【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編15】
暗雲が低く立ち込め、湿った冷気が山肌を這う早朝。
ヴェルナの集落を包み込む深い霧を切り裂くように、力強い馬蹄の音が大地を震わせた。長きにわたる沈黙と隠蔽によって守られていた秘境の平穏は、今や完全に打ち砕かれようとしていた。
一度場所さえ判明してしまえば、もはや王国第一王子であり騎士団の統括を務める男の進軍を止める術など、この世界のどこにも存在しない。王城から直ちに派遣された精鋭騎士団を引き連れ、レオは一切の容赦なく険しい山道を踏み破って駆け抜けてきた。不眠不休の連続、雨と泥に塗れた甲冑、荒い息を吐く愛馬。しかし、そのすべてを押し潰すほどに、レオの瞳には恐ろしいまでの冷徹さと、一刻の猶予も許さぬ凄絶な情念が狂おしく渦巻いていた。
「……ここですね」
引き締まった声が、先頭を進む馬上から静かに落とされた。
眼下に広がる小さな集落。痩せた畑と枯れかけた木々、そして静まり返った木造の家々。羊皮紙に記されていた通りの悪悪たる地――ヴェルナ。
レオは馬の手綱を強く握り締め、新緑色の瞳を鋭く細めた。過酷な捜索の果てに辿り着いたその場所を前にしても、微笑みひとつ浮かべることはない。そこにあるのは、自らの最も大切な存在を奪い去り、その心を踏みにじった者たちに対する、静かでありながら底知れない冷酷な殺気だけだった。
「全隊、速やかに集落を包囲しなさい。逃亡経路を遮断し、抵抗する者は即座に制圧を。……ただし、絶対に彼女を傷つけてはなりません」
「はっ!」
騎士たちが一斉に動き出し、迅速かつ無駄のない動きで集落の周囲を固めていく。逃げ道のない完璧な網が敷かれたことを確認すると、レオは馬を降り、ゆっくりとした足取りで集落の中心部へと歩みを進めた。
突然の武力勢力の襲撃に、集落の住民たちは恐怖に怯え、悲鳴を上げながら屋敷の周辺へと逃げ惑っていた。長や若者たちが必死に武器を取り、死守しようと群がり立つが、洗練された王国の精鋭騎士たちの前では、あまりにも無力な抵抗に過ぎなかった。
集落の広場へ続く石畳の上で、騒ぎを聞きつけた長が青ざめた顔で立ち塞がる。
「な、何者だ……! この聖なる地ヴェルナに土足で踏み入るなど、不敬であるぞ……!」
長の手が震え、声を張り上げるが、レオは気圧されることなど一切なく、ただ冷ややかな視線を一瞥だけ投じた。
「不敬、ですか。他国の民を不法に連れ去り、存在しない死亡を偽装して心を騙し取った盗人が、どの口でそれを語るのですか?」
その声はどこまでも穏やかで、優雅でさえあった。しかし、言葉の端々に滲む絶対的な威圧感と冷徹さに、長はそれ以上言葉を続けることができず、ただ後ずさった。
「……私の大切なものを返しに来ていただきます。それだけです」
レオは長を無視し、そのまま広場の中心へと足を向けた。
そこへ、屋敷の重々しい扉が開き、騒然とする人々の間を縫って一つの影が静かに姿を現した。
アイボリーホワイトの聖女祭服。裾に施された金糸と麦穂の細やかな刺繍。胸元で鈍く光を放つ紅玉の紋章、そして額の聖冠から背へと流れる繊細なヴェール。
神聖なる衣装を纏い、一歩一歩静かに歩み出てくる姿。
しかし、そのヴェールの隙間から覗く白銀の髪と、紅玉の瞳には――かつて生き生きとした光を宿していた色合いが、何ひとつとして残っていなかった。
冷たく、果てしなく澄み渡り、ハイライトを完全に失ったガラス玉のような瞳。
「……っ……」
レオの息が止まった。
そこに立っているのは、間違いなく捜し続けていた愛しい少女だった。どれほど姿形を変えられようとも、どれほど遠く離されようとも、一目でわかる自らの魂の片割れ。
