【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編6】
静かな一夜が明け、ヴェルナの集落に淡い朝光が差し込んでも、リリィを包む不条理な現惑が晴れることはなかった。
与えられた屋敷の部屋に、新たな人物が足を踏み入れた。
手に小さな水瓶と清潔な布を抱えたその若い女性は、部屋に入るとすぐさま床に膝をつき、深く頭を垂れた。
「おはようございます、アナスタシア様。本朝より、身の回りの世話を言いつかりましたマリアと申します。至らぬ点も多いかと存じますが、何なりとお申し付けください」
マリアと名乗った女性の声には、長や他の住民たちと同じように、深い敬意と祈りにも似た恭順が込められていた。
リリィはベッドの脇に腰掛けたまま、不安そうにマリアを見つめた。長がいる場所や、他の住民が外に大勢控えている状況では、いくら否定しても言葉が遮られ、都合良く書き換えられてしまっていた。だが、今この室内には、自分とマリアの二人しかいない。
誰も会話を途中で遮る者はいないのだ。
リリィは胸の上でそっと手を握り締め、意を決して口を開いた。
「……あの、……マリアさん」
「はい、何でしょうか、アナスタシア様」
「……あのお願いです、……最後まで……話を聞いて、いただけますか……?」
か細く、けれど切実な響きを含んだ声に、マリアは少し驚いたように顔を上げた。
「……はい。私に答えられることであれば、何なりと」
リリィは深く息を吸い込み、途切れ途切れになりながらも、伝えるべき真実をひとつひとつ言葉にしていった。
「……わたし、……アナスタシアでは……ないんです。……本当の、名前は……リリィ、と申します……」
「……え……?」
マリアの表情に微かな戸惑いが走った。今まで長から聞かされていた「帰還された聖女様」という話と、目の前で静かに自分を見つめ直す少女の言葉の間に、小さな齟齬が生じたからだ。
リリィは誰にも邪魔されない時間の中で、はじめて自分の言葉を最後まで紡ぐことができた。
「わたしは……聖女様のような……特別な力も、何も……持っていません。……レイストールという国で……王城郵便隊のお仕事をして……暮らしていた、ただの……人間です……」
言い終えたリリィは、縋るような視線をマリアへ向けた。
しかし、長年この滅びかけた集落で「聖女の帰還」を唯一の希望として生きてきたマリアにとって、その真実を即座に受け入れることは容易ではなかった。マリアは戸惑いを隠すように視線を泳がせ、言い聞かせるように優しく微笑んだ。
「……アナスタシア様。長様からも伺っております。突然このような僻地へお越しになり、大きなご使命を背負わされて、お心が混乱されておられるのだと……。まだご自分のお立場を受け入れられないのは、当然のことにございます」
「……ち、違います……。……混乱などでは……」
リリィは悲しそうに首を振り、震える声で哀願した。
「……でしたら……お願いです。……わたしを、レイストールへ……帰してください……。……ここにいても、わたしは……皆さんを、救ってあげることは……できません……」
その悲痛な叫びに対し、マリアは申し訳なさそうに視線を落とし、静かに首を横に振った。
「……申し訳ございません。それだけは……私の一端の判断では、お受けできません……。長様も、村の皆も……貴女様をどれほど待ち望んでいたか……」
結局のところ、マリアもまた集落の期待と祈りから逃れることはできなかった。リリィの言葉は届いたものの、それを真実として扱うことは許されず、拒絶の壁は依然として存在していた。
だが、この日から始まった二人きりの時間は、確実に二人の関係に変化をもたらしていくこととなった。
リリィが集落から自力で出ず、ここで「レオの捜索を待つ」と決めてからの日々、マリアは常に彼女の傍らに寄り添った。部屋の掃除、衣服の洗濯、食事の手配。ただの主従としてではなく、慎み深いリリィの態度に接するうち、マリアは徐々に「伝承の中の聖女」とは異なる彼女の素顔に触れていく。
ある日、マリアが山で採れた小さな野いちごを添えてスープを運んできた時のことだった。
「アナスタシア様、本日のスープでございます」
「……あ、……ありがとうございます……」
