【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を

レイストール城の最奥に位置する、深夜の調合室。
窓の外には静まり返った王都の夜景が広がっているが、室内に漂っているのは、冷たい硝子器具の触れ合う音と、微かに鼻を突く不思議な薬草の香りだった。

「……ハ、ブラックアウト、ですか。実に見苦しい」

一本の蝋燭の炎に照らされながら、アルヴィーノはフラスコの中で怪しげな青紫色の液体を静かに揺らし、冷酷に毒づいた。

「騎士団長ともあろう者が、数秒とはいえ戦場で盲目になるなど言語道断。そんな欠陥を抱えたままでは、私の描く完璧なチェス盤に狂いが生じる。――すなわち、私のルミとの平穏な時間が、あやつの無能さのせいで脅かされるということです」

手元にある乳鉢には、今回のために再び“身銭を切って”闇市場から買い叩いた、超一級の魔力伝導花のエキスが滴っている。
兄のアルフレッドに続き、またしても信じられない額の金貨が財布から吹き飛んだ計算になるが、アルヴィーノの眉間に刻まれた皺は、金銭の損失によるものではなかった。

(あの夜、出来損ないの兄上を支え、自らの肉体を魔力供給の『炉』として差し出したのは、他ならぬあやつだ)

全属性を最適化できるアルヴィーノの頭脳は、レオがどれほど無茶な魔力の運用をして自分を冥府の底から引き戻したかを、すでに完璧に弾き出していた。
魂の結合部に過剰な負荷をかけた代償が、あやつの新緑の瞳(視神経)へと回り、光を遮断するエラーを起こしている。

「まったく、貸しを作られたままなのは虫唾が走る。あやつが一生盲目で過ごそうが知ったことではありませんが、恩義という不確かな感情で私の精神を汚染されるのは極めて不愉快だ」

ぶつぶつと並べ立てる理由は、どこまでも利己的で冷酷。
けれど、フラスコから滴下される一滴一滴の分量は、コンマ数ミリグラムの狂いもない完璧な最適化(コントロール)が施されていた。

「よし……。経口摂取では、視神経への魔力到達効率が著しく落ちる。ならば――」

アルヴィーノは完成した鮮やかな澄んだ青い薬液を、丁寧に小さな点眼瓶へと移し替えた。
数滴瞳に落とせば、焼き切れた魔力回路を直接冷却し、瞬時に視界のエラーを修復する至高の特効薬(点眼薬)だ。

「仕方なく、作ってあげたのです。明日、あやつの机にこの薬瓶と共に、私が処理するはずだった山のような軍政書類を叩きつけてやりましょう。あやつには、私の代わりに馬車馬のように働いてもらわねば困りますからね」

カチャリ、と小瓶にコルクの栓をする。
どこまでも素直になれない慈悲なき軍師は、冷たい紫瞳に微かな満足感を浮かべると、最愛の伴侶が待つ寝室へと戻るべく、漆黒のマントを翻して調合室を後にした。


「――っ、く……あ……」

次の日の午後。
自室のデスクで書類に目を通していたレオは、突然襲ってきた異変に、手に持っていた羽ペンを落とした。
いつもの目の霞みではない。
凄まじい速度で視界の端から光が奪われ、あっという間に、世界が完全な暗黒へと塗り潰されていく。例
の「ブラックアウト」だった。

(……まずい、いつもなら、数秒で治まるはずなのに……!)

いくら瞬きを繰り返しても、新緑の瞳はただの闇しか捉えない。
十秒、三十秒、一分――。
時間が経過してもなお、光は戻ってこなかった。
完全に視覚を奪われた恐怖がレオの背中を冷たい汗で濡らす。
下手に動けば物を壊すか転倒する。
レオはただじっと、デスクの縁を白くなるほど強く握りしめ、闇の中で嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
二分、三分。
永遠とも思える暗闇の中、極限まで研ぎ澄まされたレオの耳が、部屋の扉が開く音と、こちらへ向かって迷いなく歩いてくる冷徹な靴音を捉えた。

「――っ、誰だ……!?」

視界が遮られた怯えと、騎士としての警戒から、レオの声音が鋭く跳ね上がる。

「兄上に続き、本当に無様ですね」

闇の向こうから響いたのは、この世の誰よりも傲慢で、冷酷な、聞き馴染みのある叔父の声だった。

「……叔父、上……? 一体、何のご用ですか。見ての通り、私は今――」

何を企んでここへ来た、と言いかけるより早く、レオの強張った右手に、ひんやりとした硬い硝子の感触が押し付けられた。
アルヴィーノが、レオの手を無理やり開かせ、小さな小瓶をその掌にぎゅっと握らせたのだ。

