【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編18】
冷たい山風が集落の広場を吹き抜け、騒然とする人々の熱気を凍りつかせていく。
リリィの口から発せられた言葉は、あまりにも過酷で、そしてあまりにもあまりな拒絶だった。自分には奇跡の力などないことを誰よりも理解しながらも、目の前で苦しむ無数の命を見捨てることができず、自らの幸福と帰還を拒んでこの地に留まろうとする姿勢。その過剰なまでの優しさと責任感が、かえって彼女自身を深い呪縛の底へ繋ぎ止めていた。
レオは伸ばした手を静かに下ろし、新緑色の瞳をゆっくりと細めた。
胸の奥で渦巻くのは、リリィに対する絶望でも、彼女の選択に対する失望でもない。これほどまでに心優しく無垢な少女の精神を破滅の淵まで追い詰め、自ら犠牲になる道を選ばざるを得ない状況へと巧みに誘導した、目に見えぬ「悪意」に対する静かで苛烈な怒りだった。

「……長」

レオの低く冷ややかな声が、広場の静寂を切り裂いた。
その言葉の矛先が向けられたのは、高台の脇で集落の民たちを後ろから見守るように佇んでいた、ヴェルナの長であった。長はなおも、哀悼と敬虔さを装った神妙な表情を崩さず、恭しく頭を下げて見せた。

「……何でございましょうか、レオ殿下。王国の高貴なるお方が、我が貧しき集落へ何のご用でしょう。ご覧の通り、アナスタシア様はご自身の意思で、我らを見捨てずこの地に留まるとおっしゃっておられます。これ以上の干渉は、聖女様の慈悲を踏みにじる暴挙にほかなりません」

長の声には、一切の動揺も、罪悪感の欠片すら存在しなかった。まるで自分たちこそが被害者であり、正義の側に立っていると言わんばかりの態度。
だが、レオはその言葉に一切乗せられることはなかった。

「……見苦しいですね」

レオは静かに一歩を踏み出し、長の正面へと近づいていく。周囲の騎士たちが威圧するように長を取り囲み、その逃げ道を完全に塞いだ。

「私がここへ向かう道中、我が配下と暗部が何を調査していたとお思いですか? この隠れ集落の歴史、周辺の交通路、そして何より……貴方がどのような手段で彼女をここに縛り付けてきたのか、そのすべてはすでに白日の下に晒されているのです」

レオの瞳に宿る冷酷なまでの知性が、長を射抜く。

「貴方は最初から知っていた。彼女が『聖女アナスタシア』などではなく、王国の第一王子が深く愛する一人の少女に過ぎないということを。彼女がどれほど自らの本名を訴え、故郷へ帰りたいと涙を流そうとも、貴方はその叫びを集落の民へ一切伝えることをしなかった」

周囲の民たちが、ざわつき始める。しかし長は、まだ表情を変えない。

「それどころか、貴方は私が彼女を探しているという動かしがたい事実すらも利用した。最初は正確な情報を与えて信用させ、やがて巧妙な嘘を混ぜ込んで『救出隊の襲撃』を捏造した。そして、私が落とした鍵という本物の品を突きつけ、私が死んだと彼女に信じ込ませた」

レオの言葉が重ねられるたびに、広場の空気は重く沈んでいく。

「愛する男が自分を救おうとして死んだという、逃げ場のない自責の念。帰る場所を完全に奪い去った上で、飢えと病に苦しむ民の切痛な期待を彼女一人の肩に集中させた。そうして精神を極限まで摩耗させ、絶望の果てに自らの口から『私はアナスタシアだ』と言わせるよう仕向けた……」

レオは冷たく言い放った。

「すべては、貴方が計画し、実行した酷悪な情報操作と洗脳だ」

その時だった。

「……その通りです……! すべて……すべての原因は、私と……この長の犯した恐ろしい罪なのです……!」

集落の民を押しのけるようにして、一人の女性が広場の中央へと躍り出てきた。
マリアだった。
彼女の顔は涙と泥で汚れ、激しい感情の昂ぶりに全身を小さく震わせていた。マリアは長とレオの間に割って入ると、そのまま激しく石畳の上へ膝をつき、土に額を擦り付けた。

「マリア……! お前、何を言っているのだ……!」

長が初めて眉をひそめ、不快そうに声を低くした。
しかしマリアは頭を上げず、震える声を振り絞って広場全体に届くように叫び続けた。

「私が……私が最初に見つけたのです……! 王国のアナスタシア様……いいえ、リリィ様を……! 白銀の髪と紅玉の瞳……伝承にある聖女様とあまりにも酷似していたあのお姿を見かけ、私は興奮のあまり、長へ報告してしまいました……! 集落を救いたい一心で、あの方を連れ去るよう進言したのは私なのです……!」

広場を埋め尽くす民たちから、息を飲む音が漏れる。

「ですが……違っていたのです……! 連れてこられたリリィ様は、奇跡を起こす聖女などではなく、ただの心優しい一人の少女でした……! あの方は何度も何度も『自分はリリィだ』と泣いて訴えておられました! なのに、私たちはその叫びを無視し、あの方の心を殺したのです……!」
「マリア! 黙らぬか! 集落を裏切る気か!」

