の行動に矛盾が生じている。
「……は?」
「なぽれ」
「誰にも知られるなってあの花の魔術師にも言われたよね」
「そうだ」
菖蒲は額に手を当てて俯いた。あれほど誰にも知られるなと言われていたことだというのに、それをあっさりと知られてしまったことに不安を覚えた。
「いやなに、あやつとは交換条件を出したのだ」
「そう?……なら、うん……うん、いいですけど」
「聞かぬか」
「柳生さんなら、こちらが不利になるようなことは……まあ、起きているけど、向こうも守ってくれそうな条件を出したんでしょ」
菖蒲とてこの中途半端な状態がずっと気づかれないことは分かっている。異様な形でレイシフトに引っ張られる現象、自力で制御出来るようになればここの力にもなれるはず。
最初に教えるとしたらあの天才画家が一番だと思っていたが、こうも予定が外れるとは。
柳生は落ち込む菖蒲には目もくれず、何かを探す。
「それは主殿いえども言えぬことだが、主殿が危惧するようなことは起きぬよ」
「予定は狂ったけど、まあ、いいよ。それと、ミルは調理場ところくらいしかないから、取りにいかないと」
「では挽いてくる」
「私が行きますよ。ナポレオンさんにもお礼を言わないといけないし……と」
菖蒲は強い眠気に襲われふらついたが、柳生が支える。菖蒲と柳生は目を合わせて頷く。
自分でも制御出来ないこの眠気は夢見によるものだ。また、幽霊のような存在として浮遊しながら、特異点が修正されるまでぽつりぽつりと不定期に意識が移動することになるのだろう。
「じゃあ、師匠。あっちでもよろしくお願いします」
「時に主殿。以前より申しておりますが、私に敬語は使わなくてもいいと……」
柳生が言い終える前に菖蒲は深い眠りに落ちた。
溜め息を付きながら目を伏せ、菖蒲をベッドに寝かせる。扉に鍵が掛かったか確認するとベッドに戻り、令呪が描かれた菖蒲の右手に触れる。柳生が触れた面に反応し、薄い令呪は光る。
「私は貴女、菖蒲の願いを叶える為に召喚されたもの。あやつと同じ存在よ。やつも誰かに話すことはあるまい。私がそうはさせぬ」
僅かに口角が上がったことに柳生自身は気付いていない。
柳生の姿は右手に吸い込まれるように消えて行った。
ノックはしなくてもこの部屋には入ってもいいと言ったはずだが、彼はそうとはしない。特に強制することでもないので、もう一度言うつもりもない。
誰が来たのは分かっている。彼独特の気配は確実に分かる。
扉が開くが、そこには誰もいない。一度だけ、わざと音を立てたざりっと草鞋が擦れる音が聞こえ、来訪者を告げる。
扉が閉まると、扉より一歩前の位置に一人の男が立っていた。
柳生但馬守宗矩、特異点が出現した日に菖蒲の手によって召喚されたサーヴァントだ。事故に巻き込まれ意識が途切れる前に召喚し、夢見により意識のみ冬木に行った菖蒲を助けに行った。
冬木から現代に戻る際、マーリンと柳生の助言により柳生の存在と自身がマスターだということはカルデアには隠せと言われ、普段の柳生の姿は霊体となって姿は見えないようになっている。
霊体になっているくらいならばアサシンのサーヴァントに気付かれそうなものだが、マーリンが何かしていたらしく、よほどのことが起きなければ気付かれないとのこと。
薄く令呪が描かれた右の手の甲を見つめる。
「分かってはいたけど、割と不便ですよね」
「それも仕方ないことだ、主殿」
「まあね、私よりも不便を掛けてしまって、ごめんなさい。誰にも認識されないままで歩くなんてつまらないんじゃない?」
「いいや、ここは主が思う以上に面白い。見てるだけでも飽きぬほどだ。それと、土産だ」
柳生の懐から紙袋が出てきた。
「土産って……え」
一瞬まさか盗んだのかと思ったが、彼に限っては緊急の時以外は流石にしないだろうと思って、別の入手方法を考えたがまったく思いつかない。
「なぽれおん殿がれいしふとから戻ってきたが、その土産を少し分けてもらった」
言葉は耳に入っているのだが、理解するのに少し時間がかかる。おかしい。約束と今の行動に矛盾が生じている。
「……は?」
「なぽれ」
「誰にも知られるなってあの花の魔術師にも言われたよね」
「そうだ」
菖蒲は額に手を当てて俯いた。あれほど誰にも知られるなと言われていたことだというのに、それをあっさりと知られてしまったことに不安を覚えた。
「いやなに、あやつとは交換条件を出したのだ」
「そう?……なら、うん……うん、いいですけど」
「聞かぬか」
「柳生さんなら、こちらが不利になるようなことは……まあ、起きているけど、向こうも守ってくれそうな条件を出したんでしょ」
菖蒲とてこの中途半端な状態がずっと気づかれないことは分かっている。異様な形でレイシフトに引っ張られる現象、自力で制御出来るようになればここの力にもなれるはず。
最初に教えるとしたらあの天才画家が一番だと思っていたが、こうも予定が外れるとは。
柳生は落ち込む菖蒲には目もくれず、何かを探す。
「それは主殿いえども言えぬことだが、主殿が危惧するようなことは起きぬよ」
「予定は狂ったけど、まあ、いいよ。それと、ミルは調理場ところくらいしかないから、取りにいかないと」
「では挽いてくる」
「私が行きますよ。ナポレオンさんにもお礼を言わないといけないし……と」
菖蒲は強い眠気に襲われふらついたが、柳生が支える。菖蒲と柳生は目を合わせて頷く。
自分でも制御出来ないこの眠気は夢見によるものだ。また、幽霊のような存在として浮遊しながら、特異点が修正されるまでぽつりぽつりと不定期に意識が移動することになるのだろう。
「じゃあ、師匠。あっちでもよろしくお願いします」
「時に主殿。以前より申しておりますが、私に敬語は使わなくてもいいと……」
柳生が言い終える前に菖蒲は深い眠りに落ちた。
溜め息を付きながら目を伏せ、菖蒲をベッドに寝かせる。扉に鍵が掛かったか確認するとベッドに戻り、令呪が描かれた菖蒲の右手に触れる。柳生が触れた面に反応し、薄い令呪は光る。
「私は貴女、菖蒲の願いを叶える為に召喚されたもの。あやつと同じ存在よ。やつも誰かに話すことはあるまい。私がそうはさせぬ」
僅かに口角が上がったことに柳生自身は気付いていない。
柳生の姿は右手に吸い込まれるように消えて行った。
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