【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【後日談】
【聖女編25後日談】
澄み渡る秋空のもと、柔らかな風が豊かに実った黄金色の穂先を静かに揺らしていた。
レイストールが管轄する東方の開拓領地。かつて荒涼とした未開の地であったその場所は、今や規則正しく区画分けされた畑と、新たに建てられた無塗装の木造住宅が並ぶ、小さな集落へと姿を変えつつあった。
王国の命により、解体されたヴェルナの集落からこの地へ移住させられた人々は、与えられた農具を手に土を耕し、日々の糧を得るために汗を流していた。かつて険しい山奥の狭小な地で、不作と病魔に脅やかされながら「聖女」という幻影に縋り付いていた頃の、どこか陰惨で浮世離れした空気はそこにはない。ここにあるのは、厳しい現実と向き合いながらも、確かな大地を踏みしめて生きる人間の泥臭い営みそのものだった。
その畑の最前線で、汗に濡れた額を拭いながら熱心に鍬を振るう一人の女性の姿があった。
マリアだった。
彼女の手はすでに土で汚れ、爪の間には黒い泥が詰まっていた。王城での審問を終え、この地への移住を命じられてから、マリアは一日の休みもなく働き続けていた。国王アルフレッドから言い渡された『生きて、その生涯をかけて贖罪を果たしなさい』という言葉。それが、今の彼女を突き動かす唯一の道標であり、心の拠り所であった。

「マリアさん、こっちの畝の耕作が終わりました。次はどこの種を蒔けばいいでしょうか」

日焼けした若い男が、汗を拭いながら声をかけてくる。かつてヴェルナで、長の言葉を盲信してレオたちに怒号を浴びせていた若者の一人だった。しかし今の彼の瞳には、狂信的な鋭さはなく、素朴な困惑と、マリアに対するかすかな依存の色が浮かんでいた。

「お疲れ様です。次は南側の区画へ向かいましょう。あちらは土が少し硬いので、腐葉土を混ぜてから種を蒔きます。……体調は大丈夫ですか? 無理をしてはダメですよ」
「はい、大丈夫です。マリアさんが毎日声をかけてくださるおかげで、みんななんとかやっていけています」

若者は少し照れたように笑うと、指示された用具を取りに走っていった。
マリアは去っていく若者の背中を見送り、静かに胸を撫で下ろした。
解体され、見知らぬ土地へ分散して送られたヴェルナの民たちは、当初、強い絶望と混乱に包まれていた。長を失い、縋るべき聖女を奪われ、住み慣れた山奥から引き離されたのだから当然であった。
しかし、アルフレッドの恩情によって減刑され、彼らのまとめ役として送られたマリアは、率先して過酷な農作業を引き受け、不安に震える民たちの家を夜遅くまで回り、一人ひとりの話を聞き続けた。食事の配分に心を砕き、病人が出れば夜通しで看病をし、王国の役人との仲介を進んで買って出た。
自分の犯した恐ろしい過ち。一人の可憐な少女を不法に連れ去り、その心を奪い、絶望の底へ突き落としたという取り返しのつかない罪。その罪悪感に押し潰されそうになるたび、マリアは土に手をつき、必死に汗を流した。自分が倒れるわけにはいかない。この民たちを正しく導き、人間らしい暮らしを定着させることこそが、自分に許された唯一の償いなのだと自分に言い聞かせながら。
ヴェルナにいた頃のマリアは、常に罪の意識と恐怖に苛まれ、顔色も悪く、怯えるように生きていた。だが今、泥に塗れて民のために奮闘する彼女の表情には、悲壮感の中にも、生き生きとした確かな生命の強さが宿っていた。
その時だった。
街道の向こうから、数騎の護衛騎士を従えた一台の優雅な馬車が、ゆっくりとこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
馬車の側面には、王国の紋章が誇り高く刻まれている。
作業をしていた住民たちが手を止め、ざわめきながら街道の脇へと集まり始めた。視察の文官か、あるいは領地の代官か。住民たちが不安と好奇の混ざった視線を向ける中、馬車が集落の広場の中央で静かに停車した。
御者台から降りた騎士が恭しく扉を開ける。
最初に姿を現したのは、洗練された身こなしと過保護な眼差しを纏った男――王国の騎士団統括者であるレオだった。
レオは降り立つと、ごく自然な動作で車内へと手を差し伸べた。その手を取って、可憐に裾を揺らしながら降りてきた少女の姿を目にした瞬間、マリアの息が完全に止まった。
太陽の光を浴びて輝く、美しい白銀の髪。
澄み渡る空の下で、瑞々しい光を宿して揺れる紅玉の瞳。
リリィだった。

