【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編14】
深夜の静寂がヴェルナを深く覆う中、マリアは一人、震える手で一羽の使い鳥を抱きかかえていた。
部屋の灯りを極限まで落とし、長や他の住民に見つからぬよう息を潜める。広場で繰り広げられた熱狂的な儀式、そして何より、あの光のない瞳で静かに微笑んだ少女の姿が、マリアの心脳を休む間もなく焼き続けていた。
「私はアナスタシアです、マリア」
静かで、あまりにも穏やかだったあの拒絶。
かつて必死になって「私はリリィです」と涙を流していた少女は、もうどこにもいない。自分たちが救いを求めるあまり、一人の温かな人間の心を切り刻み、自ら進んで神聖な偶像を演じる怪物へと変貌させてしまったのだ。
胸を突く激しい後悔と自責の念が、マリアの息の根を止めんばかりに締め付ける。
(……私が……私がすべてを始めてしまった……)
暗闇の中で、マリアは過去の記憶を脳裏に手繰り寄せていた。
ヴェルナに伝わる古くからの伝承。集落が滅びの淵に立つとき、白銀の髪と紅玉の瞳を持つ聖女アナスタシアが帰還する。聖女は民の嘆きに耳を傾け、その言葉によって人々に希望を取り戻し、ヴェルナを再び豊穣へと導く――。
不作と病魔に苦しまされ、民が次々と行き倒れていく絶望の日々の中で、マリアはその奇跡の伝承を誰よりも深く信じ、縋りついていた。
そしてあの日、王城外郭の街道付近へ密かに山を下りていたマリアは、偶然にも一人の少女を目撃したのだ。
風に揺れる美しい白銀の髪、そして夕陽を受けて眩しく輝く鮮烈な紅玉の瞳。その美しい容貌を目にした瞬間、マリアの全身に雷が打たれたような衝撃が走った。伝承に記された姿と、完璧なまでに一致していたからだ。
マリアは胸を高鳴らせ、息を殺して少女の行動を何度も観察した。
周囲の人々に優しく微笑みかけ、荷物を運び、心温まる言葉をかけて街を歩くその姿。彼女が通り過ぎるだけで、周りの人々が笑顔になり、その場が温かな光に包まれるような錯覚すら覚えた。
間違いない。このお方こそが、我らヴェルナを救うために遣わされた伝承の聖女アナスタシア様なのだと、マリアは狂喜とともに確信した。
集落へ戻ったマリアは、すぐに長へとその事実を報告した。長もまた民の絶望を打開すべく、マリアの言葉を信じて極秘裏に拉致の計画を立て、あの暴挙へと及んだのだ。
だが、現実はどうだったか。
連れてこられた少女は、聖女などではなく、ただの「リリィ」という心優しい一人の人間に過ぎなかった。彼女には奇跡を起こす魔法も、大地を即座に蘇らせる神力もなかった。
それにもかかわらず、自分たちは彼女の悲痛な訴えを無視し続けた。長は巧妙な嘘で彼女の希望を砕き、命よりも大切にしていた愛する人の死を偽装して、彼女の心を完全に破壊した。
自分たちが求めた「聖女」の誕生の裏には、一人の少女の血の滲むような絶望と、生きたまま殺された魂の叫びが存在していたのだ。
「……申し訳ございません……リリィ様……っ……」
マリアは溢れ出る涙を拭おうともせず、小さな羊皮紙の切れ端に、震える手で文字を書き走らせた。
これは、長や集落の者たちに対する明らかな裏切りだった。もしこれが発覚すれば、マリアは集落を打ち捨てる裏切り者として厳しく処罰されるだろう。だが、たとえどのような凄惨な報いが待っていようとも、この恐ろしい罪を抱えたまま生き続けることなど、到底不可能だった。
羊皮紙には、隠されていたすべての真実が包み隠さず刻み込まれた。
リリィ様は生きているということ。
この深い山奥にあるヴェルナという隠れ集落に囚われているということ。
