【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編16】
静寂が広場を重く支配していた。
集落の民たちが息を殺してみつめる中、レオはゆっくりと、けれど一切の迷いなく一歩を踏み出した。
アナスタシアの華奢な体が小さく跳ね上がり、祭服の袖に隠された鍵を握りしめたまま、さらに後ずさろうとする。その光のない紅玉の瞳には、目の前に立つ存在を拒絶しなければ自分が崩壊してしまうという、凄惨な恐れが浮かんでいた。
「……来ないで……ください……。……わたしは……アナスタシアです……。……レオ様は……もう……」
「いいえ、リリィ。私はここにいます」
レオは立ち止まり、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。手や武器を掲げることなく、ただ優しく、どこまでも穏やかな眼差しを向ける。
「形見の鍵や、誰かの作った偽りの言葉など、信じる必要はありません。私を見てください。貴方が知っている、私自身の言葉を聞いてください」
レオは静かに、二人だけの記憶の糸を手繰り寄せ始めた。
「覚えていますか、リリィ。私たちが初めて出会った、あの白亜の塔の庭園のことを」
その言葉が落ちた瞬間、アナスタシアの思考がかすかに止まった。
「冷たい塔の中に閉じ込められ、わずかに許された散歩の時間……貴方は咲き誇る花々を寂しそうに見つめていましたね。そこに突然あらわれた不躾な男――それが私でした。私はあの瞬間、貴方のその美しい瞳に、すべてを奪われたのです」
「……っ……あ……」
アナスタシアの唇から、掠れた息が漏れる。
ヴェルナの長も、マリアも、集落の誰一人として知り得るはずのない過去。白亜の塔という閉ざされた世界で、誰にも知られず二人だけで分かち合った、あの鮮烈な出会いの記憶。
「一度目の救出に失敗し、貴方を傷つけ、過ちを犯した私を……貴方は責めることすらしてくれませんでした。処刑台の刃が迫るあの絶望の寸前、私が貴方を抱き上げてアイゼンハルトの空へ駆け出した時、貴方は私の胸の中で小さく震えていましたね」
レオの声は、どこまでも優しく、暖かかった。
「レイストールへ来てから、貴方は少しずつ温かな日常を知っていきました。ルミにぃの手料理を嬉しそうに食べ、ルインと一緒に城内を歩き、私に甘えることを覚えてくれた。……それらすべての時間を過ごしてきたのは、他でもない、目の前にいるこの私です」
「……れ……オ……さま……?」
確信が、激しい揺らぎとなってアナスタシアの心を苛んだ。
外見や、偽造できる品物などではない。自分の胸の奥底にしか存在しない、最も大切で、最も愛おしい二人だけの歴史。それをひとつひとつ、慈しむように紡ぎ出す男の声が、心にかけられていた頑丈な鍵を、みしみしと音を立てて砕いていく。
手の中にある冷たい装飾鍵が、カタカタと震え始めた。
「……でも……この鍵が……現場に……」
「その鍵は、貴方が連れ去られたあの日、私が狼狽のあまり落としてしまった不覚の品です。貴方を失うかもしれないという恐怖で、私の冷静さが失われていた証拠に過ぎません。……死んだ者の形見などではないのです、リリィ」
レオはそっと右手を差し出した。
「おいで、リリィ。確認してください。私は生きて、貴方を迎えに来ました」
アナスタシアの足が、意思とは無関係に前へ踏み出された。
死んだはずがないという切望。生きていてほしいという悲鳴。それらが、長によって植えつけられた「死」という呪縛を塗り替えていく。
一歩、また一歩と、白衣の裾を揺らしながら近づいていく。
集落の住民たちが息を飲み、長が青ざめた顔で「アナスタシア様!」と叫ぼうとしたが、レオから放たれる圧倒的な威圧感がそれを力ずくで遮断した。
アナスタシアは、レオの目の前で足を止めた。
見上げる。
かつて何度も見つめ返してくれた、深い新緑色の瞳。過保護なほどの愛おしさを湛え、自分だけを映し出しているその瞳。
耳を澄ます。
自分の名を愛おしそうに呼ぶ、独特の甘く温かな声の響き。
そして、震える手をゆっくりと伸ばした。
祭服の袖から覗く細い指先が、おそるおそるレオの頬へと触れる。
冷たい指先に伝わってきたのは――硬い甲冑の冷たさではなく、その奥からしっかりと伝わってくる、生きた人間の確かな体温だった。トクトクと静かに脈打つ血の通った温もり。