「……っ、これは?」
「点眼薬です。それをその濁った瞳に数滴落としなさい」

アルヴィーノは腕を組み、見えないレオを相変わらず冷徹な紫瞳で見下ろしながら、いつものようにどこまでも利己的で卑屈な言葉を滔々と並べ立てた。

「勘違いしないでいただきたい。貴方を哀れんで施したわけではありません。市場の超一級の素材を使い、私が直々に調合した特効薬です。騎士団長である貴方がそのように長く盲目になられては、私の描く完璧な防衛陣形に支障が出る。ひいては、私の処理すべき書類が増え、ルミとの甘美な時間が不当に搾取される。――そのままだと一番困るのは、他ならぬこの私なんですよ」

貸しを作られたままなのは虫唾が走る、とアルヴィーノはフンと鼻で笑う。

「さっさとその無様なエラーを治し、明日からは私の数倍、馬車馬のように働きなさい。……では」

それだけを一方的に言い捨てると、アルヴィーノは振り返ることもなく、漆黒のマントを翻して部屋を去っていった。
パタン、と静かに扉が閉まり、規則正しい靴音が廊下に遠ざかっていく。
暗闇の中、一人残されたレオは、握らされた小瓶の冷たさを感じながら、呆然と立ち尽くしていた。
頭痛が治って妙に上機嫌だったアルフレッドの「あの不器用な軍師殿の恩恵に預かれるかもしれない」という言葉が、ようやく頭の中で結びつく。

「……本当に、どこまでも素直じゃない人だ」

あまりにも不器用で、けれど確かな救いの手を差し伸べていった叔父の背中を思い描き、レオは呆れ混じりの、けれどどこか救われたような苦笑を浮かべるのだった。

「……はぁ。本当に、あの人は……」

レオは小さく溜息をつくと、握らされていた小瓶のコルク栓を抜き、見えない視界のまま、自身の新緑の瞳へと慎重にその液体を数滴落とした。
ひんやりとした冷気が、瞳の奥へとダイレクトに染み込んでいく。

「――っ!」

瞬間、レオは息を呑んだ。
まるで、脳の裏側で絡み合っていた悍ましい呪詛の残滓が、一瞬にして凍りつき、粉々に砕け散ったかのような衝撃。
三分間、あれほど頑なに閉ざされていた闇の世界が、嘘のように弾け飛んだ。
窓から差し込むうららかな午後の陽光が、鮮烈なまでの色彩を伴って、レオの視界へと一気に戻ってくる。
霞みも、違和感も、すべてが綺麗さっぱりと消え去っていた。
焼き切れる寸前だった魔力回路が、完璧に修復されているのがはっきりと実感できる。

「……すごいな、本当に」

レオはパチパチと何度か瞬きを繰り返し、完全に光を取り戻した世界を見渡した。
そして、手元に残された小さな点眼瓶へと視線を落とす。
光に透かしてみたその液体は、一滴の濁りすらもない、まるで最高級のサファイアを溶かし込んだかのような、息を呑むほど美しい、澄み切ったコバルトブルーに輝いていた。 魔力の流動、成分の比率、術式の付与――そのすべてが極限まで計算され尽くした、まさに天才軍師による「完璧な最適化」の結晶。
言葉ではどれだけ冷酷に突き放そうとも、自分のためにこれほど純度の高い薬を、身銭を切ってまで用意してくれたのだ。
叔父のそのあまりに不器用で、けれど圧倒的な実力を伴った「優しさ」に、レオは完全に毒気を抜かれてしまった。

「やれやれ。これだけのものを見せつけられては、文句の言いようもありませんね……」

レオは困ったように、けれどどこか嬉しそうに口元を綻ばせると、その美しい点眼瓶を、デスクの最も特等席と言える場所にそっと置いた。
『明日からは私の数倍、馬車馬のように働きなさい』 脳裏に響く、去り際の叔父の嫌味。

「言われなくても、そのつもりですよ。叔父上」

すっかりクリアになった視界で、レオは再び力強く羽ペンを握り直した。
もう、闇に怯える必要はない。
自分を冥府から引き戻してくれた大好きな場所、そして、ようやく生きて戻ってきてくれた大切な「ルミにぃ」のいるこの世界を守るため。
騎士団長レオは、机の上に山積みにされた書類を、かつてないほどの驚異的な速度で片付け始めるのだった。
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