リリィはスープの脇に置かれた赤い木の実を見つめると、ぱっと表情を明るくした。その瞳には、厳かな聖女の面影などなく、ただ愛らしいものを見つけた少女の無邪気さがあった。
小鳥が木の実を突くように、慎重にひとつつまんで口へ運ぶ。甘酸っぱい味が口の中に広がると、リリィの頬がゆるみ、小さな笑みが零れた。
「……すごく……甘くて、おいしいです……」
「……甘いものが、お好きなんですか?」
「……はい。……レイストールにいた頃も、……ときどき、甘いお菓子を……いただいていて……」
マリアはその表情を見て、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。崇高で手を出せない神聖な存在だと思っていた人物が、甘い木の実ひとつでこんなにも可愛らしく微笑む。
また別の日の午後、部屋の窓から外を眺めていたリリィは、手元にあった小さな紙片を愛おしそうに撫でていた。
「……何をしておられるのですか?」
「……手紙の……折り方を、思い出していました。……わたし、レイストールでは……王城郵便隊で……働いていたんです」
「郵便隊……ですか?」
「……はい。……大切な手紙を、……困っている人や、待っている人の元へ……届けるお仕事です。……ルインさんという……優しくて、弟のような男の子と一緒に……毎日、お城の中を歩いていて……すごく、楽しかったんです……」
リリィの手元で、紙が手際よく折られていく。その手つきには確かに、日々の業務で培われた確かな経験と、仕事に対する誇りが宿っていた。
「……ルインさん、……急にいなくなって……きっと、すごく……心配していると思います……。……早く……また、一緒にお手紙を……運びたいです……」
ぽつりと漏らされた言葉。そこには、集落の民を救う聖女の使命感などではなく、自分の居場所と大切な仲間を愛おしむ、一人の女性の等身大の想いがあった。
マリアは手元の仕事を止め、リリィの横顔をじっと見つめた。
リリィはマリアが耳を傾けてくれると分かると、少しずつ、レイストールでの日々の思い出を語るようになった。
王城の温かな空気のこと。
優しい王様や、少し怖そうに見えて本当はとても温かいお妃様のこと。
ルインとともに歩いた陽光の差す回廊のこと。
そして――何よりも。
「……レオ様は……とても、お優しくて……強くて、格好いい方なんです……」
レオの名を口にする時、リリィの佇まいは明確に変わった。
か細かった声に確かな熱が宿り、俯きがちだった顔が上がり、赤い瞳がまるで星のように輝き始める。世界で一番愛しく、尊い存在を語る者の表情。そこには隠しきれないほどの深い愛と、絶対的な信頼が溢れていた。
「……わたしが……どんなに駄目なところがあっても……いつも、温かく……抱きしめてくださって……。……わたしを……救ってくださった……一番大切な方なんです……」
リリィは胸に両手を当て、愛おしそうに窓の外の遠い空を見つめた。
「……今も……寝る間も惜しんで……わたしを、探してくださっているって……。……だから……わたし、ここで……信じて、待っているんです……。……レオ様が、必ず……迎えに来てくださるから……」
その横顔は、あまりにも美しく、そして切なかった。
自分を聖女と崇める集落の狂信的な期待の中でも折れることなく、ただ一人「レオ」という存在への愛だけを灯火にして耐え忍んでいる。
その姿を見つめ続けるうちに、マリアの中で長年培われてきた認識が、静かに、けれど決定的に崩れ去っていった。
(……この方は……)
マリアは息を飲んだ。
目の前にいるのは、ヴェルナの滅びを救うために天から遣わされた、伝承の中の「聖女アナスタシア」などではない。
甘いものが好きで。
自分の仕事を愛していて。
大切な仲間を案じていて。
そして何より、遠い空の下にいる愛する男性の迎えを、一途に信じて待ち続けている――「リリィ」という名前を持った、たった一人の心優しい女性なのだと。
「……リリィ、様……」
マリアの唇から、小さな呟きが漏れた。
まだ長や村人たちの手前、大っぴらにその名を呼ぶことはできない。集落の困窮と祈りを無視することもできない。それでも、マリアの心の中において、「神聖な偶像」は消え去り、血の通った「一人の少女」が確かに形を作り始めていた。
