【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を
それは、復興がすっかり完了し、穏やかな日常が当たり前になった、とある日の深夜のことだった。
王宮最奥の自室。
主人の帰りを待つルミがベッドで健やかな寝息を立てている中、アルヴィーノは一人、執務机の前に座っていた。
部屋の明かりは落とされ、一本の蝋燭の炎だけが静かに揺れている。
その淡い光に照らされていたのは、机の上に横たえられた一振りの軍刀だった。
意匠を凝らした鞘から引き抜かれた、抜身の白刃。
美しく研ぎ澄まされたその刃を見つめながら、アルヴィーノの切れ長の紫瞳は、底知れない昏い歪みに沈んでいた。
(……この刃だ。この冷たい鉄の塊が、あの子の肉を裂いた)
脳裏に、あの忌まわしい夜の光景が鮮烈に蘇る。
オズワルドの呪詛に意識を乗っ取られ、操り人形のようになって自身へ襲いかかってきたルミ。
人並以上の強さを持つアルヴィーノをして、あの瞬間、ルミを無力化して救い出す方法は――その胸を軍刀で刺し貫き、一時的に「肉体の機能」を停止させることだけだった。
あれしか方法がなかった。
あれが、あの瞬間の最適解だった。
合理主義を貫き、兵をも駒と割り切ってきた冷徹な軍師の頭脳は、今でもあの選択が生存率を最大に高めるための「正解」だったと弾き出している。
けれど、どれだけ理屈を並べ立てようとも、アルヴィーノの心が抱える激しい後悔と自責の念が消えることはなかった。
「……私は、この手であの子を貫いたのですね」
ぽつり、と夜の静寂に落ちた声は、酷く掠れて震えていた。
愛おしくてたまらない、世界で一番大切な伴侶の、まだ柔らかい胸に刃を突き立てた時の、おぞましい肉の感触。
掌にべっとりと付着した、あたたかいルミの血の情欲的なまでの赤。
そして何より、アルヴィーノの心を今なお抉り続けているのは、その後の悲劇だった。
一度は傷を癒やしたものの、呪詛の深淵に絶望したルミは、アルヴィーノにこれ以上の負担をかけまいと他ならぬ、このアルヴィーノの軍刀を自ら奪い、自身の胸を突き刺して自死を選んだのだ。
「私が……あの子に、死の道具を与えてしまった……」
もし、自分が違う方法でルミを止めていれば。
軍刀など使わず、自身の肉体を盾にしてでも、呪詛ごとあの子を組み伏せる魔法を構築できていたなら。
そうすれば、ルミがこの不吉な刃を使って自らの命を絶つことも、それによって魂が冥府の底へと沈み、あんな眠り姫のように長い間目覚めなくなることもなかったのではないか。
「……別の、選択肢は……なかったのか……?」
チェスの盤面であれば、一手間違えれば最初から並べ直せばいい。
だが、現実はそうはいかない。
取り返しのつかない傷をルミの心と身体に刻んでしまったという事実が、魔王とまで呼ばれた男の傲慢なプライドを、内側からボロボロに引き裂いていく。
いつもなら乱れのない漆黒の軍服の袖を、アルヴィーノは自嘲気味に掴んだ。
あの夜、兄上やレオが命を削って自分を呼び戻し、自身も魂を燃やしてルミを連れ戻した。
ハッピーエンドを迎えたはずの世界の裏側で、アルヴィーノの心には、冷たい軍刀の刃のような鋭いトゲが、今も深く、深く突き刺さったままだった。
◆
時を同じくして、静まり返った寝室のベッドの上。
ルミもまた、完全に眠りにつくことはできず、水色の瞳を開けて夜の闇を見つめていた。
隣にあるはずの、大好きな王子の温もりが今夜はない。
アルヴィーノが隣の執務室で一人、まだ明かりを灯しているのは知っていた。
復興が終わっても、あの人は時折、何かに取り憑かれたように独りで深く考え込んでいることがある。
その原因が、他ならぬ自分にあるのではないかと考えると、ルミの胸はぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
(……俺、なんてことをしちゃったんだろう)
ルミはシーツを胸元まで引き上げ、小さな身体を丸めた。
長い眠りから目覚めて、みんなは温かく迎えてくれた。