若者の一人が怒号を上げ、マリアに向かって石を投げつけた。石はマリアの額を掠め、赤い血が白い頬を伝って落ちる。住民たちから「裏切り者」「我が家を滅ぼす気か」という激しい怒声と罵倒が次々と浴びせかけられた。
しかし、マリアは退かなかった。額から血を流しながら、必死にリリィとレオに向かって手を合わせた。

「レオ殿下へ……『リリィ様は生きている』と……手紙を書いて使い鳥を放ったのも私です……! この恐ろしい集落からあの方をお救いしたくて……私の犯した取り返しのつかない罪を、少しでも贖いたくて……っ!」

マリアの告白。
それは、集落の民にとっても、そして何よりリリィにとっても、隠されていた醜悪な真実の扉を完全に開け放つものだった。
リリィは息を飲み、血を流しながら泣き叫ぶマリアの姿を見つめた。自分を優しく介抱してくれたマリア。その裏に隠されていた最初の身勝手な過ちと、最後の命がけの裏切り。
レオはマリアを一瞥し、静かに頷いた。

「……貴女の手紙がなければ、私はここに辿り着くのが遅れていたでしょう。その勇気と謝罪だけは評価します」

そして、レオは再び視線を長へと向けた。その新緑色の瞳には、もはや人間に対する温かみなど何一つ残されていなかった。
道中での調査、マリアの命がけの自白、そして眼前に広がる光景。すべてのパズルのピースが完璧に組み合わさり、レオの中で一つの明確な結論が導き出されていた。
この集落の民たちは、確かに愚かであり、自らの生のために無抵抗な少女に縋り付いた罪人だ。しかし、彼らはただ絶望の中で流され、希望という名の毒に飛びついただけの哀れな犠牲者に過ぎない。
すべての元凶、この凄惨な悲劇を裏で糸を引いて作り上げた真の悪意は、ただ一人――目の前に立つこの長なのだと。
住民たちからの罵倒が飛び交い、マリアの告白によって混乱が極まる広場で、長はゆっくりと息を吐き出した。
観念したように肩をすくめると、その顔からこれまで取り繕っていた哀悼の仮面がスルスルと剥ぎ取られていった。代わりに浮かび上がったのは、狂信的な自負と、一切の歪みのない絶対的な自己正当化の笑みだった。

「……ふふ……ハハハ……」

長は低く笑い声を上げた。

「恐れ入りましたよ、レオ殿下。なるほど、王国の第一王子ともなれば、これほどの短期間でそこまで調べ上げられるものですか。ええ、認めましょう。マリアの言った通りです。私がすべてを計画し、アナスタシア様……いいえ、そのリリィという娘の心を導いたのです」

長は悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに両手を広げてみせた。

「ですが殿下……私は間違ったことなど一切しておりませんよ」
「……何と言いましたか?」

レオの声が、一段と低くなる。周囲の空気が凍りつくような冷気が漂う。
しかし長は、その圧迫感すらも嘲笑うかのように言葉を続けた。

「私は、あの娘を救ってあげたのです。ご覧なさい! あの娘がここに来る前、何でしたか? 王城の陰で震え、己の無力さに怯え、ただ貴方の庇護を待つだけの哀れな存在だったのではないですか? それが今やどうです! このヴェルナの全住民から崇められ、祈りを捧げられ、人々へ生きる希望を与える本物の『聖女』となられた!」

長はリリィを指差し、歪んだ狂気を瞳に宿して叫んだ。

「偽りをお伝えしたことは認めましょう! 殿下の死を騙ったことも認めます! ですが、その苦しみを越えたからこそ! 愛する男への執着という小さな私情を捨て去ったからこそ! あの方は真なる聖女アナスタシアへと昇華されたのだ! ならば、私の行ったすべての行為は、あの方を神聖なる高みへと導くための必要な試練であり、絶対的な正義であったはずだ!」

一切の罪悪感を持たない、完璧な自己正当化。
一人の少女の心を惨殺し、生きながらにして自我を剥ぎ取り、自らの集落のために都合の良い道具へと仕立て上げた惨劇を、長は「救済」と呼び切ったのだ。

「民も救われ、あの娘も神聖なる存在となった! これのどこに間違いがあるというのですか! 貴方が連れ戻そうとしているのは、ただのちっぽけで無力な女に過ぎない! 私は彼女を、世界を救う聖女へと育て上げたのだ……!」

高らかに言い放つ長の姿を、レオは無言で見つめていた。
その静寂は、あまりにも深く、あまりにも重かった。
レオにとって、この人物だけは違った。
愚かゆえに流された他の住民たちとは、根底から一線を画する絶対的な悪。
リリィの優しさを利用し、彼女の心を破壊し、それを「正義」と呼んで誇る男。レオの愛する少女から光を奪い取った真の元凶。
レオの口元に、ゆっくりと、恐ろしいほどに美しい微笑みが浮かび上がった。

「……なるほど。完璧な論理ですね」

その微笑みは、普段の穏やかな軍師のものではなかった。
アルヴィーノ譲りの冷酷さと、その奥底に潜む圧倒的な武の狂気が混ざり合った、死を告げる悪魔の笑みだった。

「貴方の身勝手な自己満足のために、私の大切なリリィの心を殺した……。その罪の重さを、貴方はまだ理解していないようだ」

広場を包む冷たい風が、一瞬にして暴風へと変わるような錯覚を、そこにいた全員が覚えた。レオの手が、静かに自らの武器へと伸ばされていく。真の決着の刻が、すぐそこに迫っていた。
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