【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編10】
集落を囲む山々に、湿った冷たい風が吹き荒れる日だった。
長は一人、自室の机に向かい、古びた革袋の中から一つの装飾鍵を取り出した。
金属の静かな光沢を放つその鍵は、かつて長が集落の若者を率いて城外の街道付近を密かに偵察していた折、外郭へ続く静かな回廊の影、リリィの革鞄が打ち捨てられていた現場の近くで拾い上げたものだった。
第一王子レオが常に腰に下げ、肌身離さず持ち歩いていた大切な品。長はその精巧な装飾を見た瞬間から、これが王家、ひいては第一王子に関わる重要な品であることを確信し、密かに手元へと隠し持っていたのだった。

「リリィ様が……聖女アナスタシア様としての使命を受け入れぬ最大の理由は、ただ一つ」

長は鍵を握り締め、冷ややかに呟いた。

「『レオ様が迎えに来てくださる』という、あの男への執着と希望。あれがある限り、どれほど民が涙を流そうとも、彼女の心はレイストールへ向けられたままだ」

リリィを完全にヴェルナの「聖女」として繋ぎ止め、集落の全住民の希望として確立させるためには、彼女の胸の中で燃え続けるその小さな灯火を、根本から叩き潰さねばならなかった。長はそのために、拾い上げた鍵を最大限に利用する機会を、静かに窺っていたのだ。

その日の夕刻、長は重い足取りでリリィの部屋へと向かった。
部屋に入った長の表情には、これまで見せたことのないような、深い沈痛と悲痛の色が刻まれていた。

「……長様……? どうかされたのですか……?」

窓辺でレオの到着を心待ちにしていたリリィは、長の異様な雰囲気に気づき、不安そうに声をかけた。
長は深く首を垂れ、痛惜に満ちた声で静かに語り始めた。

「……アナスタシア様。誠に申し上げにくい……残酷な報せが届いてしまいました」
「……え……?」
「こちらへ向かわれていたレオ殿下の捜索隊が……道中、険しい山間の崖付近にて、激しい襲撃を受けられたとのことです」

その言葉を聞いた瞬間、リリィの心臓がドクンと嫌な音を立てた。だが、リリィは即座に首を振った。

「……そんな……。……嘘です。……レオ様が、その程度で……負けるはずがありません……。……レオ様は……とても、お強い方なのです……」

か細い声だったが、そこには揺るぎない拒絶があった。レオの圧倒的な強さを、武力への誇りを、リリィは誰よりも近くで見てきたのだ。見知らぬ襲撃者ごときに遅れをとるような人ではない。
しかし、長はリリィの拒絶をあらかじめ見越し、さらに言葉を重ねた。

「敵の襲撃は用意周到であり、大規模な雪崩をも引き起こしたとのこと……。救出隊は散り散りとなり、激流と崩落に巻き込まれ……殿下の行方が完全に分からなくなりました。生存の確認が、取れておりません」
「……違います……! 違います……! ……行方が分からないだけ、なら……! レオ様は、絶対に……絶対に、生きておられます……!」

リリィは胸に両手を当て、必死に叫んだ。涙が溢れ出し、視界が歪む。どれほど不吉な言葉を突きつけられようとも、レオが自分を置いて死ぬはずがないという確信だけは、絶対に譲れなかった。

「……レオ様は……生きています……。わたしを……迎えに来てくださると……約束してくださったから……」

その必死の抵抗を見つめながら、長は静かに懐へ手を差し入れた。

「……私も、そう信じたかった。ですが……現場から、これが回収されたそうです」

長の手から、ひとつの物体が静かに差し出された。
リリィの視線が、それに注がれる。

長の手のひらの上に載っていたのは、見紛うはずもない、あの鍵だった。
リリィはその鍵がどのような魔法的機能を持つのか、王城の武器庫へと空間を繋ぐ特殊な品であるかといった詳しい知識は持っていない。
しかし、見覚えがありすぎた。
レイストールで過ごした温かな日々。過保護なまでに自分を抱きしめてくれたレオの腰元で、いつも静かに金属音を立てていた、美しく精巧な装飾鍵。

「……あ……」

喉から、掠れた息が漏れた。
リリィは震える手を伸ばし、おそるおそるその鍵に触れた。冷たい金属の感触。指先に伝わる細工の感触。それは紛れもなく、世界で一番大好きな人が、片時も手離さずに持っていた本物の鍵だった。

「……これ……。……レオ様の……」

いつもレオの身近にあったはずのものが、なぜ今、こんなところにあるのか。
現場に残されていたという言葉が、激しい現実感をもってリリィの頭脳を殴りつけた。命よりも大切なものを手離すはずのないレオが、この鍵を落としていくなどということが、一体何を意味するのか。

「……嘘……。……そんな……」

リリィの身体から、急激に力が抜けていく。絶対に揺らぐことのなかった「レオは生きている」という完璧な確信の土台が、指先にある冷たい鍵の感触によって、みしみしと音を立てて崩れ始めていく。
涙が次から次へと溢れ落ち、鍵の表面を濡らした。
長はリリィの瞳から光が消えかけていく瞬間を見逃さず、最後の一撃となる冷酷な言葉を、至極哀悼を込めた声で告げた。

「……レオ殿下は……お亡くなりになったそうです」

静寂が、部屋の中を完全に支配した。

「……あ…………ぁ……」

声にならない叫びが、リリィの喉の奥で押し潰される。
窓の外で吹き荒れる冷たい山風の音だけが、絶望に叩き落とされた部屋の中に、虚しく響き続けていた。
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