ここでは「聖女アナスタシア」と呼ばれ、民の偶像とされていること。
長の手によってレオ殿下が道中で戦死されたという悲惨な偽りの報せを信じ込まされていること。
そして――愛する人を自らのせいで失ったという深い罪悪感と喪失の果てに、彼女自身が「アナスタシア」としてこの集落に残る決意を固めてしまったということ。
「……届いて……頼むから、届いてください……!」
マリアは羊皮紙を小さく丸め、使い鳥の足の筒へと慎重に押し込んだ。
この鳥が、追手や山の過酷な気候をかいくぐり、無事にレイストール王国の領域へ辿り着ける保障などどこにもない。しかし、これがマリアに遺された唯一の贖罪であり、リリィという少女の魂を救い出すための最初で最後の手立てだった。
マリアは窓を細く開け、夜風が吹き込む闇の中へ、祈りを込めて鳥を放ち開いた。
使い鳥は羽音を静かに響かせ、漆黒の夜空へと溶け込むように飛び去っていった。
遠く去りゆく影を見つめながら、マリアは深く膝をつき、二度と戻らないかもしれない希望に向かって必死に祈りを捧げ続けた。
その頃、レイストール王国の外郭領地。
冷たい雨が泥を跳ね上げる街道の真ん中で、レオは馬を止め、荒い息を吐き出していた。
不眠不休の捜索はすでに限度を超えていた。精鋭の騎士たちも疲労困憊で顔を伏せる中、レオだけが凄惨なまでに鋭い眼光を崩さず、雨に濡れた地図と街道の先を睨みつけていた。
だが、どれほど自らの足を動かし、知性を絞り尽くそうとも、手掛かりは完全に途絶えていた。まるで広大な世界のどこにも、リリィという存在の痕跡が存在しないかのように。
「……くそ……っ……!」
レオは拳を固く握り締め、馬の鞍に力任せに打ち付けた。
自分の腰元から消えた重要な鍵。リリィの革鞄が残されていたあの現場。すべてのピースは揃っているはずなのに、どうしても最後の「答え」へと繋がらない。自らの無力さと焦燥が、胸の奥で恐ろしい炎となって渦巻いていた。
その時だった。
上空から、雨風に弄ばれながら必死に羽ばたく一羽の鳥が、レオの陣営に向かって一直線に降下してきたのは。
「殿下、使い鳥です! どこかから極秘の伝令が……!」
騎士の一人が叫び、鳥を保護する。その足に付けられた筒から小さな羊皮紙を取り出し、濡れないよう慎重にレオへと手渡した。
レオは冷え切った指先で羊皮紙を開いた。そこには、乱れた筆跡で、けれど明確な意図をもって書かれた文章が並んでいた。
目を通した瞬間、レオの新緑色の瞳が恐ろしいほど大きく見開かれた。
『ヴェルナ』
これまで王国全土のどの地図にも、騎士団のどのような記録にも存在しなかった、秘境の集落の名。
そこにリリィが生きて存在していること。
「アナスタシア」として崇められ、自らが死んだという惨烈な嘘を信じ込まされ、絶望の果てに帰る場所を失っているということ。
「……ヴェルナ……。……ヴェルナだと……!?」
レオの喉から、絶叫に近い掠れた声が漏れ出た。
全身の血が激しく逆流し、脳裏を支配していた霧が一瞬にして晴れていく。
死んだと信じ込まされ、一人で絶望の底に沈んでいるリリィの姿。自分を待つのを諦め、心を殺して他人のための偶像になろうとしている愛しい少女の孤独。
「……生きて……いる……。リリィは……そこに……!」
レオは羊皮紙を握り潰すほどの力で握り締めると、激しい狂気と愛執を帯びた眼差しで、深く暗い山々の彼方を見据えた。
「全軍……方向転換! 目標、ヴェルナの集落! 今すぐ出撃する……!」
レオの咆哮のような命令が、打ち付ける雨音を切り裂いて街道に響き渡った。
真実へと続く唯一の道筋がついに開かれた。愛する者を奪い去り、その心を踏みにじった者たちへの冷徹な怒りを胸に秘め、レオは漆黒の闇の中へ向かって、猛然と馬を走らせ始めた。
