【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編17】
レオの温かな胸の中で、リリィは子どものように深く泣きじゃくっていた。
愛する人が生きているという真実。自分を救うために冷たい雨を突き抜け、泥に塗れてここまで駆けつけてくれたという絶対的な愛の体温。それが、長によって心に刻み付けられていた暗鬱な絶望と罪悪感を溶かし、彼女の胸の底に眠っていた人間らしい感情を鮮やかに蘇らせていた。
「かえりたい……っ……! おうちへ……レイストールへ……かえりたいです……! レオ様……っ……!」
その涙ながらの訴えは、偽りのない彼女の本心だった。冷たい聖女の仮面を脱ぎ捨て、ただの「リリィ」として愛する人の手に導かれ、平和で穏やかな我が家へ帰ること。それ以外の望みなど、彼女の心には存在するはずもなかった。
「ええ、帰りましょう、リリィ」
レオは愛おしそうに彼女を抱き締め、静かにその白銀の髪に口づけた。
周囲を取り囲む精鋭騎士たちが静かに道をあけ、包囲の網を緩める。もはや二人を遮るものなど何一つなかった。長がどれほど青ざめた顔で立ち尽くそうとも、王国の第一王子であり、圧倒的な武力と権限を有するレオの前では、この小さな集落の抵抗など塵に等しかった。
レオは彼女の肩を抱き、そのまま愛馬の待つ方向へと一歩を踏み出そうとした。
だが――。
その足が、急激に重くなった。
胸の中で泣きじゃくっていたリリィの体が、ぴたりと動きを止めたからだ。
「……リリィ……?」
レオは不審に思い、低く優しい声で問いかけた。
リリィはレオの胸に顔を埋めたまま、ゆっくりと体を離した。涙で濡れた顔を上げ、彼女は視線をレオから外し、周囲の光景へと向ける。
そこには、広場を取り囲み、絶望的な表情でひざまずくヴェルナの住民たちの姿があった。
痩せこけ、骨が浮き出た手で幼子を抱き締める母親。荒れた畑で必死に鍬を振るっていた、腰の曲がった老人。熱にうなされ、今にも息絶えそうな小さな男の子。
そして、彼らの瞳に宿る、哀切で、縋るような祈りの色。
「……行かないでください……! アナスタシア様……!」
「我らをお見捨てになるのですか……! 聖女様……!」
「アナスタシア様がいなくなってしまえば、我らは……我らは皆、飢えと病で死んでしまいます……!」
住民たちが、土に額を擦り付けながら、涙を流して悲痛な叫びを上げた。
彼らにとって、リリィはもはや単なる連れ去ってきた異邦人ではなかった。彼女がかけてくれた優しい言葉、彼女がみせてくれた小さな微笑み、彼女がこの地に存在してくれるという事実そのものが、滅びかけていた集落にとって唯一の「生の希望」となっていたのだ。
もし今、彼女が去ってしまえば、彼らの心は完全に折れ、集落は不作と病魔の悪循環の中で、間違いなく全滅への道を辿ることになる。
その凄惨な未来が、リリィの脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「……あ……」
リリィの足が、その場に縫い付けられたように動かなくなった。
自分を愛し、包み込んでくれるレオの温かな手。レイストールへ帰れば、そこには温かい部屋と、優しい家族と、穏やかな日常が待っている。しかし、自分がその幸福を手に入れるためにこの地を去れば、目の前で涙を流すこの人々は、全員が苦しみの末に命を落とすことになる。
「……ダメ……です……」
か細い声が、リリィの唇から零れ落ちた。
「……リリィ?」
レオが眉をひそめ、彼女の手を握り直そうとする。しかし、リリィはその温かな手を、悲しそうに、けれど確かな力でそっと解いた。
そして、レオから一歩、後退した。
「……ごめんなさい……レオ様。……わたしは……行けません……」
その言葉を聞いた瞬間、レオの新緑色の瞳に激しい動揺が走った。不眠不休の捜索の中で、一度たりとも崩れることのなかった軍師としての冷静な思考が、目の前で起きている事態の不可解さに激しく揺さぶられた。
「……何を言っているのです、リリィ。帰りましょうと、貴方自身がそう言ったのですよ? なぜ立ち止まるのですか」
「……だって……わたしが……わたしがいなくなったら……この方たちが……っ」
リリィは胸元に両手を当て、必死に涙を堪えながら訴えた。
「この方たちは……毎日、お腹をすかせて……病気になっても薬もなくて……とても苦しんでおられるのです……。わたしが……わたしが『アナスタシア』としてここにいて、お声をかけるだけで……みんな、少しだけ元気になることができるんです……!」
