【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編20】
リリィの深い精神の最奥へと、レオの魔力が流れていく。
その領域には、長によって力ずくで植え付けられた数々の絶望が、冷たく暗い澱となって凝固していた。
王国郵便隊として街を奔走していた最中に襲撃された恐怖。
見知らぬ山奥へ連行され、強酷に押し付けられた「アナスタシア」という名。
マリアと過ごした密室での日々。
不作と病魔に喘ぐ集落の残酷な現実。
そして――手渡された装飾鍵とともに突きつけられた、レオの死という絶望的な偽り。
自らの心を殺し、人々のために自らを犠牲にして「聖女」として生きる道を選ばせた、その過酷な記憶の集積。
レオは新緑の瞳を静かに細め、指先から術式をさらに深く侵入させた。
(……消去するだけでは足りない。欠損した記憶は、いずれ歪みとなって貴方を苦しめる)
記憶を強引に削り取れば、そこに生じた空白に不快感と疑念が残る。だからこそ、レオが施すのは完全なる改竄だった。
「アナスタシア」という架空の聖女が存在した事実そのものを、彼女の人生から鮮やかに削ぎ落とす。
過酷だった長日月の牢獄を、短く単純な出来事へとすり替えていく。
王城郵便隊の仕事の途中で、正体不明の者に突如として囚われたこと。
暗く見知らぬ場所へと連れ去られ、恐ろしさに怯えていたこと。
そして――恐怖に身を震わせる間もなく、ほんのわずかな時間で、レオがすぐさま駆けつけ自分を救い出してくれたこと。
「アナスタシア」が生まれる原因となった過酷な体験のすべてを、無傷で愛らしい「小さな事件」へと書き換えていく。
マリアとともに過ごした数々の対話も、集落の貧困に心を痛めた痛切な記憶も、長から言い渡された死の絶望も、すべては波に洗われる砂の城のように形を失い、レオが新たに紡ぎ出す平穏な記憶の糸によって美しく織り直されていった。
広場を包み込むのは、呼吸すら躊躇われるほどの異様な圧迫感だった。
レオの指先から溢れ出る淡く妖しい光。胸に抱かれた少女の表情が、苦悶から解き放たれ、まるで可憐な人形のように完璧な平穏を取り戻していくその光景に、広場に集う誰もが息を飲んでいた。
長は、その光景を目にして全身の毛髪が逆立つような強烈な戦慄を覚えていた。
自らが巧みに組み上げた洗脳の城壁。少女の心を完全に粉砕し、自らを犠牲にして神聖な偶像へとならしめた完璧な論理。それが今、目の前に立つ青年の、たった一筋の不可解な術式によって無に帰そうとしている。
「な……何を……何をしている……!?」
長の声が恐ろしさに震えた。
どのような凄惨な拷問よりも、どのような冷酷な武力よりも恐ろしい。目の前の男は、人間が命をかけて守るべき心そのものを、その記憶すらも、神のごとき領域で自在にいじくり回している。
自らの最高傑作であった「聖女アナスタシア」が、二度と手に入らない遥か彼方へと消し去られていく感覚。長は膝の震えを抑えられず、後ずさることすらできずにその場に崩れ落ちた。
一方、周りを取り囲む集落の民たちは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
何が起きているのか理解できない。自分たちを救ってくれるはずだった神聖なアナスタシア様が、冷たい甲冑を着た男の腕の中で静かに眠りにつく。男が発する凄まじい威圧感に気圧され、誰一人として声を上げることも、すがりつくこともできなかった。
その中で、ただ一人――血を流しながら石畳に伏せていたマリアだけが、静かに涙を流していた。
マリアの胸を占めていたのは、恐れではなかった。
自らの身勝手な信奉によって連れ去り、偽りの言葉で縛り付け、過酷な「聖女」の役割を背負わせてしまった少女。その重荷が、あの恐ろしくも美しい王子の手によって、静かに取り払われていくのだと察していた。
(……これで……いい……。あの方は……リリィ様は……救われるのだ……)
集落が崩壊しようとも、自分がどのような報いを受けようともかまわない。ただあの心優しい少女が、元のあるべき場所へ、愛する人の元へ帰ることができるなら。マリアは溢れ出る涙を拭いもせず、祈るように両手を合わせ、去りゆく少女の救済を静かに見守っていた。
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やがて、指先の淡い光が静かに収束した。
術式の完了とともに、レオは静かに息を吐き出した。
抱き抱えたリリィの体温は温かく、その表情には一切の憂いも、恐怖の影も残っていなかった。長年重く圧し掛かっていた絶望の記憶はすべて綺麗に塗り替えられ、彼女の魂は完全な無傷へと戻されていた。
