【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編19】
広場を満たす緊張感は、もはや爆発寸前の領域にまで達していた。
長の高笑いと、罪悪感を微塵も感じさせない身勝手な独善。一人の少女の人生と精神を踏みにじり、それを神聖なる昇華と呼んで憚らない男の態度は、レオの中に眠る冷徹な策謀家としての本質と、内に秘めた過酷な戦闘衝動を同時に呼び覚ましていた。
レオの唇に浮かぶ笑みは、もはや人たる者の温もりを一切宿していない。腰の剣の柄に置かれた長手に力がこもり、新緑色の瞳が捕食者のそれへと変貌しかけた、その瞬間だった。

「……ダメ……です……! レオ様……っ!」

悲痛な叫びとともに、小さな身体がレオと長の間へ割り込んできた。
白銀の髪を乱し、祭服の裾を翻して立ち塞がったのは、他ならぬリリィだった。彼女は細い両腕を大きく広げ、自分を欺き、閉じ込めていたはずのヴェルナの住民たちと長を庇うようにして、レオに向かって立ち尽くしていた。

「……リリィ……?」

レオの動きが止まる。冷徹な殺気が混じる新緑の瞳に、かすかな戸惑いが走った。
リリィの瞳からは、溢れ出る涙が止まらなかった。額から血を流して伏せるマリア、怯えて肩を抱き合う民たち、そして高台で歪んだ笑みを浮かべる長。そのすべてを後ろに背負いながら、リリィは必死に声を振り絞った。

「……お願い……です……。この方たちを……傷つけないで……ください……っ!」
「……なぜです」

レオの声はどこまでも低く、静かだった。しかし、その奥底には理解しがたい苦悩が渦巻いている。

「なぜ貴方が彼らを庇うのですか。彼らは貴方を騙したのですよ。貴方の真実を奪い、私との絆を切り裂き、貴方を苦しみの底へ突き落とした罪人たちです。……特にその男は、貴方の心を殺して愉しんでいた悪党だ」
「……違います……っ」

リリィは強く首を振り、溢れる涙を濡れた袖で拭いもせずに訴えた。

「……確かに……嘘をつかれていたのは……悲しいです……。レオ様が亡くなったと聞いたときは……胸が引き裂かれそうでした……。でも……でも、皆さんは……わたしを大切にしてくださいました……っ!」

その言葉に、広場の住民たちが息を飲んだ。自分たちが罵倒し、石を投げつけ、自らの都合のために縛り付けていた少女が、自分たちを守るために王国の恐ろしい騎士の前に立っている。

「……お腹がすいたとき……温かいスープを分けてくださったのは……この方たちです……。夜、寒くて震えていたとき……毛布をかけてくださったのも……。誰も……誰もわたしを直接傷つけようとした人なんて……いません……!」

リリィの胸に宿るのは、どこまでも純粋で、どこまでも愚直な善良さだった。
どんなに不当な扱いを受けようとも、どんなに酷い欺瞞に晒されようとも、自分が差し出された小さな温もりの記憶を忘れることができない。悪意の裏にあった哀しい渇きを感じ取り、罪を犯した人々を責めることよりも、彼らが傷つくことを恐れてしまう。
それが、リリィという少女の持つ、あまりにも美しく、そしてあまりにも脆い魂の形だった。

「……この方たちは……ただ……生活に困って……助けを求めていただけなんです……。悪気があって……わたしを苦しめようとしたわけじゃ……ないんです……。だから……お願いです、レオ様……。誰も……誰も斬らないでください……っ」

リリィは両手を胸の前で固く握り締め、震える体でレオを見つめ返した。
その紅玉の瞳に宿る真摯な光を目にした時、レオは察した。ここで力を振るい、住民や長を惨殺すれば、リリィの心には生涯消えることのない深い傷が刻まれる。自分が救い出そうとしている彼女の魂を、自らの手で決定的に破壊することになってしまうのだと。
レオは静かに息を吐き出した。
腰の柄からそっと手を離し、全身から立ち昇っていた凄絶な殺気を殺す。そして、ゆっくりとリリィへと近づいた。

「……分かりました、リリィ」
「……レオ様……?」
「貴方がそこまで言うのであれば、私は今、この者たちに手を出すことはしません」

レオは優しく微笑み、困惑するリリィの前でそっと膝をついた。目線を同じ高さに合わせ、彼女の涙に濡れた頬を、手袋を外した温かな素手で優しく包み込む。
長や住民たちの前でこれ以上の問答を重ねることは、無意味であり、何よりリリィの精神をいたずらに摩耗させるだけだった。優先すべきは、何よりもまず彼女を取り戻すこと。この歪んだ場所から引き離し、彼女の心を守ることに他ならない。

