【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を
【聖女編5】
夜の静寂が集落全体を覆う頃、部屋の中に落ちる影は一層深くなっていた。
窓枠越しに見上げる夜空には、冷たく澄んだ月が浮かんでいる。風が木々の枝を揺らす音が、静まり返った部屋の中にどこか遠くの出来事のように響いていた。
リリィは膝の上に置いた両手を強く握り締め、じっと窓の外を見つめていた。
どれほど「自分は聖女などではない」と訴えても、言葉のすべてが都合良く書き換えられてしまう。この集落の人々に悪意はない。それどころか、自分を心から敬い、破格の待遇でもてなしてくれている。だが、だからこそ、言葉による説得でこの場所を去ることは不可能だとリリィは理解していた。
「……自分で、動かなければ……」
か細い呟きが、静かな部屋に溶けていく。
リリィは根っからの弱者でも、ただ運命に流されるだけの存在でもなかった。白亜の塔で孤独に耐え、そこからレオによって救い出された経験を持つ彼女には、大切な人のためであれば自ら踏み出せるだけの芯の強さがあった。
夜深まり、集落の明かりが完全に消えた刻限を見計らい、リリィは静かに立ち上がった。
部屋の扉は鍵がかけられているわけではない。外の回廊に控えている見張りや世話係の者たちも、夜露に打たれながら眠気と戦っているか、浅い眠りの中にいるはずだった。忍び足で扉へ歩み寄り、音を立てないようにゆっくりと手すりを引く。
隙間から覗く回廊は薄暗く、人影は壁に背を預けて目を閉じている。
息を殺し、リリィは隙間から外へと身を滑らせた。
屋敷を出て、夜の山道へ足を踏み出す。足元の落ち葉を踏みしめる音すら立てないよう、慎重に一歩一歩を進めた。周囲は漆黒の闇に包まれた険しい山林であり、どこへ道が続いているのかも分からない。どこかで道に迷えば、猛獣の危険や途中で倒れるリスクもある。
それでも、ただ部屋に留まって「聖女」として扱われ続けるわけにはいかなかった。何より、王城で自分を探し続けているはずのレオの元へ、一刻も早く帰りたかった。
だが、集落の外縁へと続く細い山道の途中で、突如として闇の中から影が立ち現れた。
「……こんな夜更けに、どちらへお出かけですか、アナスタシア様」
静かだが、どこか全てを見通しているような声。
立ち止まったリリィの視線の先に立っていたのは、ランタンの灯火を手にした長だった。長は慌てる様子もなく、まるでリリィがこの時間にここへ来ることをあらかじめ知っていたかのように、穏やかな眼差しで佇んでいた。
「……あ……、……長、様……」
リリィは息を飲み、後退ろうとした。見つかってしまった。連れ戻されるという恐怖が胸を締め付け、肩が小さく震える。
長はランタンの灯火を少し高く掲げ、リリィの蒼白な顔を静かに見つめた。その表情には怒りも失望もなく、ただ深い哀愁と、熟練された策謀の気配が漂っていた。
「逃げ出そうとなさるのも無理はありません。見知らぬ地に連れてこられ、ご自身の意志とは無関係に崇められる……。お心がそれに耐えかねるのも、よく理解しております」
「……でしたら……! ……お願い、です……。……わたしを……帰して、ください……」
リリィは搾り出すような声で、縋るように訴えた。見知らぬ大人に対する恐怖を押し殺し、真っ直ぐに長を見つめる。
「わたしは……ここに、いちゃいけないんです……。……レオ様が……きっと今も……わたしを……探してくださって……」
その言葉を聞いた瞬間、長の瞳の奥に微かな光が宿った。
