【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編21】

冷たい山風が、不気味な静寂を孕んで集落の広場を吹き抜けていた。
レオの胸の中で静かに目を覚まし、恐怖の記憶を温かな安らぎへと塗り替えられたリリィは、ただ愛する男の腕の中で可憐に微笑んでいた。「アナスタシア」という恐ろしい仮面も、この地に縛り付けられていた凄惨な絶望も、今の彼女の心には一切存在しない。
レオはそっと彼女の体を腕から離すと、控えていた精鋭騎士の隊長へと静かに視線を送った。

「隊長。リリィを連れて、先に王城へ戻りなさい。厳重な警戒を怠らず、無事に送り届けるのです」
「はっ! かしこまりました!」

隊長が即座に礼をとると、リリィは不安そうに新緑の瞳を見つめ返し、レオの袖口を小さな手でぎゅっと握りしめた。

「……レオ様……? レオ様は……ご一緒ではないのですか……?」

か細く揺れる声。愛する人から片時も離れたくないという健気な情愛が、その瞳に宿っていた。
レオは表情を一切崩さず、普段通りの柔らかく優雅な微笑みを浮かべた。そっと膝を折り、彼女の目線に合わせると、握られた細い指先を解き、その甲へ静かに唇を寄せた。

「少しだけ、残務処理と後始末があります。すぐに後を追いかけますから、貴方は先に帰って温かいお茶でも飲んで待っていてくださいね」
「……はい……。お約束……ですよ、レオ様……」
「ええ、お約束します」

レオの温かな言葉に安心したように、リリィは小さく頷いた。精鋭騎士の手によって頑丈な馬車へと乗せられ、周囲を固める騎士たちとともに、彼女はヴェルナの集落を後にしていった。
パカパカと響く馬蹄の音が、険しい山道の奥へと遠ざかっていく。
レオは馬車の姿が完全に山影へと隠れ、その気配すらも途絶えるまで、微動だにせず見送り続けた。
そして――リリィの姿が完全に視界から消え去った瞬間。
レオの口元から、あの穏やかな微笑みが消え失せた。
静まり返る広場の中央へ、レオはゆっくりと足を踏み出す。
石畳の上に転がっていた、あの一つの装飾鍵。かつて自分が失態によって落とし、長の手によって「レオの死」を証明する道具として利用された冷たい金属。レオはそれを拾い上げると、ポケットに仕舞うこともせず、静かに自らの腰元へと取りつけた。
カチャリ、と硬質な音が鳴り響く。
奪われていた絆の証が、本来あるべき場所へと戻された。
レオはゆっくりと振り向き、崩れ落ちたまま微動だにできない長へと視線を向けた。
その新緑色の瞳は、すでに人たる者の色を失っていた。冷酷なまでの策謀家としての眼光と、戦場で相手を屠る時に魅せる圧倒的な戦闘狂の狂気が入り混じった、深淵のごとき漆黒の暗闇。
リリィの前では、決して血を流さなかった。
彼女の無垢な心を傷つけないため、彼女が望む「誰も斬らないでほしい」という願いを、その場では聞き入れて見せた。だが――それはこの男に対する赦免などでは断じてなかった。
この集落の民たちは、愚かさゆえに流されただけの哀れな存在かもしれない。国王アルフレッドのもとへ連れて帰り、王国の法と裁きによって処断させる道もあるだろう。
だが、この長だけは違った。
この男だけは、国王のもとへ連れて帰るつもりなど毛頭なかった。法による正当な裁きなど、この男が犯した罪に対してはあまりにも生ぬるく、あまりにも不条理だったからだ。
リリィから「リリィ」という名前を奪い取った。
彼女が帰りたがっていた居場所を、巧みな嘘で踏みにじり奪い去った。
王国の第一王子が死んだという酷悪な虚偽を信じ込ませ、彼女の心を死の絶望へと突き落とした。
そして何より――自らの罪悪感と引き換えに、壊れかけた彼女自身の口から「私はアナスタシアだ」と宣言させ、彼女の自我そのものを完膚なきまでに殺害した。
一人の少女に対するこれ以上ない侮辱と蹂躙。
その重すぎる責任を、レオ自身の手で、今この瞬間にとらせる。

