【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を
とある日の午後、騎士団長室を兼ねたレオの私室に、ノックもなしに冷たい靴音が響き渡った。
「――レオ。少しいいですか」
入ってきたのは、寸分の乱れもない漆黒の軍服を纏ったアルヴィーノだった。
相変わらずの傲慢な態度で、部屋の主であるレオの許可も待たずに、ずいと部屋の奥へと歩を進めてくる。
「叔父上……? ノックくらいしていただきたいものです。一体何の御用ですか」
レオは執務机から顔を上げ、新緑の瞳を僅かに細めて叔父を睨んだ。
復興が完了したとはいえ、騎士団の統率や王都の治安維持でレオも多忙を極めている。
そんな中、いつもは用がなければ絶対に近寄ってこない「慈悲なき軍師」が、わざわざ自分の私室に足を運んできたのだ。
警戒するなという方が無理だった。
アルヴィーノは腕を組み、冷徹な紫瞳でじっとレオの顔を凝視した。
まるで、チェス盤の上の駒の状態を品定めするような、どこか不気味な視線だった。
「一応の『確認』です。出来損ないの兄上は、己の身の程を弁えぬ魔力運用のおかげで無様な後遺症を患い、寝込んでいましたからね。……貴方も、あの夜は兄上の禁術発動に向けて、文字通り命を供給する側に回っていたでしょう? 大丈夫か、その不細工な肉体の様子を見に来てあげたのです」
「……っ」
アルヴィーノの言葉に、レオは一瞬だけ表情を強張らせた。
あの激動の夜、瀕死のアルフレッドを支え、魂を削る禁術へと魔力を注ぎ込んだのは他ならぬレオ自身だ。
叔父がわざわざ足を運んできた理由が、自分たちの「禁術使用の代償」を調べるためだと察し、レオは小さく溜息をついた。
「……別に、叔父上に心配されるようなことではありませんよ」
「心配などという生ぬるいものではありません。ただの現状把握です。さっさと答えなさい」
相変わらずの冷酷な物言いに、レオは諦めたように肩を落とし、自身の新緑の瞳を指先で軽く押さえながら、ぽつりと本音を漏らした。
「……。最近、少し目が霞むのです」
「ふむ。霞む、ですか」
「ええ。それだけならまだいいのですが……たまに、まるで世界から光が完全に消え去ったかのように、視界が真っ暗にブラックアウトして何も見えなくなる瞬間がある。ほんの数秒のことですが、騎士としては致命的だ。……やはり、神の理をねじ曲げた代償なのでしょうね」
レオは自嘲気味に苦笑した。
アルフレッドが「頭痛」という形で脳に代償を受けたのに対し、レオの肉体が支払った代償は、視界を司る「目」の摩耗だったのだ。
いつ完全に光を失うかも分からない恐怖を、レオは誰にも言えず、一人で抱え込んでいた。
レオの告白を聞いたアルヴィーノは、驚く風でもなく、ただ冷徹に顎に手を当てた。
「なるほど、ブラックアウト、ですか。魂の結合部への魔力過剰供給による、一時的な感覚遮断現象……。兄上の脳への負荷とは、また術式の経由ルートが違ったというわけですね。実によいサンプルが取れました」
アルヴィーノはふいっと腕を解くと、それ以上何も言うことはない、とばかりにくるりと踵を返した。
「確認は以上です。では、私はルミが待っていますのでこれで」
「……は?」
本当にそれだけを言い残し、アルヴィーノは漆黒のマントを翻して、さっさと部屋を出ていってしまった。
パタン、と静かに扉が閉まり、廊下を遠ざかっていく規則正しい靴音だけが響く。
残されたレオは、ペンを持ったまま、呆然と開いた口が塞がらなかった。
「……一体、何だったんだ、あの人は……」
本当に自分の後遺症の症状を聞き、納得しただけで帰っていった。
あまりにも嵐のように去っていった叔父の態度に、レオは怒りを通り越してただただ呆れ果てるしかなかった。
だが、レオはまだ知らない。
