【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を

それは、アルフレッドが後遺症の頭痛を訴えた、あの公務の日の夜のことだった。
王宮の最奥、仄暗い調合室に、ガラス器具が小さく触れ合う涼やかな音が響いていた。
一本の蝋燭が照らし出していたのは、フラスコや乳鉢を前に、いつになく真剣な表情で怪しげな薬草を煎じているアルヴィーノの姿だった。

「……まったく、不甲斐ないにも程がある」

アルヴィーノは手元の乳鉢で、市場の闇商人から秘密裏に仕入れた希少な魔薬草の根を容赦なくすり潰しながら、忌々しげに毒づいた。

「あの男が公務を滞らせれば、その分の皺寄せがすべて私に回ってくる。挙句、私のルミとの甘美な時間を削られるなど、言語道断……っ」

ぶつぶつと並べ立てる理由は、どこまでも「公務の効率化」と「ルミとの時間確保」という利己的なものばかり。
だが、その手際はおそろしく丁寧で、一滴の狂いもない完璧な分量で最適化された魔薬が構築されていく。
昼間、アルフレッドの前では「後遺症などあるわけがない」と傲慢に言い放った。
それは一魔術師としての誇りであり、事実でもあったが、同時に兄に余計な気遣いをさせないための彼なりの壁でもあった。

(……あの無様な後遺症は、あの男が己の限界を超えて深淵の禁術を起動し、この私を現世(ここ)へ引き戻したせいだ)

その事実だけは、アルヴィーノのチート級の頭脳でも否定できなかった。
もしあの夜、アルフレッドとレオが命を燃やして術式を維持し、自分を冥府の縁から引っ張り上げてくれなければ、自分は消滅し、ルミを救う機会すら永遠に失われていた。
あの出来損ないの兄が、不器用に流した血と、今なお彼を苛む脳の激痛。
それらが、自分とルミの「今」を繋ぎ止めるための代償だったのだ。

「恩を売られたままなのは、どうにも虫唾が走る」

アルヴィーノはフッと自嘲気味に鼻で笑うと、すり潰した薬草の抽出液を、静かに煮え立つ青い薬液へと注ぎ込んだ。
シュワ、と白い煙が上がり、部屋の中にどこか清涼感のある不思議な香りが広がる。

「……今回だけです、兄上。これほど最高純度の魔力安定薬、市場で揃えるのにどれだけの金貨が飛んだと思っているのですか。明日、これの数倍の書類をあの男の机へ叩きつけてやりましょう」

出来上がった深緑色の薬瓶を、アルヴィーノは愛おしそうに眺める……わけでもなく、乱暴にコルク栓で閉じ、自身の漆黒の軍服のポケットへと仕舞い込んだ。
「仕方なく」作った、魂の摩耗を癒やす至高の特効薬。
どこまでも素直になれない慈悲なき軍師は、明日、この薬をどんな嫌みと共にあの優しすぎる新王へ押し付けようかと、チェスの次の手を考えるように冷酷な笑みを浮かべるのだった。

「……っ、……あ、つ、……」

激しい頭痛が、容赦なくアルフレッドの脳裏を抉る。
大戦から季節が巡り、どれだけ夜が明けても、魂の摩耗がもたらす後遺症は消えてはくれなかった。
ここ数日は特に酷く、まるで頭の中に無数の針を突き立てられ、絶え間なくかき回されているような激痛のせいで、満足に眠ることすらできていない。

(このままだと、明日からの公務はおろか、まともに机に座ることすら……)

王としての責任感が彼を焦らせるが、シーツを握りしめる碧眼からは、苦痛のあまり自然と涙が滲み出ていた。
その時だった。
カチャリ、と静かに鍵が開き、暗闇に包まれた寝室に冷たい靴音が響く。

「――実に見苦しいですね、兄上」

前触れもなく姿を現したのは、完璧に漆黒の軍服を着こなしたアルヴィーノだった。
深夜だというのに微塵の乱れもない弟は、ベッドの上で苦痛に身をよじらせているアルフレッドの姿を冷徹に見下ろすと、フン、と鼻で笑った。

「私の完璧な采配で復興を完了させたというのに、肝心の王がそのような無様な体たらくでは、国が回りません。実におこがましい」

アルヴィーノはそう毒突くと、手元で弄んでいた、不思議な深緑色の液体が満ちた小さなガラス瓶を、ベッド脇のサイドテーブルへと無造作に置いた。
それを見たアルフレッドは、痛む頭をどうにか持ち上げ、掠れた声で尋ねる。