「……それが、一体何だというのです」
レオの声から温もりが消え、冷ややかな戸惑いが色濃くなった。
レオにとって、リリィの口から出たその言葉は、生涯で最も理解しがたい戯言に等しかった。
リリィには、奇跡を起こす聖なる力など何一つ存在しない。傷を瞬時に癒やす魔法も、枯れた大地に恵みの雨を降らせる神力も持っていないのだ。それは誰よりも近くで彼女を見守ってきたレオ自身が、何よりも熟知している事実だった。
それにもかかわらず、彼女は自分がここに留まり、聖女としての仮面を被り続けることで、この哀れな集落を救うことができると本気で信じ込んでいた。
「リリィ、正気に戻りなさい」
レオは一歩踏み出し、彼女の華奢な両肩を掴んだ。その力は、これ以上彼女をどこへも行かせまいとする執着で満ちていた。
「貴方に人を救う奇跡の力などありません。そんなものは、この者たちが自分たちの都合の良いように仕立て上げた愚かな幻影に過ぎないのです。貴方がここに留まったところで、この集落の不作が治まるわけでも、病気が消え去るわけでもない! 貴方は何も救えはしないのですよ!」
それは、冷酷なまでに正しい事実だった。
しかし、その客観的な正論こそが、リリィの胸を激しく突いた。
「……わかっています……! わたしに……そんな力がないことくらい……わたしが一番……よくわかっています……!」
リリィは叫んだ。人見知りで内気な彼女が、これほどまでに感情を剥き出しにして声を張り上げたことなど、これまで一度もなかった。
「……でも……! でも、わたしがお話しするだけで……『頑張ってください』ってお伝えするだけで……この方たちは、涙を流して喜んでくださるんです……! 明日も生きようって、立ち上がってくださるんです……!」
涙が次から次へと溢れ落ち、リリィの白い頬を濡らしていく。
「力なんて……なくてもいいんです……! わたしがここにいて……この方たちの希望になれるなら……それだけで、この方たちは少しでも長く生きられるんです……! だから……!」
リリィはレオの瞳をまっすぐに見つめ返した。その光景に、レオは息を飲んだ。
ハイライトを取り戻した紅玉の瞳。そこには、心を殺された張り子の人形の虚無ではなく、目の前で苦しむ人々を見過ごすことができない、あまりにも優しく、そしてあまりにも強固な一人の少女の意志が宿っていた。
「……この方たちをお救いできるのは……今のわたしなんです……! わたしだけなんです……!」
「リリィ……!」
「だから……! お願いです、レオ様……! わたしを……ここに居させてください……っ!」
悲痛なまでの嘆願だった。
自分を愛してくれる人の元へ帰りたくないはずがない。レイストールで過ごしたあの温かな日々に、戻りたくないはずがないのだ。
けれど、優しすぎる彼女の魂は、自分が去ることで見殺しにされることになる人々の命を、見捨てることができなかった。自らの幸福と引き換えに他人の命を破滅させることを、リリィという少女の純粋な心が許さなかったのだ。
「アナスタシア様……!」
「おお……聖女様……! 我らを見捨てないでくださるのだ……!」
住民たちが感涙にむせび、再び高台に向かって手を合わせ、祈りを捧げ始めた。
自分を守るために、自分たちのために立ち上がり、王国の恐ろしい騎士たちに立ち向かってくれる小さな聖女の姿。彼らはその姿に、本当の意味での「救済」を見出し、ますます彼女への依存を深めていった。
レオは、ただ呆然と立ち尽くした。
自らの腕の中にいたはずの愛しい少女が、自分以外の見知らぬ他者のために、自らその手を解き、再び激しい苦痛の道へと進もうとしている。
その圧倒的な自我と、過剰なまでの優しさ。
「……なぜ……」
レオの喉から、かすれた声が漏れた。
「……なぜ、貴方がそこまでしなければならないのですか……? この者たちは、貴方を騙し、傷つけ、私との仲を切り裂いた罪人なのですよ……? なぜ、そのような者たちのために……貴方が犠牲にならなければならないのですか……!」
レオの叫びにも似た問いかけ。
だが、リリィはただ泣きながら、静かに首を振るだけだった。
罪人を憎むことよりも、目の前で消えかけようとしている命を愛することを選んでしまう。それが「リリィ」という少女の本質であり、レオが何よりも愛し、そして今、何よりも恐ろしいと感じている彼女の美徳だった。
冷たい山風が広場を吹き抜け、祭服のヴェールを虚しく揺らした。
愛する人を連れ戻すためにここまで来た男と、愛する人を思いながらも民のために留まろうとする少女。二人の間に横たわる溝は、力や言葉だけでは決して埋めることのできない、深遠な悲劇となって立ちはだかっていた。
