【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編11】
絶望の深淵は、音もなくリリィの心を塗り潰していった。
長が部屋を去り、冷え切った室内には深い静寂だけが取り残されていた。リリィは床に膝をついたまま、指先に残る鍵の感触を確かめるように、小さく体を震わせていた。
「……あ……、……レオ様……」
胸の奥から押し寄せる破滅的な喪失感が、思考のすべてを麻痺させていく。
自分がこの見知らぬ地に連れてこられてから今日まで、心の拠り所にしていたのはたった一つの希望だった。レオが生きているということ。寝る間も惜しんで自分を探してくれているということ。そして、必ずこの手を取って温かな場所へ連れ帰ってくれるということ。その絶対的な確信だけが、リリィの足元を支える唯一の基盤だった。
その希望が、今、完全に打ち砕かれた。
手の中に残された、見慣れた装飾鍵。レオが肌身離さず身につけていた大切な品が、血と泥に塗れた現場に残されていたという事実。それが何を意味するのか、どれほど現実を拒絶しようとも、残酷な確信となって胸を刺し貫いてくる。
「……わたしが……」
ポツリと、途切れ途切れの声が漏れた。涙が溢れ出し、膝の上に広がる白いドレスの布地を濃い影で染めていく。
「……わたしが……連れ去られなければ……。……わたしが、もっと……強かったら……」
激しい罪悪感が、暗い波となってリリィの心を呑み込んでいく。
レオが命を落としたのは、自分を救おうとしたからだ。過保護なまでに自分を愛し、失われた自分を取り戻すために不眠不休で山々を駆け巡り、捜索の旅に出たからこそ、罠に落ち、命を落とすことになってしまったのだ。
自分が無力で、大人しく捕まってしまったから。自分が弱く、レオの手を煩わせてしまったから。
「……わたしが、……レオ様を……殺してしまった……」
自責の念が、胸を深く抉る。自分が存在しなければ、レオは今も王城で穏やかな微笑みを浮かべ、軍士として、第一王子として、誇り高く生きていたはずなのだ。自分の存在そのものが、最愛の人の命を奪う引き金になってしまったという恐怖が、リリィの心を底なしの暗闇へ突き落とした。
部屋の扉が静かに開き、マリアが入ってきた。
マリアの目にも、溢れんばかりの涙が溜まっていた。長から「レオ殿下の訃報」を聞かされ、目の前で崩れ落ちるリリィの姿を見て、彼女もまた胸を締め付けられていた。
「……リリィ様……」
マリアは床にひざまずき、震えるリリィの肩をそっと抱きしめた。
「……マリア、さん……。……レオ様が……レオ様が……っ……」
「はい……はい、リリィ様……。どうか……どうか、お一人で悲しまないでください……」
マリアの声も震えていた。マリアにとって、目の前の少女はすでに「伝承の聖女アナスタシア」などではなく、愛する人を失って胸を痛める一人の心優しい少女「リリィ」だった。だが、集落全体の悲願と、滅びゆく村の運命を背負うマリアには、彼女をただ悲しみに沈ませておくこともできなかった。
「……申し訳ございません……。私たちが貴女様をお連れしたばかりに、そのような凄惨なことが……。ですが、リリィ様……」
マリアは胸元で固く手を握り締め、涙を流しながら訴えた。
「……ここには、我が集落には、貴女様を必要としている人々がおります……。貴女様がかけてくださった言葉に救われ、明日を生きようとすがりついている民が、大勢いるのです……」
屋敷の外からは、静かなざわめきが聞こえていた。
レオの捜索隊の悲劇と、悲しみに暮れる聖女の噂は、長の手によって瞬く間に集落全体へ広められていた。外には、痩せこけた住民たちが集まり、屋敷に向かって静かにひざまずき、祈りを捧げていた。
「どうか……どうかお一人で抱え込まないでください……」
「我らがおります……! 我らヴェルナの民が、貴女様のおそばにおります……!」
「聖女様……! どうか、我らをお捨てにならないでください……! 我らには貴女様が必要なのです……!」
