【リリィ聖女編】祈りの果てに、聖女の葬送を

【聖女編1】
レイストール王城を包む朝の空気は、爽やかでどこか静謐だった。
高く澄み渡る大空から降り注ぐ陽光が、白亜の壁面や美しい庭園の青葉を鮮やかに照らし出している。回廊を渡る風には季節の草花の香りが混じり、城内で働く人々の一日がいつものように始まっていた。

「俺はあっち行くから、リリィちゃんはあっちお願いね!」

書類や小荷物を抱えたルインが、回廊の分岐点で足を止めて元気に手を振る。

「はい……!では、また後ほど……」

リリィは抱えた革鞄をそっと持ち直し、丁寧なお辞儀とともに穏やかな笑みを返した。

二人が所属する王城郵便隊の毎日は忙しい。広大な王城の中を行き来し、部署から部署へ、あるいは個人の執務室へと手紙や荷物を届けるのが彼らの仕事だった。かつてはルインと二人で行動することが多かったリリィだったが、仕事にすっかり慣れた今では、こうして手分けをして効率よく配達に回ることも増えている。
ルインの姿が回廊の角を曲がって見えなくなると、リリィは再びゆっくりと歩き出した。手に持った配達帳と革鞄の中身を確認する。次に届けるべきは、城の西側に位置する騎士団の演習場近くにある管理窓口だった。
石造りの回廊を歩くリリィの足取りは、かつてのどこか怯えたような重さを感じさせない。足音は静かだが、その表情には微かな温もりと充実感が漂っている。
この城での暮らしは、リリィにとって夢のような日々だった。温かい家族と呼べる人々がいて、頼りにされる仕事がある。そして何より、心から愛し、自分を救ってくれた大切な存在がいる。
西の回廊へ向かう途中、開放された中庭の見えるテラスに差し掛かったところで、リリィはふと足を止めた。
中庭の奥、騎士団の訓練用広場から甲高い金属音が響いてくる。
鍛錬に励む騎士たちの威勢の良い声に混じり、圧倒的な武威を放つ人影があった。美しく光を反射する白金色の髪をなびかせ、長柄の武器――大斧槍を軽々と振るう青年。レオである。

「そこ、踏み込みが甘いですよ。それでは私の刃を届かせる前に骨を断たれます」

レオの声は、どこまでも穏やかで優雅だった。しかし、その手から繰り出される一撃一撃は極めて鋭く、容赦がない。立ち向かう騎士団の猛者たちが、次々とその圧倒的な技量と力によって押し戻されていく。
レオは騎士団の統括としてもその腕を振るっており、演習となれば手加減なしに部下たちを打ち負かす。その姿は冷徹であり、どこか戦闘そのものを心から愉しんでいるような危うさすら孕んでいた。

けれど、リリィにとってのレオは、誰よりも優しく自分を守ってくれる存在だった。

レオが立ち回りの中で一瞬だけ動きを止め、テラスの方へ視線を向けた。リリィと視線が交差する。
先刻までの冷徹な戦士の顔は瞬時に消え去り、レオの唇に深く甘い笑みが浮かんだ。レオは手にしていた大斧槍を傍らの騎士に預けると、迷いのない足取りでテラスへと歩み寄ってくる。

「リリィ。こんなところで会えるとは、運が良いですね」
「レオ様……。お仕事の邪魔をしてしまったでしょうか……?」
「いいえ。貴方の姿を見られるだけで、私の一日はどのような仕事よりも価値あるものになります」

レオは当然のようにリリィとの距離を詰め、その細い手を優しく包み込んだ。周囲の騎士たちが羨ましさと苦笑いの混ざった視線を送っているが、レオはまったく気にする様子もない。

「今日も忙しそうですね。郵便隊のお仕事ですか?」
「はい。これから西の窓口へ書類を届けるところです。ルインさんと手分けをして回っておりまして……」
「そうでしたか。あまり無理をしないようにしてくださいね。何か困ったことがあれば、すぐに私を頼ってください。いいですね?」
「ふふ、大丈夫です。ルインさんも助けてくださいますし……それに、レオ様がいつも私を見守ってくださっていると思うだけで、とても元気が湧いてきますから」

控えめに、けれど確かな愛情を込めて微笑むリリィに、レオの瞳が細められる。過保護とも言えるほどにリリィを慈しむレオの手が、愛おしそうに彼女の頬を撫でた。

「貴方がそう言ってくれるなら、私も安心して務めを果たせます。……ですが、あまり遠くへは行かないでくださいね。貴方の姿が視界から消えると、どうにも落ち着かないのです」
「レオ様……」

レオの言葉には、冗談めかした響きの中にどこか本気の執着が滲んでいた。リリィはその温かさに胸を痛めるどころか、深い安心感を覚える。自分の存在をこれほどまでに求めてくれる人がいること。それが、暗い過去を生きてきたリリィにとっての確かな救いだった。

「では、私は仕事に戻りますね。レオ様も、お怪我なさらないように」
「ええ。また後ほど、お茶の時間にお会いしましょう」

レオはリリィの手の甲にそっと唇を寄せると、名残惜しそうに手を離した。リリィは顔を少し赤くしながら軽く一礼し、再び回廊の奥へと歩き出す。
その背中を見送るレオの眼差しは、どこまでも優しく、そして深い愛に満ちていた。