「……あ……」

マリアの手に握られていた鍬が、静かに手元から滑り落ち、カタリと乾いた音を立てて土の上に倒れた。
広場に集まっていたヴェルナの旧住民たちからも、息を飲む音が漏れた。彼らの脳裏に、かつて自分たちが「聖女アナスタシア」と呼び、拝み倒し、そして自らの身勝手な希望のために縛り付けていた少女の面影が鮮烈に蘇る。住民たちは畏怖と罪悪感のあまり、誰一人として声を上げることができず、固まったように立ち尽くした。
リリィは、レオの手を優しく握ったまま、珍しそうに周囲の光景を見渡していた。
新しく作られた畑。青々と育つ野菜の葉。そして、土に汚れた服を着て自分たちを見つめる人々。その瞳には、かつてヴェルナの地で見せていたような冷たい虚無や悲痛な影は欠片も存在しなかった。ただ、旅先で新しい風景を目にした少女の、無垢で穏やかな好奇心だけが漂っている。
レオはリリィを庇うようにその隣に寄り添いながら、新緑の瞳を静かに巡らせた。
集落の様子、整備された畑、そして何より民たちの表情。レオの計算高く冷徹な観察眼は、この地がアルフレッドの意図通り、着実に正軌に乗っていることを瞬時に見抜いた。そして、その視線は、呆然と立ち尽くすマリアへと向けられた。

「……お久しぶりですね、マリア」

レオの声はどこまでも穏やかで、優雅だった。だが、その奥底には、かつて王城で取引をした時のような、一切の隙を与えない冷徹な威圧感が静かに潜んでいた。

「視察の途中で立ち寄らせていただきました。父上からの申し送り通り、見事にこの地をまとめ上げているようですね」
「殿下……っ」

マリアはハッと我に返ると、弾かれたようにその場にひざまずき、土の上に深く頭を下げた。

「お、お越しいただき、恐悦至極に存じます……。陛下の過分なるご慈悲により、私たちはこうして生きて土を耕すことができております……。すべては……すべては殿下と陛下のおかげでございます……」

声が激しく震えていた。喜びでも、恐れだけでもない。目の前に立っている少女――自分がその心を無残に引き裂いた被害者であるリリィの姿を前にして、胸を押し潰さんばかりの罪悪感が再び激しく吹き荒れていたからだ。
リリィは、膝をついて頭を垂れるマリアの姿を見て、不思議そうに少し首をかしげた。

「……あの……レオ様?」

リリィはレオの袖をそっと引き、か細い声で尋ねた。

「この方は……どなたですか? わたし……何か失礼なことをしてしまったでしょうか……?」

その問いかけを聞いた瞬間、マリアの全身が硬直した。
頭を地面につけたまま、マリアは息を飲んだ。
目の前にいるリリィには、自分に対する怒りも、恨みも、恐怖すらもない。ただ「見知らぬ女性が突然ひざまずいて戸惑っている」という、完全な他者に対する目線だけが向けられていたのだ。
レオはリリィへ優しく視線を落とすと、その白銀の髪を愛おしそうにそっと撫でた。

「いいえ、リリィ。貴方は何も悪くありませんよ。この方は……以前、貴方が少し大変な目に遭った時に、私に知らせを届けてくださった方です。……貴方を助ける手伝いをしてくださったのですよ」