「……アル、ヴィーノ……? それは、……何だい……?」

尋ねられたアルヴィーノは、不機嫌そうに腕を組み、いつものように傲慢で見下すような視線を向けたまま、冷酷に言葉を紡いだ。

「勘違いしないでいただきたい。それは貴方を哀れんで差し出すような、生ぬるい慈悲の塊ではありません。ただの『効率化のための道具』です」

アルヴィーノはフイッと視線を逸らし、チェス盤の駒を動かすかのような冷徹な声音で続けた。

「市場の闇ルートから仕入れた最高級の魔薬草を用い、私が直々に調合した魂の安定薬です。貴方がその無様な後遺症のせいで公務を滞らせれば、その分の皺寄せがすべて私の元へ回ってくる。――すなわち、私のルミとの甘美な時間が、貴方の無能さのせいで不当に搾取されるということです。それは私にとって、万死に値する機会損失なのですよ」

滔々と並べ立てる言い訳。
どこまでも自分の利益のためだと主張するその態度に、アルフレッドは激痛の最中でありながらも、弟のあまりの素直じゃなさに目を見開いた。

「……君が、わざわざ僕のために、調合を……?」
「ですから、貴方のためではないと言っているでしょう」

アルヴィーノは不快そうに眉をひそめ、冷たく言い放つ。

「あの夜、出来損ないの貴方たちが、私の意思も無視して勝手に私を現世(ここ)へ引き戻した。……そのせいで、貴方のその貧弱な魔力回路が焼き切れただけのこと。貸しを作られたままなのは虫唾が走るのです。それを飲んでさっさと頭痛を治し、明日からは私の数倍、馬車馬のように働きなさい。……それでは」

言いたいことだけを冷酷に吐き捨てると、アルヴィーノは振り返ることもなく、漆黒のマントを翻して部屋を去っていった。
バタン、と静かに扉が閉まる。
残されたアルフレッドは、サイドテーブルに置かれた深緑色の小瓶を見つめ、その奥に込められた、弟の不器用極まりない「感謝」と「気遣い」の温かさに気づき、痛む頭を押さえながらも、この日一番の穏やかな苦笑を浮かべるのだった。

「ふふ……本当に、どこまでも素直じゃない弟だ」

アルフレッドはサイドテーブルから深緑色の小瓶を手に取り、ふっと漏れ出た笑みと共に、その液体を躊躇うことなく一気に口へと煽った。
じわり、と喉を通り抜けていく薬液は、見た目の禍々しさとは裏腹に、驚くほどすっきりとしたミントのような清涼感を残していく。
そして――。

「……っ、あ……?」

次の瞬間、アルフレッドは驚愕に碧眼を見開いた。
まるで、燃え盛る脳裏に冷徹な聖水が注ぎ込まれたかのようだった。
あの大戦から季節が巡ってもなお、四六時中自分を苛み続けていたあの鋭い激痛が。
脳の奥底を執拗に針で突き刺し、満足な思考すら奪っていたあの忌まわしい後遺症が、文字通り「一瞬」で、霧が晴れるように綺麗さっぱりと消え去ったのだ。
焼き切れる寸前だった魔力回路が急速に冷やされ、本来の穏やかな流れを取り戻していくのがはっきりと分かる。

「はは……実の弟ながら、本当に……何でもできてしまうんだね」

アルフレッドは軽くなった頭を手で触りながら、感嘆の入り混じった苦笑を漏らした。
光の最高峰の治癒魔法を扱う自分ですらお手上げだった魂の摩耗を、市場の素材と独自の最適化だけで完璧にねじ伏せてみせる。
あの傲慢な「あるわけがないでしょう、そんな不細工なもの」という台詞が、決してハッタリなどではなく、絶対的な事実であったのだと今になって痛感させられた。
冷酷な言葉の裏で、兄の身体を誰よりも的確に救ってみせる、優しさを知らない天才軍師。

「ありがとう、アルヴィーノ……」

数日ぶりに訪れた、完璧なまでの静寂と安堵。
アルフレッドは深くベッドへと身体を沈め、心地よい枕の柔らかさに身を委ねた。
もう、脳を刺すような恐怖に怯える必要はない。
押し寄せてくる重く、ひどく穏やかな睡魔に身を任せながら、新王アルフレッドはあの激動の夜以来、本当に久しぶりに、深く、深い泥のような安眠へと落ちていくのだった。
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