【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編8】
「……あの、マリアさん。わたしも……何かお手伝いできることは、ないでしょうか……?」

部屋の中でただレオの迎えを待つだけの毎日に耐えかね、リリィは傍らに立つマリアへそう問いかけた。
屋敷の外からは、時折、風が木々を揺らす音とともに、力のない足音や人々の乾いた咳払いが聞こえてくる。レオの捜索を邪魔しないためにこの場所に留まると決めたものの、ただ手厚いもてなしを受け続けるだけでは、心優しいリリィの胸が痛んでならなかった。
マリアは少し驚いたように目を丸くしたが、やがて困惑を交えた複雑な表情を浮かべた。

「アナスタシア様……お気持ちは大変ありがたいのですが、そのような労働をお求めになるわけには参りません。村の皆も、貴女様にはゆったりとお過ごしいただくことを望んでおります」
「……でも、わたし……ただ座っているだけでは、申し訳なくて……。……ほんの少しでも、いいんです……」

リリィの強い眼差しに押され、マリアは躊躇いながらも、集落の散策と少しの作業を共に行うことを許可した。
屋敷を一歩出ると、集落の現実はリリィが思っていた以上に深刻なものだった。
日中の陽光の下で見るヴェルナは、どこを切り取っても「衰退」という二文字で満たされていた。
リリィはマリアに導かれ、集落の裏手に広がる畑へと足を運んだ。しかし、そこに広がっていたのは青々とした恵みの地ではなく、乾燥してひび割れた痩せた土壌だった。植えられている作物はどれも茎が細く、葉は黄色く枯れ落ちかけている。

「……作物が、あまり……育っていないのですね……」
「はい……。この数年、山の気候が変わり、土の質もすっかり悪くなってしまいました。どれだけ手を入しても、十分な収穫が得られないのです」

マリアは寂しそうに視線を落とした。
食糧が足りなければ、当然ながら住民たちの身体は弱っていく。畑の横では、痩せこけた老人が荒い息を吐きながら、重い鍬を何とか振るおうと苦心していた。
栄養不足によって体力を削られた人々は、ちょっとした風邪や環境の変化ですぐに病に伏してしまう。だが、この深い山奥の孤立した集落には、十分な薬も、知識を持った医師も存在しない。
病人が増えれば、当然ながら畑を耕し、薪を割り、集落を維持するための労働力が失われていく。その結果、翌年の作付けはさらに減少し、いっそう激しい食糧不足が人々を襲う。
不作、食糧不足、住民の衰弱、病人の増加、労働力の低下、そしてさらなる不作。
ヴェルナは今、出口のない完璧な悪循環の底に沈んでいた。

(……こんなに、苦しんでおられたなんて……)

リリィは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
彼らが自分を「聖女アナスタシア」と呼び、手段を選ばずに連れ去り、すがりつくような思いで頭を下げていた理由。それは政治的な野心や悪意などではなく、今にも潰れそうな命と集落を繋ぎ止めるための、あまりにも切実で悲痛な生存への執着だったのだ。
理不尽な連れ去りに対する恐怖や困惑は確かにあった。だが、彼らの本当の姿を知るにつれ、リリィの中に「彼らを憎む」という感情は生まれてこなかった。
そんな散策の途中、小さな木の家の前を通った時のことだった。
固く閉ざされた扉の隙間から、幼い子供の苦しげな唸り声と、それを介抱する母親のすすり泣く声が漏れ聞こえてきた。リリィは思わず足を止め、吸い寄せられるようにその家の中へと足を踏み入れた。
薄暗い室内には、熱にうなされ、真っ赤な顔をして横たわる小さな男の子がいた。母親は冷えた布で子供の額を必死に撫でていたが、その手は不安で小さく震えている。
リリィは怯える気持ちを抑え、男の子の枕元へとそっと膝をついた。

「……大丈夫、ですか……?」

か細く、けれどどこまでも温かい声。リリィは自分の胸元から、大切に持っていた清潔なハンカチを取り出すと、水鉢の冷たい水に浸し、丁寧に絞って男の子の額に乗せ直した。
男の子の小さな手が、無意識のうちにリリィの指先をギュッと握りしめる。
リリィは男の子の顔を優しく見つめ、語りかけるように呟いた。