だが、その瞳に宿る生気の欠如と、纏う雰囲気に漂う絶望的な異質さが、レオの胸を鋭い刃で貫いた。心を殺され、他人のための張り子へと仕立て上げられた無残な姿。アルヴィーノ譲りの冷徹な思考をもってしても、その凄惨な現実に胸が激しく締め付けられた。
けれど、次の瞬間には、レオの唇から愛おしさに満ちた柔らかな声が溢れ出していた。
「……リリィ」
ずっと呼ぶことを望んでいた名前。夜の静寂の中で、幾度となく呟き続けた愛しい響き。
その声が広場に響いた瞬間、祭服を纏った少女の全身が、弾かれたように大きく硬直した。
「……っ……」
微かに開かれた唇。光のない紅玉の瞳が、ゆっくりとレオの姿を捉える。
耳に届いた声、その独特の甘く温かな響き、そして自分の前で佇む背の高い男の佇まい。記憶の深い底に沈められていたはずの、世界で一番温かかった存在の影が、突如として脳裏を激しく揺さぶった。
「……レオ……様……?」
か細く、掠れた声が、途切れ途切れに零れ落ちる。
胸の奥で、殺したはずの心が熱く痛んだ。自分を呼ぶ声、自分を見つめる新緑色の瞳の温もり。息が詰まるほどの懐かしさと、溢れ出しそうになる感情の波が、アナスタシアの全身を突き動かしかけた。
だが――。
次の瞬間、アナスタシアの瞳に走ったのは歓喜ではなく、恐ろしいほどの混乱と冷たい拒絶だった。
「……っ……ちがう……」
アナスタシアは小さく首を振り、震える足で後ずさった。
「……違う……違います……。……そんな……はずが……ありません……」
「リリィ……?」
拒絶するように距離を取る姿に、レオは愕然として立ち尽くした。伸ばしかけた手が、虚空で寂しく止まる。
アナスタシアは両手を胸の前で固く組み、自分自身に言い聞かせるように、か細い声で言葉を紡ぎ続けた。
「……レオ様は……亡くなられました……。……わたしを……助けようとして……山の中で……亡くなられたのです……。……わたしが……連れ去られたせいで……」
その言葉に含まれる狂気的な諦絶と罪悪感に、レオは深く息を飲んだ。
目の前に本物の自分が立っているにもかかわらず、彼女は目の前にいる男を自分だと認識しようとしない。長によって植えつけられた「レオの死」という惨烈な嘘が、あまりにも深く彼女の心を侵食し、本物の存在すらも幻影や偽物として弾き返してしまうほどに、彼女の精神を破壊していたのだ。
そこへ、動揺から立ち直ったヴェルナの住民たちが、アナスタシアを守るように周囲を取り囲み始めた。
「アナスタシア様! お惑わされになってはいけません!」
「そうです! その者は貴女様を惑わし、この救いの地から俗世へ連れ戻そうとする悪しき者です!」
「貴女様は我らの聖女! 我らをお見捨てにならないでください!」
口々に叫び、すがりつく住民たち。彼らは真実などどうでもよかった。目の前にいる少女が「聖女アナスタシア」としてここに留まり、自分たちに希望を与え続けてくれることだけを望み、本物の救出者を必死で排除しようとしていた。
住民たちの悲痛な叫びを聞きながら、アナスタシアはさらに深く目を伏せ、祭服の豊かな袖の中へそっと手を差し入れた。
そして、ゆっくりと引き出された手の中にあったものを、大切に、壊れ物を扱うかのように両手で抱え込んだ。
「……これ……」
アナスタシアの声は、静かに震えていた。
手の中に収まっていたのは、一つの装飾鍵だった。
かつてレオが腰に下げ、王城の武器庫へと空間を繋いでいたあの鍵。リリィの革鞄が落ちていた現場の近くで拾われ、長によって「死亡の証拠」として突きつけられた、本物の鍵だった。
「……これが……証拠です……。……レオ様が……大切にされていた……鍵です……。……現場に残されていたと……長様から……いただきました……」
アナスタシアはその鍵を胸元へぎゅっと引き寄せ、光のない瞳で、愛おしそうに撫でさすった。
