【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編9】
ヴェルナの集落に朝の光が差し込む頃、長はいつものように静かな足取りでリリィの部屋を訪れた。
「おはようございます、アナスタシア様。本日も少しばかり、城下から届いた報せをお伝えに上がりました」
部屋の窓辺に立ち、外の様子を眺めていたリリィは、ハッと息を飲んで長へと振り返った。
「……長様、……レオ様のこと、でしょうか……?」
か細い声に、深い切望と祈りが込められていた。リリィにとって、長がもたらす外の情勢だけが、レイストールと自分を繋ぐ唯一の糸口だった。
長は至極穏やかな笑みを浮かべ、恭しく頭を下げた。
「はい。レオ殿下は現在も変わらず、寝る間も惜しんで貴女様をお捜しになられています。王城の騎士団のみならず、殿下ご自身が馬を走りらせ、城外の町や村を直接巡って捜索指揮を執られているとのことです」
その言葉を聞き、リリィの胸に温かな安堵が広がる。
それは真実だった。
その頃、レイストール王国の外郭領地において、レオは自ら馬を駆り、雨に濡れた街道を泥まみれになりながら進んでいた。執務室で報告を待つだけでは到底耐え切れず、騎士団の精鋭を率いて城外の村落や関所を直接検分して回っていたのだ。
新緑色の瞳に凄惨なまでの鋭利な光を宿し、僅かな目撃証言や痕跡すら見逃すまいと、自らの足で聞き込みを重ねるレオ。周囲の騎士たちがその過酷な捜索に悲鳴を上げそうになる中、レオは不眠不休で広大な領域を潰し続けていた。
「必ず……私の手で連れ戻す。どのような泥を啜ろうとも、どこへ隠されようとも……!」
雷鳴が遠くで轟く中、レオは苛烈な意気で馬の綱を強く握り締めていた。しかし、いくら自ら陣頭に立って探索の網を広げようとも、王国の版図から半ば忘れ去られた山奥の集落ヴェルナの名に届く気配は、依然として全く存在していなかった。
一方、ヴェルナの屋敷では、長が巧みに言葉の網を広げていた。
長は、最初に語った「レオが自ら城外に出て捜索している」という紛れもない真実をリリィに与えることで、彼女からの絶対的な信用を完璧に獲得していた。リリィの素直で人を疑わない性格と、レオに対する深い愛情を、長は静かに、そして冷静に利用し始めていたのだった。
それから数日後。
長は再び部屋を訪れると、ほんの少し声を弾ませるようにして切り出した。
「アナスタシア様、殿下の捜索隊が、ついに貴女様の足取りに関する貴重な手掛かりを得られたとのことです」
「……え……! 本当、ですか……!?」
リリィの赤い瞳が大きく見開かれ、頬にパッと赤みが差した。膝の上で固く握り締められていた指先が、歓喜のあまり小さく震える。
「……では……もうすぐ、レオ様が……わたしを……!」
「ええ、そのようにございます。殿下の鋭い知性をもってすれば、手がかりから真実へ至るのに時間はかからないでしょう。私どもとしては非常に残念ではありますが……」
長は満足そうに目を細め、深く首肯してみせた。
しかし、これは長が仕掛けた「事実の中に混ぜ込まれた嘘」であった。
レオが手掛かりを得たなどという事実は存在しない。実際のレオは、手掛かりの全くない暗闇の中で、自らの無力さに爪を噛み、焦燥と狂気の間で苦しみ抜いていた。だが、最初に与えられた情報が正確であったがゆえに、リリィは長の言葉を疑うという選択肢を完全に失っていた。
さらに数日が経過した。
集落の畑で病弱な子供に優しい言葉をかけ、民の希望の灯火として振る舞いながらも、リリィの心は常に待ち望む人の足音だけに向けられていた。
