【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編3】
重く濁った深い眠りの底から引き上げられるように、意識が緩やかに浮上していった。
揺れがある。荷馬車の硬い荷台に揺られているような、ゴツゴツとした振動が背中に伝わっていた。

「……ん、……っ……」

口元を覆っていたあの甘い匂いと、急速に奪われた身体の自由。かすかな呻き声を漏らしながら、リリィはゆっくりと瞼を開いた。
視界に映ったのは、王城の堅牢な石造りの天井でも、手入れの行き届いた洗練された室内でもなかった。目に入ってきたのは、使い込まれてところどころが擦り切れた布の幌と、木製の骨組みだった。荷馬車の荷台の上に寝かされていたのだと気づき、リリィは体を起こそうとした。
しかし、指先に力を入れようとしても、全身が鉛のように重い。痺れのような脱力感が残っており、思うように体が動かない。

「……レオ、様……? ……ルイン、さん……?」

か細い声で呼びかけてみるが、当然ながら愛しい人々の返答はない。幌の隙間から差し込む光は落ちつきつつあり、すでに王城を離れてから長い時間が経過していることを物語っていた。
周囲に恐ろしい武器を手にした兵士や、血生臭い悪党たちの気配はなかった。代わりに聞こえてくるのは、澄んだ山の空気と、がタゴトと揺れる車輪の音、そして馬の歩みを進める足音だけだった。

「……気づかれましたか」

御者台の方から、低く落ち着いた声が聞こえた。
振り向くと、そこにいたのは質素な麻の服を着た初老の男だった。鋭い眼光や凶暴さは微塵もない。どこにでもいるような農夫の趣を纏った男だが、その背筋は伸び、どこか不思議な厳かさを漂わせている。

「……あなた、は……。……ここは、どこ……でしょうか……」

リリィは震える声を抑えながら、問いかけた。大人や見知らぬ他者に対する恐怖心が胸を締め付ける。だが、ただ怯えて逃げ出すような気力すら、薬効のせいで身体に残っていなかった。

「ここはヴェルナへ続く山道でございます。無礼な方法でお連れしましたことを、どうかお許しください。ですが、我々にはこうするよりほかに道がなかったのです」

男――ヴェルナの長は、馬の手綱を握ったまま、振り返ることなく穏やかな声で答えた。

「……ヴェルナ……? ……わたし、は……王城へ、戻らなければ……。……みんなが、心配して……」
「お気持ちは分かります。ですが、どうかご安心ください。貴女様を傷つけるような真似はいたしません。ただ、我が集落の民がお待ちになっているのです。長きにわたる苦しみから、我らを救っていただくために」

男の言葉には、リリィに対する敵意や悪意は一切感じられなかった。それどころか、狂信的なまでの敬意と、切迫した切実さが込められている。
リリィは困惑した。連れ去られたという事実は揺るがないのに、目の前にいる人物からは恐ろしい牢獄や拷問といった惨劇の予感が一切しない。その歪な状況が、かえってリリィの胸に漠然とした不安を募らせた。
やがて、荷馬車が緩やかに速度を落とし、小さな集落の入口と思われる場所で完全に停止した。

「着きました」

長が御者台から降り、荷台の幌を静かに押し開けた。
外の光が差し込み、リリィは眩しさに目を細めた。長の手を借りて、ぎこちない足取りで荷台から足を下ろす。
そこに広範囲に広がっていたのは、異国の軍隊が牙を剥く戦場でも、凶悪な犯罪組織が蠢く潜伏地でもなかった。
そこは、鬱蒼とした山々に囲まれた、あまりにも小さく寂れた集落だった。
建っている家々は木や土で作られた古いものばかりで、壁には亀裂が走り、屋根の葺き草は腐りかけている。畑と思われる土地に視線を向ければ、土は乾燥して痩せこけ、青々とした作物の姿はほとんど見当たらない。
そして何よりリリィの目を惹いたのは、そこに佇む「人々」の姿だった。
集落の道の両脇には、大勢の住民が集まっていた。
しかし、彼らの様子は異常だった。
頬は削げ落ち、服は破れかけた粗末な布切れを巻きつけただけ。痩せこけた老人が杖に縋るようにして立ち、傍らでは骨が浮き出た腕をした母親が、熱にうなされる小さな子供を抱きしめている。大人たちの目には色濃い疲労と絶望が影を落としており、集落全体に緩やかな死の匂いが漂っていた。
恐ろしい悪党など一人もいなかった。そこにいたのは、ただ飢えと病に苦しみ、明日をも知れぬ命を繋いでいる普通の人々だった。
リリィが足を踏み出した瞬間、集落を包んでいた静寂が破られた。