「……レオ様は……もう、おられません……。……この鍵だけが……わたしに遺された……形見なのです……。……だから……あなたが……本物のレオ様であるはずが……ありません……」
自分を救うために死んだのだという激しい自責の念。そして手元に残された本物の形見。その二つが重なり合うことで、アナスタシアの中で「レオは死んだ」という事実は完璧な絶対解と化していた。目の前に立つ温かな存在を本物と認めてしまえば、自らの罪と、これまで受け入れてきた「聖女」としての選択のすべてが崩壊してしまうのだ。
鍵を愛おしそうに抱きしめながら、自分を偽物だと信じ込もうとする健気で凄惨な姿。
それを目の当たりにしたレオの胸に、かつてないほどの激痛と、怒りが吹き荒れた。
長が何を仕掛けたのか。どのような酷悪な嘘で彼女の心を追い詰め、愛する者を失ったという絶望へ突き落としたのか。その全貌が、目の前の鍵ひとつで完璧に理解できた。
レオは一歩、ゆっくりと足を踏み出した。
「アナスタシア様に近づくな!」
住民たちが遮ろうと叫ぶが、レオから放たれた目に見えるほどの冷酷な圧迫感に、誰一人としてそれ以上前へ踏み出せる者はいなかった。
レオは住民たちを一切視界に入れず、ただ一人、震えるアナスタシアだけを見つめ続けた。
「……いいえ、違いますよ、リリィ」
その声には、一切の揺らぎもなかった。
住民たちがどれほど彼女を「アナスタシア」と叫ぼうとも、彼女自身がどれほど自らを「アナスタシア」と偽ろうとも、レオの口からその名が出ることなど、万に一つもあり得なかった。
「私は生きています。貴方を置いて、死ぬはずがないでしょう」
レオは穏やかな微笑みを口元に浮かべた。普段の、優雅で、過保護で、どこまでも温かな、あの軍師としての微笑み。
「貴方がどこへ隠されようとも、どのような嘘で縛られようとも、私は必ず貴方を見つけ出すと決めいていたのですから」
「……っ……あ……」
「覚えていますか、リリィ。王城の庭園で、一緒にお菓子を食べた日のことを。私が少し意地悪をして、貴方が困ったように頬を染めていたあの日のことを」
「……あ……、……つ……」
レオが一歩近づくたびに、語りかけられる思い出の言葉が、アナスタシアの凍りついた心の扉を強く叩く。
「貴方が誇りに思っていた王城郵便隊の鞄。貴方が大切にしていたルミにぃからの手紙。そして、私が貴方を抱きしめた時の、そのぬくもりを」
「……やめて……ください……っ……」
アナスタシアは耳を塞ぐように首を振った。
思い出せば出すほど、胸がはち切れんばかりに痛む。目の前にいる人物が本物であってほしいという、死んだはずの切望が胸の奥底から暴れ出しそうになる。けれど、手の中にある冷たい鍵が「そんなはずはない」と拒絶を促してくる。
「……わたしは……アナスタシアです……。……この方たちを……お救いしなければならない……聖女なのです……。……だから……お願いですから……あくむを見せないで……ください……っ」
涙が、光のない瞳から溢れ出し、白い頬を伝って落ちた。
心が壊れかけている。本物のレオの登場と、植えつけられた絶望の偽りが交差し、アナスタシアの精神は限界まで磨耗していた。
その姿を見つめながら、レオの新緑色の瞳に、静かな決意の色が宿った。
「誰が何と言おうと、貴方は私のリリィです」
レオは決して「アナスタシア」という言葉を認めない。彼女を縛り付ける偽りの仮面を、その言葉ごと完膚なきまでに叩き潰すかのように、何度でも、何度でも、その本名を呼び続けた。
「どれほど心を閉じ込めようとも、どれほど偽りの名を背負わされようとも、私は貴方を奪い返します。……貴方の心を、取り戻してみせます」
レオの手が、ゆっくりと伸ばされる。
