【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編4】
集落の最奥に位置する古い屋敷の一室に、リリィは案内された。
そこはヴェルナの中で最も状態が良く、手入れが施された場所だった。清掃は行き届いており、木製の机や椅子、柔らかい綿が詰められたベッドが備え付けられている。窓辺には清潔な布のカーテンがかけられ、テーブルの上には山で採れた木の実や、白く美しい磁器に入れられた水が用意されていた。
衰退と不作に苦しむ集落の窮状から考えれば、彼らが用意できる限りの最大の誠意と特権が、この部屋に集約されていることは明白だった。
リリィに与えられた衣服も同様だった。村の女たちが何夜も徹夜をして縫い合わせたであろう、柔らかく肌触りの良い白いドレスが用意されていた。粗末な服を着た住民たち自身は粗食に耐えながらも、リリィに差し出される食事には、貴重な干し肉やスープ、傷のない果物が使われている。
暴力を振るわれることは一切なかった。リリィが部屋の扉を開ければ、控えていた住民たちは恭しく頭を下げ、不快な思いをさせていないかと真剣な面持ちで案じた。彼らは心からリリィを敬い、愛し、大切に扱っていた。
だが、どれほど手厚いもてなしを受けようとも、ただ一つ、「ここから外へ出ること」だけは決して許されなかった。

「……長様、……お願いです。……わたしを、レイストールへ……帰してください……」

夕刻、食事を運んできたヴェルナの長に向かって、リリィは絞り出すような声で訴えた。
部屋の扉の傍らには、世話係として選ばれた村の娘が控え、緊張した様子で二人を見守っている。

「アナスタシア様、お食事はお口に合いませんでしたでしょうか。どのようなことでもお申し付けください。我らにできることであれば、何なりと仕えさせていただきます」

長は穏やかな笑みを崩さず、深く頭を下げた。その態度はどこまでも丁寧であり、恭順そのものだった。

「……違います。お食事も、お部屋も……とても良くしていただいて、感謝しています……。ですが、わたしは……聖女アナスタシアなどでは、ないのです……。……特別な力も……人を救うような力も、わたしにはありません……」

リリィは膝の上で両手を強く握り締め、か細い声を途切れ途切れに紡いだ。見知らぬ大人と対峙する恐怖に心臓が早警を鳴らしていたが、伝えるべき真実から逃げるわけにはいかなかった。

「わたしは……リリィという名前です。……レイストールで、郵便のお仕事をしていて……大切な家族が、待っているのです……。……レオ様が……きっと今も、わたしを探して……心配されています……。だから……お願いです、帰してください……」

震える声で語られた、哀切極まる拒絶と訴え。
しかし、長はその言葉を静かに受け止めると、慈愛に満ちたような深い溜息を吐いた。

「おお……何と慎み深く、お優しいお方なのでしょう。ご自身に聖女としての資格がないとお考えになり、そこまでご謙遜なさるとは」

長はリリィの言葉を、そのまま受け取ることはしなかった。ゆっくりと首を振り、回廊に控えている他の住民たちにも聞こえるような朗らかな声で続ける。

「皆様、お聞きになりましたか。アナスタシア様は、ご自身が特別な力を持たぬとおっしゃる。民が飢えに苦しむ中でご自身だけが特別な存在であることを拒み、どこまでも我らと同じ目線に立とうとしてくださっているのです」

扉の向こうで控えていた住民たちから、漏れ聞こえるような歓声と啜り泣きが上がった。

「なんと尊いお心構えか……」
「我らのような貧しき民のために、ご自身の高貴さを伏せようとなさるなんて……」
「アナスタシア様……!」
「……違います、……違います……! ……謙遜などではありません……! ……わたしは、本当に……!」

リリィは青ざめた顔で首を振り、立ち上がろうとした。だが、長は優しく、しかし確実にその動きを制するように言葉を重ねる。

「アナスタシア様。突然、大いなる使命をそのお背中に背負わされ、お心が混乱されるのも無理はございません。ご自身のお立場を受け入れるには、相応のお時間が必要でしょう。俗世での暮らしや、レイストールという地での思い出に執着されるのも、無理からぬことにございます」

長はリリィの「帰りたい」という悲痛な叫びを、「突然の使命に対する戸惑いと俗世への名残惜しさ」として処理した。

「……レオ様が、……待っておられるのです。……わたしを救ってくださった、……世界で一番大切な方なのです……。……わたしがいなくなったら、レオ様は……」

レオの名を口にする時、リリィの赤い瞳には溢れんばかりの涙が溜まった。自分がいなくなったことで、レオがどれほどの焦燥と怒りを抱えているか。それを思うだけで、胸が引き裂かれるような痛みが走る。
だが、長はリリィの目元に浮かんだ涙を、まったく別の意味として受け取ってみせた。

「ご覧なさい。アナスタシア様は、ご自身を去らせまいとする俗世の絆を想い、同時に我が集落の滅びゆく姿に心を痛めておられる。そのお涙こそ、民を想う聖女様の真の慈愛の証にほかなりません」
「……違います……! わたしは……!」
「さあ、本日はもうお休みになってください。お心が落ち着くまで、我らは幾らでも待ちます。アナスタシア様が、真にその使命をお受け入れになるその日まで」

長は深く礼をすると、部屋の扉を静かに閉めた。

「……長様……! ……長様……!」

扉の向こうへと去っていく足音を追いかけようと、リリィは部屋の半ばまで駆け寄った。だが、外から鍵がかけられたわけでもないのに、その扉を開けて逃げ出すことはできなかった。
回廊には、リリィを聖女と信じて疑わない住民たちが、祈るような姿勢で控えている気配があった。彼らを押し退けて逃げることなど、リリィの性格上、到底できることではなかった。
部屋の中に、ぽつんと一人取り残される。
窓の外からは、冷たい山の風が吹き抜ける音が聞こえていた。静まり返った室内で、リリィは溢れ出る涙を抑えることができず、その場に深く屈み込んだ。

「……レオ様……。……レオ様……」

どれほど「自分は聖女ではない」と叫んでも、その言葉はすべて都合良く書き換えられ、吸い込まれて消えてしまう。悪意をもって拘束されているのであれば、隙を見て逃げ出すか、あるいは死を覚悟して抗うこともできたかもしれない。
しかし、彼らにあるのは狂信的なまでの善意と、救いを求める切実な祈りだけだった。そのあまりにも重い祈りの壁が、リリィの言葉を、存在を、そのまま「リリィ」として届かせることを拒んでいた。
どんなに懇願しても、届かない。どんなに説明しても、理解してもらえない。
レイストールでの温かな日々。ルインとともに回廊を歩いた記憶。アルフレッドやアルヴィーノたちの優しい言葉。そして何より、自分を誰よりも深く愛し、過保護なまでに抱きしめてくれたレオの温もり。
それらすべてが、手のひらから静かにこぼれ落ちていくような恐怖が、リリィの小さな心をどこまでも深く締め付けていた。
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