リリィはマリアの呟きに気づかず、冷え込む夕暮れの空を見つめながら、心の中で今日も愛する人の名を繰り返していた。
静かな一夜が明け、ヴェルナの集落に淡い朝光が差し込んでも、リリィを包む不条理な現惑が晴れることはなかった。
与えられた屋敷の部屋に、新たな人物が足を踏み入れた。
手に小さな水瓶と清潔な布を抱えたその若い女性は、部屋に入るとすぐさま床に膝をつき、深く頭を垂れた。
「おはようございます、アナスタシア様。本朝より、身の回りの世話を言いつかりましたマリアと申します。至らぬ点も多いかと存じますが、何なりとお申し付けください」
マリアと名乗った女性の声には、長や他の住民たちと同じように、深い敬意と祈りにも似た恭順が込められていた。
リリィはベッドの脇に腰掛けたまま、不安そうにマリアを見つめた。長がいる場所や、他の住民が外に大勢控えている状況では、いくら否定しても言葉が遮られ、都合良く書き換えられてしまっていた。だが、今この室内には、自分とマリアの二人しかいない。
誰も会話を途中で遮る者はいないのだ。
リリィは胸の上でそっと手を握り締め、意を決して口を開いた。
「……あの、……マリアさん」
「はい、何でしょうか、アナスタシア様」
「……あのお願いです、……最後まで……話を聞いて、いただけますか……?」
か細く、けれど切実な響きを含んだ声に、マリアは少し驚いたように顔を上げた。
「……はい。私に答えられることであれば、何なりと」
リリィは深く息を吸い込み、途切れ途切れになりながらも、伝えるべき真実をひとつひとつ言葉にしていった。
「……わたし、……アナスタシアでは……ないんです。……本当の、名前は……リリィ、と申します……」
「……え……?」
マリアの表情に微かな戸惑いが走った。今まで長から聞かされていた「帰還された聖女様」という話と、目の前で静かに自分を見つめ直す少女の言葉の間に、小さな齟齬が生じたからだ。
リリィは誰にも邪魔されない時間の中で、はじめて自分の言葉を最後まで紡ぐことができた。
「わたしは……聖女様のような……特別な力も、何も……持っていません。……レイストールという国で……王城郵便隊のお仕事をして……暮らしていた、ただの……人間です……」
言い終えたリリィは、縋るような視線をマリアへ向けた。
しかし、長年この滅びかけた集落で「聖女の帰還」を唯一の希望として生きてきたマリアにとって、その真実を即座に受け入れることは容易ではなかった。マリアは戸惑いを隠すように視線を泳がせ、言い聞かせるように優しく微笑んだ。
「……アナスタシア様。長様からも伺っております。突然このような僻地へお越しになり、大きなご使命を背負わされて、お心が混乱されておられるのだと……。まだご自分のお立場を受け入れられないのは、当然のことにございます」
「……ち、違います……。……混乱などでは……」
リリィは悲しそうに首を振り、震える声で哀願した。
「……でしたら……お願いです。……わたしを、レイストールへ……帰してください……。……ここにいても、わたしは……皆さんを、救ってあげることは……できません……」
その悲痛な叫びに対し、マリアは申し訳なさそうに視線を落とし、静かに首を横に振った。
「……申し訳ございません。それだけは……私の一端の判断では、お受けできません……。長様も、村の皆も……貴女様をどれほど待ち望んでいたか……」
結局のところ、マリアもまた集落の期待と祈りから逃れることはできなかった。リリィの言葉は届いたものの、それを真実として扱うことは許されず、拒絶の壁は依然として存在していた。
だが、この日から始まった二人きりの時間は、確実に二人の関係に変化をもたらしていくこととなった。
リリィが集落から自力で出ず、ここで「レオの捜索を待つ」と決めてからの日々、マリアは常に彼女の傍らに寄り添った。部屋の掃除、衣服の洗濯、食事の手配。ただの主従としてではなく、慎み深いリリィの態度に接するうち、マリアは徐々に「伝承の中の聖女」とは異なる彼女の素顔に触れていく。
ある日、マリアが山で採れた小さな野いちごを添えてスープを運んできた時のことだった。
「アナスタシア様、本日のスープでございます」
「……あ、……ありがとうございます……」
リリィはスープの脇に置かれた赤い木の実を見つめると、ぱっと表情を明るくした。その瞳には、厳かな聖女の面影などなく、ただ愛らしいものを見つけた少女の無邪気さがあった。