レオの口から語られたのは、改竄された記憶の整合性を保つための、完璧に選ばれた真実の一片だった。

「……そうなのですね……」

リリィの表情が、一瞬でパッと明るくなった。
リリィはレオの手をそっと離すと、ひざまずくマリアの前へと小さく歩み寄った。そして、泥で汚れたマリアの肩を心配そうに見つめながら、柔らかく声をかけた。

「……あの……お顔を上げてください……。わたしを助けるお手伝いをしてくださったのなら……お礼を言わなければいけないのは……わたしのほうです……」
「……っ……!」

マリアはゆっくりと頭を上げた。
目の前に届いたのは、かつて自分たちが冷たい聖女の衣装を着せ、虚ろな瞳で救いを求めさせていた少女の、満開の花のような可憐な微笑みだった。
その瞳には、マリアの記憶など一切残っていない。
二人で過ごした暗い部屋の記憶も、死亡を偽装されたレオの鍵を抱いて泣いていた姿も、聖女として民の前に立った残酷な日々も。すべてはレオの手によって美しく消し去られ、彼女の心は一筋の傷もない完璧な幸福で満たされていた。
その救いそのものの姿を目にして、マリアの目から大粒の涙が溢れ出した。

「……リリィ様……っ……!」

マリアは感情を抑えきれず、再び深く頭を下げ、石と泥の混ざった土の上に額を擦り付けた。

「……ごめんなさい……! ごめんなさい、リリィ様……! 私の身勝手な想いのせいで……私の恐ろしい罪のせいで……貴女様にどれほど酷いことをしたか……! どれほど苦しい思いをさせてしまったか……っ!」

マリアの慟哭が集落の広場に響き渡った。
それは、面と向かってリリィに伝えることができなかった、ずっと胸の底で燻り続けていた心からの謝罪だった。どれほどこの地で汗を流そうとも、消えることのない罪の烙印。それを前にして、マリアは己の愚かさを謝罪せずにはいられなかった。

「マリア……!」

周囲のヴェルナの民たちも、マリアの言葉に胸を突かれたように下を向き、身を縮めた。彼らもまた、目の前の無垢な少女に対して犯した罪の重さを、改めて突きつけられていた。
しかし――。
当人であるリリィは、激しく泣き崩れて謝罪を重ねるマリアを前にして、完全に言葉を詰まらせていた。

「え……? あ……あの……ええと……っ」

リリィは困惑し、助けを求めるように小さな両手を胸の前で開いたり閉じたりした。
記憶がないのだ。自分が何を「許す」べきなのかも、相手がなぜこれほどまでに自分に対して激しい罪悪感を抱き、涙を流して謝罪しているのかも、何一つ理解できない。

「……ごめんなさいと言われても……わたし……何のことか……分からなくて……っ」

リリィの顔に、申し訳なさそうな戸惑いの色が広がる。
自分が何か大切なことを忘れているのだろうかという不安が、ほんの少しだけ彼女の胸をかすめた。だが、その不安が深くなる前に、すぐ後ろから温かな手が伸びてきて、リリィの肩を優しく抱き寄せた。
レオだった。
レオはリリィを自分の体にしっかりと引き寄せ、彼女を安心させるようにその耳元で囁いた。

「大丈夫ですよ、リリィ。貴方が気にする必要はありません。この方は……貴方を巻き込んでしまった昔の出来事について、ずっと一人で責任を感じておられただけなのですから」
「……レオ様……」

レオの包み込むような体温と声に、リリィの戸惑いはすっと引いていった。
リリィは深く息を吸い込むと、泣き続けるマリアに向かって、もう一度優しく、どこまでも柔らかな笑みを向けた。

