【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編13】
広場での儀式が終わり、熱狂的な歓声に包まれていた集落に夕闇が迫っていた。
山間から吹き下ろす冷たい風が、屋敷の重厚な木製扉をカタカタと揺らしている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った部屋の中で、アナスタシアは窓辺の椅子に静かに腰掛けていた。
その姿は、まるで精巧に作られた美しい絵画のようだった。
アイボリーホワイトの聖女祭服の裾は整然と床に広がり、胸元で光る紅玉の紋章が、落ちていく陽光を受けて鈍い赤の輝きを放っている。頭上に載せられた聖冠と、背へと流れる繊細なヴェール。白銀の髪と真っ白な衣のコントラストは、この世の者とは思えぬほど神聖であり、同時に恐ろしいほどの浮世離れした冷たさを漂わせていた。
祭服の豊かな袖の中には、今もなお冷たい金属の鍵が大切に抱え込まれている。
だが、かつてその鍵に触れるたびに流されていた涙は、すでに枯れ果てていた。
扉が静かに開き、マリアが室内へ足を踏み入れた。
手には、夕食のための温かなスープと、山で採れた小さな木の実が盛られた器が載せられている。

「……お食事をお持ちいたしました」

マリアの声は小さく、微かに震えていた。
広場でのあの出来事以来、マリアの胸を苛んでいた苦痛と罪悪感は、すでに限界に達していた。集落の民が涙を流して歓喜し、長が満足げに笑みを浮かべていたあの瞬間から、マリアの心だけが冷酷な現実の底へ置き去りにされていたのだ。
マリアは器を静かにテーブルの上に置くと、ゆっくりと椅子に近づいた。
アナスタシアは微動だにせず、ただ光のない紅玉の瞳で、窓の外の暮れなずむ山並みを見つめ続けている。
その瞳には、もはや感情の揺らぎすら存在しなかった。かつて見知らぬ大人を怖がり、人見知りに肩をすくめていた怯えも、大切な仲間を想って涙を浮かべた優しさも、そして何より、愛する人の名を呼ぶたびに爛々と輝いていた熱い光も――そのすべてが綺麗に削ぎ落とされていた。
そこにいるのは、ただ民の祈りを受け止めるためだけに存在する、空洞の「聖女」だった。
マリアの胸の奥で、何かが悲鳴を上げた。耐えきれない自責の念が喉を焼き、抑え込んでいた言葉が溢れ出しそうになる。
二人生きているこの静寂の室内で、誰も二人を邪魔する者はいない。長も、集落の民もここにはいないのだ。
マリアは床に両膝をつき、縋るようにしてアナスタシアの指先に手を伸ばした。

「……っ……、……リリィ様……」

絞り出すような、切痛な呼びかけだった。
それは、かつてこの部屋で、自分の言葉を最後まで伝えることができずに泣いていた一人の少女の名だった。甘い木の実が好きで、王城郵便隊の仕事を誇りに思い、ルインを心配し、そしてレオという男性を心から愛していた、血の通った少女の名前。
マリアは、その名で呼ぶことで、あの温かかった彼女が戻ってきてくれるのではないかと、惨めな望みを抱いてしまったのだ。

「……リリィ様……お願いです、……お顔を上げてください……。私です……マリアです……」

涙がマリアの頬を伝い、床へぽたぽたと落ちていく。

「こんな……こんなこと、間違っています……! 貴女様は……本当は……っ」

マリアの慟哭にも似た訴え。
しかし、呼びかけられた人物は、ゆっくりと首を傾げると、優しく、どこまでも穏やかな眼差しをマリアへと向けた。
ハイライトの消えた紅玉の瞳が、静かにマリアの姿を映し出す。そこには一切の怒りも、悲しみも、責めるような色すら存在しなかった。
そして、かつてか細く震えていた唇が、滑らかに開かれた。

「……私はアナスタシアです、マリア」
「……あ……」

マリアは息を飲んだ。
静かで、温かく、けれど完璧に澄み渡った拒絶の声。

「私はアナスタシアです。このヴェルナの民を救い、皆様の祈りに応えるための聖女です。……ですから、もうそのように呼ばないでくださいね」

アナスタシアは、まるで聞き分けのない子供を宥める母親のように、穏やかに微笑んで見せた。
その笑みには、微かな歪みも、偽りも存在しなかった。完璧に「聖女アナスタシア」としての役割を受け入れ、自らの心と「リリィ」という存在を完全に死滅させた者だけが浮かべられる、美しくも絶望的な笑顔だった。
マリアの全身から、血の気が引いていった。
かつて、この部屋で何度も、何度も繰り返されていた光景が、脳裏に劇的な反転を伴って蘇る。

――わたしは、アナスタシアではありません。

――リリィと申します。

――特別な力なんて、持っていません。

――レイストールへ帰してください。

――レオ様が、心配されています。

かつて、必死に自らの名前を叫び、自分の存在を主張していたのはリリィの方だった。そして、それを「謙遜」や「混乱」という言葉で塗り潰し、「アナスタシア様」と呼び続けて拒絶していたのは、マリアたちヴェルナの住民だったのだ。

それが今、完全に逆転していた。

マリアが必死になって「リリィ様」と呼びかけ、彼女の本当の存在を確かめようとしているのに、当の本人自身が自らを「アナスタシア」と定義し、静かにそれを拒絶している。

「……あ……ああ……っ」

マリアは口元を両手で覆い、その場に崩れ落ちた。
自分たちが、一体何をしてしまったのか。その凄惨な事実の全貌が、冷酷な津波となってマリアの頭脳を叩き割った。
自分たちは、暴力を振るわなかった。怪我をさせることもなかった。上質な服を与え、良い食事を差し出し、心から彼女を敬い、大切に扱ってきたつもりだった。

だが、その実態は違った。

彼女の悲痛な叫びに耳を塞ぎ、彼女の愛する人を死んだと信じ込ませ、彼女の退路と希望をすべて絶ち切ることで、彼女の魂を殺したのだ。血を流させずに、生きながらにして「リリィ」という一人の女性を惨殺したのだ。
目の前にいるのは、身体だけが動き、慈愛の言葉を吐き出す、自分たちが作り上げた哀しい人形だった。

「……どうされたのですか、マリア。身体の具合でも悪いのですか……?」

アナスタシアは、崩れ落ちて泣きじゃくるマリアを案じるように、そっと手を伸ばした。
祭服の袖から覗く白く細い手が、マリアの震える肩に優しく触れる。その手はどこまでも温かかった。けれど、その温もりこそが、マリアにとっては何よりの拷問だった。

「……申し訳……ございません……っ……! 申し訳ございません……アナスタシア様……っ! 申し訳……ございません……!」

マリアは床に額を擦り付け、謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。
「リリィ」を殺した罪を、どれほど詫びようとも、もう二度とあの愛らしい少女が戻ってくることはないのだという絶望。自分が犯した取り返しのつかない過ちの重さに、マリアは声を出して泣き叫んだ。
アナスタシアは、そんなマリアの背中を、光のない瞳で見つめながら、静かに、優しく撫で続けた。

「……謝る必要など、何もありませんよ、マリア。私はここにいます。皆様の側に、ずっといますから……」

窓の外では、完全に陽が落ち、漆黒の夜が集落を深く飲み込んでいた。
絶望の果てに誕生した聖女は、自らを殺した人々の悲鳴のような泣き声に包まれながら、冷たい夜の静寂の中へと、ただ静かに佇んでいた。
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