夕刻、長が三度目の報せを携えてやってきた。
「アナスタシア様。いよいよ、その時が近づいてまいりました」
「……長様……?」
長は恭しく膝をつき、さも当然のことのように告げた。
「レオ殿下はすでに手がかりを完全に解読され、このヴェルナへ向けて自ら馬を走らせておられるとのことです。早ければ、あと数日のうちにこの地へ辿り着かれるでしょう」
「……っ……! レオ様が……こちらへ……!」
リリィは溢れ出る涙を拭うことも忘れ、胸に手を当てて深く息を吐き出した。
本当に、迎えに来てくれる。レオがこの深い山奥まで、自分を抱きしめるために駆けつけてくれるのだ。
「……ありがとうございます……! 長様、教えてくださって……本当に、ありがとうございます……!」
心からの感謝を述べるリリィに対し、長はどこまでも穏やかに頭を下げ続けた。
リリィは完璧に信じ切っていた。
「レオ様がこちらに向かわれている」という言葉を、微塵の疑いもなく、絶対の真実として心に刻み込んだ。
実際のレオは、ヴェルナという集落の存在すら認識できていない。冷たい雨が打ち付ける見知らぬ街道の真ん中で、手持ちの情報を何度も何度も精査し、どこで捜索の手が止まってしまったのかと、絞り出すような吐息とともに苛まれていた。
王城で暗部を指揮するアルヴィーノも、城外で泥に塗れて馬を駆るレオも、二人がどれほど知性と武力を尽くそうとも、あらかじめ張り巡らされたこの情報工作の壁を突破できずにいた。
何も知らぬまま、ただ愛する人の到着を指折り数えて待つリリィ。
窓の外の静かな山道を見つめる彼女の横顔には、もうすぐ訪れるはずの再会を確信した、小さくも美しい希望の笑みが浮かんでいた。
だが、その希望そのものが、彼女をこの地へ完全に繋ぎ止め、さらなる残酷な未来へと導くための巧みな罠であることに、リリィが気づく術はどこにもなかった。
ヴェルナの集落に朝の光が差し込む頃、長はいつものように静かな足取りでリリィの部屋を訪れた。
「おはようございます、アナスタシア様。本日も少しばかり、城下から届いた報せをお伝えに上がりました」
部屋の窓辺に立ち、外の様子を眺めていたリリィは、ハッと息を飲んで長へと振り返った。
「……長様、……レオ様のこと、でしょうか……?」
か細い声に、深い切望と祈りが込められていた。リリィにとって、長がもたらす外の情勢だけが、レイストールと自分を繋ぐ唯一の糸口だった。
長は至極穏やかな笑みを浮かべ、恭しく頭を下げた。
「はい。レオ殿下は現在も変わらず、寝る間も惜しんで貴女様をお捜しになられています。王城の騎士団のみならず、殿下ご自身が馬を走りらせ、城外の町や村を直接巡って捜索指揮を執られているとのことです」
その言葉を聞き、リリィの胸に温かな安堵が広がる。
それは真実だった。
その頃、レイストール王国の外郭領地において、レオは自ら馬を駆り、雨に濡れた街道を泥まみれになりながら進んでいた。執務室で報告を待つだけでは到底耐え切れず、騎士団の精鋭を率いて城外の村落や関所を直接検分して回っていたのだ。
新緑色の瞳に凄惨なまでの鋭利な光を宿し、僅かな目撃証言や痕跡すら見逃すまいと、自らの足で聞き込みを重ねるレオ。周囲の騎士たちがその過酷な捜索に悲鳴を上げそうになる中、レオは不眠不休で広大な領域を潰し続けていた。
「必ず……私の手で連れ戻す。どのような泥を啜ろうとも、どこへ隠されようとも……!」
雷鳴が遠くで轟く中、レオは苛烈な意気で馬の綱を強く握り締めていた。しかし、いくら自ら陣頭に立って探索の網を広げようとも、王国の版図から半ば忘れ去られた山奥の集落ヴェルナの名に届く気配は、依然として全く存在していなかった。