あの素直じゃない天才軍師が、すでに頭脳の中で「目の摩耗を最適化して修復するための次なる特効薬」の術式を、冷酷に構築し始めているということを――。
「失礼します、父上。騎士団の定期巡察に関する報告書と、今後の警備計画の資料を持参しました」
数日後の午前、王宮の執務室にレオの引き締まった声が響いた。
手際よく書類の束を差し出すレオの姿は相変わらず凛としていたが、その表情には、ほんの少しだけ拭いきれない疲労の色が混じっている。
時折、新緑の瞳が微かに泳ぐのは、例の「視界のブラックアウト」が起きかけているせいだろう。
「あぁ、レオ。いつもありがとう」
デスクでペンを走らせていたアルフレッドが、穏やかな微笑みを浮かべて顔を上げた。
以前なら、この時間帯は激しい頭痛に顔を歪めていたはずの彼だが、今はすこぶる体調が良さそうだ。
それどころか、肌の血色までもが見違えるほどに回復している。
レオは資料を受け取ったアルフレッドの様子をじっと見つめ、ふと思い出したように口を開いた。
「……父上、少しよろしいでしょうか。実は先ほど、叔父上が私の私室に突然やってきまして」
「おや、アルヴィーノが? 珍しいね」
「ええ。何事かと思えば、あの激動の夜の『禁術の加担について、大丈夫か確認しに来た』と言うのです。私が最近、目が霞んだり、時折視界が真っ暗にブラックアウトすると伝えたところ、叔父上は『なるほど、実によいサンプルが取れた』とだけ言い残して、本当にそのまま帰っていきまして……」
レオは未だに納得がいかないというように、眉の間に深い皺を寄せた。
「全く、あの人は何を考えているのか分かりません。人の後遺症をただの実験データのように扱い、納得したらルミにぃの元へさっさと帰るなど……相変わらず冷酷というか、血も涙もない男です」
吐き捨てるように言うレオの愚痴を聞きながら、アルフレッドは驚くどころか、その整った顔をみるみる綻ばせていった。
「ふふ、あはは……っ! なるほど、次は君のところへ行ったのか。本当に……本当にあの男は、どこまでも素直じゃないなぁ」
アルフレッドは口元を手で押さえ、くすくすと楽しそうに笑い声を漏らした。 その反応を見て、レオはさらに怪訝そうな顔になる。
「……父上? 何がそんなにおかしいのですか。私は大真面目に叔父上の奇行に困惑しているのですが」
「あぁ、すまない、レオ。怒らないでおくれ」
アルフレッドは笑いを収めつつも、碧眼に悪戯っぽい光を浮かべた。
(なるほど、アルヴィーノは今度はレオのために『仕方なく』薬を作るつもりなんだね)
自分の頭痛を一瞬で消し去った、あの深緑色の特効薬。
自分の時は「公務の効率化のため」と言い訳していた弟だ。
今度はきっと「騎士団長が盲目になっては私のチェス盤が狂う」とでも言って、数日のうちに目の摩耗を癒やす最高純度の薬を調合して持ってくるに違いない。
ここでレオに「アルヴィーノは君のために薬を作ろうとしてるんだよ」と教えてあげるのは簡単だった。
だが、それを今言ってしまうのは得策ではない。
もし事前にバレたと知れば、あの極度にプライドが高くて素直じゃない弟のことだ、へそを曲げて調合自体を止めてしまうか、あるいは嫌がらせのようにさらに数倍の書類をレオの机に叩きつける未来が容易に想像できた。
だから、アルフレッドはあえて何も言わず、楽しげに黙っておくことに決めた。
「何でもないよ、レオ。ただ、君も近いうちに、あの不器用な軍師殿の『最適化』の恩恵に預かれるかもしれない、とだけ言っておこうかな」
「……は? 最適化、ですか?」
アルフレッドの含みのある物言いに、レオはますます訳が分からないといった風に新緑の瞳を丸くした。
頭痛が治って妙に上機嫌な王と、ただのデータ取りに来ただけのはずの傲慢な叔父。