集落を包み込む冷たい霧の中で、本物の愛を抱く男と、偽りの絶望に囚われた少女の視線が、痛切に交錯していた。
暗雲が低く立ち込め、湿った冷気が山肌を這う早朝。
ヴェルナの集落を包み込む深い霧を切り裂くように、力強い馬蹄の音が大地を震わせた。長きにわたる沈黙と隠蔽によって守られていた秘境の平穏は、今や完全に打ち砕かれようとしていた。
一度場所さえ判明してしまえば、もはや王国第一王子であり騎士団の統括を務める男の進軍を止める術など、この世界のどこにも存在しない。王城から直ちに派遣された精鋭騎士団を引き連れ、レオは一切の容赦なく険しい山道を踏み破って駆け抜けてきた。不眠不休の連続、雨と泥に塗れた甲冑、荒い息を吐く愛馬。しかし、そのすべてを押し潰すほどに、レオの瞳には恐ろしいまでの冷徹さと、一刻の猶予も許さぬ凄絶な情念が狂おしく渦巻いていた。
「……ここですね」
引き締まった声が、先頭を進む馬上から静かに落とされた。
眼下に広がる小さな集落。痩せた畑と枯れかけた木々、そして静まり返った木造の家々。羊皮紙に記されていた通りの悪悪たる地――ヴェルナ。
レオは馬の手綱を強く握り締め、新緑色の瞳を鋭く細めた。過酷な捜索の果てに辿り着いたその場所を前にしても、微笑みひとつ浮かべることはない。そこにあるのは、自らの最も大切な存在を奪い去り、その心を踏みにじった者たちに対する、静かでありながら底知れない冷酷な殺気だけだった。
「全隊、速やかに集落を包囲しなさい。逃亡経路を遮断し、抵抗する者は即座に制圧を。……ただし、絶対に彼女を傷つけてはなりません」
「はっ!」
騎士たちが一斉に動き出し、迅速かつ無駄のない動きで集落の周囲を固めていく。逃げ道のない完璧な網が敷かれたことを確認すると、レオは馬を降り、ゆっくりとした足取りで集落の中心部へと歩みを進めた。
突然の武力勢力の襲撃に、集落の住民たちは恐怖に怯え、悲鳴を上げながら屋敷の周辺へと逃げ惑っていた。長や若者たちが必死に武器を取り、死守しようと群がり立つが、洗練された王国の精鋭騎士たちの前では、あまりにも無力な抵抗に過ぎなかった。
集落の広場へ続く石畳の上で、騒ぎを聞きつけた長が青ざめた顔で立ち塞がる。
「な、何者だ……! この聖なる地ヴェルナに土足で踏み入るなど、不敬であるぞ……!」
長の手が震え、声を張り上げるが、レオは気圧されることなど一切なく、ただ冷ややかな視線を一瞥だけ投じた。
「不敬、ですか。他国の民を不法に連れ去り、存在しない死亡を偽装して心を騙し取った盗人が、どの口でそれを語るのですか?」
その声はどこまでも穏やかで、優雅でさえあった。しかし、言葉の端々に滲む絶対的な威圧感と冷徹さに、長はそれ以上言葉を続けることができず、ただ後ずさった。
「……私の大切なものを返しに来ていただきます。それだけです」
レオは長を無視し、そのまま広場の中心へと足を向けた。
そこへ、屋敷の重々しい扉が開き、騒然とする人々の間を縫って一つの影が静かに姿を現した。
アイボリーホワイトの聖女祭服。裾に施された金糸と麦穂の細やかな刺繍。胸元で鈍く光を放つ紅玉の紋章、そして額の聖冠から背へと流れる繊細なヴェール。
神聖なる衣装を纏い、一歩一歩静かに歩み出てくる姿。
しかし、そのヴェールの隙間から覗く白銀の髪と、紅玉の瞳には――かつて生き生きとした光を宿していた色合いが、何ひとつとして残っていなかった。
冷たく、果てしなく澄み渡り、ハイライトを完全に失ったガラス玉のような瞳。
「……っ……」
レオの息が止まった。
そこに立っているのは、間違いなく捜し続けていた愛しい少女だった。どれほど姿形を変えられようとも、どれほど遠く離されようとも、一目でわかる自らの魂の片割れ。