一方、ヴェルナの屋敷では、長が巧みに言葉の網を広げていた。
長は、最初に語った「レオが自ら城外に出て捜索している」という紛れもない真実をリリィに与えることで、彼女からの絶対的な信用を完璧に獲得していた。リリィの素直で人を疑わない性格と、レオに対する深い愛情を、長は静かに、そして冷静に利用し始めていたのだった。
それから数日後。
長は再び部屋を訪れると、ほんの少し声を弾ませるようにして切り出した。
「アナスタシア様、殿下の捜索隊が、ついに貴女様の足取りに関する貴重な手掛かりを得られたとのことです」
「……え……! 本当、ですか……!?」
リリィの赤い瞳が大きく見開かれ、頬にパッと赤みが差した。膝の上で固く握り締められていた指先が、歓喜のあまり小さく震える。
「……では……もうすぐ、レオ様が……わたしを……!」
「ええ、そのようにございます。殿下の鋭い知性をもってすれば、手がかりから真実へ至るのに時間はかからないでしょう。私どもとしては非常に残念ではありますが……」
長は満足そうに目を細め、深く首肯してみせた。
しかし、これは長が仕掛けた「事実の中に混ぜ込まれた嘘」であった。
レオが手掛かりを得たなどという事実は存在しない。実際のレオは、手掛かりの全くない暗闇の中で、自らの無力さに爪を噛み、焦燥と狂気の間で苦しみ抜いていた。だが、最初に与えられた情報が正確であったがゆえに、リリィは長の言葉を疑うという選択肢を完全に失っていた。
さらに数日が経過した。
集落の畑で病弱な子供に優しい言葉をかけ、民の希望の灯火として振る舞いながらも、リリィの心は常に待ち望む人の足音だけに向けられていた。
夕刻、長が三度目の報せを携えてやってきた。
「アナスタシア様。いよいよ、その時が近づいてまいりました」
「……長様……?」
長は恭しく膝をつき、さも当然のことのように告げた。
「レオ殿下はすでに手がかりを完全に解読され、このヴェルナへ向けて自ら馬を走らせておられるとのことです。早ければ、あと数日のうちにこの地へ辿り着かれるでしょう」
「……っ……! レオ様が……こちらへ……!」
リリィは溢れ出る涙を拭うことも忘れ、胸に手を当てて深く息を吐き出した。
本当に、迎えに来てくれる。レオがこの深い山奥まで、自分を抱きしめるために駆けつけてくれるのだ。
「……ありがとうございます……! 長様、教えてくださって……本当に、ありがとうございます……!」
心からの感謝を述べるリリィに対し、長はどこまでも穏やかに頭を下げ続けた。
リリィは完璧に信じ切っていた。
「レオ様がこちらに向かわれている」という言葉を、微塵の疑いもなく、絶対の真実として心に刻み込んだ。
実際のレオは、ヴェルナという集落の存在すら認識できていない。冷たい雨が打ち付ける見知らぬ街道の真ん中で、手持ちの情報を何度も何度も精査し、どこで捜索の手が止まってしまったのかと、絞り出すような吐息とともに苛まれていた。
王城で暗部を指揮するアルヴィーノも、城外で泥に塗れて馬を駆るレオも、二人がどれほど知性と武力を尽くそうとも、あらかじめ張り巡らされたこの情報工作の壁を突破できずにいた。
何も知らぬまま、ただ愛する人の到着を指折り数えて待つリリィ。
窓の外の静かな山道を見つめる彼女の横顔には、もうすぐ訪れるはずの再会を確信した、小さくも美しい希望の笑みが浮かんでいた。
だが、その希望そのものが、彼女をこの地へ完全に繋ぎ止め、さらなる残酷な未来へと導くための巧みな罠であることに、リリィが気づく術はどこにもなかった。