レオは愛おしそうに彼女の頬を撫で、低い声で優しく呼びかけた。
「……リリィ」
甘く、包み込むような温かな響き。
その声に導かれるように、リリィの睫毛が小さく震えた。
ゆっくりと開かれた紅玉の瞳。かつて光を失い、ガラス玉のように冷たかったその瞳に、今は瑞々しい光と、鮮やかな生命の彩りが完璧に蘇っていた。
「……ん……っ……」
か細い吐息とともに、リリィはゆっくりと視線を巡らせた。
目の前に広がる、新緑色の優しい瞳。自分を深く、温かく包み込んでいる大きな胸のぬくもり。
「……レオ……様……?」
「ええ、私ですよ、リリィ」
レオは心底安心したように、柔らかな笑みを浮かべた。
リリィは小さく首をかしげ、不思議そうに自分の周囲を見渡した。見知らぬ険しい山々、見たこともない貧しい木造の家々、そして怯えたように自分たちを見つめる、まったく見覚えのない人々。
「……あれ……? わたし……ここは……どこ……?」
「困った人たちに、少しだけ酷いことをされそうになったのですよ。ですが……もう大丈夫です」
「……あ……」
リリィの脳裏に、すり替えられたばかりの新しい記憶が自然な流れで浮かんできた。
郵便隊の仕事中、背後から急に襲われ、暗闇の中に閉じ込められた恐怖。とても怖くて、寒くて、今にも泣き出しそうだったあの瞬間。
しかし、恐怖に震える時間はほんのわずかだった。
大好きなレオが、すぐに自分を見つけ出し、こうして温かな腕で抱きしめて救い出してくれたのだ。
「……レオ様が……すぐに助けに来て……くださったのですね……?」
「勿論です。貴方を不安にさせてしまって申し訳ありませんでした、リリィ」
「ううん……! ううん、レオ様……っ!」
リリィは不安を吹き飛ばすように、力いっぱいレオの首に腕を回し、その胸元へとしがみついた。
自分を救ってくれた愛する人の温もり。そこには何一つ疑う余地のない、絶対的な安心感だけが存在していた。
「聖女アナスタシア」という存在は、この世界から完全に消滅した。
集落の苦境も、長の狂気も、マリアの贖罪も、彼女の心には何一つ残っていない。ただ一人、愛する騎士の腕の中で安らぐ、無垢で可憐な少女の姿だけがそこにあった。
レオは胸の中の少女を愛おしく抱き締め直すと、凍りついたように立ち尽くす長と住民たちへ、一度も視線を向けることなく静かに背を向けた。
リリィの深い精神の最奥へと、レオの魔力が流れていく。
その領域には、長によって力ずくで植え付けられた数々の絶望が、冷たく暗い澱となって凝固していた。
王国郵便隊として街を奔走していた最中に襲撃された恐怖。
見知らぬ山奥へ連行され、強酷に押し付けられた「アナスタシア」という名。
マリアと過ごした密室での日々。
不作と病魔に喘ぐ集落の残酷な現実。
そして――手渡された装飾鍵とともに突きつけられた、レオの死という絶望的な偽り。
自らの心を殺し、人々のために自らを犠牲にして「聖女」として生きる道を選ばせた、その過酷な記憶の集積。
レオは新緑の瞳を静かに細め、指先から術式をさらに深く侵入させた。
(……消去するだけでは足りない。欠損した記憶は、いずれ歪みとなって貴方を苦しめる)
記憶を強引に削り取れば、そこに生じた空白に不快感と疑念が残る。だからこそ、レオが施すのは完全なる改竄だった。
「アナスタシア」という架空の聖女が存在した事実そのものを、彼女の人生から鮮やかに削ぎ落とす。
過酷だった長日月の牢獄を、短く単純な出来事へとすり替えていく。
王城郵便隊の仕事の途中で、正体不明の者に突如として囚われたこと。
暗く見知らぬ場所へと連れ去られ、恐ろしさに怯えていたこと。
そして――恐怖に身を震わせる間もなく、ほんのわずかな時間で、レオがすぐさま駆けつけ自分を救い出してくれたこと。
「アナスタシア」が生まれる原因となった過酷な体験のすべてを、無傷で愛らしい「小さな事件」へと書き換えていく。
マリアとともに過ごした数々の対話も、集落の貧困に心を痛めた痛切な記憶も、長から言い渡された死の絶望も、すべては波に洗われる砂の城のように形を失い、レオが新たに紡ぎ出す平穏な記憶の糸によって美しく織り直されていった。
広場を包み込むのは、呼吸すら躊躇われるほどの異様な圧迫感だった。
レオの指先から溢れ出る淡く妖しい光。胸に抱かれた少女の表情が、苦悶から解き放たれ、まるで可憐な人形のように完璧な平穏を取り戻していくその光景に、広場に集う誰もが息を飲んでいた。
長は、その光景を目にして全身の毛髪が逆立つような強烈な戦慄を覚えていた。