長はリリィを連れ去る計画を立てた当初から、彼女が何者であるかを徹底的に調べ上げていた。第一王子レオ・レイストールが過保護なまでに愛する婚約者であり、アイゼンハルトの不義の子として生まれながらも王家に迎え入れられた白髪赤眼の女性。その存在を知ったからこそ、長は彼女を「伝説の聖女アナスタシア」の帰還として利用することを決めたのだ。
第一王子レオがどれほど苛烈で冷徹な能力を持つ男であるか、そして彼がリリィを失ったことでどれほどの規模の捜索網を広げるかも、長は十分に計算に入れていた。
だからこそ、長はその「レオの存在」そのものを、リリィを集落へ繋ぎ止めるための最大の楔として利用することをあらかじめ決めていたのだった。
「……ええ。存じておりますよ」
長は静かに、しかし確信に満ちた声で告げた。
「第一王子レオ殿下は現在も、貴女様を懸命にお探しになっているそうです。寝る間も惜しみ、王城の騎士団や情報網を総動員して、この広い王国の隅々まで……」
その言葉を聞いた瞬間、リリィの体に電流が走ったような衝撃が駆け抜けた。
「……え……? ……レオ様、が……?」
「はい。殿下の捜索は執念と言ってもいいほどです。貴女様を失ったことで深い怒りと焦燥を抱かれ、何としても連れ戻そうと動いておられる」
それは紛れもない事実だった。レオは今この瞬間も寝る間を惜しみ、必死の思いでリリィの行方を追っている。
長がその事実を口にしたことで、リリィの胸に途方もない安堵が広がった。
(レオ様……! やっぱり……やっぱり、わたしを探してくださっている……!)
自分が捨てられたわけではない。忘れられたわけでもない。レオは自分を愛し、救い出そうと必死になってくれている。その確信が得られただけで、暗闇の中に一筋の光が差し込んだように思えた。溢れ出そうになる涙を、リリィは必死に堪えた。
しかし、長はリリィの安堵を見逃さなかった。長は穏やかな口調のまま、さらに言葉を重ねた。
「ですが、アナスタシア様。よくお考えになってください」
「……え……?」
「このヴェルナという集落は、深い山々に囲まれた僻地の中の僻地。王国の地図にすら正確に記されていないような盲点にございます。そして、貴女様が今、この夜の山の中へ一人で飛び出していかれたら……どうなるでしょうか」
長はランタンの光を深山へ向けた。闇が無限に広がり、どこまでも続く木々の群れが不気味に蠢いている。
「あてもなく山を彷徨い、万が一にも滑落されたり、猛獣に襲われたりしたらどうされますか? あるいは、方向を誤ってさらに遠くの誰も知らない土地へ迷い込んでしまったら……」
「それは……」
「そうなれば、レオ殿下がどれほど優れた捜索網を広げようとも、貴女様を見つけ出すことは不可能になります。むしろ、貴女様が勝手に動き回ることで捜索範囲が無駄に広がり、殿下の捜索を混乱させ、追跡をより困難にしてしまうのではありませんか?」
長の発言は、リリィの思いやりと理性を正確に突いていた。
リリィはハッと息を飲んだ。
自分がこの見知らぬ深い山の中へ足を踏み入れ、闇雲に歩き回ればどうなるか。もし途中で道に迷い、怪我をし、あるいは別の場所へ流れていってしまったら……。
レオは「リリィが連れ去られた地点」や「足取りが途絶えた場所」を起点として捜索を広げているはずだ。それなのに、捕らわれていた本人が勝手に移動し、捜索網の範囲外へ迷い込んでしまえば、レオの努力を台無しにしてしまうかもしれない。最悪の場合、捜索と完全にすれ違い、永遠に出会えなくなってしまう可能性すらある。
(……そんなの……絶対に、嫌……)
レオの手を煩わせたくない。レオの捜索を邪魔したくない。
その優しさと、レオに対する絶対的な信頼が、リリィの足を止めた。
