【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を

国境沿いの荒野。
そこは今、言葉通りの「屠殺場」と化していた。
吹き荒れる爆風、肉を断つ金属音、そして敵兵たちの絶望に満ちた悲鳴。他国が誇った鉄甲騎兵の軍勢は、レイストール王国が放った「二つの刃」の前に、まともな陣形を維持することすらできず崩壊していた。

「――左翼、第三大隊、散開。敵の退路を完全に断ちなさい」

高台の上、漆黒の軍服を纏ったアルヴィーノは、戦場を冷ややかに見下ろしながら淡々と指示を下していた。
その切れ長の紫瞳は、数万の命が消えていく光景を、チェス盤のポーンが消滅していく程度にしか捉えていない。
完璧な効率、完璧な勝利。

「ははっ! 了解です、叔父上! 本当に、彼らの動きは教科書通りで退屈ですねぇ!」

戦場の中央、神聖な【光属性の魔力】を全身から爆発させ、プラチナブロンドの髪を翻しているのはレオだった。
彼はいつもの聖者スマイルを浮かべたまま、光速の踏み込みで敵兵の喉元を正確に切り裂いていく。
その圧倒的な強さと狂気に鼓舞され、レイストールの精鋭兵たちも「騎士団長に続け!」と声を上げ、容赦なく残党を屠っていた。
すべてはいつも通りの「蹂躙」だった。
数時間後には、ここには美しい更地だけが残り、自分たちは王宮へ戻って、最愛の者たちが待つ甘やかな箱庭へ帰るはずだった。

――その刹那。

アルヴィーノの懐、そしてレオの胸元に仕込まれていた、緊急時以外には決して起動しない一族の「血の通信魔導具」が、脈打つような不気味な赤色に発光した。

『――アルヴィーノ! レオ……っ!!!』

魔導具から響いてきたのは、いつもなら優しく、あるいは胃を痛めて嘆いているはずの、王アルフレッドの【激昂】に満ちた声だった。
これまでに聞いたこともないような、地を這うような冷徹さと焦燥が混ざった兄の、そして父の声に、二人の動きがピタリと止まる。

『今すぐ戻れ……!! 王都の城下町が急襲された……っ! リリィさんが血塗れで城に駆け込んできた。……ルミくんが、男たちの手によって拐われた……っ!!!』
「…………何?」

アルヴィーノの口から、驚きとも怒りともつかない、地鳴りのような低い声が漏れた。
全属性を極め、世界を冷酷に見下ろしていた魔王の紫瞳が、一瞬で、狂気的な殺意を孕んで激しく据わる。

「……父上、今、何と仰いました……?」

レオの声音から、いつもの爽やかな響きが完全に消え失せた。
リリィが血塗れで駆け込んできた。
その事実を脳が理解した瞬間、彼の新緑の瞳から光が消え、底なしの「闇」が這い出てくる。
ルミが拐われ、リリィが傷つけられた。
自分たちがいない間に、あの完璧だったはずの硝子の箱庭が、外道の汚い手によって木っ端微塵に破壊されたのだと、通信が告げていた。
戦場を支配していたのは、レイストール王国の勝利の歓声ではなかった。
ただ一瞬にして国境を凍りつかせたのは、解き放たれてしまった「二頭のバケモノ」の、世界を呪うかのような圧倒的な覇気と、凄まじい殺念の渦だった。
赤く発光する通信魔導具を掴んだまま、アルヴィーノを包む空気が、物理的な圧力を伴って劇的に静まり返っていく。
彼から発せられるのは、もはや魔力という生温いものではなかった。
ただ世界を拒絶し、根こそぎ消滅させんとする、本物の『魔王』の絶対零度の殺意。
ルミが、自分の腕の中で愛らしく笑っていた最愛の伴侶が、汚い虫どもに連れ去られた。
その事実がアルヴィーノの脳髄を灼いた瞬間、彼の思考から「効率」という文字すらも吹き飛んだ。
あるのはただ一つ。
この場に残るゴミ屑どもを一瞬で消し去り、我が身をすぐさま王都へ転移させることのみ。
アルヴィーノは溢れ出る全属性の魔力を指先に集束させながら、低く、地響きのような声で呟いた。

「――レオ」

たったの二文字。
だが、その最小の呪文に込められた怒りの階梯を、甥であるレオが聞き違えるはずがなかった。

「……っ、全軍、私に続け! 即座に後退しろ!! 反転、全速力だ!!」

レオはいつもの聖者スマイルを完全に消し去り、新緑の瞳に冷徹な狂気を宿したまま、凄まじい怒号で自軍の兵士たちに指示を下した。
叔父がこれから何をしようとしているのか、その「チェスの盤面(戦場)」がどう塗り替えられるのか、言葉がなくとも一瞬で理解したのだ。
レオの迅速な誘導により、レイストールの精鋭兵たちは、突撃から一転してアルヴィーノの邪魔にならない不可侵領域へと、波が引くように猛烈な速度で下がっていく。
敵兵たちは、突然背を向けたレイストール軍に困惑し、歓声を上げかけた。

――それが、自らの人生の最後の瞬間であるとも知らずに。

「消えなさい」

アルヴィーノの冷酷な、そして怒りの極点にある声が荒野に響く。
次の瞬間、彼の周囲に展開されたのは、火・水・風・土・光・闇、すべての属性が歪に、そして完璧に融合した複合禁術。
天を割り、地を爆裂させる、すべてを「無」に還す極大の崩壊魔法が解き放たれた。
光と闇が混ざり合った圧倒的な漆黒の閃光が、前方の大地を丸ごと飲み込んでいく。悲鳴を上げる時間すら、肉体が蒸発する痛みを感じる時間すら、敵には与えられなかった。
凄まじい衝撃波が荒野を駆け抜け、砂塵が吹き荒れる。
わずか数秒の後、そこに広がっていたのは、数万の敵軍の形形も、流れた血の跡すらも残されていない、不気味なほどに平らな、文字通りの綺麗な更であった。
跡形もなく消滅した戦場。
これが、全属性を極めた男が本気で怒りを解放した時の破壊の現実だった。

「……行くぞ」

アルヴィーノは自らが引き起こした更地を一瞥もせず、漆黒のマントを翻した。

「ええ。我が家を荒らした虫どもを、一匹残らず嬲り殺しにしなければなりませんから」

レオもまた、リリィを傷つけ、ルミを奪った見えざる敵への狂気的な殺意を新緑の瞳にギラギラと滾らせ、魔剣を鞘へと収めた。

「全軍、城へと緊急帰還する! 遅れる者は置いていく、死に物狂いでついてこい!!」

レオの冷徹な号令が響き渡る。
勝利の余韻など微塵もない。
あるのは、愛する者を害された二頭の獣の、世界を滅ぼしかねないほどの焦燥と怒りの進撃。
レイストール王国の最凶の刃たちは、地を割るような速度で、最愛の待つ白亜の城へと全軍を率いて緊急帰還を開始した。
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