だが、その瞳に宿る生気の欠如と、纏う雰囲気に漂う絶望的な異質さが、レオの胸を鋭い刃で貫いた。心を殺され、他人のための張り子へと仕立て上げられた無残な姿。アルヴィーノ譲りの冷徹な思考をもってしても、その凄惨な現実に胸が激しく締め付けられた。
けれど、次の瞬間には、レオの唇から愛おしさに満ちた柔らかな声が溢れ出していた。
「……リリィ」
ずっと呼ぶことを望んでいた名前。夜の静寂の中で、幾度となく呟き続けた愛しい響き。
その声が広場に響いた瞬間、祭服を纏った少女の全身が、弾かれたように大きく硬直した。
「……っ……」
微かに開かれた唇。光のない紅玉の瞳が、ゆっくりとレオの姿を捉える。
耳に届いた声、その独特の甘く温かな響き、そして自分の前で佇む背の高い男の佇まい。記憶の深い底に沈められていたはずの、世界で一番温かかった存在の影が、突如として脳裏を激しく揺さぶった。
「……レオ……様……?」
か細く、掠れた声が、途切れ途切れに零れ落ちる。
胸の奥で、殺したはずの心が熱く痛んだ。自分を呼ぶ声、自分を見つめる新緑色の瞳の温もり。息が詰まるほどの懐かしさと、溢れ出しそうになる感情の波が、アナスタシアの全身を突き動かしかけた。
だが――。
次の瞬間、アナスタシアの瞳に走ったのは歓喜ではなく、恐ろしいほどの混乱と冷たい拒絶だった。
「……っ……ちがう……」
アナスタシアは小さく首を振り、震える足で後ずさった。
「……違う……違います……。……そんな……はずが……ありません……」
「リリィ……?」
拒絶するように距離を取る姿に、レオは愕然として立ち尽くした。伸ばしかけた手が、虚空で寂しく止まる。
アナスタシアは両手を胸の前で固く組み、自分自身に言い聞かせるように、か細い声で言葉を紡ぎ続けた。
「……レオ様は……亡くなられました……。……わたしを……助けようとして……山の中で……亡くなられたのです……。……わたしが……連れ去られたせいで……」
その言葉に含まれる狂気的な諦絶と罪悪感に、レオは深く息を飲んだ。
目の前に本物の自分が立っているにもかかわらず、彼女は目の前にいる男を自分だと認識しようとしない。長によって植えつけられた「レオの死」という惨烈な嘘が、あまりにも深く彼女の心を侵食し、本物の存在すらも幻影や偽物として弾き返してしまうほどに、彼女の精神を破壊していたのだ。
そこへ、動揺から立ち直ったヴェルナの住民たちが、アナスタシアを守るように周囲を取り囲み始めた。
「アナスタシア様! お惑わされになってはいけません!」
「そうです! その者は貴女様を惑わし、この救いの地から俗世へ連れ戻そうとする悪しき者です!」
「貴女様は我らの聖女! 我らをお見捨てにならないでください!」
口々に叫び、すがりつく住民たち。彼らは真実などどうでもよかった。目の前にいる少女が「聖女アナスタシア」としてここに留まり、自分たちに希望を与え続けてくれることだけを望み、本物の救出者を必死で排除しようとしていた。
住民たちの悲痛な叫びを聞きながら、アナスタシアはさらに深く目を伏せ、祭服の豊かな袖の中へそっと手を差し入れた。
そして、ゆっくりと引き出された手の中にあったものを、大切に、壊れ物を扱うかのように両手で抱え込んだ。
「……これ……」
アナスタシアの声は、静かに震えていた。
手の中に収まっていたのは、一つの装飾鍵だった。
かつてレオが腰に下げ、王城の武器庫へと空間を繋いでいたあの鍵。リリィの革鞄が落ちていた現場の近くで拾われ、長によって「死亡の証拠」として突きつけられた、本物の鍵だった。
「……これが……証拠です……。……レオ様が……大切にされていた……鍵です……。……現場に残されていたと……長様から……いただきました……」
アナスタシアはその鍵を胸元へぎゅっと引き寄せ、光のない瞳で、愛おしそうに撫でさすった。