板挟みになった形のレオは、目の前で楽しそうに書類整理に戻っていくアルフレッドを見つめながら、「……あの血の繋がった兄弟は、二人揃って一体何なんだ」と、胸中で更なる困惑を深めるのだった。
「――レオ。少しいいですか」
入ってきたのは、寸分の乱れもない漆黒の軍服を纏ったアルヴィーノだった。
相変わらずの傲慢な態度で、部屋の主であるレオの許可も待たずに、ずいと部屋の奥へと歩を進めてくる。
「叔父上……? ノックくらいしていただきたいものです。一体何の御用ですか」
レオは執務机から顔を上げ、新緑の瞳を僅かに細めて叔父を睨んだ。
復興が完了したとはいえ、騎士団の統率や王都の治安維持でレオも多忙を極めている。
そんな中、いつもは用がなければ絶対に近寄ってこない「慈悲なき軍師」が、わざわざ自分の私室に足を運んできたのだ。
警戒するなという方が無理だった。
アルヴィーノは腕を組み、冷徹な紫瞳でじっとレオの顔を凝視した。
まるで、チェス盤の上の駒の状態を品定めするような、どこか不気味な視線だった。
「一応の『確認』です。出来損ないの兄上は、己の身の程を弁えぬ魔力運用のおかげで無様な後遺症を患い、寝込んでいましたからね。……貴方も、あの夜は兄上の禁術発動に向けて、文字通り命を供給する側に回っていたでしょう? 大丈夫か、その不細工な肉体の様子を見に来てあげたのです」
「……っ」
アルヴィーノの言葉に、レオは一瞬だけ表情を強張らせた。
あの激動の夜、瀕死のアルフレッドを支え、魂を削る禁術へと魔力を注ぎ込んだのは他ならぬレオ自身だ。
叔父がわざわざ足を運んできた理由が、自分たちの「禁術使用の代償」を調べるためだと察し、レオは小さく溜息をついた。
「……別に、叔父上に心配されるようなことではありませんよ」
「心配などという生ぬるいものではありません。ただの現状把握です。さっさと答えなさい」
相変わらずの冷酷な物言いに、レオは諦めたように肩を落とし、自身の新緑の瞳を指先で軽く押さえながら、ぽつりと本音を漏らした。
「……。最近、少し目が霞むのです」
「ふむ。霞む、ですか」
「ええ。それだけならまだいいのですが……たまに、まるで世界から光が完全に消え去ったかのように、視界が真っ暗にブラックアウトして何も見えなくなる瞬間がある。ほんの数秒のことですが、騎士としては致命的だ。……やはり、神の理をねじ曲げた代償なのでしょうね」
レオは自嘲気味に苦笑した。
アルフレッドが「頭痛」という形で脳に代償を受けたのに対し、レオの肉体が支払った代償は、視界を司る「目」の摩耗だったのだ。
いつ完全に光を失うかも分からない恐怖を、レオは誰にも言えず、一人で抱え込んでいた。
レオの告白を聞いたアルヴィーノは、驚く風でもなく、ただ冷徹に顎に手を当てた。
「なるほど、ブラックアウト、ですか。魂の結合部への魔力過剰供給による、一時的な感覚遮断現象……。兄上の脳への負荷とは、また術式の経由ルートが違ったというわけですね。実によいサンプルが取れました」
アルヴィーノはふいっと腕を解くと、それ以上何も言うことはない、とばかりにくるりと踵を返した。
「確認は以上です。では、私はルミが待っていますのでこれで」
「……は?」
本当にそれだけを言い残し、アルヴィーノは漆黒のマントを翻して、さっさと部屋を出ていってしまった。
パタン、と静かに扉が閉まり、廊下を遠ざかっていく規則正しい靴音だけが響く。
残されたレオは、ペンを持ったまま、呆然と開いた口が塞がらなかった。
「……一体、何だったんだ、あの人は……」
本当に自分の後遺症の症状を聞き、納得しただけで帰っていった。
あまりにも嵐のように去っていった叔父の態度に、レオは怒りを通り越してただただ呆れ果てるしかなかった。
だが、レオはまだ知らない。
あの素直じゃない天才軍師が、すでに頭脳の中で「目の摩耗を最適化して修復するための次なる特効薬」の術式を、冷酷に構築し始めているということを――。