「……ですから、アナスタシア様」
長は深く腰を折り、恭しく手を差し伸べた。
「殿下の手がこのヴェルナへ及ぶまで、ここで静かにお待ちになるのが、最も確実で安全な道筋かと存じます。我らは貴女様を傷つけたりはいたしません。殿下がここへ辿り着くその時まで、身の回りのお世話をし、暖かなお部屋をご用意してお待ちいたします」
「……」
リリィは胸に手を当て、深く呼吸をした。
頭の中で激しい葛藤が渦巻く。今すぐこの場所を離れたいという本能的な恐怖と、レオの捜索を混乱させたくないという深い愛情。
その二つを秤にかけたとき、リリィの中で出すべき答えは決まっていた。
「……分かりました」
か細いが、芯のある声が静かな山道に響いた。
リリィは長を真っ直ぐに見つめ返し、静かに言葉を続けた。
「……でしたら、わたしは……こちらでお待ちします」
「おお……賢明なお答え、感謝いたします。ではレオ殿下が貴女様をお迎えになられるまでどうか、私どもをお救いくださいませ」
長は満足そうに目を細め、深く頭を下げた。
リリィは自分から向きを変え、静かに屋敷の方へと歩き出し始めた。
この瞬間から、リリィを集落へ繋ぎ止めるものは物理的な牢獄やチェーンではなくなった。彼女自身が選択した「レオを待つための判断」こそが、彼女をヴェルナへ留める強力な枷となったのだった。
リリィにとって、この見知らぬ悲惨な集落は、もはや恐怖の囚われの場ではない。
「レオ様が必ず私を見つけ出し、迎えに来てくださるまでの、一時的な仮住まい」
そう自分に言い聞かせた。
レオは生きていて、自分を探してくれている。その事実さえあれば、どれほど孤独で不条理な環境であっても耐えることができる。レオがいつかこの扉を叩き、自分の手を引いてレイストールへ連れ帰ってくれる――その強い確信と希望が、リリィの心を支える唯一の灯火となった。
だが、リリィはその時の彼女には知る由もなかった。
自分が「レオ様が迎えに来てくださる」と強く信じれば信じるほど、そしてその希望に縋れば縋るほど、ヴェルナの長がその絶対的な信頼をいかに冷酷に利用し、最終的に彼女の希望そのものを打ち砕くための残酷な罠へと変えていくのかを。
闇に包まれた山道を歩み戻りながら、リリィは冷えた自分の手を強く握り締め、心の中で愛する人の名を何度も、何度も反芻していた
夜の静寂が集落全体を覆う頃、部屋の中に落ちる影は一層深くなっていた。
窓枠越しに見上げる夜空には、冷たく澄んだ月が浮かんでいる。風が木々の枝を揺らす音が、静まり返った部屋の中にどこか遠くの出来事のように響いていた。
リリィは膝の上に置いた両手を強く握り締め、じっと窓の外を見つめていた。
どれほど「自分は聖女などではない」と訴えても、言葉のすべてが都合良く書き換えられてしまう。この集落の人々に悪意はない。それどころか、自分を心から敬い、破格の待遇でもてなしてくれている。だが、だからこそ、言葉による説得でこの場所を去ることは不可能だとリリィは理解していた。
「……自分で、動かなければ……」
か細い呟きが、静かな部屋に溶けていく。
リリィは根っからの弱者でも、ただ運命に流されるだけの存在でもなかった。白亜の塔で孤独に耐え、そこからレオによって救い出された経験を持つ彼女には、大切な人のためであれば自ら踏み出せるだけの芯の強さがあった。
夜深まり、集落の明かりが完全に消えた刻限を見計らい、リリィは静かに立ち上がった。
部屋の扉は鍵がかけられているわけではない。外の回廊に控えている見張りや世話係の者たちも、夜露に打たれながら眠気と戦っているか、浅い眠りの中にいるはずだった。忍び足で扉へ歩み寄り、音を立てないようにゆっくりと手すりを引く。