「……あ……」
ハイライトを失っていた紅玉の瞳の奥底に、小さな、けれど確かな光が灯り始めた。
「……ほんとう……に……?」
涙が、ボロボロと溢れ落ちる。
「……本当に……レオ様……なのですか……? ……生きて……おられるのですか……?」
「ええ、本物です。貴方のレオです。貴方を愛し、貴方を救うためにここへ来た、貴方だけの騎士です」
レオは微笑み、伸ばされた彼女の手を優しく包み込むと、そのまま力強く、けれど壊れ物を扱うかのように愛おしく、彼女の華奢な体を胸の中へと抱き寄せた。
ぎゅっと、引き寄せられる身体。
鼻腔をくすぐる、懐かしいレオの匂い。背中に回された大きな手の温もりと、胸から伝わってくる力強い鼓動。
「……っ……! ああ……っ……レオ様……! レオ様……っ!」
アナスタシア――リリィの口から、声にならない叫びが溢れ出した。
手の中にあった冷たい装飾鍵が手放され、石畳の上で静かな音を立てて転がった。形見などもう必要なかった。本物の温もりが、本物の愛が、今こうして自分を強く抱きしめてくれているのだから。
自分が連れ去られたせいでレオを死なせてしまったという激しい自責の念、自分を殺して「聖女」にならなければならないという絶望的な不条理、そのすべてがレオの体温によって溶かされていく。
リリィはレオの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「……かえりたい……っ……! おうちへ……レイストールへ……かえりたいです……! レオ様……っ……!」
「ええ、帰りましょう、リリィ」
レオは彼女の白銀の髪を優しく撫で、その頭頂部に静かに唇を寄せた。
「私たちの家へ。貴方が安心して笑える、温かな場所へ」
心を殺され、他人のための偶像になりかけていた少女の胸に、「帰りたい」という切痛なまでの人間らしい感情が、はっきりと蘇っていた。
レオの胸の中で泣き続けるリリィを、集落の民たちはただ呆然と見つめることしかできなかった。彼らが縋りついていた「聖女アナスタシア」という幻影は、本物の愛の前に、完全に終わりを告げたのだった。
静寂が広場を重く支配していた。
集落の民たちが息を殺してみつめる中、レオはゆっくりと、けれど一切の迷いなく一歩を踏み出した。
アナスタシアの華奢な体が小さく跳ね上がり、祭服の袖に隠された鍵を握りしめたまま、さらに後ずさろうとする。その光のない紅玉の瞳には、目の前に立つ存在を拒絶しなければ自分が崩壊してしまうという、凄惨な恐れが浮かんでいた。
「……来ないで……ください……。……わたしは……アナスタシアです……。……レオ様は……もう……」
「いいえ、リリィ。私はここにいます」
レオは立ち止まり、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。手や武器を掲げることなく、ただ優しく、どこまでも穏やかな眼差しを向ける。
「形見の鍵や、誰かの作った偽りの言葉など、信じる必要はありません。私を見てください。貴方が知っている、私自身の言葉を聞いてください」
レオは静かに、二人だけの記憶の糸を手繰り寄せ始めた。
「覚えていますか、リリィ。私たちが初めて出会った、あの白亜の塔の庭園のことを」
その言葉が落ちた瞬間、アナスタシアの思考がかすかに止まった。
「冷たい塔の中に閉じ込められ、わずかに許された散歩の時間……貴方は咲き誇る花々を寂しそうに見つめていましたね。そこに突然あらわれた不躾な男――それが私でした。私はあの瞬間、貴方のその美しい瞳に、すべてを奪われたのです」
「……っ……あ……」
アナスタシアの唇から、掠れた息が漏れる。
ヴェルナの長も、マリアも、集落の誰一人として知り得るはずのない過去。白亜の塔という閉ざされた世界で、誰にも知られず二人だけで分かち合った、あの鮮烈な出会いの記憶。
「一度目の救出に失敗し、貴方を傷つけ、過ちを犯した私を……貴方は責めることすらしてくれませんでした。処刑台の刃が迫るあの絶望の寸前、私が貴方を抱き上げてアイゼンハルトの空へ駆け出した時、貴方は私の胸の中で小さく震えていましたね」
レオの声は、どこまでも優しく、暖かかった。