「失礼します、父上。騎士団の定期巡察に関する報告書と、今後の警備計画の資料を持参しました」
数日後の午前、王宮の執務室にレオの引き締まった声が響いた。
手際よく書類の束を差し出すレオの姿は相変わらず凛としていたが、その表情には、ほんの少しだけ拭いきれない疲労の色が混じっている。
時折、新緑の瞳が微かに泳ぐのは、例の「視界のブラックアウト」が起きかけているせいだろう。
「あぁ、レオ。いつもありがとう」
デスクでペンを走らせていたアルフレッドが、穏やかな微笑みを浮かべて顔を上げた。
以前なら、この時間帯は激しい頭痛に顔を歪めていたはずの彼だが、今はすこぶる体調が良さそうだ。
それどころか、肌の血色までもが見違えるほどに回復している。
レオは資料を受け取ったアルフレッドの様子をじっと見つめ、ふと思い出したように口を開いた。
「……父上、少しよろしいでしょうか。実は先ほど、叔父上が私の私室に突然やってきまして」
「おや、アルヴィーノが? 珍しいね」
「ええ。何事かと思えば、あの激動の夜の『禁術の加担について、大丈夫か確認しに来た』と言うのです。私が最近、目が霞んだり、時折視界が真っ暗にブラックアウトすると伝えたところ、叔父上は『なるほど、実によいサンプルが取れた』とだけ言い残して、本当にそのまま帰っていきまして……」
レオは未だに納得がいかないというように、眉の間に深い皺を寄せた。
「全く、あの人は何を考えているのか分かりません。人の後遺症をただの実験データのように扱い、納得したらルミにぃの元へさっさと帰るなど……相変わらず冷酷というか、血も涙もない男です」
吐き捨てるように言うレオの愚痴を聞きながら、アルフレッドは驚くどころか、その整った顔をみるみる綻ばせていった。
「ふふ、あはは……っ! なるほど、次は君のところへ行ったのか。本当に……本当にあの男は、どこまでも素直じゃないなぁ」
アルフレッドは口元を手で押さえ、くすくすと楽しそうに笑い声を漏らした。 その反応を見て、レオはさらに怪訝そうな顔になる。
「……父上? 何がそんなにおかしいのですか。私は大真面目に叔父上の奇行に困惑しているのですが」
「あぁ、すまない、レオ。怒らないでおくれ」
アルフレッドは笑いを収めつつも、碧眼に悪戯っぽい光を浮かべた。
(なるほど、アルヴィーノは今度はレオのために『仕方なく』薬を作るつもりなんだね)
自分の頭痛を一瞬で消し去った、あの深緑色の特効薬。
自分の時は「公務の効率化のため」と言い訳していた弟だ。
今度はきっと「騎士団長が盲目になっては私のチェス盤が狂う」とでも言って、数日のうちに目の摩耗を癒やす最高純度の薬を調合して持ってくるに違いない。
ここでレオに「アルヴィーノは君のために薬を作ろうとしてるんだよ」と教えてあげるのは簡単だった。
だが、それを今言ってしまうのは得策ではない。
もし事前にバレたと知れば、あの極度にプライドが高くて素直じゃない弟のことだ、へそを曲げて調合自体を止めてしまうか、あるいは嫌がらせのようにさらに数倍の書類をレオの机に叩きつける未来が容易に想像できた。
だから、アルフレッドはあえて何も言わず、楽しげに黙っておくことに決めた。
「何でもないよ、レオ。ただ、君も近いうちに、あの不器用な軍師殿の『最適化』の恩恵に預かれるかもしれない、とだけ言っておこうかな」
「……は? 最適化、ですか?」
アルフレッドの含みのある物言いに、レオはますます訳が分からないといった風に新緑の瞳を丸くした。
頭痛が治って妙に上機嫌な王と、ただのデータ取りに来ただけのはずの傲慢な叔父。
板挟みになった形のレオは、目の前で楽しそうに書類整理に戻っていくアルフレッドを見つめながら、「……あの血の繋がった兄弟は、二人揃って一体何なんだ」と、胸中で更なる困惑を深めるのだった。