隙間から覗く回廊は薄暗く、人影は壁に背を預けて目を閉じている。
息を殺し、リリィは隙間から外へと身を滑らせた。
屋敷を出て、夜の山道へ足を踏み出す。足元の落ち葉を踏みしめる音すら立てないよう、慎重に一歩一歩を進めた。周囲は漆黒の闇に包まれた険しい山林であり、どこへ道が続いているのかも分からない。どこかで道に迷えば、猛獣の危険や途中で倒れるリスクもある。
それでも、ただ部屋に留まって「聖女」として扱われ続けるわけにはいかなかった。何より、王城で自分を探し続けているはずのレオの元へ、一刻も早く帰りたかった。
だが、集落の外縁へと続く細い山道の途中で、突如として闇の中から影が立ち現れた。
「……こんな夜更けに、どちらへお出かけですか、アナスタシア様」
静かだが、どこか全てを見通しているような声。
立ち止まったリリィの視線の先に立っていたのは、ランタンの灯火を手にした長だった。長は慌てる様子もなく、まるでリリィがこの時間にここへ来ることをあらかじめ知っていたかのように、穏やかな眼差しで佇んでいた。
「……あ……、……長、様……」
リリィは息を飲み、後退ろうとした。見つかってしまった。連れ戻されるという恐怖が胸を締め付け、肩が小さく震える。
長はランタンの灯火を少し高く掲げ、リリィの蒼白な顔を静かに見つめた。その表情には怒りも失望もなく、ただ深い哀愁と、熟練された策謀の気配が漂っていた。
「逃げ出そうとなさるのも無理はありません。見知らぬ地に連れてこられ、ご自身の意志とは無関係に崇められる……。お心がそれに耐えかねるのも、よく理解しております」
「……でしたら……! ……お願い、です……。……わたしを……帰して、ください……」
リリィは搾り出すような声で、縋るように訴えた。見知らぬ大人に対する恐怖を押し殺し、真っ直ぐに長を見つめる。
「わたしは……ここに、いちゃいけないんです……。……レオ様が……きっと今も……わたしを……探してくださって……」
その言葉を聞いた瞬間、長の瞳の奥に微かな光が宿った。
長はリリィを連れ去る計画を立てた当初から、彼女が何者であるかを徹底的に調べ上げていた。第一王子レオ・レイストールが過保護なまでに愛する婚約者であり、アイゼンハルトの不義の子として生まれながらも王家に迎え入れられた白髪赤眼の女性。その存在を知ったからこそ、長は彼女を「伝説の聖女アナスタシア」の帰還として利用することを決めたのだ。
第一王子レオがどれほど苛烈で冷徹な能力を持つ男であるか、そして彼がリリィを失ったことでどれほどの規模の捜索網を広げるかも、長は十分に計算に入れていた。
だからこそ、長はその「レオの存在」そのものを、リリィを集落へ繋ぎ止めるための最大の楔として利用することをあらかじめ決めていたのだった。
「……ええ。存じておりますよ」
長は静かに、しかし確信に満ちた声で告げた。
「第一王子レオ殿下は現在も、貴女様を懸命にお探しになっているそうです。寝る間も惜しみ、王城の騎士団や情報網を総動員して、この広い王国の隅々まで……」
その言葉を聞いた瞬間、リリィの体に電流が走ったような衝撃が駆け抜けた。
「……え……? ……レオ様、が……?」
「はい。殿下の捜索は執念と言ってもいいほどです。貴女様を失ったことで深い怒りと焦燥を抱かれ、何としても連れ戻そうと動いておられる」
それは紛れもない事実だった。レオは今この瞬間も寝る間を惜しみ、必死の思いでリリィの行方を追っている。
長がその事実を口にしたことで、リリィの胸に途方もない安堵が広がった。
(レオ様……! やっぱり……やっぱり、わたしを探してくださっている……!)