深夜の静寂がヴェルナを深く覆う中、マリアは一人、震える手で一羽の使い鳥を抱きかかえていた。
部屋の灯りを極限まで落とし、長や他の住民に見つからぬよう息を潜める。広場で繰り広げられた熱狂的な儀式、そして何より、あの光のない瞳で静かに微笑んだ少女の姿が、マリアの心脳を休む間もなく焼き続けていた。
「私はアナスタシアです、マリア」
静かで、あまりにも穏やかだったあの拒絶。
かつて必死になって「私はリリィです」と涙を流していた少女は、もうどこにもいない。自分たちが救いを求めるあまり、一人の温かな人間の心を切り刻み、自ら進んで神聖な偶像を演じる怪物へと変貌させてしまったのだ。
胸を突く激しい後悔と自責の念が、マリアの息の根を止めんばかりに締め付ける。
(……私が……私がすべてを始めてしまった……)
暗闇の中で、マリアは過去の記憶を脳裏に手繰り寄せていた。
ヴェルナに伝わる古くからの伝承。集落が滅びの淵に立つとき、白銀の髪と紅玉の瞳を持つ聖女アナスタシアが帰還する。聖女は民の嘆きに耳を傾け、その言葉によって人々に希望を取り戻し、ヴェルナを再び豊穣へと導く――。
不作と病魔に苦しまされ、民が次々と行き倒れていく絶望の日々の中で、マリアはその奇跡の伝承を誰よりも深く信じ、縋りついていた。
そしてあの日、王城外郭の街道付近へ密かに山を下りていたマリアは、偶然にも一人の少女を目撃したのだ。
風に揺れる美しい白銀の髪、そして夕陽を受けて眩しく輝く鮮烈な紅玉の瞳。その美しい容貌を目にした瞬間、マリアの全身に雷が打たれたような衝撃が走った。伝承に記された姿と、完璧なまでに一致していたからだ。
マリアは胸を高鳴らせ、息を殺して少女の行動を何度も観察した。
周囲の人々に優しく微笑みかけ、荷物を運び、心温まる言葉をかけて街を歩くその姿。彼女が通り過ぎるだけで、周りの人々が笑顔になり、その場が温かな光に包まれるような錯覚すら覚えた。
間違いない。このお方こそが、我らヴェルナを救うために遣わされた伝承の聖女アナスタシア様なのだと、マリアは狂喜とともに確信した。
集落へ戻ったマリアは、すぐに長へとその事実を報告した。長もまた民の絶望を打開すべく、マリアの言葉を信じて極秘裏に拉致の計画を立て、あの暴挙へと及んだのだ。
だが、現実はどうだったか。
連れてこられた少女は、聖女などではなく、ただの「リリィ」という心優しい一人の人間に過ぎなかった。彼女には奇跡を起こす魔法も、大地を即座に蘇らせる神力もなかった。
それにもかかわらず、自分たちは彼女の悲痛な訴えを無視し続けた。長は巧妙な嘘で彼女の希望を砕き、命よりも大切にしていた愛する人の死を偽装して、彼女の心を完全に破壊した。
自分たちが求めた「聖女」の誕生の裏には、一人の少女の血の滲むような絶望と、生きたまま殺された魂の叫びが存在していたのだ。
「……申し訳ございません……リリィ様……っ……」
マリアは溢れ出る涙を拭おうともせず、小さな羊皮紙の切れ端に、震える手で文字を書き走らせた。
これは、長や集落の者たちに対する明らかな裏切りだった。もしこれが発覚すれば、マリアは集落を打ち捨てる裏切り者として厳しく処罰されるだろう。だが、たとえどのような凄惨な報いが待っていようとも、この恐ろしい罪を抱えたまま生き続けることなど、到底不可能だった。
羊皮紙には、隠されていたすべての真実が包み隠さず刻み込まれた。
リリィ様は生きているということ。
この深い山奥にあるヴェルナという隠れ集落に囚われているということ。
ここでは「聖女アナスタシア」と呼ばれ、民の偶像とされていること。