「ああ……」

誰かが、押し殺したような声を漏らした。
次の瞬間、道の両側に並んでいた人々が、まるで示し合わせたかのように一斉に地面へ膝をついた。
カサカサとした衣服の擦れる音が響き、痩せこけた人々が土の上に頭を擦り付け、ひざまずいていく。老人も、大人も、泣きじゃくる子供の手を引く母親も、全員が深い敬意と祈りを込めて、リリィに向かって頭を垂れたのだった。

「お帰りなさいませ……!」
「……待ち焦がれておりました……!」
「聖女アナスタシア様……! 我らをお救いくださるために、ついに帰還されたのだ……!」

ボロボロと涙を流しながら、土に額を擦り付ける人々。その声には、自らの命を救ってくれる絶対的な存在への、縋るような歓喜と希望が満ち溢れていた。
あまりの光景に、リリィは息を飲んだ。
見知らぬ大勢の人々に一斉に頭を下げられ、聞いたこともない名前で呼ばれる。人見知りで内気なリリィにとって、その状況は恐ろしさと困惑以外の何物でもなかった。

「……っ、お、お待ちください……! ……わたしは……」

リリィはか細い声を張り上げ、必死に首を振った。

「……お待ち、ください……! わたしは、アナスタシア……という者ではありません……! ……わたしは、リリィです……! レイストールから……」

必死の訴えだった。自分が特別な存在などではなく、ただの王城郵便隊の一員であり、第一王子レオの婚約者である「リリィ」なのだと伝えたかった。
しかし、その言葉が住民たちの耳に届く前に、傍らに立つ長が静かに前に出た。長は温厚な、しかし決して揺るぐことのない眼差しでリリィを見つめ、朗らかな声で周りの住民たちへ語りかけた。

「皆様、聖女アナスタシア様は長旅でお疲れのご様子です。突然の帰還により、お心もまだ乱れておられます。どうか、静かにお迎えいたしましょう」

長の言葉に、住民たちは深く頷き合い、感涙の息を漏らした。

「おお、左様でございますか……」
「無理もございません……。こんな寂れた地へ、再びお戻りくださったのですから……」
「聖女様、どうかお体をご自愛ください……!」
「ち、違います……! ……聞いて、ください……! わたしの名前は――」

リリィはもう一度、必死に言葉を紡ごうとした。自分は違う。人違いだ。自分には皆さんを救うような力なんてない。レイストールへ帰してほしい――そう叫びたかった。
だが、長はリリィの言葉を優しく、けれど完璧な手際で遮った。

「アナスタシア様。さあ、こちらへ。お召し物も汚れ、お疲れでしょう。まずは長旅の垢を落とし、お休みになってください」

長の手が、静かにリリィの背中に添えられる。暴力的な力ではない。しかし、逃れられない確実な誘導だった。
住民たちには、最初から「白銀の髪と紅玉の瞳を持つ伝説の聖女アナスタシア様がお帰りになる」としか伝えられていなかった。
彼らにとって、目の前に現れたリリィの姿こそが伝承の証明そのものだった。リリィが何を言おうと、否定しようと、それは「長旅の混乱」か「聖女様ゆえの謙遜」としてしか受け取られない仕組みになっていた。
一般住民の誰一人として、「リリィ」という名前すら知らされていないのだ。

「……あ……、……う……」

何度も拒絶の言葉を口にしようとしたリリィだったが、遮られるたびに声は小さくなり、最後には咽び泣くような吐息しか漏せなくなった。
ひざまずく人々が向ける、あまりにも純粋で、あまりにも切実な期待の眼差し。
彼らは悪人ではない。リリィを苦しめようとしてここに連れてきたわけでもない。ただ、滅びかけている我が身と家族を救いたい一心で、伝説の聖女に祈りを捧げているのだ。
その本物の苦痛と悲痛な祈りを前にして、心優しいリリィは強く言葉を突き放すことができなかった。

「……レオ、様……」

胸の中で、愛する人の名を呟く。
王城の温かな日常が、遠い過去のように遠のいていく感覚に襲われながら、リリィは長に導かれるまま、静かに歩みを進めるしかなかった。
頭を下げ続ける住民たちの間を通り抜けながら、リリィの足取りは、まるで逃げ場のない深い霧の中へ迷い込んでいくかのように、重く、切なく沈んでいった。
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