「……レオ様は……もう、おられません……。……この鍵だけが……わたしに遺された……形見なのです……。……だから……あなたが……本物のレオ様であるはずが……ありません……」
自分を救うために死んだのだという激しい自責の念。そして手元に残された本物の形見。その二つが重なり合うことで、アナスタシアの中で「レオは死んだ」という事実は完璧な絶対解と化していた。目の前に立つ温かな存在を本物と認めてしまえば、自らの罪と、これまで受け入れてきた「聖女」としての選択のすべてが崩壊してしまうのだ。
鍵を愛おしそうに抱きしめながら、自分を偽物だと信じ込もうとする健気で凄惨な姿。
それを目の当たりにしたレオの胸に、かつてないほどの激痛と、怒りが吹き荒れた。
長が何を仕掛けたのか。どのような酷悪な嘘で彼女の心を追い詰め、愛する者を失ったという絶望へ突き落としたのか。その全貌が、目の前の鍵ひとつで完璧に理解できた。
レオは一歩、ゆっくりと足を踏み出した。
「アナスタシア様に近づくな!」
住民たちが遮ろうと叫ぶが、レオから放たれた目に見えるほどの冷酷な圧迫感に、誰一人としてそれ以上前へ踏み出せる者はいなかった。
レオは住民たちを一切視界に入れず、ただ一人、震えるアナスタシアだけを見つめ続けた。
「……いいえ、違いますよ、リリィ」
その声には、一切の揺らぎもなかった。
住民たちがどれほど彼女を「アナスタシア」と叫ぼうとも、彼女自身がどれほど自らを「アナスタシア」と偽ろうとも、レオの口からその名が出ることなど、万に一つもあり得なかった。
「私は生きています。貴方を置いて、死ぬはずがないでしょう」
レオは穏やかな微笑みを口元に浮かべた。普段の、優雅で、過保護で、どこまでも温かな、あの軍師としての微笑み。
「貴方がどこへ隠されようとも、どのような嘘で縛られようとも、私は必ず貴方を見つけ出すと決めいていたのですから」
「……っ……あ……」
「覚えていますか、リリィ。王城の庭園で、一緒にお菓子を食べた日のことを。私が少し意地悪をして、貴方が困ったように頬を染めていたあの日のことを」
「……あ……、……つ……」
レオが一歩近づくたびに、語りかけられる思い出の言葉が、アナスタシアの凍りついた心の扉を強く叩く。
「貴方が誇りに思っていた王城郵便隊の鞄。貴方が大切にしていたルミにぃからの手紙。そして、私が貴方を抱きしめた時の、そのぬくもりを」
「……やめて……ください……っ……」
アナスタシアは耳を塞ぐように首を振った。
思い出せば出すほど、胸がはち切れんばかりに痛む。目の前にいる人物が本物であってほしいという、死んだはずの切望が胸の奥底から暴れ出しそうになる。けれど、手の中にある冷たい鍵が「そんなはずはない」と拒絶を促してくる。
「……わたしは……アナスタシアです……。……この方たちを……お救いしなければならない……聖女なのです……。……だから……お願いですから……あくむを見せないで……ください……っ」
涙が、光のない瞳から溢れ出し、白い頬を伝って落ちた。
心が壊れかけている。本物のレオの登場と、植えつけられた絶望の偽りが交差し、アナスタシアの精神は限界まで磨耗していた。
その姿を見つめながら、レオの新緑色の瞳に、静かな決意の色が宿った。
「誰が何と言おうと、貴方は私のリリィです」
レオは決して「アナスタシア」という言葉を認めない。彼女を縛り付ける偽りの仮面を、その言葉ごと完膚なきまでに叩き潰すかのように、何度でも、何度でも、その本名を呼び続けた。
「どれほど心を閉じ込めようとも、どれほど偽りの名を背負わされようとも、私は貴方を奪い返します。……貴方の心を、取り戻してみせます」
レオの手が、ゆっくりと伸ばされる。
集落を包み込む冷たい霧の中で、本物の愛を抱く男と、偽りの絶望に囚われた少女の視線が、痛切に交錯していた。