「レイストールへ来てから、貴方は少しずつ温かな日常を知っていきました。ルミにぃの手料理を嬉しそうに食べ、ルインと一緒に城内を歩き、私に甘えることを覚えてくれた。……それらすべての時間を過ごしてきたのは、他でもない、目の前にいるこの私です」
「……れ……オ……さま……?」
確信が、激しい揺らぎとなってアナスタシアの心を苛んだ。
外見や、偽造できる品物などではない。自分の胸の奥底にしか存在しない、最も大切で、最も愛おしい二人だけの歴史。それをひとつひとつ、慈しむように紡ぎ出す男の声が、心にかけられていた頑丈な鍵を、みしみしと音を立てて砕いていく。
手の中にある冷たい装飾鍵が、カタカタと震え始めた。
「……でも……この鍵が……現場に……」
「その鍵は、貴方が連れ去られたあの日、私が狼狽のあまり落としてしまった不覚の品です。貴方を失うかもしれないという恐怖で、私の冷静さが失われていた証拠に過ぎません。……死んだ者の形見などではないのです、リリィ」
レオはそっと右手を差し出した。
「おいで、リリィ。確認してください。私は生きて、貴方を迎えに来ました」
アナスタシアの足が、意思とは無関係に前へ踏み出された。
死んだはずがないという切望。生きていてほしいという悲鳴。それらが、長によって植えつけられた「死」という呪縛を塗り替えていく。
一歩、また一歩と、白衣の裾を揺らしながら近づいていく。
集落の住民たちが息を飲み、長が青ざめた顔で「アナスタシア様!」と叫ぼうとしたが、レオから放たれる圧倒的な威圧感がそれを力ずくで遮断した。
アナスタシアは、レオの目の前で足を止めた。
見上げる。
かつて何度も見つめ返してくれた、深い新緑色の瞳。過保護なほどの愛おしさを湛え、自分だけを映し出しているその瞳。
耳を澄ます。
自分の名を愛おしそうに呼ぶ、独特の甘く温かな声の響き。
そして、震える手をゆっくりと伸ばした。
祭服の袖から覗く細い指先が、おそるおそるレオの頬へと触れる。
冷たい指先に伝わってきたのは――硬い甲冑の冷たさではなく、その奥からしっかりと伝わってくる、生きた人間の確かな体温だった。トクトクと静かに脈打つ血の通った温もり。
「……あ……」
ハイライトを失っていた紅玉の瞳の奥底に、小さな、けれど確かな光が灯り始めた。
「……ほんとう……に……?」
涙が、ボロボロと溢れ落ちる。
「……本当に……レオ様……なのですか……? ……生きて……おられるのですか……?」
「ええ、本物です。貴方のレオです。貴方を愛し、貴方を救うためにここへ来た、貴方だけの騎士です」
レオは微笑み、伸ばされた彼女の手を優しく包み込むと、そのまま力強く、けれど壊れ物を扱うかのように愛おしく、彼女の華奢な体を胸の中へと抱き寄せた。
ぎゅっと、引き寄せられる身体。
鼻腔をくすぐる、懐かしいレオの匂い。背中に回された大きな手の温もりと、胸から伝わってくる力強い鼓動。
「……っ……! ああ……っ……レオ様……! レオ様……っ!」
アナスタシア――リリィの口から、声にならない叫びが溢れ出した。
手の中にあった冷たい装飾鍵が手放され、石畳の上で静かな音を立てて転がった。形見などもう必要なかった。本物の温もりが、本物の愛が、今こうして自分を強く抱きしめてくれているのだから。
自分が連れ去られたせいでレオを死なせてしまったという激しい自責の念、自分を殺して「聖女」にならなければならないという絶望的な不条理、そのすべてがレオの体温によって溶かされていく。
リリィはレオの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「……かえりたい……っ……! おうちへ……レイストールへ……かえりたいです……! レオ様……っ……!」
「ええ、帰りましょう、リリィ」
レオは彼女の白銀の髪を優しく撫で、その頭頂部に静かに唇を寄せた。
「私たちの家へ。貴方が安心して笑える、温かな場所へ」
心を殺され、他人のための偶像になりかけていた少女の胸に、「帰りたい」という切痛なまでの人間らしい感情が、はっきりと蘇っていた。
レオの胸の中で泣き続けるリリィを、集落の民たちはただ呆然と見つめることしかできなかった。彼らが縋りついていた「聖女アナスタシア」という幻影は、本物の愛の前に、完全に終わりを告げたのだった。