自分が捨てられたわけではない。忘れられたわけでもない。レオは自分を愛し、救い出そうと必死になってくれている。その確信が得られただけで、暗闇の中に一筋の光が差し込んだように思えた。溢れ出そうになる涙を、リリィは必死に堪えた。
しかし、長はリリィの安堵を見逃さなかった。長は穏やかな口調のまま、さらに言葉を重ねた。
「ですが、アナスタシア様。よくお考えになってください」
「……え……?」
「このヴェルナという集落は、深い山々に囲まれた僻地の中の僻地。王国の地図にすら正確に記されていないような盲点にございます。そして、貴女様が今、この夜の山の中へ一人で飛び出していかれたら……どうなるでしょうか」
長はランタンの光を深山へ向けた。闇が無限に広がり、どこまでも続く木々の群れが不気味に蠢いている。
「あてもなく山を彷徨い、万が一にも滑落されたり、猛獣に襲われたりしたらどうされますか? あるいは、方向を誤ってさらに遠くの誰も知らない土地へ迷い込んでしまったら……」
「それは……」
「そうなれば、レオ殿下がどれほど優れた捜索網を広げようとも、貴女様を見つけ出すことは不可能になります。むしろ、貴女様が勝手に動き回ることで捜索範囲が無駄に広がり、殿下の捜索を混乱させ、追跡をより困難にしてしまうのではありませんか?」
長の発言は、リリィの思いやりと理性を正確に突いていた。
リリィはハッと息を飲んだ。
自分がこの見知らぬ深い山の中へ足を踏み入れ、闇雲に歩き回ればどうなるか。もし途中で道に迷い、怪我をし、あるいは別の場所へ流れていってしまったら……。
レオは「リリィが連れ去られた地点」や「足取りが途絶えた場所」を起点として捜索を広げているはずだ。それなのに、捕らわれていた本人が勝手に移動し、捜索網の範囲外へ迷い込んでしまえば、レオの努力を台無しにしてしまうかもしれない。最悪の場合、捜索と完全にすれ違い、永遠に出会えなくなってしまう可能性すらある。
(……そんなの……絶対に、嫌……)
レオの手を煩わせたくない。レオの捜索を邪魔したくない。
その優しさと、レオに対する絶対的な信頼が、リリィの足を止めた。
「……ですから、アナスタシア様」
長は深く腰を折り、恭しく手を差し伸べた。
「殿下の手がこのヴェルナへ及ぶまで、ここで静かにお待ちになるのが、最も確実で安全な道筋かと存じます。我らは貴女様を傷つけたりはいたしません。殿下がここへ辿り着くその時まで、身の回りのお世話をし、暖かなお部屋をご用意してお待ちいたします」
「……」
リリィは胸に手を当て、深く呼吸をした。
頭の中で激しい葛藤が渦巻く。今すぐこの場所を離れたいという本能的な恐怖と、レオの捜索を混乱させたくないという深い愛情。
その二つを秤にかけたとき、リリィの中で出すべき答えは決まっていた。
「……分かりました」
か細いが、芯のある声が静かな山道に響いた。
リリィは長を真っ直ぐに見つめ返し、静かに言葉を続けた。
「……でしたら、わたしは……こちらでお待ちします」
「おお……賢明なお答え、感謝いたします。ではレオ殿下が貴女様をお迎えになられるまでどうか、私どもをお救いくださいませ」
長は満足そうに目を細め、深く頭を下げた。
リリィは自分から向きを変え、静かに屋敷の方へと歩き出し始めた。
この瞬間から、リリィを集落へ繋ぎ止めるものは物理的な牢獄やチェーンではなくなった。彼女自身が選択した「レオを待つための判断」こそが、彼女をヴェルナへ留める強力な枷となったのだった。
リリィにとって、この見知らぬ悲惨な集落は、もはや恐怖の囚われの場ではない。
「レオ様が必ず私を見つけ出し、迎えに来てくださるまでの、一時的な仮住まい」
そう自分に言い聞かせた。
レオは生きていて、自分を探してくれている。その事実さえあれば、どれほど孤独で不条理な環境であっても耐えることができる。レオがいつかこの扉を叩き、自分の手を引いてレイストールへ連れ帰ってくれる――その強い確信と希望が、リリィの心を支える唯一の灯火となった。
だが、リリィはその時の彼女には知る由もなかった。
自分が「レオ様が迎えに来てくださる」と強く信じれば信じるほど、そしてその希望に縋れば縋るほど、ヴェルナの長がその絶対的な信頼をいかに冷酷に利用し、最終的に彼女の希望そのものを打ち砕くための残酷な罠へと変えていくのかを。
闇に包まれた山道を歩み戻りながら、リリィは冷えた自分の手を強く握り締め、心の中で愛する人の名を何度も、何度も反芻していた