「……詳しいことは……わたしにはよく分かりませんけれど……」

リリィはしゃがみ込み、泥で汚れたマリアの手に、自分の小さく温かな手をそっと重ねた。

「……わたしは、今……とっても幸せです。レオ様が助けに来てくださって……こうして毎日、温かい場所で……大切な人たちと一緒に笑って過ごせています……。だから……」

リリィの紅玉の瞳が、秋の柔らかな光を受けてキラキラと輝いた。

「……わたしはもう大丈夫ですから……。だから……そんなに泣かないでください……」

その言葉は、何一つ記憶のない純粋な少女だからこそ発せられた、傷のない心からの許しに似た慰めだった。

「あ……あぁ……っ……!」

マリアの手が震えた。重ねられたリリィの手の温もりが、冷え切っていた彼女の魂を優しく包み込んでいく。
本当の真実を知らないからこその言葉。しかし、その「わたしは今、幸せだ」という事実こそが、マリアにとって、そしてここにいるヴェルナの民たちにとって、何よりの救いであり、同時に一生をかけて背負っていくべき甘美で重い贖罪の証であった。

「……感謝……いたします……っ。ありがとうございます……リリィ様……っ……!」

マリアは声にならぬ声で叫び、何度も何度も地面に額を擦り付けた。
周囲で見守っていた住民たちも、静かに涙を流しながら、リリィに向かって頭を下げた。かつて自分たちが奪おうとした少女の幸福が、今こうして完璧な形で目の前にあること。それに対する感謝と、自らの過ちに対する反省が、彼らの胸に深く刻み込まれていった。
レオは、その光景を冷徹な新緑の瞳で見下ろしていた。
リリィの記憶を書き換えたことは、彼女の心を守るための不可欠な処置だった。だがその結果として、加害した者たちには「本人に直接謝罪し、真の許しを得る」という機会すら永久に奪われることとなったのだ。彼らは生涯、自分たちが一方的に傷つけた少女の無垢な微笑みを胸に抱きながら、罪を抱えて生きていくしかない。
それこそが、レオが彼らに残した、最も静かで残酷な罰でもあった。

「……さあ、行きましょうか、リリィ。あまり長居をしては、貴方が疲れてしまいます」

レオはリリィの手を優しく引き上げ、泥から立ち上がらせた。

「はい、レオ様」

リリィは素直に頷き、マリアに向かって最後にもう一度、可憐に頭を下げた。

「お仕事……頑張ってくださいね。お野菜、美味しく育つといいですね」
「……はい……! はいっ……! 精一杯……作らせていただきます……!」

マリアは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に微笑みを返した。
レオはリリィの肩を抱き、再び馬車へと彼女を導いた。馬車の扉が閉じられ、騎士たちが静かに馬を走らせ始める。
遠ざかっていく馬車の小窓から、リリィが小さく手を振っているのが見えた。
マリアとヴェルナの民たちは、その馬車が見えなくなるまで、秋風が吹き抜ける街道の脇で立ち尽くし、ずっと手を合わせ続けていた。
彼らの生活は、これからも決して楽なものではないだろう。泥に塗れ、汗を流し、過去の罪を抱えながら生きていく道は続いていく。だが、かつてのような狂信と暗鬱な偽りはもうない。彼らは正しく大地を耕し、自分たちの足で歩み始めていた。


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揺れる馬車の中で、リリィはレオの胸にそっと頭を預けていた。

「……なんだか、不思議な方たちでしたね」

リリィがぽつりと呟いた。

「ええ、そうですね。ですが……みなさん、貴方の幸せを心から願っておられましたよ」

レオは優しく微笑み、彼女の白銀の髪に静かに唇を寄せた。

「……うん。わたし、今、とっても幸せです。レオ様のそばにいられて……レイストールでみんなと過ごせて……」

リリィは愛おしそうにレオの服の裾をギュッと握り締め、胸元に顔を埋めた。

「だから……わたし、ずっとレオ様のそばにいますね」
「ええ。どこへも行かせませんよ、私のリリィ」

レオは彼女の華奢な身体を強く抱き締めた。
窓の外には、豊かに実る秋の風景がどこまでも広がっている。
過去の悲劇も、おぞましい偶像の記憶も、すべては完璧に塗り替えられ、光の中に溶けて消え去った。
愛する男の温かな腕の中で、少女は可憐に目を閉じ、静かな安らぎへと沈んでいくのだった。
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