長の手によってレオ殿下が道中で戦死されたという悲惨な偽りの報せを信じ込まされていること。
そして――愛する人を自らのせいで失ったという深い罪悪感と喪失の果てに、彼女自身が「アナスタシア」としてこの集落に残る決意を固めてしまったということ。
「……届いて……頼むから、届いてください……!」
マリアは羊皮紙を小さく丸め、使い鳥の足の筒へと慎重に押し込んだ。
この鳥が、追手や山の過酷な気候をかいくぐり、無事にレイストール王国の領域へ辿り着ける保障などどこにもない。しかし、これがマリアに遺された唯一の贖罪であり、リリィという少女の魂を救い出すための最初で最後の手立てだった。
マリアは窓を細く開け、夜風が吹き込む闇の中へ、祈りを込めて鳥を放ち開いた。
使い鳥は羽音を静かに響かせ、漆黒の夜空へと溶け込むように飛び去っていった。
遠く去りゆく影を見つめながら、マリアは深く膝をつき、二度と戻らないかもしれない希望に向かって必死に祈りを捧げ続けた。
その頃、レイストール王国の外郭領地。
冷たい雨が泥を跳ね上げる街道の真ん中で、レオは馬を止め、荒い息を吐き出していた。
不眠不休の捜索はすでに限度を超えていた。精鋭の騎士たちも疲労困憊で顔を伏せる中、レオだけが凄惨なまでに鋭い眼光を崩さず、雨に濡れた地図と街道の先を睨みつけていた。
だが、どれほど自らの足を動かし、知性を絞り尽くそうとも、手掛かりは完全に途絶えていた。まるで広大な世界のどこにも、リリィという存在の痕跡が存在しないかのように。
「……くそ……っ……!」
レオは拳を固く握り締め、馬の鞍に力任せに打ち付けた。
自分の腰元から消えた重要な鍵。リリィの革鞄が残されていたあの現場。すべてのピースは揃っているはずなのに、どうしても最後の「答え」へと繋がらない。自らの無力さと焦燥が、胸の奥で恐ろしい炎となって渦巻いていた。
その時だった。
上空から、雨風に弄ばれながら必死に羽ばたく一羽の鳥が、レオの陣営に向かって一直線に降下してきたのは。
「殿下、使い鳥です! どこかから極秘の伝令が……!」
騎士の一人が叫び、鳥を保護する。その足に付けられた筒から小さな羊皮紙を取り出し、濡れないよう慎重にレオへと手渡した。
レオは冷え切った指先で羊皮紙を開いた。そこには、乱れた筆跡で、けれど明確な意図をもって書かれた文章が並んでいた。
目を通した瞬間、レオの新緑色の瞳が恐ろしいほど大きく見開かれた。
『ヴェルナ』
これまで王国全土のどの地図にも、騎士団のどのような記録にも存在しなかった、秘境の集落の名。
そこにリリィが生きて存在していること。
「アナスタシア」として崇められ、自らが死んだという惨烈な嘘を信じ込まされ、絶望の果てに帰る場所を失っているということ。
「……ヴェルナ……。……ヴェルナだと……!?」
レオの喉から、絶叫に近い掠れた声が漏れ出た。
全身の血が激しく逆流し、脳裏を支配していた霧が一瞬にして晴れていく。
死んだと信じ込まされ、一人で絶望の底に沈んでいるリリィの姿。自分を待つのを諦め、心を殺して他人のための偶像になろうとしている愛しい少女の孤独。
「……生きて……いる……。リリィは……そこに……!」
レオは羊皮紙を握り潰すほどの力で握り締めると、激しい狂気と愛執を帯びた眼差しで、深く暗い山々の彼方を見据えた。
「全軍……方向転換! 目標、ヴェルナの集落! 今すぐ出撃する……!」
レオの咆哮のような命令が、打ち付ける雨音を切り裂いて街道に響き渡った。
真実へと続く唯一の道筋がついに開かれた。愛する者を奪い去り、その心を踏みにじった者たちへの冷徹な怒りを胸に秘め、レオは漆黒の闇の中へ向かって、猛然と馬を走らせ始めた。