悲痛で、切実な、民の叫び。
彼らはリリィを苦しめようとしているわけではない。ただ、滅びかけた命を繋ぎ止めるために、唯一の希望であるリリィに縋りついているのだ。その純粋で重い祈りが、風に乗って部屋の中まで届いてくる。
リリィは、ぼんやりとした視線で窓の外を見つめた。
レイストール。
あの温かな城。陽光が差し込む回廊。ルインと一緒に歩いた道。アルフレッドやアルヴィーノたちの優しい眼差し。
けれどそこへ帰ったところで、もうレオはいないのだ。
自分を抱きしめてくれた温かな腕も、優しく名前を呼んでくれた声も、すべては永遠に失われてしまった。自分が帰るべき「場所」そのものが、この世界から消え去ってしまったのだ。
(……レオ様は……もう、いない……)
胸にぽっかりと開いた巨大な空洞。そこを埋めるものは何もなかった。
だが、この悲惨で寂れたヴェルナの地には、自分を必要とし、自分の些細な言葉や存在に救いを見出している人々がいる。自分という存在がここに留まることで、飢えと病に苦しむ人々が少しでも救われ、生きていけるのであれば――。
(……わたしが、罪を償わなければ……)
レオの命を奪う原因となった自分。その罪深き命が残されているとするならば、それを必要としてくれる人々のために捧げることこそが、自分に遺された唯一の道なのではないか。
「……分かり、ました……」
か細い、けれど死んだように静かな声が、リリィの唇から零れた。
「……リリィ様……?」
マリアが目を見開いて見上げる。
リリィは涙で濡れた顔を上げ、静かに手の中の鍵を見つめた。かつて自分を愛してくれた人の形見を、固く、固く握り締める。
「……わたしは……ここに、残ります……。……皆さんの……お側に……」
その赤い瞳から、かつて宿っていた瑞々しい光が失われ、冷たい諦絶の色が落ちていた。
愛する人を失い、帰る場所を失った少女は、自らの意思で「聖女アナスタシア」という重い仮面を受け入れる決意を固めた。
外から湧き上がる民の歓喜と感謝の泣き声を聞きながら、リリィは閉ざされた暗闇の中へ、静かに身を沈めていった。
絶望の深淵は、音もなくリリィの心を塗り潰していった。
長が部屋を去り、冷え切った室内には深い静寂だけが取り残されていた。リリィは床に膝をついたまま、指先に残る鍵の感触を確かめるように、小さく体を震わせていた。
「……あ……、……レオ様……」
胸の奥から押し寄せる破滅的な喪失感が、思考のすべてを麻痺させていく。
自分がこの見知らぬ地に連れてこられてから今日まで、心の拠り所にしていたのはたった一つの希望だった。レオが生きているということ。寝る間も惜しんで自分を探してくれているということ。そして、必ずこの手を取って温かな場所へ連れ帰ってくれるということ。その絶対的な確信だけが、リリィの足元を支える唯一の基盤だった。
その希望が、今、完全に打ち砕かれた。
手の中に残された、見慣れた装飾鍵。レオが肌身離さず身につけていた大切な品が、血と泥に塗れた現場に残されていたという事実。それが何を意味するのか、どれほど現実を拒絶しようとも、残酷な確信となって胸を刺し貫いてくる。
「……わたしが……」
ポツリと、途切れ途切れの声が漏れた。涙が溢れ出し、膝の上に広がる白いドレスの布地を濃い影で染めていく。
「……わたしが……連れ去られなければ……。……わたしが、もっと……強かったら……」
激しい罪悪感が、暗い波となってリリィの心を呑み込んでいく。
レオが命を落としたのは、自分を救おうとしたからだ。過保護なまでに自分を愛し、失われた自分を取り戻すために不眠不休で山々を駆け巡り、捜索の旅に出たからこそ、罠に落ち、命を落とすことになってしまったのだ。
自分が無力で、大人しく捕まってしまったから。自分が弱く、レオの手を煩わせてしまったから。
「……わたしが、……レオ様を……殺してしまった……」
自責の念が、胸を深く抉る。自分が存在しなければ、レオは今も王城で穏やかな微笑みを浮かべ、軍士として、第一王子として、誇り高く生きていたはずなのだ。自分の存在そのものが、最愛の人の命を奪う引き金になってしまったという恐怖が、リリィの心を底なしの暗闇へ突き落とした。