アルフレッド様も、レオも、リリィちゃんも、誰も自分を責めなかった。
それどころか、生きていてくれてよかったと、涙を流して喜んでくれた。
けれど、ルミの心の中にある「罪の記憶」は、決して消え去ってはくれなかった。
オズワルドの悍ましい呪詛に意識を乗っ取られ、自分の身体が自分の意志と関係なく動いていた、あの恐怖。
光の魔法でいつも優しく守ってくれたアルフレッド様に、容赦なく闇の刃を向けたこと。
幼い頃から一緒に過ごし、自分のことを「ルミにぃ」と慕ってくれていたレオを、血塗れになるまで傷つけたこと。
そして、大好きなこのレイストール城を、たくさんの人が暮らす大切な場所を、めちゃくちゃに破壊してしまったこと。
(操られていたからなんて、言い訳にならない。俺の魔力が未熟だったから、あんな奴に付け込まれて……みんなを、この国を、ボロボロにしちゃったんだ……)
そして、何よりも一番胸が苦しいのは、アルヴィーノのことだった。
世界で誰よりも自分を愛し、実験体だった自分に居場所をくれた人。
その大切な人を、自分は狂気の一撃で深く突き刺した。
それだけじゃない。
あの夜、アルヴィーノの軍刀を奪って自ら胸を貫いたあの瞬間、アルヴィーノがどんな顔をして自分を見ていたか。
「ルミ――ッ!!」と、引き裂かれるような悲鳴を上げて自分に駆け寄ってきたあの人の絶望に満ちた表情が、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
「……ごめんなさい、アルヴィーノ……」
夜の静寂に、ぽつりとルミの掠れた声が溶けていく。
自分が死ねば、アルヴィーノは助かる。
あの時はそれしか頭になかったけれど、結果として自分の選択は、アルヴィーノに命と魂を削らせるほどの二重の禁忌を使わせ、長い間、孤独な地獄に突き落とすことになってしまったのだ。
目覚めてからの日々は、まるで夢のように幸せで、優しさに満ちている。
けれど、その幸福な日常の裏側で、ルミもまた、自分が犯してしまった取り返しのつかない過ちの重さに、一人静かに涙を流し、激しい後悔の念に心を苛まれていた。
王宮最奥の自室。
主人の帰りを待つルミがベッドで健やかな寝息を立てている中、アルヴィーノは一人、執務机の前に座っていた。
部屋の明かりは落とされ、一本の蝋燭の炎だけが静かに揺れている。
その淡い光に照らされていたのは、机の上に横たえられた一振りの軍刀だった。
意匠を凝らした鞘から引き抜かれた、抜身の白刃。
美しく研ぎ澄まされたその刃を見つめながら、アルヴィーノの切れ長の紫瞳は、底知れない昏い歪みに沈んでいた。
(……この刃だ。この冷たい鉄の塊が、あの子の肉を裂いた)
脳裏に、あの忌まわしい夜の光景が鮮烈に蘇る。
オズワルドの呪詛に意識を乗っ取られ、操り人形のようになって自身へ襲いかかってきたルミ。
人並以上の強さを持つアルヴィーノをして、あの瞬間、ルミを無力化して救い出す方法は――その胸を軍刀で刺し貫き、一時的に「肉体の機能」を停止させることだけだった。
あれしか方法がなかった。
あれが、あの瞬間の最適解だった。
合理主義を貫き、兵をも駒と割り切ってきた冷徹な軍師の頭脳は、今でもあの選択が生存率を最大に高めるための「正解」だったと弾き出している。
けれど、どれだけ理屈を並べ立てようとも、アルヴィーノの心が抱える激しい後悔と自責の念が消えることはなかった。
「……私は、この手であの子を貫いたのですね」
ぽつり、と夜の静寂に落ちた声は、酷く掠れて震えていた。
愛おしくてたまらない、世界で一番大切な伴侶の、まだ柔らかい胸に刃を突き立てた時の、おぞましい肉の感触。
掌にべっとりと付着した、あたたかいルミの血の情欲的なまでの赤。
そして何より、アルヴィーノの心を今なお抉り続けているのは、その後の悲劇だった。
一度は傷を癒やしたものの、呪詛の深淵に絶望したルミは、アルヴィーノにこれ以上の負担をかけまいと他ならぬ、このアルヴィーノの軍刀を自ら奪い、自身の胸を突き刺して自死を選んだのだ。