「……ひ……っ……!」

長の喉から、情けない悲鳴が漏れた。
レオが一歩踏み出すたびに、広場全体を押し潰すような凄まじい威圧感が解き放たれる。騎士たちが一斉に退き、長を取り囲むように円を描いて立ち塞がった。逃げ場などどこにもなかった。

「殿下……! お、お許しを……! 我らはただ、集落を救いたかっただけで……!」

長は地面に這いつくばり、土を噛む勢いで命乞いを始めた。

「真なる聖女などと……調子の良いことを言いました! 嘘です! 私が浅はかでした! どうか……どうか国王陛下の裁きを受けさせてください! 命だけは……!」

高台で見せていたあの狂信的な自負は跡形もなく消え去り、ただの醜悪な老人がそこに転がっていた。
レオはその哀れな姿を見下ろし、極めて低く、甘く、冷ややかな声を落とした。

「裁き、ですか? ええ、だからこそ私がここへ戻ってきたのですよ」

レオはパチンと指を鳴らしいつも手にしているハルバードを、ゆっくりと構える。
鈍い光を放つ長大な刃。斧と槍の機能を兼ね備えたその重厚な武具が、冷たい山風を切り裂いてかざされる。
普段の優雅な身こなしからは想像もつかないほどの殺気が、レオの全身から立ち昇る。アルヴィーノ譲りの冷徹な思考が、命乞いをする男の存在を「即座に処理すべき害悪」として冷静に処理していた。

「貴方が殺したのは、ただの少女ではありません。私の魂であり、私のすべてだったのです」
「ひぃっ……! た、助けてくれ! 誰か……誰かこの悪魔を止めてくれぇぇ!!」

長が狂ったように叫び、集落の民たちへ助けを求めて手を伸ばす。
しかし、集落の民たちは誰一人として動かなかった。マリアも、病気の子供を抱く親たちも、ただ恐怖に震えて目を背けるだけだった。長が積み重ねてきた欺瞞と過ちの結末を、彼らもまた拒絶することができなかったのだ。

「貴方の身勝手な理想郷の礎となるには……私のリリィは、あまりにも高貴で、あまりにも美しすぎました」

レオの唇に、三日月のような獰猛な笑みが浮かび上がった。
戦闘狂としての情念が、静かに、けれど確実に熱を帯びていく。

「さあ、誇りなさい。貴方のその身勝手な欲望の果てに……王国の斧が下されるのですから」

ハルバードが、高く掲げられた。

「やめ――」

長の途切れた悲鳴とともに、閃光のごとき一閃が振り下ろされた。
空気を切り裂く鋭い風切り音。重厚な刃が大地を叩き割り、一瞬ののちに、凄絶な衝撃が集落の広場を揺らした。
叫び声すら残らなかった。
長であったものは、その場に力なく崩れ落ち、二度と動くことはなかった。自らが作り上げた身勝手な狂信の終焉を、その身をもって支払わされることとなったのだ。
刃についた血を、レオは無造作に振り払った。
その手元に迷いはなく、その新緑の瞳に一切の容赦や後悔の色は存在しなかった。当然果たすべき後始末を完了した男の、冷徹な静寂だけがそこにあった。
ハルバードを消し、レオは腰元に下がった装飾鍵へそっと触れた。
胸の奥を占めるのは、凄惨な処刑を終えた達成感などではない。ただ、一刻も早く馬を走らせ、先に帰った愛しい少女の元へ戻りたいという、過保護で深い愛執だけだった。

「待っていてくださいね、リリィ。すぐに帰りますから」

レオは静かに呟くと、集落の民たちへ一瞥も与えることなく背を向けた。
残された集落の者たちは、ただ呆然と、長の死体と去りゆく騎士たちの背中を見送るしかなかった。「聖女アナスタシア」という架空の救済を求めた秘境の集落ヴェルナは、こうして自らが招いた自業自得の結末とともに、静かな終焉を迎えたのだった。
山道を駆け抜ける馬の手綱を握り締めながら、レオは遥か先を行く馬車の影を追う。
彼女の記憶からは、このおぞましい出来事のすべてが消え去っている。これからは再び、レイストールの温かな光の中で、自分の腕の中で、ただ穏やかに微笑んでいればいい。
愛する少女を取り戻した男の馬蹄の音が、明けてゆく空の下で力強く響き渡っていた。
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