「……つらいですね。……でも、きっと……早く元気になれるといいですね……」

それは、聖女の特別な奇跡の力などではない。誰しもが病人に寄せる、ごく当たり前の温かな気遣いの言葉だった。
しかし、その言葉を聞いた母親は、息を飲んで涙を溢れさせた。

「あ……ああ……! 聖女様……! 聖女様が、この子に御祝福を……お言葉をくださった……!」

母親は床に額を擦り付け、ボロボロと大きな涙を流しながら何度も何度も感謝を口にした。

「ありがたや……ありがたや……! これでこの子は助かります……! 聖女様のお優しいお言葉があれば、きっと……!」
「……あ、あの……! わたしは、何も……特別なことは……」

リリィは困惑し、慌てて手を振ろうとした。だが、母親の瞳に宿ったのは、先ほどまでの絶望ではなく、明日の生に対する確かな「希望」だった。
奇跡など何ひとつ起きていない。熱が下がったわけでも、病が治ったわけでもない。ただ、リリィという存在が寄り添い、優しい言葉をかけたという事実そのものが、極限状態に置かれた住民たちの心を救う何よりの糧となっていた。
集落の道に戻ると、先ほどの老人が依然として苦しそうに鍬を振るっていた。
リリィは歩み寄り、控えめに声をかけた。

「……おじいさん。……日差しが強いですから、……お気をつけて……無理をなさらないでくださいね……」

老人はピタリと動きを止め、信じられないものを見るかのようにリリィを見つめた。やがて、そのシワだらけの顔をくしゃくしゃにして歓喜の声を上げた。

「おお……! 聖女様から直々にお気遣いの御言葉をいただいた……! わしの体に、力が湧いてくるようだ……!」

老人は震える手で深く頭を下げ、再び力強く鍬を打ち下ろし始めた。
リリィが困惑しながら集落を歩くだけで、周囲の空気が劇的に変わっていった。
彼女が不安を隠して小さく微笑めば、怯えていた子供たちが安心したように笑みを返した。
夕刻、屋敷へ戻ったリリィが、マリアの用意したスープや木の実を残さず食べると、その噂は瞬く間に集落中へと広まった。

「聖女様がお食事を召し上がられた!」
「お元気になられたのだ! 我らを見捨てず、この地にとどまってくださるのだ!」

外からは、住民たちが歓声を上げ、互いに抱き合って喜ぶ声が聞こえてきた。ただリリィが日常の営みを行っただけで、暗く沈んでいた集落全体に、明かりが灯ったかのような活気が戻っていく。
部屋の窓辺に立ち、外で喜ぶ住民たちの姿を見つめながら、リリィは自分の胸の中に生まれた複雑な感情に戸惑っていた。
自分には、病を治す聖なる力も、大地を蘇らせる奇跡の力もない。自分は聖女などではなく、ただの「リリィ」だ。
それでも――。

(……わたしが……ここにいるだけで……)

胸の上にそっと手を当てる。

(わたしが、少しでもお話ししたり……笑顔を見せるだけで……この方たちが、少しでも元気になれるなら……)

レオが迎えに来てくれるまでの間、ただ閉じこもって怯えて待つだけではなく、自分にできる小さな優しさを分け与えること。それが、この苦しむ人々に対する自分なりの誠実さなのではないかと思い始めていた。

「……レオ様……」

遠い空の下にいる愛しい人の姿を思い描く。
レオならきっと、目の前で苦しむ人々を見捨てるような真似はしないはずだ。彼のように強く気高くはなれなくても、その温かな心だけは胸に抱き続けていたい。
リリィは深く息を吐き、静かに窓を閉めた。
自分が提供している「奇跡」が、ただの優しい言葉と誤解の上に成り立つ儚い幻影であることを知りながらも、リリィは住民たちの悲痛な祈りに寄り添う道を選び始めていた
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