「私が……あの子に、死の道具を与えてしまった……」
もし、自分が違う方法でルミを止めていれば。
軍刀など使わず、自身の肉体を盾にしてでも、呪詛ごとあの子を組み伏せる魔法を構築できていたなら。
そうすれば、ルミがこの不吉な刃を使って自らの命を絶つことも、それによって魂が冥府の底へと沈み、あんな眠り姫のように長い間目覚めなくなることもなかったのではないか。
「……別の、選択肢は……なかったのか……?」
チェスの盤面であれば、一手間違えれば最初から並べ直せばいい。
だが、現実はそうはいかない。
取り返しのつかない傷をルミの心と身体に刻んでしまったという事実が、魔王とまで呼ばれた男の傲慢なプライドを、内側からボロボロに引き裂いていく。
いつもなら乱れのない漆黒の軍服の袖を、アルヴィーノは自嘲気味に掴んだ。
あの夜、兄上やレオが命を削って自分を呼び戻し、自身も魂を燃やしてルミを連れ戻した。
ハッピーエンドを迎えたはずの世界の裏側で、アルヴィーノの心には、冷たい軍刀の刃のような鋭いトゲが、今も深く、深く突き刺さったままだった。
◆
時を同じくして、静まり返った寝室のベッドの上。
ルミもまた、完全に眠りにつくことはできず、水色の瞳を開けて夜の闇を見つめていた。
隣にあるはずの、大好きな王子の温もりが今夜はない。
アルヴィーノが隣の執務室で一人、まだ明かりを灯しているのは知っていた。
復興が終わっても、あの人は時折、何かに取り憑かれたように独りで深く考え込んでいることがある。
その原因が、他ならぬ自分にあるのではないかと考えると、ルミの胸はぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
(……俺、なんてことをしちゃったんだろう)
ルミはシーツを胸元まで引き上げ、小さな身体を丸めた。
長い眠りから目覚めて、みんなは温かく迎えてくれた。
アルフレッド様も、レオも、リリィちゃんも、誰も自分を責めなかった。
それどころか、生きていてくれてよかったと、涙を流して喜んでくれた。
けれど、ルミの心の中にある「罪の記憶」は、決して消え去ってはくれなかった。
オズワルドの悍ましい呪詛に意識を乗っ取られ、自分の身体が自分の意志と関係なく動いていた、あの恐怖。
光の魔法でいつも優しく守ってくれたアルフレッド様に、容赦なく闇の刃を向けたこと。
幼い頃から一緒に過ごし、自分のことを「ルミにぃ」と慕ってくれていたレオを、血塗れになるまで傷つけたこと。
そして、大好きなこのレイストール城を、たくさんの人が暮らす大切な場所を、めちゃくちゃに破壊してしまったこと。
(操られていたからなんて、言い訳にならない。俺の魔力が未熟だったから、あんな奴に付け込まれて……みんなを、この国を、ボロボロにしちゃったんだ……)
そして、何よりも一番胸が苦しいのは、アルヴィーノのことだった。
世界で誰よりも自分を愛し、実験体だった自分に居場所をくれた人。
その大切な人を、自分は狂気の一撃で深く突き刺した。
それだけじゃない。
あの夜、アルヴィーノの軍刀を奪って自ら胸を貫いたあの瞬間、アルヴィーノがどんな顔をして自分を見ていたか。
「ルミ――ッ!!」と、引き裂かれるような悲鳴を上げて自分に駆け寄ってきたあの人の絶望に満ちた表情が、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
「……ごめんなさい、アルヴィーノ……」
夜の静寂に、ぽつりとルミの掠れた声が溶けていく。
自分が死ねば、アルヴィーノは助かる。
あの時はそれしか頭になかったけれど、結果として自分の選択は、アルヴィーノに命と魂を削らせるほどの二重の禁忌を使わせ、長い間、孤独な地獄に突き落とすことになってしまったのだ。
目覚めてからの日々は、まるで夢のように幸せで、優しさに満ちている。
けれど、その幸福な日常の裏側で、ルミもまた、自分が犯してしまった取り返しのつかない過ちの重さに、一人静かに涙を流し、激しい後悔の念に心を苛まれていた。