レオの温かな胸の中で、リリィは子どものように深く泣きじゃくっていた。
愛する人が生きているという真実。自分を救うために冷たい雨を突き抜け、泥に塗れてここまで駆けつけてくれたという絶対的な愛の体温。それが、長によって心に刻み付けられていた暗鬱な絶望と罪悪感を溶かし、彼女の胸の底に眠っていた人間らしい感情を鮮やかに蘇らせていた。
「かえりたい……っ……! おうちへ……レイストールへ……かえりたいです……! レオ様……っ……!」
その涙ながらの訴えは、偽りのない彼女の本心だった。冷たい聖女の仮面を脱ぎ捨て、ただの「リリィ」として愛する人の手に導かれ、平和で穏やかな我が家へ帰ること。それ以外の望みなど、彼女の心には存在するはずもなかった。
「ええ、帰りましょう、リリィ」
レオは愛おしそうに彼女を抱き締め、静かにその白銀の髪に口づけた。
周囲を取り囲む精鋭騎士たちが静かに道をあけ、包囲の網を緩める。もはや二人を遮るものなど何一つなかった。長がどれほど青ざめた顔で立ち尽くそうとも、王国の第一王子であり、圧倒的な武力と権限を有するレオの前では、この小さな集落の抵抗など塵に等しかった。
レオは彼女の肩を抱き、そのまま愛馬の待つ方向へと一歩を踏み出そうとした。
だが――。
その足が、急激に重くなった。
胸の中で泣きじゃくっていたリリィの体が、ぴたりと動きを止めたからだ。
「……リリィ……?」
レオは不審に思い、低く優しい声で問いかけた。
リリィはレオの胸に顔を埋めたまま、ゆっくりと体を離した。涙で濡れた顔を上げ、彼女は視線をレオから外し、周囲の光景へと向ける。
そこには、広場を取り囲み、絶望的な表情でひざまずくヴェルナの住民たちの姿があった。
痩せこけ、骨が浮き出た手で幼子を抱き締める母親。荒れた畑で必死に鍬を振るっていた、腰の曲がった老人。熱にうなされ、今にも息絶えそうな小さな男の子。
そして、彼らの瞳に宿る、哀切で、縋るような祈りの色。
「……行かないでください……! アナスタシア様……!」
「我らをお見捨てになるのですか……! 聖女様……!」
「アナスタシア様がいなくなってしまえば、我らは……我らは皆、飢えと病で死んでしまいます……!」
住民たちが、土に額を擦り付けながら、涙を流して悲痛な叫びを上げた。
彼らにとって、リリィはもはや単なる連れ去ってきた異邦人ではなかった。彼女がかけてくれた優しい言葉、彼女がみせてくれた小さな微笑み、彼女がこの地に存在してくれるという事実そのものが、滅びかけていた集落にとって唯一の「生の希望」となっていたのだ。
もし今、彼女が去ってしまえば、彼らの心は完全に折れ、集落は不作と病魔の悪循環の中で、間違いなく全滅への道を辿ることになる。
その凄惨な未来が、リリィの脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「……あ……」
リリィの足が、その場に縫い付けられたように動かなくなった。
自分を愛し、包み込んでくれるレオの温かな手。レイストールへ帰れば、そこには温かい部屋と、優しい家族と、穏やかな日常が待っている。しかし、自分がその幸福を手に入れるためにこの地を去れば、目の前で涙を流すこの人々は、全員が苦しみの末に命を落とすことになる。
「……ダメ……です……」
か細い声が、リリィの唇から零れ落ちた。
「……リリィ?」
レオが眉をひそめ、彼女の手を握り直そうとする。しかし、リリィはその温かな手を、悲しそうに、けれど確かな力でそっと解いた。
そして、レオから一歩、後退した。
「……ごめんなさい……レオ様。……わたしは……行けません……」
その言葉を聞いた瞬間、レオの新緑色の瞳に激しい動揺が走った。不眠不休の捜索の中で、一度たりとも崩れることのなかった軍師としての冷静な思考が、目の前で起きている事態の不可解さに激しく揺さぶられた。
「……何を言っているのです、リリィ。帰りましょうと、貴方自身がそう言ったのですよ? なぜ立ち止まるのですか」
「……だって……わたしが……わたしがいなくなったら……この方たちが……っ」
リリィは胸元に両手を当て、必死に涙を堪えながら訴えた。
「この方たちは……毎日、お腹をすかせて……病気になっても薬もなくて……とても苦しんでおられるのです……。わたしが……わたしが『アナスタシア』としてここにいて、お声をかけるだけで……みんな、少しだけ元気になることができるんです……!」
「……それが、一体何だというのです」