小鳥が木の実を突くように、慎重にひとつつまんで口へ運ぶ。甘酸っぱい味が口の中に広がると、リリィの頬がゆるみ、小さな笑みが零れた。
「……すごく……甘くて、おいしいです……」
「……甘いものが、お好きなんですか?」
「……はい。……レイストールにいた頃も、……ときどき、甘いお菓子を……いただいていて……」
マリアはその表情を見て、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。崇高で手を出せない神聖な存在だと思っていた人物が、甘い木の実ひとつでこんなにも可愛らしく微笑む。
また別の日の午後、部屋の窓から外を眺めていたリリィは、手元にあった小さな紙片を愛おしそうに撫でていた。
「……何をしておられるのですか?」
「……手紙の……折り方を、思い出していました。……わたし、レイストールでは……王城郵便隊で……働いていたんです」
「郵便隊……ですか?」
「……はい。……大切な手紙を、……困っている人や、待っている人の元へ……届けるお仕事です。……ルインさんという……優しくて、弟のような男の子と一緒に……毎日、お城の中を歩いていて……すごく、楽しかったんです……」
リリィの手元で、紙が手際よく折られていく。その手つきには確かに、日々の業務で培われた確かな経験と、仕事に対する誇りが宿っていた。
「……ルインさん、……急にいなくなって……きっと、すごく……心配していると思います……。……早く……また、一緒にお手紙を……運びたいです……」
ぽつりと漏らされた言葉。そこには、集落の民を救う聖女の使命感などではなく、自分の居場所と大切な仲間を愛おしむ、一人の女性の等身大の想いがあった。
マリアは手元の仕事を止め、リリィの横顔をじっと見つめた。
リリィはマリアが耳を傾けてくれると分かると、少しずつ、レイストールでの日々の思い出を語るようになった。
王城の温かな空気のこと。
優しい王様や、少し怖そうに見えて本当はとても温かいお妃様のこと。
ルインとともに歩いた陽光の差す回廊のこと。
そして――何よりも。
「……レオ様は……とても、お優しくて……強くて、格好いい方なんです……」
レオの名を口にする時、リリィの佇まいは明確に変わった。
か細かった声に確かな熱が宿り、俯きがちだった顔が上がり、赤い瞳がまるで星のように輝き始める。世界で一番愛しく、尊い存在を語る者の表情。そこには隠しきれないほどの深い愛と、絶対的な信頼が溢れていた。
「……わたしが……どんなに駄目なところがあっても……いつも、温かく……抱きしめてくださって……。……わたしを……救ってくださった……一番大切な方なんです……」
リリィは胸に両手を当て、愛おしそうに窓の外の遠い空を見つめた。
「……今も……寝る間も惜しんで……わたしを、探してくださっているって……。……だから……わたし、ここで……信じて、待っているんです……。……レオ様が、必ず……迎えに来てくださるから……」
その横顔は、あまりにも美しく、そして切なかった。
自分を聖女と崇める集落の狂信的な期待の中でも折れることなく、ただ一人「レオ」という存在への愛だけを灯火にして耐え忍んでいる。
その姿を見つめ続けるうちに、マリアの中で長年培われてきた認識が、静かに、けれど決定的に崩れ去っていった。
(……この方は……)
マリアは息を飲んだ。
目の前にいるのは、ヴェルナの滅びを救うために天から遣わされた、伝承の中の「聖女アナスタシア」などではない。
甘いものが好きで。
自分の仕事を愛していて。
大切な仲間を案じていて。
そして何より、遠い空の下にいる愛する男性の迎えを、一途に信じて待ち続けている――「リリィ」という名前を持った、たった一人の心優しい女性なのだと。
「……リリィ、様……」
マリアの唇から、小さな呟きが漏れた。
まだ長や村人たちの手前、大っぴらにその名を呼ぶことはできない。集落の困窮と祈りを無視することもできない。それでも、マリアの心の中において、「神聖な偶像」は消え去り、血の通った「一人の少女」が確かに形を作り始めていた。
リリィはマリアの呟きに気づかず、冷え込む夕暮れの空を見つめながら、心の中で今日も愛する人の名を繰り返していた。