「貴方は本当に……どこまでも優しく、強いお方ですね」
「……レオ……様……」
「もう大丈夫ですよ、リリィ。貴方が苦しむ必要は、何一つありません」

レオは立ち上がりながら、彼女の小さな華奢な身体をそっと抱き寄せた。すっぽりと自分の腕の中に収まる愛しい重み。彼女の体温と、白銀の髪から香る柔らかな匂いを確かめるように、深く深く抱き締める。
リリィは安堵の息を漏らし、レオの胸元にそっと顔を埋めた。自分の願いを聞き入れてくれた喜びと、愛する人の腕の中にいるという絶対的な安心感が、彼女の張つめていた緊張を緩めていく。

「……少しだけ、眠りましょうか」

耳元で囁かれる、甘く豊かなレオの声。

「……え……?」
「疲れたでしょう。酷い嘘を聞かされ、心を傷つけられ、寒さに耐えて……貴方の小さな身体は、もう限界のはずです。私に預けて、ゆっくりと目を閉じてください。目が覚めた時には……すべてが終わっていますから」

その声には、抗いがたい不思議な安らぎの響きが満ちていた。
リリィは重くなる瞼に抗うことができなかった。レオの手が彼女の背中を優しく撫で、頭を包み込む。彼の胸から伝わる静かな鼓動を聞いているうちに、深く重い眠気の波が全身を包み込んでいった。

「……はい……レオ……様……」

リリィは小さく呟き、レオの温もりに完全に身を委ねて、そっと目を閉じた。
胸の中の少女が完全に意識を手放し、規則正しい寝息を立て始めたことを確認すると、レオの瞳から優しさが消え去り、静謐で深い深淵のような光が宿った。
レオは彼女を片腕でしっかりと抱き抱えながら、空いた右手で彼女の額へそっと指先を滑らせた。

(……これしか、貴方を救う術はないのですよ、リリィ)

レオの脳裏に、遠い過去の記憶が蘇る。
まだ自分が若く、自らの内に秘められた力と感情の制御に苦しんでいた頃。かつて学び、修得した唯一の禁術――精神干渉系の秘術。
それは、人の心の中へと深く潜り込み、記憶の奔流を自在に組み替える術だった。
かつて、レオはこの術を使おうとしたことがある。
ルミに心を寄せていたあの頃。自分を選んでくれない苦しみと、アルヴィーノへと向かうルミの心を自分へ向けさせたいという狂おしい執着に駆られ、この禁術によってルミの記憶を書き換えようとした。
しかし、あの時の試みは完全に失敗に終わった。
ルミは、レオの術を受けながらも、その圧倒的な意志の力で拒絶してみせたのだ。『そんなことをされても、俺はアルヴィーノを何度だって愛するよ』と。記憶の改竄すら跳ね返すほどの絶対的な愛の前に、レオの禁術は無力に砕け散ったのだった。
だが、今は違う。
この術は、誰かを屈服させるためのものではない。今目の前にあるのは、偽りの絶望を植えつけられ、他人の身勝手な過ちを背負い込んで傷つき、破滅しようとしている愛しい少女の心だ。
単純に記憶を消去するだけでは足りない。
「アナスタシア」として過ごした時間、長から与えられた死の絶望、住民たちへの罪悪感と責任感。それらをただ消し去るだけでは、彼女の心には巨大な穴が開き、いずれ再び崩壊してしまう。
だからこそ、書き換えるのだ。
このヴェルナで過ごした苦痛の記憶を、絶望の物語を、彼女の心が耐えうる別の記憶へと、完璧にすり替える。

「……恐れることはありません、私のリリィ」

レオは静かに呟き、指先に淡い秘術の光を宿らせた。
指先がリリィの額に触れると、透明な波動が静かに波紋を描いて広がっていく。
リリィの深い精神の底へと、レオの意識が滑り込んでいく。そこには、長によって刻まれた暗い傷痕と、冷たい「聖女」としての仮面、そして愛する者を失ったという偽りの痛みが散らばっていた。
広場に立つ長も、息を殺して見守る住民たちも、今レオが何を行おうとしているのかを理解できていなかった。ただ、騎士団の頂点に立つ男が発する、異質で恐ろしいほどの魔法の気配に圧され、金縛りに遭ったように動きを止めている。
レオは周囲の存在を完全に遮断し、胸の中の少女の精神世界へと没入していった。
過去の失敗と、今度こそ大切な者を守り抜くという絶対の決意を胸に秘めて。術の波動がリリィの脳裏を満たし、彼女の記憶の糸が解きほぐされていく。発動の刻は、今まさに満ちようとしていた。
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