リリィは西の窓口での配達を滞りなく終え、次の配達先へと足を進めていた。
次の目的地は、王城の深部、執務エリアである。ここは国の重鎮たちが集う場所であり、普段から静寂と緊張感が漂っている。

歩廊を渡っていると、前方から二人の人影が歩いてくるのが見えた。

一人は、豊かな金髪と温和な雰囲気を纏った男――この国の国王、アルフレッド。もう一人は、黒を基調とした隙のない軍服に身を包み、冷徹な雰囲気を漂わせた紫髪の青年――王国軍師アルヴィーノだった。

「アルヴィーノ、今回の件だが、やはり対話の機会を設けるべきだと思うんだ。最初から武力を見せつけるような真似は、相手の反発を招くだけだよ」
「兄上。相変わらず甘い考えを捨てきれない様ですね。対話とは互いに相応の力を有して初めて成立するもの。交渉のテーブルにつかせる前に、我が国の圧倒的な戦力を理解させることこそが、最も迅速かつ被害を最小限に抑える道筋です」
「分かってはいるけれどね。できることなら、血を流さずに済む選択肢を探したいんだ」
「無意味な情けは、かえって身内を危険に晒すことになりますが?」

二人は国政についての議論を交わしながら歩いていた。国王としての理想を語るアルフレッドに対し、軍師としての合理性と冷徹さをもって即座に課題を突きつけるアルヴィーノ。一見すると相容れないように思える二人だが、その根本には互いへの深い信頼が存在していることを、リリィはよく知っていた。

「……あっ」

二人に気づいたリリィは、すぐさま壁際に寄り、深く腰を落として頭を下げた。

「おうさま、アルヴィーノ様。お仕事中、失礼いたします」

リリィの声に、二人は足を止めた。

「やあ、リリィさん。郵便隊の仕事かい? 今日も頑張っているね」

アルフレッドはいつもの柔らかい笑みを浮かべ、親しみやすく声をかけた。国王でありながら尊大ぶることもなく、リリィに対しても家族のように接してくれる。

「はい、おうさま。城内の皆様へ手紙をお届けしております」
「それはご苦労様。ルインも一緒にいるのかな?」
「ルインさんとは途中で別れまして、それぞれの担当区域を回っております」
「そうか。あまり根を詰めすぎないようにね。レオが君のことを心配して、執務中もソワソワしてしまうからね」
「兄上。甥の私生活をそのような場で持ち出されるとは。とはいえ、あの男がリリィに関して正気を失うのはいつものことですが」

アルヴィーノが淡々とした敬語で冷ややかな追従を口にする。言い方はどこか毒を含んでいるが、身内に対する軽口のようなものであり、本気で咎めているわけではない。

「ふふ、アルヴィーノ様ったら……。レオ様はいつも私を気遣ってくださいます」
「愛されているのは結構なことです」
「それでは、私たちはこれで。リリィくんも気をつけてね」
「はい。ありがとうございます、おうさま」

リリィは二人が去っていくのを再び頭を下げて見送った。王家の人々が自分を温かく受け入れてくれていることが、何よりも嬉しかった。
執務エリアでの配達も無事に終わり、残る荷物はあとわずかとなった。
リリィは城の外郭へと続く静かな回廊を進む。このあたりはあまり人が立ち入らないエリアで、静まり返った石造りの通路にリリィの足音だけが小さく響いていた。
手元に残った最後の封筒を確認する。それは、城の警備記録や古い資料を管理している最果ての保管庫宛ての手紙だった。

「……ここをお渡しすれば、午前中のお仕事は終わりですね」

リリィは小さく息を吐き、足早に進んだ。早く仕事を終えて、ルインと合流し、レオとの約束の時間に遅れないようにしたかった。
だが、静かな回廊を進むうちに、リリィの胸の中に微かな違和感が芽生え始めた。
いつの間にか、周囲の気配が不自然なほどに途絶えている。城内であればどこからか聞こえてくるはずの兵士の足音や、給仕たちの話し声が、まったく届かない。
まるで、世界から遮断されたかのような静寂。

「……? おかしいですね……」

リリィが足を止め、周囲を見回したその瞬間だった。
背後の影から、気配もなく数人の人影が飛び出してきた。

「――っ!?」

リリィが声を上げる間すらなかった。身につけた衣服の上から、布切れのようなものが口元を強く覆う。鼻を突く独特の甘い香りが、一瞬にして視界を揺らした。

「ん……く……っ!」

暴れようとしても、全身から急速に力が抜けていく。手に持っていた革鞄が、カランと虚しい音を立てて石畳の上に落ちた。

「……よし、かかったぞ」
「急げ。騒がれる前に連れ出すんだ」

かすみゆく意識の中で、聞き覚えのない男たちの声が途切れ途切れに聞こえた。その声には、凶悪な悪意や暴力を企む者の陰惨さはなかった。どこか切迫した、祈るような、必死な響きが含まれていた。

なぜ。どうして。

問いかける言葉も口から出ない。視界が急速に黒く塗り潰されていく。

(レオ……様……)

最後に心の中で愛する人の名を呼んだが、その声が届くことはなく、リリィの意識は深い闇の中へと沈んでいった。
石畳の上に残されたのは、散らばった数枚の手紙と、ぽつんと取り残された革鞄だけ。
大気がゆっくりと流れる城内で、リリィという存在が静かに姿を消した瞬間だった。
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