部屋の扉が静かに開き、マリアが入ってきた。
マリアの目にも、溢れんばかりの涙が溜まっていた。長から「レオ殿下の訃報」を聞かされ、目の前で崩れ落ちるリリィの姿を見て、彼女もまた胸を締め付けられていた。
「……リリィ様……」
マリアは床にひざまずき、震えるリリィの肩をそっと抱きしめた。
「……マリア、さん……。……レオ様が……レオ様が……っ……」
「はい……はい、リリィ様……。どうか……どうか、お一人で悲しまないでください……」
マリアの声も震えていた。マリアにとって、目の前の少女はすでに「伝承の聖女アナスタシア」などではなく、愛する人を失って胸を痛める一人の心優しい少女「リリィ」だった。だが、集落全体の悲願と、滅びゆく村の運命を背負うマリアには、彼女をただ悲しみに沈ませておくこともできなかった。
「……申し訳ございません……。私たちが貴女様をお連れしたばかりに、そのような凄惨なことが……。ですが、リリィ様……」
マリアは胸元で固く手を握り締め、涙を流しながら訴えた。
「……ここには、我が集落には、貴女様を必要としている人々がおります……。貴女様がかけてくださった言葉に救われ、明日を生きようとすがりついている民が、大勢いるのです……」
屋敷の外からは、静かなざわめきが聞こえていた。
レオの捜索隊の悲劇と、悲しみに暮れる聖女の噂は、長の手によって瞬く間に集落全体へ広められていた。外には、痩せこけた住民たちが集まり、屋敷に向かって静かにひざまずき、祈りを捧げていた。
「どうか……どうかお一人で抱え込まないでください……」
「我らがおります……! 我らヴェルナの民が、貴女様のおそばにおります……!」
「聖女様……! どうか、我らをお捨てにならないでください……! 我らには貴女様が必要なのです……!」
悲痛で、切実な、民の叫び。
彼らはリリィを苦しめようとしているわけではない。ただ、滅びかけた命を繋ぎ止めるために、唯一の希望であるリリィに縋りついているのだ。その純粋で重い祈りが、風に乗って部屋の中まで届いてくる。
リリィは、ぼんやりとした視線で窓の外を見つめた。
レイストール。
あの温かな城。陽光が差し込む回廊。ルインと一緒に歩いた道。アルフレッドやアルヴィーノたちの優しい眼差し。
けれどそこへ帰ったところで、もうレオはいないのだ。
自分を抱きしめてくれた温かな腕も、優しく名前を呼んでくれた声も、すべては永遠に失われてしまった。自分が帰るべき「場所」そのものが、この世界から消え去ってしまったのだ。
(……レオ様は……もう、いない……)
胸にぽっかりと開いた巨大な空洞。そこを埋めるものは何もなかった。
だが、この悲惨で寂れたヴェルナの地には、自分を必要とし、自分の些細な言葉や存在に救いを見出している人々がいる。自分という存在がここに留まることで、飢えと病に苦しむ人々が少しでも救われ、生きていけるのであれば――。
(……わたしが、罪を償わなければ……)
レオの命を奪う原因となった自分。その罪深き命が残されているとするならば、それを必要としてくれる人々のために捧げることこそが、自分に遺された唯一の道なのではないか。
「……分かり、ました……」
か細い、けれど死んだように静かな声が、リリィの唇から零れた。
「……リリィ様……?」
マリアが目を見開いて見上げる。
リリィは涙で濡れた顔を上げ、静かに手の中の鍵を見つめた。かつて自分を愛してくれた人の形見を、固く、固く握り締める。
「……わたしは……ここに、残ります……。……皆さんの……お側に……」
その赤い瞳から、かつて宿っていた瑞々しい光が失われ、冷たい諦絶の色が落ちていた。
愛する人を失い、帰る場所を失った少女は、自らの意思で「聖女アナスタシア」という重い仮面を受け入れる決意を固めた。
外から湧き上がる民の歓喜と感謝の泣き声を聞きながら、リリィは閉ざされた暗闇の中へ、静かに身を沈めていった。