自らが巧みに組み上げた洗脳の城壁。少女の心を完全に粉砕し、自らを犠牲にして神聖な偶像へとならしめた完璧な論理。それが今、目の前に立つ青年の、たった一筋の不可解な術式によって無に帰そうとしている。
「な……何を……何をしている……!?」
長の声が恐ろしさに震えた。
どのような凄惨な拷問よりも、どのような冷酷な武力よりも恐ろしい。目の前の男は、人間が命をかけて守るべき心そのものを、その記憶すらも、神のごとき領域で自在にいじくり回している。
自らの最高傑作であった「聖女アナスタシア」が、二度と手に入らない遥か彼方へと消し去られていく感覚。長は膝の震えを抑えられず、後ずさることすらできずにその場に崩れ落ちた。
一方、周りを取り囲む集落の民たちは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
何が起きているのか理解できない。自分たちを救ってくれるはずだった神聖なアナスタシア様が、冷たい甲冑を着た男の腕の中で静かに眠りにつく。男が発する凄まじい威圧感に気圧され、誰一人として声を上げることも、すがりつくこともできなかった。
その中で、ただ一人――血を流しながら石畳に伏せていたマリアだけが、静かに涙を流していた。
マリアの胸を占めていたのは、恐れではなかった。
自らの身勝手な信奉によって連れ去り、偽りの言葉で縛り付け、過酷な「聖女」の役割を背負わせてしまった少女。その重荷が、あの恐ろしくも美しい王子の手によって、静かに取り払われていくのだと察していた。
(……これで……いい……。あの方は……リリィ様は……救われるのだ……)
集落が崩壊しようとも、自分がどのような報いを受けようともかまわない。ただあの心優しい少女が、元のあるべき場所へ、愛する人の元へ帰ることができるなら。マリアは溢れ出る涙を拭いもせず、祈るように両手を合わせ、去りゆく少女の救済を静かに見守っていた。
---
やがて、指先の淡い光が静かに収束した。
術式の完了とともに、レオは静かに息を吐き出した。
抱き抱えたリリィの体温は温かく、その表情には一切の憂いも、恐怖の影も残っていなかった。長年重く圧し掛かっていた絶望の記憶はすべて綺麗に塗り替えられ、彼女の魂は完全な無傷へと戻されていた。
レオは愛おしそうに彼女の頬を撫で、低い声で優しく呼びかけた。
「……リリィ」
甘く、包み込むような温かな響き。
その声に導かれるように、リリィの睫毛が小さく震えた。
ゆっくりと開かれた紅玉の瞳。かつて光を失い、ガラス玉のように冷たかったその瞳に、今は瑞々しい光と、鮮やかな生命の彩りが完璧に蘇っていた。
「……ん……っ……」
か細い吐息とともに、リリィはゆっくりと視線を巡らせた。
目の前に広がる、新緑色の優しい瞳。自分を深く、温かく包み込んでいる大きな胸のぬくもり。
「……レオ……様……?」
「ええ、私ですよ、リリィ」
レオは心底安心したように、柔らかな笑みを浮かべた。
リリィは小さく首をかしげ、不思議そうに自分の周囲を見渡した。見知らぬ険しい山々、見たこともない貧しい木造の家々、そして怯えたように自分たちを見つめる、まったく見覚えのない人々。
「……あれ……? わたし……ここは……どこ……?」
「困った人たちに、少しだけ酷いことをされそうになったのですよ。ですが……もう大丈夫です」
「……あ……」
リリィの脳裏に、すり替えられたばかりの新しい記憶が自然な流れで浮かんできた。
郵便隊の仕事中、背後から急に襲われ、暗闇の中に閉じ込められた恐怖。とても怖くて、寒くて、今にも泣き出しそうだったあの瞬間。
しかし、恐怖に震える時間はほんのわずかだった。
大好きなレオが、すぐに自分を見つけ出し、こうして温かな腕で抱きしめて救い出してくれたのだ。
「……レオ様が……すぐに助けに来て……くださったのですね……?」
「勿論です。貴方を不安にさせてしまって申し訳ありませんでした、リリィ」
「ううん……! ううん、レオ様……っ!」
リリィは不安を吹き飛ばすように、力いっぱいレオの首に腕を回し、その胸元へとしがみついた。
自分を救ってくれた愛する人の温もり。そこには何一つ疑う余地のない、絶対的な安心感だけが存在していた。
「聖女アナスタシア」という存在は、この世界から完全に消滅した。
集落の苦境も、長の狂気も、マリアの贖罪も、彼女の心には何一つ残っていない。ただ一人、愛する騎士の腕の中で安らぐ、無垢で可憐な少女の姿だけがそこにあった。
レオは胸の中の少女を愛おしく抱き締め直すと、凍りついたように立ち尽くす長と住民たちへ、一度も視線を向けることなく静かに背を向けた。