レオの声から温もりが消え、冷ややかな戸惑いが色濃くなった。
レオにとって、リリィの口から出たその言葉は、生涯で最も理解しがたい戯言に等しかった。
リリィには、奇跡を起こす聖なる力など何一つ存在しない。傷を瞬時に癒やす魔法も、枯れた大地に恵みの雨を降らせる神力も持っていないのだ。それは誰よりも近くで彼女を見守ってきたレオ自身が、何よりも熟知している事実だった。
それにもかかわらず、彼女は自分がここに留まり、聖女としての仮面を被り続けることで、この哀れな集落を救うことができると本気で信じ込んでいた。
「リリィ、正気に戻りなさい」
レオは一歩踏み出し、彼女の華奢な両肩を掴んだ。その力は、これ以上彼女をどこへも行かせまいとする執着で満ちていた。
「貴方に人を救う奇跡の力などありません。そんなものは、この者たちが自分たちの都合の良いように仕立て上げた愚かな幻影に過ぎないのです。貴方がここに留まったところで、この集落の不作が治まるわけでも、病気が消え去るわけでもない! 貴方は何も救えはしないのですよ!」
それは、冷酷なまでに正しい事実だった。
しかし、その客観的な正論こそが、リリィの胸を激しく突いた。
「……わかっています……! わたしに……そんな力がないことくらい……わたしが一番……よくわかっています……!」
リリィは叫んだ。人見知りで内気な彼女が、これほどまでに感情を剥き出しにして声を張り上げたことなど、これまで一度もなかった。
「……でも……! でも、わたしがお話しするだけで……『頑張ってください』ってお伝えするだけで……この方たちは、涙を流して喜んでくださるんです……! 明日も生きようって、立ち上がってくださるんです……!」
涙が次から次へと溢れ落ち、リリィの白い頬を濡らしていく。
「力なんて……なくてもいいんです……! わたしがここにいて……この方たちの希望になれるなら……それだけで、この方たちは少しでも長く生きられるんです……! だから……!」
リリィはレオの瞳をまっすぐに見つめ返した。その光景に、レオは息を飲んだ。
ハイライトを取り戻した紅玉の瞳。そこには、心を殺された張り子の人形の虚無ではなく、目の前で苦しむ人々を見過ごすことができない、あまりにも優しく、そしてあまりにも強固な一人の少女の意志が宿っていた。
「……この方たちをお救いできるのは……今のわたしなんです……! わたしだけなんです……!」
「リリィ……!」
「だから……! お願いです、レオ様……! わたしを……ここに居させてください……っ!」
悲痛なまでの嘆願だった。
自分を愛してくれる人の元へ帰りたくないはずがない。レイストールで過ごしたあの温かな日々に、戻りたくないはずがないのだ。
けれど、優しすぎる彼女の魂は、自分が去ることで見殺しにされることになる人々の命を、見捨てることができなかった。自らの幸福と引き換えに他人の命を破滅させることを、リリィという少女の純粋な心が許さなかったのだ。
「アナスタシア様……!」
「おお……聖女様……! 我らを見捨てないでくださるのだ……!」
住民たちが感涙にむせび、再び高台に向かって手を合わせ、祈りを捧げ始めた。
自分を守るために、自分たちのために立ち上がり、王国の恐ろしい騎士たちに立ち向かってくれる小さな聖女の姿。彼らはその姿に、本当の意味での「救済」を見出し、ますます彼女への依存を深めていった。
レオは、ただ呆然と立ち尽くした。
自らの腕の中にいたはずの愛しい少女が、自分以外の見知らぬ他者のために、自らその手を解き、再び激しい苦痛の道へと進もうとしている。
その圧倒的な自我と、過剰なまでの優しさ。
「……なぜ……」
レオの喉から、かすれた声が漏れた。
「……なぜ、貴方がそこまでしなければならないのですか……? この者たちは、貴方を騙し、傷つけ、私との仲を切り裂いた罪人なのですよ……? なぜ、そのような者たちのために……貴方が犠牲にならなければならないのですか……!」
レオの叫びにも似た問いかけ。
だが、リリィはただ泣きながら、静かに首を振るだけだった。
罪人を憎むことよりも、目の前で消えかけようとしている命を愛することを選んでしまう。それが「リリィ」という少女の本質であり、レオが何よりも愛し、そして今、何よりも恐ろしいと感じている彼女の美徳だった。
冷たい山風が広場を吹き抜け、祭服のヴェールを虚しく揺らした。
愛する人を連れ戻すためにここまで来た男と、愛する人を思いながらも民のために留まろうとする少女。二人の間に横たわる溝は、力や言葉だけでは決して埋めることのできない、深遠な悲劇となって立ちはだかっていた。